二十二時までのシフトが終わり、交代のスタッフにお疲れ様でしたと告げて店を出る。週末の夜の住宅街は家の窓から漏れる灯りこそ多いものの、音に関しては静かなものだ。ごくたまに酔っ払いの声や少々ヤンチャなバイクの音が聞こえるが、駅近くの居酒屋やカラオケが並んでいる地区に比べればはるかに治安が良い。
春の夜の穏やかな空気を胸一杯に吸い込みながらのんびりと歩き、自宅へと帰る。さすがに兄ももう帰っているだろうか。
夕食については前日作った肉じゃがが残っているので、自分はそれで済ませるつもりだ。料理をする時は一応兄の分も考慮した量で作っているが、特に夜は大抵酒が入っているからかあまりまともに食べてくれない。朝も二日酔いで食べないことがほとんどで、近頃の兄がまともな食事をするのは昼だけである。
階段を上って玄関に鍵を差し込む。いつもと手応えが違う、と不審に思いそのままドアを開けると、鍵はかかっておらずあっさりと開いた。
「ただいま。兄さん、帰ってる?」
照明が点いておらず真っ暗な室内に、陽向の声がやけに大きく反響する。ひとまず電気のスイッチを入れて靴を脱ぎ、リビングに入ろうとした陽向は「うわっ」と半ば悲鳴じみた声を上げた。
暗闇の中、兄の悠心が呆然とした様子で床に座り込んでいる。リビングの扉近くの壁にもたれかかるようにして、靴を履いたままの両足を投げ出していた。紺色のスウェットが上下共にやたらと汚れている。どこかで転びでもしたのだろうか。
「兄さん? どうしたの、大丈夫?」
汚れたスウェットの洗濯と床の掃除は陽向の仕事になるが、今はそんな事より兄の状態が心配だ。慌てて駆け寄り肩を揺すると、彼はようやく虚ろな目をこちらに向けた。
「陽向……」
「大丈夫? 外で転んじゃったの? 怪我はしてない?」
「あ……」
酒臭い息が顔にかかるが、陽向は気にもせずに悠心に肩を貸そうとする。とりあえず着替えさせてベッドに寝かせようと、力の抜けた兄の体を支えようとした。
その瞬間だ。
「ウッ、ウウ、ウウウウウ」
不意に兄の口から呻き声のような音が漏れる。もしや嘔吐するつもりだろうかと陽向が身構えたところで、兄の体が激しく痙攣し始めた。
ガタガタと震える体はとても支え切れず、陽向は思わずその場に尻もちをついてしまう。悠心の眼球はほとんど白目を剥くほどにまぶたの裏に隠れ、大きく開いた口からは唾液が飛び散っている。
「兄さん! 兄さん!? どうしたの、ねえ!」
明らかに異常な状況にパニックになりながらも、陽向は兄に向かって声かけを続ける。痙攣はいよいよ激しくなり、兄は背骨が折れるのではないかというほどに体を仰け反らせている。
中学生の頃、テーマ学習の一環という名目で観たある映画のシーンを思い出した。泥遊びが原因で破傷風菌に感染した女の子が激しい痙攣を起こす描写があり、症状の視覚的なショックと看病する家族の疲弊ぶりに胸が痛くなった記憶がある。
土まみれの兄も、もしかしたら何かに感染でもしたのではないか。動揺する頭で陽向は必死に携帯を取り出し、救急車を呼ぼうと緊急通報用の画面を開く。
「ア、あ、ああ」
しかし発信しようとしたその時、兄の痙攣が止まった。崩れ落ちそうになる彼の体を慌てて抱き止める。
「兄さん、大丈夫!?」
「四月の二十日」
半分ほど白目を剥きどこを見ているのかも分からない状態で、兄はしっかりと発音した。
「神の怒りが曙を焼く」
そうはっきりと言うと抱き止めた体から一気に力が抜け、眠っているかのように目が閉じられる。すう、すう、と穏やかな呼吸音をしているから、ひとまず体の方は無事みたいだ。
「四月の二十日……神……?」
陽向は先程悠心が口走った言葉を反復するが、どうしても意味のある文章だと思えない。酩酊状態でうわ言を口にしただけだろうか。
とにかく、今は兄の汚れた服を取り替えてベッドに寝かせることが先決だ。自分より身長が高く、完全に力の抜けた体を支えるのは楽ではなかったが、陽向は何とか悠心を立ち上がらせて寝室に連れて行った。


