ゆうれい

「……何なんだお前ら、鍵かかってたろ。どうやって入った?」

 小高が俺の上から退き、すぐそこにあったズボンを履いて、力と響の方に向き合う。
 俺は涙を拭い、口に入れられたタオルを捨てて震える手で必死に服を整えた。

「……俺はその昔、川で溺れた時に助けられたんだ。大好きだった、死んだはずの爺ちゃんにな」
「……はぁ?」
「俺はまた爺ちゃんに会うために、日々研究と努力を怠らないのである!」
「……八木、お前は本当にバカで話が通じねえ奴だな。いつも話してるとストレスがすげえんだよ」
「話が通じねえのはアンタだぜ、何が言いたいかってーと」

 力が、両手を前に構える。前に葵に聞いたことある。力は確か、空手の段位を持っている。

「“ヒーロー”は目に見える存在だけじゃないってことだ」

 小高が、ニヤリと笑う力にため息を吐きながら、近くあったワインの瓶を手に取る。

「意味分かんねえけど、とりあえず口封じされとけ」

 ズンズンと近付いて、それを力に向かって振り上げたとき。

 こっそり回り込んでいたらしい響が、横から小高の脇腹を思いっきり蹴り飛ばし、小高はガシャァン!と大きな音を立てて勢い良くテーブルに倒れ込む。

「いっ…………!」
「響、セッコー」
「俺は格闘家のお前と違って野良のヤンキーだから、セコいとかねえんだよ」

 すぐに立ち上がり向かってくる小高を、力と響が二人がかりで相手をしている。その間になんとか、助けてくれた二人が怪我をするはめにならないよう自分で動かなきゃと思い、身体を起こしてその場から逃げようとするも、震えと力が入らないせいで身体が思うように動かない。
 ベッドから転げ落ちてドアに向かって床を這っていると、ふと、こっちを見ていた小高と目が合う。ビクッと身体が震えて、また恐怖で動けなくなった時、震える手を握られた。

 視線を移すと、護身用なのか自転車のヘルメットを被った葵が俺に優しく笑いかけていた。

「ここは脳筋たちに任せて、行こう澪くん」
「おーい聞こえてんぞ」
「誰が脳筋だぁ!」

 葵は自分の上着を俺に着せて、上手く力が入らない身体を支えて玄関まで歩く。
 部屋を出ると、冷たい外の空気が肌に触れた。そのまま歩けるうちにと、葵に支えられてエレベーターで下まで降りる。

 人目があるマンションの前まで出て、心配しながら響と力を待っていると、あまり時間もかからずに二人はバタバタと走って来た。

「二人とも大丈夫? 怪我ない?」
「大丈夫、チンコ蹴り上げてきた!」
「うわぁ……」

 心配する葵に、力がグッと親指を立てる。
 少しホッとしたのもつかの間、響が花壇の縁に座っている俺の手を引いた。

「俺の背中乗れ、とりあえず移動するぞ」

 喉が震える。また涙が滲む。
 俺のあんな姿を見ても、響も、葵も力も何も変わらない。
 それだけで、救われた気分だった。

 その後、俺たちを追いかけようとした小高が奇声を上げながらマンションの階段から転落し、意識不明の重体になったことは、後日知ることとなる。目撃者の住人によると、転落する直前、小高には黒い霧のようなものがまとわりついていたらしい。

 小高のマンションから離れて、俺たちはファミレスに入った。
 何で助けに来てくれたのかを聞くと、三人のスマホに、謎のアカウントから連絡があったらしい。それぞれが見せてくれた画面には、位置情報と共に、“レイ ヲ タスケテ”という文字。
 すぐにユウの仕業だと分かった三人の中で、唯一力だけが“ユウも一緒に行こーぜ!”と返していた。響が「お前よくそのテンションで返信できるな」と呆れていた。ユウは力の返信に、“ボク ガ カオ ヲ ミセタラ レイ ガ キズツク”“レイ ヲ オネガイ”と返していた。

 もう、ユウが何をしたいのか、俺には分からなかった。
 
 ただのイタズラだと思うこともできたのに、三人はそれぞれ、自分で判断をしてこのメッセージを信じて助けに来てくれた。
 頭を下げると、慌てて止められた。
 それ以上、三人は小高のことには触れなかった。その気遣いに救われる。

