ゆうれい

 いつもの夜。今日もユウの腕の中で、もぞもぞと身をよじる。

「……もう、なに……」

 最近、朝起きたときと夜寝るときのユウのスキンシップが激しい。
 抱き締めたり頭を撫でたりするのは当たり前で、頬や瞼にキスをしたり、文化祭で少女の幽霊に襲われたあとくらいからは耳たぶを甘噛みしたり、首にキスしてきたりとまるで恋人のような触れ方をしてくる。

 恥ずかしいから程々にして欲しいけど、俺は自分からユウに触れないから拒否できないし。そんな言い訳を並べて、毎日ユウにされるがままだった。
 そんなふうに触れられて、明確に嫌じゃないと感じている自分に戸惑う日々だ。
 優しく触れられる度、胸の内が静かにトクトクと波打つ。初めて会った時とは全然違った意味で。

「……もういいって……」

 恥ずかしくて腕で顔を隠すと、いつも優しく退けられる。
 目が合うと、穏やかな眼差しで愛おしそうに見つめられて、照れくさくて顔を背けてしまう。
 そうしてユウの気が済むまで甘やかされると、最後はぎゅっと抱き締められて、トントンと背中を優しく叩かれながら目を閉じる。

 ユウの冷たい体温と自分の体温が静かに溶け合う。その感覚が気持ち良い。最近の俺は義兄たちのドアを蹴る音や怒鳴り声で飛び起きることも、幸せな夢と現実のギャップに泣きながら起きることもない。

 少しだけ目を開くと、ユウが優しい表情を向けている。
 たまに響の怪我のことが頭を過ぎるが、考えないようにかき消す。
 そしていつも、薄れていく意識の中でぼんやりと考える。もしも、いつかこの温もりが消えてしまうことがあるとすれば、そのとき俺はどうなるのだろう。
 想像するたび、鼻の奥が痛くなった。

***

 十月下旬。一年生で行われる最後の大きな行事、林間学校に来ていた。ユウも一緒に。

「おーい、澪大丈夫か」
「顔色も悪いね……」
「無理すんなー?」
「うん……」

 ハイキングコースの序盤、肩で息をする俺を、同じ班になった響たちが気遣う。
 山に入ってから何だか息苦しくなってきて、徐々に頭痛や吐き気も伴ってきた。

「戻るか」
「うん……そうするよ、ごめんな」
「そんなの気にしないで」
「そーだそーだ、自分のことだけ考えろ?」

 山に入るまでは全然元気だったのに、何でだろう。普段から運動不足だからかな。ユウが心配そうにスリスリと頬を擦り付けている。

「あの、みんなは気にせず行って。距離も体調も、全然一人で戻れるくらいだから」
「は? ダメだろ。俺付き添うから、力と葵は先行ってろ」

 響が近付いてきて、俺の手を取る。ユウがハッとして、また嫉妬なのか、プクッと頬を膨らませながら拗ねていた。それを見てドキッと心臓が鳴る。響が怪我をしてきた朝が頭を過ぎって、咄嗟に響の手を退けてしまった。

「?」
「あ、ごめん……ほんとに、大丈夫だから」
「……そうか?」
「うん、本当にありがとう」
「分かった、じゃあ気を付けて戻れよ」

 三人に手を振り、一人で引き返して下山する。そばで心配そうに見つめてくるユウに、大丈夫だよと小声で言ってそっと微笑む。
 響が怪我をした件は、決してユウのことを疑っているわけではない。でも、いつか葵が言ったように俺以外の人間にとってユウは“怨霊”だから。大事な人を守るためにも、そしてユウに攻撃させないためにも、極力刺激しない方がいいのだと思った。

 途中すれ違った班と一緒にいた先生に報告して宿舎に帰る。入口に小高先生がいた。

「小高先生」
「おお、藍沢どうした?」
「ちょっと体調が悪くなって、酷くなる前に戻ってきました。少し良くなって来たんですけど」
「そっかそっか、無理はしない方がいいからな。部屋まで送るよ」
「ありがとうございます」

 明るく笑う小高先生の顔を見てホッとする。ユウが頻繁に現れるようになってからは、友だちもできて前みたいに世界史の資料室に籠ったり、家に泊まらせてもらったりすることはなくなったけど、変わらず気さくに接してくれている。
 久しぶりに小高先生と話しながら宿舎内の短い廊下を歩く。入学から時間がかかったけれど、遅れてできた友だちと楽しんでいることを、一緒に喜んでくれた。

