林間学校の後、いつも一緒にいる坂部美依沙と小金井瑠愛、そして真中優香と駅のコインロッカーに荷物を預け、カラオケに遊びに行った。
たくさん歌ったあと、ファミレスに寄ってご飯を食べて、そこでも長居して喋りまくった。
瑠愛と美依沙とは駅で別れて、帰りの方向が一緒の優香と共に暗い夜道を歩いていた。
「そんでさぁ、八木が“これは子どもの頃図鑑で見たことあるから食えるやつだ”とか言って、腹減ってるからってそこに生えてるキノコ食べようとしてんの! マジで馬鹿じゃんね!!」
「あはは、八木くん本当に面白いね。私美依沙と話してて全然聞いてなかった」
今日は、いつもは塾や習い事で忙しい優香が珍しく私たちのバカな遊びに付き合ってくれた。遅くなっちゃったのは申し訳ないけど、優香が楽しそうに笑うと、私もなんだか嬉しくなる。
主に林間学校でのことを楽しく話しながら、橋を渡っていたときだった。真ん中あたりで、優香が川の方を見ながら何かに気付いたように立ち止まった。
「ねえ晴奈、あれ何だろ? 何か変なの浮いてない?」
「え? どれ?」
「ほら、あれ」
優香が指さす方をじっと見るも、暗いせいか何も見えなかった。
欄干にもたれて、目を凝らす。
「えー何もなくない?」
「うそ、見えない? もしかして小さい子の靴とかじゃないかなって……」
優香も欄干に手を置いて、もう一度指をさそうとした時だった。
突然、黒い霧のようなものが視界を埋めて、何も見えなくなる。
「え、ちょ、何これ……」
動揺していると、近くで優香の悲鳴が響いた。
「優香!?」
「いやあああ!! 嫌だこっち見ないで!!」
「え、なに!? 優香大丈夫!? 誰かいるの!?」
優香の声を頼りに闇を掻き分けて探す。すぐ隣にいたはずなのに、なかなか見付からない。
「優香、優香どこ……!?」
得体の知れない恐怖に、ドクドクと心臓の音が速くなっていく。がむしゃらに走って、やっと姿が見えたと思ったら、優香の方は全くこっちに気付いていなかった。それどころか、たぶん私の姿すら見えていない。
優香は自分の腕を、左右交互に赤くなるまで叩き付けながら悲鳴を上げてパニックになっていた。
「優香、やめて!! 腕腫れてるよ!」
「見るな!! 見るな見るな見るな!! うああああ!!」
押さえつけようとしても凄い力で振り払われ、その勢いで後ろに倒れる。
「来ないで!! こっち来ないで、来るなぁ!!」
視界が涙で滲む。
どうしたらいいか分からなくて、見たことのない姿で暴れる優香をただ呆然と見上げていると、突然、グリンッと優香の目が白目をむく。
「うヴッ……、あ゙あ゙あああ!!! はぁッ、うあ゙ぁ゙ぁ゙ッッ」
「優香、ねえどうしたの、ねえ……っ!」
優香はそのまま膝を着いて、赤くなった両手を首に添えながら涎を垂らし、倒れて身体をビクビクと震わせる。
私は闇の中、優香の身体を震える手で揺さぶった。
何がなんだか分からないけど救急車を呼ばなきゃと、ポケットからスマホを取りだしたとき、優香は気を失って大人しくなって、黒い霧のようなものが徐々に晴れていく。
霧が晴れ、圏外になっていたスマホが少しだけ電波を拾う。震える指を必死に画面に滑らせていたときだった。
ふと、背筋に悪寒が走った。不気味な気配を感じて、スマホを耳に当てながらバッと顔を上げて辺りを見る。
橋を渡った先、不安定に点滅する街灯の下にいたものに、私は息を飲んだ。
学ランを着た青年が、真っ黒な瞳をこっちに向けて不気味に微笑んでいる。
青白いその顔は、逆さまになっていた。
なに、あれ、絶対人間じゃない。
ブワッと汗が吹き出して、喉が竦む。
霧も、優香がおかしくなったのも、あいつのせいだと直感する。
「──大丈夫ですか? 聞こえますか?」
119番を押した電話越しにこっちを心配する人の声に、一瞬だけ意識を向けた。
「……ぁ、す、すみません、き、救急車を、お願いしたくて……」
震える声で言いながら、もう一度街灯の下を見たとき、その化け物はもう姿を消していた。
言葉に詰まりながら何とか状況を説明して電話を切り、優香を抱き締めながら救急車を待った。
恐怖を落ち着かせるために、大きく震える両手をひたすら擦った。
あの恐ろしい化け物の顔が、頭に焼きついて離れなかった。
◇◇◇
安達から委員長とのことを聞いた夜。部屋のベッドで布団に包まりながら、恐怖と不安に胸の内が支配されていた。
ユウが安達の後ろで見せた顔が頭から離れなかった。
全部嘘だったのか?
