ゆうれい

 約一年前の受験の日。私は、ママが作ってくれた合格祈願のお弁当をうっかり忘れて最悪の気分だった。お腹が空いて、午後の試験に集中できるのか本当に不安だった。
 周りは同じ受験生で、誰も頼れる人がいなくて、なんだか寂しかった。

 グウグウと鳴るお腹を押さえていたそのとき、前に座っていた眼鏡の女の子が静かに振り返って、何も言わずに自分のサンドイッチを半分程私にくれた。

「え、いいの……?」

 小声で聞くと、すぐに前を向いてしまったその子は、ただ静かに頷いた。
 嬉しくて、寂しさが紛れて涙が滲んだ。

 その子のおかげで無事試験に集中できて、入学式では一番にその子のことを探した。新入生が並んでいる列の中でキョロキョロと頭を振って、やっとその横顔を見付けた。眼鏡もかけていなくて、少し雰囲気が変わっていたけど、そんなことはどうでも良くて。絶対絶対、友だちになろうって決めた。

 真中優香。私が高校に入って最初に覚えた友だちの名前。

***

「美馬っち一緒に来てくれてありがとねー! みんなの顔見たらきっと優香も元気出るよ!」
「ううん、僕も心配だったから」
「美馬は優しいねー」

 放課後、優香が入院する病院までの道中、先頭を歩く美依沙の声が楽しそうに揺れる。
 みんなでお見舞いに行こうって話になって、美依沙が仲の良い人たちに声をかけていると、美馬葵が自分から声をかけてきてくれた。
 優香と仲の良い印象は無かったけど、美馬は藍沢の友だちで、私たちとは林間学校の飯盒炊爨で同じ班になった。
 いつも一緒の八木とセットじゃないことは不思議に思ったけれど、見た目のイメージ通りマメで良い奴なんだなと思った。

 私、美依沙、瑠愛、美馬の四人でナースステーションに寄って、優香の病室に向かう。個室だった。
 ノックをして、美依沙が「優香ー、来たよー」と明るい声で言うも、返事が無かった。
 みんなで顔を見合せて、心配になって「入るねー」と言いながらドアを開ける。

 カーテンは開いていて、中には人の気配があった。何かから音漏れしているような微かな電子音のようなものが聞こえて、優香がいると思ったのか、美依沙が顔を明るくして駆け出す。

「優香ー! 来たよーーん!」
「あ、ちょっと美依沙、ちゃんと声かけた方が……」

 慌てて私と瑠愛が追いかけた。ベッドの真正面まで行った美依沙が、表情を一転させカーテンの中を見て目を見開く。

「? なにその顔? どーした?」

 追い付いて、美依沙の視線の先を追う。
 見えた光景に、呼吸が止まった。

「……………何、勝手に来てんの?」

 ベッドに座っていた優香が耳に付けていたイヤホンを外す。
 優香は低い声で言いながら首を傾け、下から私たちを睨み付けた。食事や睡眠がとれていないのか、クマが酷く頬がこけていて、首と両腕には包帯が巻かれている。雰囲気も暗く、なんだかまるで別人のように、不気味な姿だった。

 でも、それよりも背筋がゾッとしたのは優香が座るベッドに散らばる無数の写真やベッドの周りにあるものだった。写真に写っているのは全部、隠し撮りだと思われる藍沢の姿。
 そしてベッドの周りやテーブルには、藍沢の名前が刺繍された体操服や男物の歯ブラシセット、昔から図工の時間に藍沢が使っていた見覚えのあるカラーペン、他にもおそらく藍沢の私物と見られるもので溢れていた。

「……ゆ、優香……? 何、これ……」
「何って私のだけど」
「は? 何言ってんの?」

 言葉が出てこない私の横で美依沙が動揺していて、瑠愛が静かに顔をしかめる。
 優香は不快そうな表情を浮かべながらも、とても冷静だった。

「私が預かってる藍沢くんのもの。片時も離れたくないから抜け出して持ってきたの」
「いやだから、それが意味分かんねえって言ってんの。何これ、全部盗んだの? 犯罪だろ」