「──で、家でもその、同居人? みたいなのが増えて」

 流れでユウのことも濁しながら話す。俺と小高先生が親しそうに話すからか、隣で不機嫌そうにプクプクしているユウの様子を伺いながら、先生を見上げる。

「義兄たちとの接触も減って……助か……」

 目が合うと、思わず肩が震えた。
 いつも明るくニコニコしている先生が、今まで見たことのないような無表情で俺を見下ろしていて、その目はガラス玉のように無感情だった。

「その同居人って誰、男? 大人?」

 聞いたことのない低い声で問われ、動揺でドッドッと鼓動が速くなるのを自覚する。

「……えっと……同い年くらいの男の子……? ですけど……」

 萎縮しながら小さい声で答えると、ちょうど部屋の前に到着して安堵する。
 小高先生は立ち止まると、パッといつもの明るい表情に戻った。

「そっか! 家でも味方ができて良かったな!」
「あ、ありがとうございます」

 ユウに手を掴まれてグイッと引かれる。不自然にならないように誤魔化しながら、俺は逃げるように部屋の中に入った。

「……なあ、いい加減離して」

 俺の手を握ったまま、しばらくジッとドアの向こうを見ていたユウを見上げる。
 ユウは俺の方を向くと、すぐに優しく笑って俺の頬を両手で包んですりすりと撫でた。
 ユウにまた手を取られ、二段ベッドの方に誘導される。

 ジャージから着替え、ベッドに入った俺の隣に、家にいるときと同じようにユウが寝そべる。瞼に優しくキスをされると、トクトクと心臓が脈打つ。
 ただ静かな部屋で、ユウと二人だけの空間にどうしようもなく心が安らぐ。
 小高先生が一瞬だけ見せた冷たい表情に恐怖を感じたけれど、ユウがそばにいてくれると、その恐怖もじんわりと解れていく。

 髪を撫でられる。瞼、頬、耳や首にキスをされる。ふわふわと身体の中が温かくなって、不安や余計な思考が消えて、心地良くなる。
 目を細める。もっと触れて欲しい、もっと甘やかして欲しい。もっと。

 金を突き付けてきたり殴ったりしない、この冷たい手が好きだ。嫉妬や欲を向けたり蔑むことのない、この優しい眼差しが好きだ。俺がわがままを言っても、可愛くない態度を取っても、突き放さないところが好きだ。

「…………ユウ……好き…………」

 眠気でうとうとしながら呟く。さらさらと髪を撫でながら俺を抱き締めるユウは、何も言わずにただ微笑むだけだった。

「……ばか……」

 俺は、今ユウに何て言って欲しかったんだろう。そう思いながら、目を閉じる。
 恐怖も、息苦しさも頭痛も吐き気も、いつの間にか全部消えていて、俺はそのままユウの腕の中で深い眠りについた。

 午後まで休ませてもらい、みんなが帰ってくるまで部屋で自習をしていた。
 夕飯から合流するため食堂に入ると、委員長がパタパタと駆け寄って来る。

「藍沢くん、体調崩したって聞いたよ。大丈夫?」
「ああ、うん、もうすっかり平気。ありがとう」
「良かったぁ」

 委員長がホッとしたように胸に手を当てる。いつも心配してくれて、優しい人だな。
 ちらりとユウを見ると、食堂に入るなり楽しそうに葵の方へと行った。それを見ると、俺はユウがヤキモチを妬かないように色々気を付けてるのに、自分は葵のこと大好きじゃんと、心の中で大人気なくふてくされてしまう。

「……あのね藍沢くん、ちょっと相談があって」
「ん? どうしたの?」

 委員長の言葉に慌てて意識を戻す。委員長は神妙な面持ちで俺を端っこに誘導し、俺にだけ話が聞こえるよう小声になった。

「その、私明日の飯盒炊爨のあと村岡くんに呼び出されてて……」
「え、そうなんだ……」

 村岡と聞いて、文化祭の準備をしていた時を思い出す。遠くに見えた村岡の背中に、委員長が校舎の影で座り込んでいた姿と、切羽詰まったような表情。

「前に藍沢くんが声かけてくれたときにもね、呼び出されて“付き合え”って言われたんだけど……断ったら態度が威圧的になってすごく怖くて……」

 委員長の手が小さく震えている。
 村岡、委員長のことが好きなのは何となく分かってたけど、そんなふうに迫ってたなんてさすがに酷い。

「明日も、何言われるか分からないんだけど断るのも怖いから、その……また時間と場所を送るから、藍沢くんにこっそり見ててもらえないかなって思って」

 弱々しく声を震わせながら頼ってくれる委員長に、俺は迷わず頷く。

「もちろんだよ、何かあったら必ず助けるから」
「……ありがとう、藍沢くん」

 委員長は躊躇いがちに俺の手を取って、見上げる。

「藍沢くんがいてくれて良かった……」

 少しでも安心してくれたのか、顔を赤くしながら目を潤ませてそう言う委員長に、俺は笑いかける。
 安達が委員長を呼ぶ声がして、委員長は俺の手を離しながら返事をして小走りに安達たちのいる方へと向かった。
 委員長も俺だから話してくれたんだろうし、村岡が委員長に何かしようものならしっかり守らなきゃ。気を引き締める俺の元に、今度は葵がユウを連れて近付いて来た。何にも気にしていない様子のユウを睨んで、そっぽを向くと焦っていた。いい気味。