 緊張が解けると、ずっと、頭がぼんやりしたままだった。

 夜も遅いのに、三人は俺を心配して家まで送ってくれた。
 中に入る直前、葵が俺に、小高の部屋から盗んだらしいHDDやSSDなどのいくつかの記憶媒体を渡してきた。

「何かに役に立つと思って取ってきた。澪くん、学校に言う時と被害届を出す時は言って、僕らも必ず証言するから」

 葵の言葉にお礼を言って受け取り、ボーッとしたまま部屋に入って内鍵を閉める。
 受け取った記憶媒体を机に放り、ベッドに飛び込む。

 音が全部遠くに聞こえる。色んなことがありすぎて、何も考えられなかった。何か考えたら全部壊れてしまいそうだった。
 ごろりと仰向けに転がると、昨日からずっと開けっ放しのカーテンから、よく晴れた星の海に浮かぶ満月が見えた。

 落っこちてきそうなほど、大きな満月。

 キイーン……と、微かに耳鳴りがした。目を見開く。
 それを合図に、ギイインという大きな耳鳴りと共に、激しい頭痛が襲ってきた。
 頭を抱えながらベッドの上で暴れる。

「……うぁ……あ゛あッ……!!」

 大きな月に、怒鳴り声や無数の手のひらが重なって、チカチカと視界が点滅する。

 意識の奥底に押し込んでいた記憶の波が、一気に押し寄せてきた。

***

 それは夏休みの半ば頃だった。
 俺は、楽しみな気持ちを抑え切れずに蝉時雨の中を走っていた。

「……母さん!」

 家族に内緒で母さんの住む都心まで出向くと、いつも駅の近くにある公園で待ち合わせて、一緒にご飯や買い物に行く。
 その日も、公園の噴水の近くに黒いワンピースを着た母さんを見つけて、駆け寄った。
 母さんはマスクに日傘をさしていて、俺の声に振り返ると優しく笑って手を振った。

「久しぶり、澪。高校生になってまたちょっと大人っぽくなった?」

 大好きな優しい声。優しい笑顔。
 母さんは手を伸ばして、自分より大きくなった俺の髪を撫でる。
 それだけで、義家族と生活しているときの息苦しさも、学校での寂しさも全部忘れられた。

「澪、今日はどこに行きたい?」
「あ、えっと……好きな作家の新しい本がでたから、本屋さんと、あと新しくできたカフェにも行きたい」
「いいね、全部行こう。母さんも新しいスカートが欲しいの、付き合ってくれる?」
「もちろん」

 きらきら光る太陽の下を歩く。
 母さんとの時間は楽しくて、穏やかで優しくて、会う度にずっとこの時間が永遠に続けばいいのにと思っていた。
 その日は夜も高級ホテルのレストランを予約してくれていて、普段から華やかな世界にいて慣れている母さんは、反対に緊張しながら食事をする俺をニコニコ笑って見守っていた。

「実はね、明日は仕事が休みだから、母さん今日は澪とずっと一緒にいられたら嬉しいなって思って、部屋取ってあるの」
「え、そうなの?」
「うん、お父さんはまだ出張中なんでしょう? 内緒でね、まだまだ澪とゆっくりお話していたくて」
「嬉しい、ありがとう」
「……それに……新しいお母さんも、澪に酷いこと言うんでしょう? ……私ね、今からでも澪のこと引き取ってもいいと思ってて」
「…………」

 こんなに嬉しいことはないと思った。
 絶対に俺はあの家にいるより、母さんといた方が幸せだ。明らかなのに、それなのに何故だろう、父さんの背中が浮かんで、即答できなかった。

「……嬉しいよ、考えてみるね」
「……うん、ゆっくり考えて」

 レストランを出ると、母さんが案内してくれて高層階の部屋の前でカードキーをかざす。
 廊下にまでシャンデリアがある、と思いながら高級感溢れる空間にドキドキしていると、母さんが柔らかな口調で言った。

「そうそう、今日はね、澪に会って欲しい人がいて中で待ってくれてるの」
「……え、会って欲しい人?」

 このタイミングで会って欲しいって、もしかして新しい恋人かなと密かにショックを受ける。二人だけで過ごせるんじゃないのかと残念に思いながら、ドアを開けた母さんの後ろについて行くと。