俺に優しくしたのも、守ってくれたのも全部、俺を欺くための嘘?
考える度に、胸が苦しくなる。
もう嫌だ、逃げ出してしまいたい。ユウのことを思い出すたび涙が滲んで、もう何もかも投げ出したくなった時だった。
追い討ちをかけるような言葉が、つけっぱなしのテレビから聞こえてくる。
「──続いてのニュースです。モデルで俳優の如月梨華容疑者が、覚せい剤所持の現行犯で逮捕されました。本人は“私じゃない”“何も記憶にありません”と容疑を否認しています。また、警察は他にも売春斡旋などの容疑もあると見て捜査を進めており──」
耳を疑う。目を見開いて、バッと布団を投げてテレビにかぶりつく。
画面の中には、気怠そうに警察官に連れられてパトカーに乗り込む、別人みたいな母さんがいた。
鈍器で頭を殴られたような衝撃が走った。テレビを掴んでいた手がだらりと落ちる。
「嘘だ……嘘だ……」
母さんが覚せい剤?売春斡旋?そんなわけない、有り得ない、母さんはそんなことする人じゃない。
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
激しい動悸と頭痛がして、床に蹲る。
母さんは記憶にないって言ってるんだ、絶対そうだ、誰かに嵌められたんだ。母さんは優しくて綺麗で、だから誰かに嫉妬されてでっち上げられた、そうだ、そうに決まってる。
────“記憶にない”?
“や、やめてよ……本当に何も覚えてないんだって……!”
確か、柳も学校でおかしくなっていた次の日、それを揶揄っていた村岡たちに同じようなことを言っていた気がする。
まさか。
ズキン、ズキンと激しく痛む頭の中に、青白い顔が浮かぶ。
その瞬間、俺の背中に、覚えのある冷たさが触れた。
勢い良く頭を上げると、ユウがいた。黒い目でジッと俺を見下ろしながら、背中を撫でている。
「触るな!!」
俺は肩で息をしながら、怒鳴りつけて距離を取る。
「はぁ……はぁッ……っ、なあ、ユウ……っ」
頭が痛い。目に涙が滲む。
「委員長も、母さんも、お前が……お前がやったのか……?」
声が大きく震える。
ユウが何かを考えるように目を伏せて、沈黙が流れる。自分の浅い呼吸だけが耳の奥に響く。
しばらくして、ユウが再び俺に視線を戻す。そして、無表情のまま、ゆっくり。
でも確かに、首を縦に振った。
それを見た瞬間、カアッと頭に血が昇った。
「……っ何なんだよお前ッ!!! 俺の大事な人たちにそんなことしておいて、なんでそんな平気な顔して俺の前に出て来られるんだ!!」
感情のままに怒鳴りつける。怒っているのに、いや怒っているからか、ボロボロと熱くなった目から涙がこぼれた。
「本当はずっと俺のこと苦しめるのが目的だったのか!? そのために……ッ俺のこと騙すために、あんなに優しくしたのかよ!!」
苦しい、痛い、痛い。
胸の奥を、抉られるような感覚がする。
「守るって言ったくせに!!! 俺のこと守るって、大好きって言ったくせに!!!」
子どものように泣き喚きながら、俺は周りに落ちているクッションやテーブルの上にあった文房具をひたすらユウに向かって投げ付ける。
投げた物は当たり前に、ユウの身体をすり抜けて音を立てて壁にぶつかった。
「お前なんか大嫌いだ……ッ!!消えろ、早く消えろよ!!!」
ユウは、ただただジッと、大声を上げる俺を見つめて。やがてゆっくりと、姿を消した。
「うぅ……うう………ッ!」
頭の痛みと激しい動悸に耐えながら、俺は床を這う。
ふと、俺が投げ付けたノートが目に入った。学校の授業で使っていたものだけど、一度ユウに落書きされてからそのままユウ専用の落書き帳になってしまったノート。
転がったノートの開かれたページには、ユウが最初に書いた“レイ カワイイ ダイスキ”の文字。
粉々に破って捨ててやろうと引っ掴んだ。
でも手が止まる。震えたままで、破り捨てることができなかった。
顔が涙でぐちゃぐちゃになる。手に持ったノートにたくさん涙の痕ができて、ユウが書いた文字や絵に滲む。
俺を好きと言ってくれた委員長と、俺が大好きな母さん。
そんな二人を貶めたアイツが、憎くて憎くて仕方ないはずなのに。
思い出すのは二人の顔じゃなくて、ユウの優しい顔やユウとの思い出ばかりだった。
きっと俺は、心の奥底でユウに否定して欲しかったんだ。
