モイライ来りて糸を繰る


 瀬戸(せと)陽向(ひなた)は朝が苦手だ。もともと低血圧気味なのもあるのだろうが、それ以上に憂鬱なのがメッセージアプリの返信である。
 高校二年生に進級したばかりの春の朝。陽向のスマートフォンは自分で設定してあるアラームが鳴るより先に、幼馴染からの着信を知らせて振動した。わずか数秒程度のバイブレーションはうっすらと覚醒しかけていた意識を完全に目覚めさせる。充電器に繋いだまま枕元に転がしていたスマートフォンを手繰り寄せると、スリープモードにしていた画面がメッセージの受信を告げて明るく光っていた。
 アプリを起ち上げると、ずいぶんデフォルメされたゴリラのキャラクターが『オハヨー!』と手を振っているスタンプが表示される。差出人は見なくても分かる。同じクラスの梶山(かじやま)辰巳(たつみ)だ。
寝起きの頭ではどうにも億劫だが、このまま返信しなければもしやまだ寝ているのではと電話がかかってくる。こちらもパンダのキャラクターが『おはよう』と言っているスタンプを送れば、瞬きする間に既読がついた。
 それにしても今回はいつにもまして早い時間に送られてきたものだと考えたところで、今日は自分が日直だったことを思い出す。慌ててベッドから起き上がり、顔を洗いに洗面所へと走った。


 その日も一日の授業がつつがなく終わったので、当番日誌を職員室まで届けるために廊下を歩く。家庭の事情とこの学校が部活動強制ではないこともあり、帰宅部を貫いている陽向としてはこんな物早く提出して帰りたいのだが、そういう時に限って前に派手なタイプの同級生グループがいた。
 彼らは何やら楽しそうに笑いながら、廊下の幅一杯に広がってゆっくり歩いている。追い越したいのだが声をかけても聞こえていないのか、あるいは聞こえた上で無視しているのか、彼らは歩調を変えずにやはりのんびり歩き続けた。
 このまま後ろをついて行っては埒が明かないとルートを変えようとした時、背後から声がする。

「よう、お前ら今帰りか?」

 溌剌としてよく通る声。陽向の小さな声には見向きもしなかった彼らが、その声には一斉に振り返った。

「お、梶山。俺ら今から北高の女子とカラオケ行くんだけど、お前も来る?」
「梶山いると女の子の食い付きが全然違うんだよ」
「何だそれ。悪いけど俺、今日は極真行くから付き合えんわ。また今度な」
「マジか、残念」

 軽快に会話を交わしながら、辰巳はごく自然な雰囲気で「じゃ、そういうわけで急いでるから」と切り出す。すると目一杯広がって歩いていた一軍の生徒たちがあっさりと道を明け渡した。
昔何かで知ったモーセの海割りのエピソードを思い出していると、彼は陽向の方を振り返って言う。

「日誌、職員室まで持って行くんだろ? 早く行こうぜ」

 百八十近い長身に引き締まった体、おまけに俳優のようにすっきりとした端正な顔。爽やかに歯を見せて笑う様が、とんでもなく絵になる男。彼が陽向の様子を見かねて助け舟を出してくれたのだ、とようやく気が付いた。
 先ほどのグループからある程度距離を取ったところで礼を言おうとすると、辰巳はさっさと昇降口に向かって歩いて行こうとする。とっさに制服の裾を引っ張って引き止めると、彼は少し困惑した様子で振り向いた。

「何だよ」
「あの、ありがと。さっきは僕」
「いいって、そんな。てか、あいつらも気が利かねえよな」

 からりと笑い飛ばした辰巳は陽向の肩を軽く叩き、「気を付けて帰れよ」とだけ言って再び歩き出す。その広い背中を見ていると同じ人間として絶対に埋められない差を見せつけられた気がして、無意識の内にため息が出た。