「お待たせしました」
「お疲れ様」
「ああ、そちらが君の息子さん?」
「わあ、本当に綺麗な子だねえ。若い頃の君そっくりだ」

 広いリビングルームでは、ローテーブルを囲んだソファに三人の中年男性が腰掛けていた。

「澪、挨拶して」
「……? えっと、母さん、この人たちは……」
「いいから、挨拶」

 突然冷たい声で言われ、俺は戸惑いながらもとりあえず男たちに向かって頭を下げる。

「はじめまして、藍沢澪、です……」
「初めまして」
「ふふふ、緊張してる。可愛いなあ」

 顔を上げると、三人の男は舐め回すような視線で俺のことを見ていて、思わず後退る。

「母さん、何? これ……二人で過ごすんじゃないの……?」

 俺が小声で問うと、無表情だった母さんはいつものように優しく、ニコッと俺に笑いかけた。

「この方たち私の仕事関係の人たちでね。澪の写真を見せて話したら、ぜひ会いたいって言ってくださったの」
「え」
「だから、失礼のないようにね。母さんの仕事に影響が出るから」
「え、あの、母さん」

 わけが分からないまま、母さんに背中を押される。

「たくさん可愛がってもらいなさい」

 一瞬見えた母さんの冷たい目を見て。
 胸の奥が鷲掴みにされたような感覚が走る。

「母さ……」
「さあこっちにおいで」
「嫌だ、離して、母さん!」

 立ち上がって俺に近付いた男たちに手を捕まれ、奥のベッドルームへと連れて行かれる。
 それを黙って見ていた母さんに手を伸ばすけど、助けてくれようとする素振りはなかった。

「本当に可愛いなあ」

 顔をだらしなく緩める男に見下ろされ、冷や汗が流れる。
 本能的に危機を感じる。今から何をされるのか、考えただけで涙が滲んで、吐き気がした。

「嫌だ!! 嫌!! 離して!! 母さん助けて!!」

 必死に抵抗しながら、怖くて泣き叫ぶ。たくさんの手のひらが伸びてきて、三人がかりで押さえ付けられ、大きなベッドに押し倒される。
 服を脱がされそうになったとき、運良く俺が無我夢中で振り上げた拳が、正面から俺に覆いかぶさろとしていた男の目に直撃した。

 声を上げながら蹲った男に、他の二人が慌てて駆け寄る。
 その隙をついて、俺は震える足で走ってベッドルームを抜け出した。

 早く逃げなきゃ、このまま酷いことをされる。恐怖に駆られ、ドアの方まで走ると、母さんが立ちはだかった。

「どこ行くの? 澪。失礼のないようにって言ったでしょう?」
「母さん、嫌だ、ねえ早く一緒に逃げようよ、俺あんなのできない」

 震える声で言って、ふるふると首を振る。
 男たちが走って来る音がする。バクバクと、心臓の音がうるさくて、寒気がする。

 母さんは、一度舌打ちをして見たことない形相で俺のことを睨んだ。

「……アンタ、私の息子でしょう? 昔から気味が悪くて手間がかかって、あの男と一緒に私の足引っ張ってばかり……」
「か、母さん……?」
「……私が第一線に戻るためにはね……金が必要なの……」

 誰だ、これ。
 誰だ。俺は知らない、こんな人、知らない。

「ッ私の息子なら、少しは私の役に立ちなさいよ!!!」

 悪魔のような顔と、甲高い怒鳴り声に、大きく肩が震える。
 恐ろしい表情に喉が竦む。
 嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ、こんなの、こんな人、母さんじゃない。

“大丈夫、大丈夫よ、澪”

 俺の母さんは、いつも優しくて、綺麗で──。

「待て!!」

 男たちが手を伸ばして近付いてくるのが見えて、俺は思わず目の前の母さんを後ろに突き飛ばして部屋を出る。
 追ってくる姿が見えて、必死に非常階段を駆け下り、人が多そうな適当な階に逃げ込みながら、なんとか撒いた。

 ずっと気を張っていたからか、吐き気や頭痛がしながらも、地元の駅に帰るまではなんとか身体が動いた。
 人の少ない最寄り駅に着いた瞬間、強烈な吐き気がしてトイレに駆け込み、散々吐いたあと外に出ると、足の力が抜けてその場にしゃがみ込む。