 瑠愛が強い口調で問い詰めると、優香はため息を吐いた。

「人聞き悪いこと言わないでくれる? 私はいずれ藍沢くんの彼女になるの、だから藍沢くんのものは私が管理してあげるんだよ」

 優香の言葉に、美依沙と瑠愛の顔が引きつる。
 私は未だに、目の前の状況に頭が追い付かずにいた。
 美依沙と瑠愛の横で息を飲んでいると、優香の目が突然ウットリと細められて、その細い指がテーブルの上にある藍沢のカラーペンを握る。

「見て、最近手に入れたお気に入りはこれなの。古いシールが貼ってあるでしょ? 小さい頃の藍沢くんがお気に入りだったんだなぁって考えるとたまらなくなっちゃって……村岡から受け取ったときは腰抜かしちゃった、一瞬本人にバレそうになって焦ったんだよね」

 優香は虚ろな目をしてクスクス笑う。まるで一緒に恋バナでもしているように、楽しんでいるようだった。

「村岡って……何、アイツに盗ませてたってこと?」

 瑠愛が聞くと、優香は頷く。

「そうだよ。村岡、便利だったのに切れちゃって残念だなぁ」

 優香の視線は、ゆっくりと私に向いた。肩が震える。

「……アイツ、私のこと好きなんだろうなって分かってたから、火事のあとこっそりいっぱい優しくしてね、私の言うこと聞いてくれたら付き合ってあげるって嘘吐いたらたくさん協力してくれたんだよ。頼んだら藍沢くんの物持って来てくれたし、藍沢くんにベタベタ触ってた伊崎のこともムカつくから殺してって言ったら襲ってくれたし……ま、返り討ちにあってて使えねえなって思ったけど」

 優香は村岡の話をしながら、鼻で笑って私のことを真っ直ぐに見つめた。

「アイツさ、林間学校のときに痺れ切らして“今すぐ付き合わないならバラす”とか脅してきたから……ライターで火見せ付けてやったらパニックになってて凄いおかしかった、お陰で私は藍沢くんに触れたし、まあよく頑張ってくれたよ」

 嫌な予感がして、これ以上聞きたくないって本能のようなものが警告してて、心臓の音が徐々に早くなっていく。
 優香の目が、瞬きもせずじいっと私を捕らえる。

「アンタのことも殺そうと思ってたんだよ。あの橋で、そのまま突き落としてやるつもりだった」

 優香が、拳を作ってガン!とベッドを殴る。
 優香の声が、徐々に感情的になっていく。

「なのに意味分かんない幻覚でパニクっちゃって邪魔されて、本当に最悪……マジでムカつく、伊崎もアンタも、お前らみたいな汚い奴らが藍沢くんと“お似合い”とか言われてるの見ると虫酸が走るんだよ!」

 ガン! ガン!と、優香はベッドを殴りながら、凄まじい怒りを込めた目で私を睨み付けた。

「もう帰ろう晴奈! こいつ頭おかしいよ!」
「そうだよ、晴奈はこれ以上聞かない方がいい」

 美依沙が泣きながら、瑠愛が焦りながら私の手を取る。でも私は、足がすくんで動けなかった。

「私ね、中学まですごく太ってたの。で、アンタらみたいな派手で汚い奴らにずっといじめられてた」

 優香が口角を上げる。その目は心の底から、私たちを蔑んでいた。

「中二の頃川にね、眼鏡取り上げられて捨てられたのよ。壊されて買い直したばかりだったし親に失くしたって言えないから、必死に探してたら橋の上から“豚の水浴び”って笑われた。アイツらが飽きて、どっか行ったあとも探し続けてたら、たまたま通りがかった藍沢くんが一緒に探してくれたの」

 胸が締め付けられる。
 ああそうか、優香はずっと、藍沢だけが目的で私たちと友だちでいたのか。

「……藍沢くんはね、いつも凛として強くて優しくて、世界で一番綺麗な人なんだよ……」

 優香が、血走った目を見開く。

「お前らみたいな汚物が手垢付けていい人間じゃないんだよ!! さっさと私の前から失せろ!!」

 怒鳴り声が響く。美依沙が鼻をすする。

 そっか、優香はずっと、ずっと、私たちのことが憎かったんだね。

 大好きだった、今までの優香が黒く塗り潰されていく。“晴奈”って優しく呼ぶ声が、私たちのバカに呆れながら笑う顔が、半分のサンドイッチの味が、全部、全部、消えていく。