“自分じゃない”って、ただ一言言ってくれれば、俺はユウを信じるつもりでいた。
でも、違った。
「ううう……ッ! うわあああああ!」
胸が痛い、苦しい。
その場に倒れ込む。
疲れきって眠ってしまうまで、俺はただひたすら、大声を上げて泣き続けた。
***
次の日、頭がぼんやりしたまま登校する。
朝起きたら、今は仕事で海外にいる父さんから“できるだけ早く帰る”とメッセージがあった。母さんの件が耳に入って俺を心配しているのだろう。
待ってると返信はしたけれど、今は何も考えられなかった。
「あ、藍沢っちー!」
教室に入るなり、坂部がいつもの元気な声で俺を呼びながらパタパタと走って来た。遅れて後ろから小金井もついてくる。
「……? おはよう」
「おはよ! あのさ、藍沢っち今日の放課後空いてる?」
「ああ……」
坂部が丸い目をぱちぱちと瞬きさせる。
昨日から身体がずっとしんどい。この感じだとどこかに誘われるのかなと予感し、到底遊べるような体調じゃないので咄嗟に嘘をつく。
「放課後はちょっと用事があるんだ」
「そっかー、残念」
「……ごめんね、どうかした?」
「いやね、仲良し集めて今日優香のお見舞い行こって思ってて」
「……そうだったんだ」
「……ほら、イケメンパワーは何にも勝るしね。今回は残念だけど」
小金井は俺の顔を見て体調を察してくれたのか、フォローするように言って坂部と共に去って行った。
取り繕う余裕が無くて気遣わせたことを申し訳なく思う。
告白してくれた時の、委員長の笑顔を思い出す。
ユウが俺を苦しめるための、呪いの犠牲になってしまった。
委員長、身体大丈夫かな。
「………合わせる顔なんかないよ」
小さく小さく呟く。
俯いたとき、誰かがポンと背中に優しく触れた。
「澪くん、おはよう」
「おはよう」
振り向くと、葵が穏やかな表情を向けていた。
「ごめん、坂部さんたちとの話聞こえちゃった。……澪くん、あのね僕思うんだけど」
「ん?」
「真中さんとはあんまり関わらない方がいいと思う」
もやがかかったような頭では、葵の言っていることがあまりよく分からなかった。
俺と関わらない方がいいのは、委員長の方だろう。
「……なんで?」
「うーん、まだ憶測の段階だから、何とも言えないんだけど……」
「……委員長は、ユウにやられたんだ」
「……え?」
「委員長の様子がおかしくなったとき、安達がユウを見たって。本人にも聞いた、そうだって言ってた」
「……え、そうだったの……」
葵は何かを考えるような素振りを一瞬だけ見せたあと、俺の顔を見て心配そうな表情に変わる。
「……ユウくんは、今どこに?」
「分かんない。消えろって言ったら、消えた」
「そっか……じゃあ澪くん、相当ショックだったよね。今日すごく体調悪そうだもん」
「…………」
「ごめんね、僕が最初に“ユウくんは悪い幽霊じゃないと思う”なんて、憶測で軽率なこと言っちゃったから……少なからず澪くんの警戒心を緩めちゃったところがあったと思う」
「そんなことないよ、葵」
ユウを信じたのは俺だ。他に誰も悪くない。
「……ねえ、澪くん」
葵の手が、優しく俺の肩をさする。
「辛い時はちゃんと悲しんで、休んでね」
優しい目でそう言った葵の言葉が、胸の奥に残った。
ホームルームの予鈴が、どこか遠くに聞こえた。
***
「食べる元気ないか?」
「……すみません……」
よく来たリビングで、小高先生が冷蔵庫から美味しそうなサラダやパスタを出して、優しく笑いかけてくれる。
放課後は家に帰りたくなくて、暗くなっても駅の周辺をボーッと彷徨っていると、たまたま見つけたらしい先生が俺の手を掴んだ。
俺の顔を見た瞬間、悲痛な表情を浮かべ、“話を聞くから家に来い”と言ってくれた。
「じゃあホットミルクでも飲んだらいいよ、温まるから。用意するな」
「ありがとうございます……」
俺の様子を見て料理を下げた先生は、代わりにマグカップに入ったホットミルクを差し出して、テーブルの向かいの席に腰かけた。
「何かショックなことでもあったのか? 随分しんどそうに見えるけど……」
「……この前、話したと思うんですけど……同居人の男の子が……その、俺に隠し事してて」
「隠し事?」
「本当は……俺のこと、嫌いだったみたいで」
ユウのことを、所々ぼかしながら話す。
