モイライ来りて糸を繰る


 週明け、四月二十日。その日は朝から綺麗に晴れており、春らしい柔らかな日差しが射し込んでいた。
 あれから兄は連日ぼんやりとした様子で過ごしており、陽向が呼びかけても上の空で、ほとんど会話らしい会話がない。部屋にいる彼に食事を出せばその場ではすぐに手をつけないものの、しばらく経って食器を下げに向かうと綺麗に平らげられているので、食欲がないわけではないようだ。この週末は珍しく酒もほとんど飲まなかったので、体調が回復傾向に向かっているのかもしれない。
 金曜日に口走っていた言葉の内容を忘れたわけではないが、深く考える必要もないのではないか。そんなことを思いながら陽向は兄の昼食を冷蔵庫に収め、学校に向かった。
 授業が始まってからも特に変わった事はない。陽向はいつも通りに学校生活を過ごし、昼休みに辰巳と昼食を摂る頃には兄が言っていた言葉などほとんど意識から消えていた。

「桜、完全に散ったよな」
「そうだね。まあ、もう四月も半ばだから」

 昇降口から校庭に向かう外階段に腰掛け、バイト先で購入したパンを齧りながら陽向は返事をする。辰巳は弁当の中身を突つきながら、「桜っていろいろ別名があるらしいな」と呟いた。

「別名?」
「そうそう。さっき四時間目の現文でイッシーが言ってたんだけど」
「あ、石田先生のことそんな風に呼んでるんだ」
「いいじゃん別に。そう、それで何か桜の話になって、他の言い方も教えてもらったんだよ。夢のように綺麗で儚いから『夢見草』とか、昔は桜の花を頭に挿す事もあったから『挿頭草(かざしぐさ)』とか。あと神様や死者の霊に供えるから『手向け花』とか、『曙草』っていう呼び方もあるんだって。言われてみれば夜明けの空の色と桜の花の色って似てるよな」

 神、曙。そのフレーズに陽向の心臓が跳ねる。忘れかけていた悠心の言葉が甦り、思わずパンを持つ手が止まった。

「陽向?」

 急に黙り込んだ陽向に、辰巳が訝しげな視線を向ける。動揺を悟られないよう、慌てて取り繕うように口を開いた。

「いや、あの、これバイト先で新しく発売された商品なんだけど、思ったよりおいしくて意識飛んじゃってた」
「変なの。お前面白いな!」

 プッ、と吹き出しながら辰巳は陽向の背中を叩く。もちろん本気の力ではなく加減されている。格闘技の上級者は相手に合わせて力を加減するのも上手いと聞くが、こういうところに辰巳の運動神経の良さが出ている気がする。

「そんなに腹減ってんならこれも食えよ。だし巻き食いたくて週末ちょっと練習したら、結構上手くできてさ。今日の弁当にも入れてきたんだ」
「え、梶山君が作ったの?」
「何だよその意外そうな顔は。俺だって料理ぐらいするんだぞ」

 意外というより、本当に何でもできるんだな、と感心しただけなのだが。
 辰巳は箸で卵焼きを一切れ掴むと、陽向の口元へ運ぶ。

「ほれ、食え食え」

 さすがに箸で食べさせてもらうのは少し恥ずかしく感じたが、周りを見ても特にこちらを気にしている生徒もいないようだ。陽向は少し迷ってから、小さく口を開けた。
 一口含めば、卵の甘さと繊細な白だしの風味が優しく広がる。

「おいしい!」
「だろ? お前、卵焼きは甘いのよりちょっとしょっぱい方が好きって言ってたもんな。口に合ったなら嬉しいよ」

 まるで陽向に食べさせるために作ったかのような口ぶりだ。おこがましい妄想だ、と頬を熱くして俯く陽向だが、辰巳は特に気にした風もなく「もう一切れいる?」と卵焼きを箸で摘み上げた。