 絶対絶対、友だちになりたいって思った。
 真面目で上品で優しくて、私とはまるで正反対だったけど。
 初めて教室で話しかけた日からずっと、優香は大切な友だちだと思ってた。

 でもそれは、私だけだったんだね。

 涙がポロポロと溢れた。優香はゆっくりとベッドを下りて、呆然とする私に近付く。

「! ちょっと優香!」
「やめなよ!!」
「うるさい!!」

 止めようとした瑠愛と美依沙に、優香は手に持ったカッターナイフを突き付けた。
 恐怖で身動きが取れなくなった二人を一瞥し、私の首を掴む。物凄い力で、息が苦しくて抵抗出来なかった。

「ずっと大嫌いだった、藍沢くんと一番近いアンタが」

 爪が首に食い込む。痛くて、顔をしかめる。

「何が“はる”だよ……私のことは……私のことは、名前ですら呼んでくれなかったのに!!!」

 優香が私に向かってカッターナイフを振り上げる。美依沙の悲鳴が響いて、ぎゅっと目をつぶった時だった。

────ピロン、と、どこか間抜けな電子音が鳴る。

 その場が静まり返り、薄らと目を開ける。
 音が鳴った先では、スマホを構えている美馬がいた。

「もうだいたい言いたいこと言えた? 満足?」

 美馬がスマホをポケットにしまいながら、ため息混じりに優香に問いかけた。
 優香が一瞬ポカンとした隙をついて、私は思いっきり突き飛ばす。
 優香は後ろに倒れ、離したカッターナイフは床を滑った。すかさず美依沙がそれを拾い、後ろ手に隠す。

「全部動画撮ってたんだ。君が澪くんのストーカーだって明確な証拠掴みたくて。勝手に激昂してベラベラ喋ってくれてありがとう、この動画はまあ、僕が使いたい時に使うよ」

 美馬はさっと私の前に立ち、動揺している優香を見下ろす。

「は……? 何、何なんだよお前」
「何なんだよはこっちのセリフだバカ。大事な友だち傷付けられて、はらわた煮えくり返ってんのはこっちの方なんだよ」

 美馬は冷静な声音のまま、言葉を荒らげた。

「なんかおかしいと思ってたんだよ。君が文化祭のとき、ゴミを取るふりして澪くんの肩に触れて、付いてた髪の毛をポケットにしまったのを見てから」

 私から見える優香の表情が、徐々に余裕をなくしていく。

「林間学校の飯盒炊爨のときだって、君、澪くんと安達さんがお似合いだって言われてるの見てわざと気を引くために地面にお皿を叩き付けてたよね。誰も見てないと思った? 残念だったね、澪くんしか見えてないから詰めが甘くなるんだよ」
「……っ」
「……まあ君は澪くんのことすら見えてないけどね」
「……は?」

 美馬が横を向いて、私たちを見る。

「君は結局、自分の頭の中の妄想しか見えてないんだよ。君の過去のことはそりゃ、酷い話だし可哀想に思うよ。でも君をいじめた人たちと安達さんたちはなんの関係もない」
「……だまれ」
「どう見ても彼女たちは君のことを真っ直ぐに大切にしてた、本当に友だちだと思ってた」
「だまれ!!」

 優香が息を荒くしながら怒鳴る。
 それでも美馬は、一切動じなかった。

「澪くんが物を盗られたって分かった時、何て言うか知ってる? “仕方ない”とか、“いつものことだから”って言うんだよ。いつも大したことじゃないっていうふうに振る舞うんだ。何でか分かる? 慣れてるとかそんな単純な話じゃないよ。家庭のこととかも含めて、もう既に彼の心は傷だらけで、“大したことじゃない”と思わないと壊れるからだ」