微かに湯気を立たせるマグカップを持ち、ゆっくりとホットミルクを喉に流し込む。身体の芯が温もる感覚がした。
「許せないって気持ちが……一番にくるはずなのに……何かもう、訳分からないくらいすごく悲しくて………」
言いながら涙が滲む。何をしていてもずっとユウのことが頭から離れない。
裏切られたのに。騙されたのに。
まだ性懲りも無く、全部嘘であって欲しいと願っている自分がいる。
それほどまでに、いつの間にか俺の中でユウの存在が大きくなっていた。
「……そっか……辛かったな……」
先生の大きな手が、優しく俺の頭を撫でる。
「大丈夫だよ、俺はお前の味方だから。心の傷が癒えるまで、ずっとここに居な」
見上げると、先生はとても優しい笑みを浮かべていた。
先生が最初に声をかけてくれた春の日を思い出す。
その前日の夜は義理の兄で長兄の理人(りと)が彼女に振られたとかで物凄く機嫌が悪かった。家に帰って来るなり、理人の部屋に連れて行かれて“サンドバックやれ”と、殴る蹴るの暴力を振るわれた。一週間後に父さんが帰宅する予定があったから、念入りに服で隠れるところばかり狙われた。
もうその頃には義兄たちの暴力には慣れていたから、なんでもない顔をして次の日も登校した。普通に教室までの廊下を歩いている途中だった。
“藍沢、なんか調子悪そうだけど大丈夫か?”
外から傷やアザは全く見えないはずなのに。小高先生は、俺の顔色だけで心配して、気付いてくれた。
あの時、父さんには相談できなくて、母さんとの時間以外何も救いが無かった俺にとって、小高先生は近くにいる大人の中で唯一俺に手を差し伸べてくれた人だった。
俺に、逃げ場所を与えてくれた人だった。
「……ありがとうございます……」
「ん、少し休むか?」
「はい」
先生がまた俺の頭を撫でて、いつも使わせて貰っている簡易ベッドを準備してくれる。
やっぱり先生がいると安心するからか、身体があったまったからか、心地良い眠気が襲ってくる。
昨日からずっと頭がぼんやりしているからか、眠くなってきたからか、何も考えずに準備されたベッドによろよろと移動して倒れ込む。
「おやすみ、藍沢」
頭を優しく撫でられる。
「…………ユウ…………」
口から出たのは、縋るような声だった。
もう何も考えたくない。このまま消えて居なくなってしまいたい。
そう思いながら、重くなった瞼に逆らわず、そのまま目を閉じた。
暗闇の中、何かに追われる夢を見た。
泣きながら、誰か助けてと手を伸ばしていた。
嫌だ、怖い、怖い、怖い。
誰か、誰か。
助けて。
そう思った瞬間、冷たい手が俺の手を握り、そのまま俺の身体をぎゅっと抱き締めた。
耳元で声がした。とても澄んだ、綺麗な男の声。
“起きて、澪”
“澪”
確かにそう言われた瞬間、俺はパッと眠りから覚めて目を開ける。
「────え?」
思わず声が漏れる。目の前の光景の、意味が分からなくて、思考が止まる。
腰が、とても重い。
「あれ? 何で、起きた? 早くね?」
俺の視界には、小高先生の顔。
先生は、俺に覆いかぶさって俺のシャツのボタンを外していた。
目線だけを下に下ろすと、先生は自分の下半身を晒してベッドに寝ている俺に跨っていた。
「おーいマジかよ、いつもはこんなすぐ起きないよな、急にどうした? めんどくせー」
「ぇ……っと、え、な、何してるんですか?」
「何ってこの状況で分かんだろ、なんか妙な男周りにいるっぽいから食われる前に食っとこうと思って。こんだけ丁寧に“育てた”のに他の男に先に食われたら最悪だろ?」
先生が、困ったように笑いながら頭を搔く。
何が起こっているのか、全く分からなかった。
ただ、その目には覚えがあった。
軽い口調とは裏腹に、小高先生の目は全く笑っていなかった。
林間学校の時、同居人がいると言ったときに俺を見ていた、ガラス玉のような無感情な目だった。
何で、あの時に感じた恐怖を忘れてしまっていたんだろう。
喉が竦む。
徐々に心臓の音が大きくなっていく。
「まあいいや。内緒にできるように恥ずかしい動画と写真たくさん撮ろうな、藍沢ー」
小高先生が口角を上げて俺に向かってスマホを構える。
今すぐ逃げなければと、頭では分かっているのに。
恐ろしいその目を見ていると、身体が硬直して動かなかった。
続