 「大丈夫?」と声をかけてくれる人に頷き、ゆっくり立って、壁にもたれながら少しずつフラフラ歩いて駅を出る。
 近くのベンチに座り、都会とは違った夜の静かな空気を吸いながら、ぼーっと空を見上げると、そこには満月が浮かんでいた。

 その時に思い出した。
 俺はずっと、自分の記憶に蓋をしていたんだ。

 母さんが出ていく前の日の夜、二階の部屋で寝ていた幼い俺は、一階で激しい怒鳴り声が聞こえて目が覚めた。怖くて、何かあったのかと気になってこっそりと見に行った。
 扉に背中を預けて聞き耳を立てると、怒鳴り合っていたのは父さんと母さんだった。

「ふざけるのも大概にしろ!! お前自分が何をしようとしたのか分かってるのか!?」
「仕方ないじゃない!! いいでしょ別に、未遂だし、裸の写真売ろうとしたわけじゃないんだから!!」
「いいわけないだろうが!! お前の借金は俺が結婚前に全部返しただろ!? 澪のための金を使い込んだ上にまたこんな額の借金して、返済のためにこんな卑劣なこと……!! 」
「あなたには分からないだろうけど私の仕事は人気商売なのよ!! もっともっとたくさん良いものを身に付けて、大きい家に住んでキラキラ輝いてないといけないの!! そのためには金が必要なの!! フォロワーも仕事もどんどん減ってるのよ!! 仕方ないでしょ!!」
「それは澪より大事なことか!? 大切な息子の写真を変態共に売り付けようとしてまで……そんなことまでして、お前は“そんなもの”が欲しいって言うのか!?」
「“そんなもの”……? 何言ってるの、当たり前でしょ」

 扉越しに、母さんの乾いた笑い声が聞こえた。

「あなたも澪も、ただ私を輝かせる道具の一つなの!! ただ顔が良くて金持ってる男とその子どもが欲しかっただけ!! キラキラしたママモデルになるためよ!! だいたい、この私がアンタなんかを選んでやったのよ、なのに説教たれてんじゃねーよ!!」

 その言葉を聞いて、息が止まった。

「……もういい、離婚届は後で送るから、スマホやカメラを全部置いて明日の朝にはこの家を出て行け。澪には二度と近付くな」
「ええ、言われなくても金にならないなら用なんかないわよ。何も無いところ見て怖い怖い言ってるような、あんな気味の悪い子」

 俺は母さんの言葉を受け止められず、耳を塞ぐ。そして何も考えないよう思考を止め、全てをシャットアウトした。
 こっそり部屋に戻って、布団に潜り込んだ。

 俺は何も見ていない、何も聞いていない。
 俺の母さんは、いつも優しくて綺麗で、頑張り屋さんの自慢の母さんだ。
 そう思い込んで、言い聞かせて、これは夢だと、記憶に重い蓋をした。

 全部思い出すと身体の力が抜けて、だらりとベンチの背もたれに体重を預ける。


 俺は、何で生きてるんだろう。
 ぼんやりした頭で、そう思った。


 愛していた母親には金を稼ぐための道具として産み落とされ、物心ついた時から人じゃないものに追いかけ回され、義家族には恨まれて。父さんは、そばにいてくれない。
 少しだけ涙が流れた。もうこれ以上辛い思いはしたくない。痛いのも、悲しいのも、もう嫌だ。

 もう苦しい、何もかも嫌だ、誰も信じられない。
 もう、生きていたくない。

 心がどんどん死んでいく感覚がした。頭がボーッとして、全部思い出した今、もう希望なんて無く、このまま消えようと思った。

 唯一俺を愛してくれる父さんも、俺がいない方が身軽になって幸せになれるだろう。

「コッチダヨ」

 満月を見ながらそう思ったとき、声が聞こえた。
 正面を見たら、異常な程に細長い、恐らく女の幽霊がいた。

「コッチ、二、オイデ」

 もう何もかもどうでも良くて、恐怖も感じなかった。ついて行ったら、このまま消えてしまえそうな気がした。
 今死ななきゃ、死ななきゃ、もっと辛い思いをする。
 俺を止めるものは、もう何も残っていなかった。

 手招きする幽霊に、俺は立ち上がってついて行った。

 何時間くらい歩いただろう。幽霊を追っていると、深い深い闇が広がる山の中に入っていった。
 そのまま後をついて行った。ここで死んだら遭難ってことになるのかなとか、どうでもいいことを考えていた。