 美馬の静かな怒りが、優香を刺す。

「そんな傷だらけの姿から目を逸らして、自分がその傷をつけてるって自覚も無しに、何が“藍沢くんは世界で一番綺麗な人”だ」

 美馬が優香の服を掴む。優香は、目を見開きながら必死に息をしていた。


「“失せろ”はテメーの方なんだよカス女、二度と澪くんの前に現れるな」


 美馬は最後に低い声でそう言い、優香の服を離してさっさと病室を出て行った。

「うう……ああ……あああッ、ああああああああああああ」

 優香はパニックになり、悲鳴を上げながら自分の手をガンガンと叩いた。
 すぐに看護師さんが何人も駆け付けてきて、私たちは帰るよう促される。

 最後に見た、泣き叫ぶ優香が押さえ付けられる姿が、しばらく頭に焼き付いて離れなかった。

◇◇◇

「やだ、嫌だッ……! 先生やめてください!」
「おーおー、活きがいいなあ。いつもの薬効かなかったのか? 何でだろ」

 先生が軽い口調で言いながら、自分の下で必死に暴れる俺を押さえつけながら撮影する。
 ギシ、ギシとベッドが軋む。
 あんまり力が入らないのは、そして今まですぐに眠ってたのは飲食物に混ぜられた薬の影響なのかと絶望する。

「やっぱりちゃんと犯す時は起きてるほうが興奮するよなあ」

 その言葉に背中に悪寒が走る。無感情な目が怖くて、再び身体が硬直する。

「藍沢はさあ、“不幸なのに健気に素直に頑張ってる無垢な美少年”ってところに価値があるんだろ?」
「いや……は、離し……」
「寝る間際に男の名前呼ぶなんて、俺そんな藍沢好きじゃないなあ?」

 先生が、いつもの調子で気さくに笑いながら、俺のシャツのボタンを手際よく外していく。
 怖くて呼吸が浅くなる。嫌だ、気持ち悪い、嫌だ。

「なんでこんな、こんなこと」
「そりゃお前の顔が可愛いからだろ、変なこと聞くなよー」
「やだ、やめて、やめてください」
「やめないって、しつこいなあ。こういう“趣味”なんだ、分かってくれよ」

 先生が、ボタンを外し終わったシャツをバッと広げでインナーを捲り上げる。
 俺の身体をまじまじと見るその気持ち悪い視線に、鳥肌が立った。

「古いアザしかないな、“ゆう”とかいう男に守られてたんだ?」
「…………っ」
「傷だらけでアザだらけの身体期待してたのに、残念だ」
「……っふざけんな……っ!」
「あれ、怒っちゃった。怒った顔も可愛いな〜」
「うるさい! 触るな!! 気持ち悪い!!」

 半ばパニックになりながらひたすら罵倒する。すると、先生の顔から笑顔が消えて、思わずビクッと身体が震える。
 次の瞬間、腰を強く抓られた。

「痛っ……!」
「自分の立場分かってないようだな」
「……嫌だっ……は、はなせ……」
「怖いなら大人しくしとけ。大体な、本当にお前のこと考えてたら家族の暴力に気づいた時点で家に連れ込んだりせずに即通報だろうが。恨むなら不幸で孤独で、だからこそバカで騙されやすい自分を恨めよ」

 嘲笑われて、涙が滲む。悔しくてたまらなくて、唇を噛む。

「そうそう、黙って可愛い顔しとけ」

 ああでも、この男の言う通りだ。
 俺は本当に単純で、馬鹿で、騙されやすい。
 だからつけ込まれるんだ、こんな男にも、ユウにも────。

 小高に、大声を上げないよう近くにあったタオルを口に突っ込まれる。
 手は押さえ付けられて、小高の手が俺の腰に触れようとした。

 そのときだった。

 ガシャアアン!!と大きな音を立てて、リビングのドアが蹴り破られ、破壊される。

 そこにいたのは。

「俺、只今参上!! 悪霊退散!!」
「なあ、ドア壊す演出必要だった?」

 小高に向かってカンフーのポーズを取る力と、後ろでいつもと変わらない様子の響だった。
 見開いた目に、涙が滲む。横になったまま、力と目が合う。

「澪! もう安心しろよ!」

 明るい声が、俺の鼓膜に響く。

「“ヒーロー”に任されて助けに来たぜ!」

 ニコッと笑うその顔と、後ろから手を振る響の気だるげな顔に。

 どうしようもなく涙が溢れて、止まらなかった。