たくさん歌ったあと、ファミレスに寄ってご飯を食べて、そこでも長居して喋りまくった。
瑠愛と美依沙とは駅で別れて、帰りの方向が一緒の優香と共に暗い夜道を歩いていた。
「そんでさぁ、八木が“これは子どもの頃図鑑で見たことあるから食えるやつだ”とか言って、腹減ってるからってそこに生えてるキノコ食べようとしてんの! マジで馬鹿じゃんね!!」
「あはは、八木くん本当に面白いね。私美依沙と話してて全然聞いてなかった」
今日は、いつもは塾や習い事で忙しい優香が珍しく私たちのバカな遊びに付き合ってくれた。遅くなっちゃったのは申し訳ないけど、優香が楽しそうに笑うと、私もなんだか嬉しくなる。
主に林間学校でのことを楽しく話しながら、橋を渡っていたときだった。真ん中あたりで、優香が川の方を見ながら何かに気付いたように立ち止まった。
「ねえ晴奈、あれ何だろ? 何か変なの浮いてない?」
「え? どれ?」
「ほら、あれ」
優香が指さす方をじっと見るも、暗いせいか何も見えなかった。
欄干にもたれて、目を凝らす。
「えー何もなくない?」
「うそ、見えない? もしかして小さい子の靴とかじゃないかなって……」
優香も欄干に手を置いて、もう一度指をさそうとした時だった。
突然、黒い霧のようなものが視界を埋めて、何も見えなくなる。
「え、ちょ、何これ……」
動揺していると、近くで優香の悲鳴が響いた。
「優香!?」
「いやあああ!! 嫌だこっち見ないで!!」
「え、なに!? 優香大丈夫!? 誰かいるの!?」
優香の声を頼りに闇を掻き分けて探す。すぐ隣にいたはずなのに、なかなか見付からない。
「優香、優香どこ……!?」
得体の知れない恐怖に、ドクドクと心臓の音が速くなっていく。がむしゃらに走って、やっと姿が見えたと思ったら、優香の方は全くこっちに気付いていなかった。それどころか、たぶん私の姿すら見えていない。
優香は自分の腕を、左右交互に赤くなるまで叩き付けながら悲鳴を上げてパニックになっていた。
「優香、やめて!! 腕腫れてるよ!」
「見るな!! 見るな見るな見るな!! うああああ!!」
押さえつけようとしても凄い力で振り払われ、その勢いで後ろに倒れる。
「来ないで!! こっち来ないで、来るなぁ!!」
視界が涙で滲む。
どうしたらいいか分からなくて、見たことのない姿で暴れる優香をただ呆然と見上げていると、突然、グリンッと優香の目が白目をむく。
「うヴッ……、あ゙あ゙あああ!!! はぁッ、うあ゙ぁ゙ぁ゙ッッ」
「優香、ねえどうしたの、ねえ……っ!」
優香はそのまま膝を着いて、赤くなった両手を首に添えながら涎を垂らし、倒れて身体をビクビクと震わせる。
私は闇の中、優香の身体を震える手で揺さぶった。
何がなんだか分からないけど救急車を呼ばなきゃと、ポケットからスマホを取りだしたとき、優香は気を失って大人しくなって、黒い霧のようなものが徐々に晴れていく。
霧が晴れ、圏外になっていたスマホが少しだけ電波を拾う。震える指を必死に画面に滑らせていたときだった。
ふと、背筋に悪寒が走った。不気味な気配を感じて、スマホを耳に当てながらバッと顔を上げて辺りを見る。
橋を渡った先、不安定に点滅する街灯の下にいたものに、私は息を飲んだ。
学ランを着た青年が、真っ黒な瞳をこっちに向けて不気味に微笑んでいる。
青白いその顔は、逆さまになっていた。
なに、あれ、絶対人間じゃない。
ブワッと汗が吹き出して、喉が竦む。
霧も、優香がおかしくなったのも、あいつのせいだと直感する。
「──大丈夫ですか? 聞こえますか?」
119番を押した電話越しにこっちを心配する人の声に、一瞬だけ意識を向けた。
「……ぁ、す、すみません、き、救急車を、お願いしたくて……」
震える声で言いながら、もう一度街灯の下を見たとき、その化け物はもう姿を消していた。
言葉に詰まりながら何とか状況を説明して電話を切り、優香を抱き締めながら救急車を待った。
恐怖を落ち着かせるために、大きく震える両手をひたすら擦った。
あの恐ろしい化け物の顔が、頭に焼きついて離れなかった。
◇◇◇
安達から委員長とのことを聞いた夜。部屋のベッドで布団に包まりながら、恐怖と不安に胸の内が支配されていた。
ユウが安達の後ろで見せた顔が頭から離れなかった。
全部嘘だったのか?
