モイライ来りて糸を繰る


 その日最後の授業時間が半分ほど過ぎた頃。生物の教員が黒板に記したクエン酸回路の図をノートに書き写していると、ふと窓の外から低く唸るような音が聞こえた。陽向が顔を上げると、何人か他の生徒も怪訝そうに窓の方を見ている。昼休みまで晴れ渡っていたはずの空は薄暗く、今にも雨が降り出しそうな雲行きだ。

「今日って一日中晴れじゃなかった?」
「朝の予報では雨なんて言ってなかったよね」

 近くに座っている女子生徒がそんな会話を交わす。小さな声だったが、教壇に立つ生物教師にも聞こえたのだろう。私語をしない、と彼女が注意をしかけた時。
 視界に閃光が走り、同時にドンッ、と腹の底に響くような轟音が響いた。

「うわっ、落ちた」
「マジ? めっちゃ近いじゃん」
「雨降んのかよ、最悪」

 突然の出来事に教室がざわめき立つ。

「はいはい、静かに。屋内にいれば安全ですからね。授業を続けますよ」

 言いながら教員が再び黒板に向き直る。
 クエン酸回路の図が消され、続いて電子伝達系についての説明が白いチョークで記載されたところで、今度は校内放送のチャイムが鳴り響いた。

「火事です。火事です。落雷により、校庭の桜の木に引火しました。現在、消防がこちらに向かっています。生徒の皆さんは教員の指示に従い、体育館へ避難してください。繰り返します」

 放送の内容に、教室内は先ほどよりいっそう騒がしくなる。隣のクラスからもどよめきの声が聞こえ、学校中が騒ぎに包まれていることが分かった。

「落ち着いて! 訓練通り、廊下に整列してクラスごとに避難します! 慌てないで、怪我しないように!」

 それぞれの教室にいた教師たちが声を張り上げ、生徒を誘導する。指示通り出席番号順に整列し、渡り廊下を通って体育館に向かっていると、確かに焦げ臭いニオイがした。消防車のサイレンが近付いてくる気配に、生徒たちは不安そうな様子で身を寄せ合っている。
 校舎内にいた者たちが全員体育館に集まり、しばらくしてから無事に消火されたとの連絡が入ったようだ。念のため今日は部活動も中止となり、生徒たちは速やかに下校するようにと指示が出される。
 ほっとした表情で各々教室へと帰っていく人の波に飲まれつつ、辰巳が陽向の元までやって来た。

「ビックリしたな、おい。大丈夫か?」
「う、うん。本当に、こんな事ってあるんだね」

 何でもない風を装って彼に笑いかけようとするが、歯の根がガチガチと音を立てて上手く笑えない。春だというのに背筋が凍るように寒くて、指先の感覚がなくなっている。
 辰巳もそんな陽向の様子に気が付いたらしい。何の前触れもなく起こった落雷と火事を怖がっていると思ったのだろう。彼は歩きながら一瞬だけ陽向の肩を抱き寄せ、「心配すんな、もう終わった事だから」と低い声で言った。

「うん。ありがとう」

 体の震えをどうにか抑えて礼を言う。
 陽向が恐ろしいのは落雷や火事そのものではない。

『四月の二十日、神の怒りが曙を焼く』

 かつて雷とは神鳴り、すなわち神が鳴らす音だと信じられていた。雷の正体が電気であると証明されるまで、人々にとってあの自然現象は神々の怒りの発露であると捉えられていただろう。
 そしてつい数時間前に聞いた、桜の別名である曙草。夜明けの空の薄赤い色と花の色が似ているためにそう名付けられたという。

 今日、四月二十日。雷によって桜の木が焼かれた。まさしく神の怒りが曙を焼いたのだ。

 考えれば考えるほどに寒気が強くなる。陽向は辰巳に気付かれないように、そっと自分の両腕を擦った。