 ひたすら、細長い女の幽霊の影を追っていると、ふと靴に何かが当たった。
 立ち止まって、暗い中で足元を見ると、靴に当たったのは人間の頭蓋骨だった。

「…………っ!」

 思わず腰を抜かした。
 目を凝らしてよく見ると、周辺には動物が掘り返した穴のようなものが沢山あった。
 女の幽霊は、俺が立ち止まったことに気付いていないのか、姿が見えなくなっていた。

 もう疲れて、その場に寝そべる。
 セミの鳴き声と、暗闇の中で虫がカサカサと動く音がする。
 このままここで眠ってしまえば、動物や虫が俺の身体を食べて、この恐ろしくて汚い世界から消えてしまえるだろうか。

 ふと、近くに転がったままの頭蓋骨を見る。空洞の目が、こっちを見ていた。
 もしかしたら、この頭蓋骨の人も、そんな思いだったのかな。
 もう何もかも嫌になって、この山に全てを終わらせに来たのだろうか。
 それとも誰か、人の心も無いような人間に殺されて埋められたのだろうか。

 本当のことは分からないけど、何も分からないけど。

 俺は、あまり力の入らない腕を頭蓋骨に伸ばして、触れて、自分の方に引き寄せた。
 虚しく涙を流しながら、その頭蓋骨を胸の中に抱きしめる。

 ああ、俺と同じだ。
 俺はもう生きていたくない。生きていけない。
 この人はどうだったか分からないけど、だけど、こんなところで、こんなところに、一人ぼっちで。


「………………寂しかったよなぁ…………」


 闇の中、小さな声でそう呟くと、「ギァアアアアアアアアアア」という大きな奇声が響き渡る。
 目線だけを向けると、さっきまで俺を誘っていた女の幽霊が、怒り狂った目をギョロギョロと動かしながら俺に手を伸ばしていた。

 もうどうでも良かった。やっとこれで楽になれると、意識が薄れてきたとき。
 微かに見えた。黒い霧のようなものが、女の幽霊の首をスパンと切ったのが。

 そのまま、俺は意識を手放した。

 次に起きた時には、いつの間にか自分の部屋のベッドにいた。隣には山で抱き締めた頭蓋骨があって、何が現実で何が夢だったのか区別が付かず、ぼんやりとした頭のまま、俺はその頭蓋骨を捨てる気にはなれなかった。
 上半身だけを動かして、適当に近くにあった新聞紙に頭蓋骨を包み、ベッドの下に押し込んだ。

 またベッドに横たわると、涙が滲んだ。

“私の息子なら、少しは私の役に立ちなさいよ!!!”

 頭の中に声が響く。
 あれは、母さんじゃない。今日あったことは夢だ。全部悪い夢だった。
 俺は母さんといつものように楽しく買い物をして、食事をして、帰って来た。
 そう思って、何度も言い聞かせ、目を閉じる。


 そうして俺はまた、受け止めきれない悪夢のような現実を記憶の奥に押し込めて。

 重い重い、蓋をした。

***


 全部思い出すと、激しい頭痛が引いていった。
 満月を見上げながら、肩で息をする。

 アイツは、俺が全部忘れることを選んだ、あの日から少しして現れた。

 重い身体を起こし、ベッドの下を漁る。
 新聞紙を捨て、砂のついた汚い頭蓋骨を手に持つと、涙が溢れた。

 ぎゅっと抱き締める。

「……………ユウ………ッ」

 そうか、ユウは、この頭蓋骨の幽霊だったんだ。

 やっぱりユウはあの日から、俺のことを守ってくれていた。
 小高に眠らされた時、夢に出てきて起こしてくれたのもきっとユウだ。
 ずっと、悪意や恐怖からずっと、守ってくれていたんだ。

“お前なんか大嫌いだ……ッ!!消えろ、早く消えろよ!!!”

 なのに酷いことを言った。
 何もかも忘れていた俺のことを、まっすぐ愛してくれたユウに。

 鼻をすする。俺は、何度もユウの名前を呼びながらきつくきつく頭蓋骨を抱き締めた。
 抱き締めながら、夜通し泣き続けた。

 窓の外の満月が、そんな俺を、虚しく照らしていた。