俺に優しくしたのも、守ってくれたのも全部、俺を欺くための嘘?
考える度に、胸が苦しくなる。
もう嫌だ、逃げ出してしまいたい。ユウのことを思い出すたび涙が滲んで、もう何もかも投げ出したくなった時だった。
追い討ちをかけるような言葉が、つけっぱなしのテレビから聞こえてくる。
「──続いてのニュースです。モデルで俳優の如月梨華容疑者が、覚せい剤所持の現行犯で逮捕されました。本人は“私じゃない”“何も記憶にありません”と容疑を否認しています。また、警察は他にも売春斡旋などの容疑もあると見て捜査を進めており──」
耳を疑う。目を見開いて、バッと布団を投げてテレビにかぶりつく。
画面の中には、気怠そうに警察官に連れられてパトカーに乗り込む、別人みたいな母さんがいた。
鈍器で頭を殴られたような衝撃が走った。テレビを掴んでいた手がだらりと落ちる。
「嘘だ……嘘だ……」
母さんが覚せい剤?売春斡旋?そんなわけない、有り得ない、母さんはそんなことする人じゃない。
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
激しい動悸と頭痛がして、床に蹲る。
母さんは記憶にないって言ってるんだ、絶対そうだ、誰かに嵌められたんだ。母さんは優しくて綺麗で、だから誰かに嫉妬されてでっち上げられた、そうだ、そうに決まってる。
────“記憶にない”?
“や、やめてよ……本当に何も覚えてないんだって……!”
確か、柳も学校でおかしくなっていた次の日、それを揶揄っていた村岡たちに同じようなことを言っていた気がする。
まさか。
ズキン、ズキンと激しく痛む頭の中に、青白い顔が浮かぶ。
その瞬間、俺の背中に、覚えのある冷たさが触れた。
勢い良く頭を上げると、ユウがいた。黒い目でジッと俺を見下ろしながら、背中を撫でている。
「触るな!!」
俺は肩で息をしながら、怒鳴りつけて距離を取る。
「はぁ……はぁッ……っ、なあ、ユウ……っ」
頭が痛い。目に涙が滲む。
「委員長も、母さんも、お前が……お前がやったのか……?」
声が大きく震える。
ユウが何かを考えるように目を伏せて、沈黙が流れる。自分の浅い呼吸だけが耳の奥に響く。
しばらくして、ユウが再び俺に視線を戻す。そして、無表情のまま、ゆっくり。
でも確かに、首を縦に振った。
それを見た瞬間、カアッと頭に血が昇った。
「……っ何なんだよお前ッ!!! 俺の大事な人たちにそんなことしておいて、なんでそんな平気な顔して俺の前に出て来られるんだ!!」
感情のままに怒鳴りつける。怒っているのに、いや怒っているからか、ボロボロと熱くなった目から涙がこぼれた。
「本当はずっと俺のこと苦しめるのが目的だったのか!? そのために……ッ俺のこと騙すために、あんなに優しくしたのかよ!!」
苦しい、痛い、痛い。
胸の奥を、抉られるような感覚がする。
「守るって言ったくせに!!! 俺のこと守るって、大好きって言ったくせに!!!」
子どものように泣き喚きながら、俺は周りに落ちているクッションやテーブルの上にあった文房具をひたすらユウに向かって投げ付ける。
投げた物は当たり前に、ユウの身体をすり抜けて音を立てて壁にぶつかった。
「お前なんか大嫌いだ……ッ!!消えろ、早く消えろよ!!!」
ユウは、ただただジッと、大声を上げる俺を見つめて。やがてゆっくりと、姿を消した。
「うぅ……うう………ッ!」
頭の痛みと激しい動悸に耐えながら、俺は床を這う。
ふと、俺が投げ付けたノートが目に入った。学校の授業で使っていたものだけど、一度ユウに落書きされてからそのままユウ専用の落書き帳になってしまったノート。
転がったノートの開かれたページには、ユウが最初に書いた“レイ カワイイ ダイスキ”の文字。
粉々に破って捨ててやろうと引っ掴んだ。
でも手が止まる。震えたままで、破り捨てることができなかった。
顔が涙でぐちゃぐちゃになる。手に持ったノートにたくさん涙の痕ができて、ユウが書いた文字や絵に滲む。
俺を好きと言ってくれた委員長と、俺が大好きな母さん。
そんな二人を貶めたアイツが、憎くて憎くて仕方ないはずなのに。
思い出すのは二人の顔じゃなくて、ユウの優しい顔やユウとの思い出ばかりだった。
きっと俺は、心の奥底でユウに否定して欲しかったんだ。
“自分じゃない”って、ただ一言言ってくれれば、俺はユウを信じるつもりでいた。
でも、違った。
「ううう……ッ! うわあああああ!」
胸が痛い、苦しい。
その場に倒れ込む。
疲れきって眠ってしまうまで、俺はただひたすら、大声を上げて泣き続けた。
***
次の日、頭がぼんやりしたまま登校する。
朝起きたら、今は仕事で海外にいる父さんから“できるだけ早く帰る”とメッセージがあった。母さんの件が耳に入って俺を心配しているのだろう。
待ってると返信はしたけれど、今は何も考えられなかった。
「あ、藍沢っちー!」
教室に入るなり、坂部がいつもの元気な声で俺を呼びながらパタパタと走って来た。遅れて後ろから小金井もついてくる。
「……? おはよう」
「おはよ! あのさ、藍沢っち今日の放課後空いてる?」
「ああ……」
坂部が丸い目をぱちぱちと瞬きさせる。
昨日から身体がずっとしんどい。この感じだとどこかに誘われるのかなと予感し、到底遊べるような体調じゃないので咄嗟に嘘をつく。
「放課後はちょっと用事があるんだ」
「そっかー、残念」
「……ごめんね、どうかした?」
「いやね、仲良し集めて今日優香のお見舞い行こって思ってて」
「……そうだったんだ」
「……ほら、イケメンパワーは何にも勝るしね。今回は残念だけど」
小金井は俺の顔を見て体調を察してくれたのか、フォローするように言って坂部と共に去って行った。
取り繕う余裕が無くて気遣わせたことを申し訳なく思う。
告白してくれた時の、委員長の笑顔を思い出す。
ユウが俺を苦しめるための、呪いの犠牲になってしまった。
委員長、身体大丈夫かな。
「………合わせる顔なんかないよ」
小さく小さく呟く。
俯いたとき、誰かがポンと背中に優しく触れた。
「澪くん、おはよう」
「おはよう」
振り向くと、葵が穏やかな表情を向けていた。
「ごめん、坂部さんたちとの話聞こえちゃった。……澪くん、あのね僕思うんだけど」
「ん?」
「真中さんとはあんまり関わらない方がいいと思う」
もやがかかったような頭では、葵の言っていることがあまりよく分からなかった。
俺と関わらない方がいいのは、委員長の方だろう。
「……なんで?」
「うーん、まだ憶測の段階だから、何とも言えないんだけど……」
「……委員長は、ユウにやられたんだ」
「……え?」
「委員長の様子がおかしくなったとき、安達がユウを見たって。本人にも聞いた、そうだって言ってた」
「……え、そうだったの……」
葵は何かを考えるような素振りを一瞬だけ見せたあと、俺の顔を見て心配そうな表情に変わる。
「……ユウくんは、今どこに?」
「分かんない。消えろって言ったら、消えた」
「そっか……じゃあ澪くん、相当ショックだったよね。今日すごく体調悪そうだもん」
「…………」
「ごめんね、僕が最初に“ユウくんは悪い幽霊じゃないと思う”なんて、憶測で軽率なこと言っちゃったから……少なからず澪くんの警戒心を緩めちゃったところがあったと思う」
「そんなことないよ、葵」
ユウを信じたのは俺だ。他に誰も悪くない。
「……ねえ、澪くん」
葵の手が、優しく俺の肩をさする。
「辛い時はちゃんと悲しんで、休んでね」
優しい目でそう言った葵の言葉が、胸の奥に残った。
ホームルームの予鈴が、どこか遠くに聞こえた。
***
「食べる元気ないか?」
「……すみません……」
よく来たリビングで、小高先生が冷蔵庫から美味しそうなサラダやパスタを出して、優しく笑いかけてくれる。
放課後は家に帰りたくなくて、暗くなっても駅の周辺をボーッと彷徨っていると、たまたま見つけたらしい先生が俺の手を掴んだ。
俺の顔を見た瞬間、悲痛な表情を浮かべ、“話を聞くから家に来い”と言ってくれた。
「じゃあホットミルクでも飲んだらいいよ、温まるから。用意するな」
「ありがとうございます……」
俺の様子を見て料理を下げた先生は、代わりにマグカップに入ったホットミルクを差し出して、テーブルの向かいの席に腰かけた。
「何かショックなことでもあったのか? 随分しんどそうに見えるけど……」
「……この前、話したと思うんですけど……同居人の男の子が……その、俺に隠し事してて」
「隠し事?」
「本当は……俺のこと、嫌いだったみたいで」
ユウのことを、所々ぼかしながら話す。
微かに湯気を立たせるマグカップを持ち、ゆっくりとホットミルクを喉に流し込む。身体の芯が温もる感覚がした。
「許せないって気持ちが……一番にくるはずなのに……何かもう、訳分からないくらいすごく悲しくて………」
言いながら涙が滲む。何をしていてもずっとユウのことが頭から離れない。
裏切られたのに。騙されたのに。
まだ性懲りも無く、全部嘘であって欲しいと願っている自分がいる。
それほどまでに、いつの間にか俺の中でユウの存在が大きくなっていた。
「……そっか……辛かったな……」
先生の大きな手が、優しく俺の頭を撫でる。
「大丈夫だよ、俺はお前の味方だから。心の傷が癒えるまで、ずっとここに居な」
見上げると、先生はとても優しい笑みを浮かべていた。
先生が最初に声をかけてくれた春の日を思い出す。
その前日の夜は義理の兄で長兄の理人(りと)が彼女に振られたとかで物凄く機嫌が悪かった。家に帰って来るなり、理人の部屋に連れて行かれて“サンドバックやれ”と、殴る蹴るの暴力を振るわれた。一週間後に父さんが帰宅する予定があったから、念入りに服で隠れるところばかり狙われた。
もうその頃には義兄たちの暴力には慣れていたから、なんでもない顔をして次の日も登校した。普通に教室までの廊下を歩いている途中だった。
“藍沢、なんか調子悪そうだけど大丈夫か?”
外から傷やアザは全く見えないはずなのに。小高先生は、俺の顔色だけで心配して、気付いてくれた。
あの時、父さんには相談できなくて、母さんとの時間以外何も救いが無かった俺にとって、小高先生は近くにいる大人の中で唯一俺に手を差し伸べてくれた人だった。
俺に、逃げ場所を与えてくれた人だった。
「……ありがとうございます……」
「ん、少し休むか?」
「はい」
先生がまた俺の頭を撫でて、いつも使わせて貰っている簡易ベッドを準備してくれる。
やっぱり先生がいると安心するからか、身体があったまったからか、心地良い眠気が襲ってくる。
昨日からずっと頭がぼんやりしているからか、眠くなってきたからか、何も考えずに準備されたベッドによろよろと移動して倒れ込む。
「おやすみ、藍沢」
頭を優しく撫でられる。
「…………ユウ…………」
口から出たのは、縋るような声だった。
もう何も考えたくない。このまま消えて居なくなってしまいたい。
そう思いながら、重くなった瞼に逆らわず、そのまま目を閉じた。
暗闇の中、何かに追われる夢を見た。
泣きながら、誰か助けてと手を伸ばしていた。
嫌だ、怖い、怖い、怖い。
誰か、誰か。
助けて。
そう思った瞬間、冷たい手が俺の手を握り、そのまま俺の身体をぎゅっと抱き締めた。
耳元で声がした。とても澄んだ、綺麗な男の声。
“起きて、澪”
“澪”
確かにそう言われた瞬間、俺はパッと眠りから覚めて目を開ける。
「────え?」
思わず声が漏れる。目の前の光景の、意味が分からなくて、思考が止まる。
腰が、とても重い。
「あれ? 何で、起きた? 早くね?」
俺の視界には、小高先生の顔。
先生は、俺に覆いかぶさって俺のシャツのボタンを外していた。
目線だけを下に下ろすと、先生は自分の下半身を晒してベッドに寝ている俺に跨っていた。
「おーいマジかよ、いつもはこんなすぐ起きないよな、急にどうした? めんどくせー」
「ぇ……っと、え、な、何してるんですか?」
「何ってこの状況で分かんだろ、なんか妙な男周りにいるっぽいから食われる前に食っとこうと思って。こんだけ丁寧に“育てた”のに他の男に先に食われたら最悪だろ?」
先生が、困ったように笑いながら頭を搔く。
何が起こっているのか、全く分からなかった。
ただ、その目には覚えがあった。
軽い口調とは裏腹に、小高先生の目は全く笑っていなかった。
林間学校の時、同居人がいると言ったときに俺を見ていた、ガラス玉のような無感情な目だった。
何で、あの時に感じた恐怖を忘れてしまっていたんだろう。
喉が竦む。
徐々に心臓の音が大きくなっていく。
「まあいいや。内緒にできるように恥ずかしい動画と写真たくさん撮ろうな、藍沢ー」
小高先生が口角を上げて俺に向かってスマホを構える。
今すぐ逃げなければと、頭では分かっているのに。
恐ろしいその目を見ていると、身体が硬直して動かなかった。
続