「あれ、どうしたの澪くん、ユウくんと喧嘩?」
「ううん、気にしなくていいよ」
「? そう?……体調はもう大丈夫?」
「ああ、うん、休ませてもらったから大丈夫だよ。ありがとう」
「それは良かった。……さっき、真中さんと何話してたの?」
「ああ……」

 葵には思わず言ってしまいそうになったけど、何とか止める。
 委員長はあまり大事にしたくないかもしれないし、とりあえず友だちにも黙っている方がいいだろうと思った。

「……大した話じゃないよ。体調気にしてくれてただけ」

 そう言うと、葵は少し俺の顔色を伺うようにパチパチと瞬きをしたあと、にっこりと笑った。

「そっか。澪くんもご飯一緒に食べられるんだよね? 行こ、響ちゃんと力くんも待ってるよ」
「うん」

 葵の横に並んで響たちの元に向かう。ユウは夕食の間も俺の身体にぎゅっと抱き着いて頬を擦り付けながらずっと焦っていたから、さすがに可哀想になって仕方なく許してあげた。
 みんなで夕食を食べながら、俺のデザートのプリンをこっそりあげると、ユウも喜んでいた。

 ユウの嬉しそうな顔を盗み見ると、胸の内が満たされた。

***

「下手沢(へたざわ)クン〜〜金持ちのお坊ちゃんは野菜もまともに切れないんですか〜?」
「人のこと馬鹿にしてるけど安達だってめっちゃ下手じゃん」
「なんでよ綺麗に切れてるじゃん!」
「俺のと同じ形だよコレ、一緒です」
「クッソ〜〜〜無理があったか」
「自覚あるじゃん」

 次の日の飯盒炊爨では、俺たちと安達たちの班が合体して一緒にカレーを作る。野菜を切る係を担当した俺たちは、お互いのまな板の上で不揃いに切られた野菜を見ていつものように軽口を叩き合っていた。

「お坊ちゃんは料理なんかしないもんねー」
「“はる”もしないだろ」
「は? 卵かけご飯作るしー」
「それ料理?」

 言い合っていると、向かいで肉を切っていた坂部がきらきらと瞳を輝かせてこっちを見ていた。

「なんかさぁ、ずっと思ってたんだけどさぁ!」
「?」
「藍沢っちと晴奈って結構お似合いだよねー!」

 坂部の言葉を聞いて、坂部の隣にいる葵は苦笑いを浮かべる。
 俺と安達は顔を見合せ、お互いゲンナリした表情を浮かべた。

「こんな陰キャありえねーっつうの!」
「俺だってこんなうるさいヤツ無理だし」

 それに、こういうこと言われるとまたユウがヤキモチ妬きそうで嫌なんだけど、と思いながらちらりと後ろを見ると。
 ユウは意外にも、坂部の言葉に同意するようにウンウン頷いていた。
 それを見て、ギュッと胸が締め付けられる。それと同時に胸の奥に苛立ちが湧いた。

「……ふん」
「ふん?」
「別に」
「何だよ変な奴ー、いつもだけど」

 安達がケラケラと笑う。坂部がやっぱりお似合いだよーなんてテンション高くキャッキャ言うのを葵が宥めていると、背後でパリン!と大きな音が響いた。音がした方へ振り向くなり、安達が急いで走って行く。

「優香大丈夫!?」
「ごめんごめん、大丈夫、食器準備してようと思ったら落としちゃって……」

 俺と坂部と葵も作業を中断して見に行くと、委員長の前でお皿が数枚砕けていた。

「委員長、怪我無い?」
「うん、大丈夫、ありがとう」
「俺片付けておくから、委員長野菜切ってて。俺下手だし」
「そんな、悪いよ、私も」

 しゃがむ俺と一緒に片付けようと、委員長も手を伸ばしたとき。
 葵が俺の前に立って、委員長の手を遮る。

「……手を切ると危ないから、女の子は特にね。僕らでやるから気にしないで」

 葵がそう言うと、委員長を含めた女子組は申し訳なさそうに俺たちにお礼を言って、持ち場に戻って行った。
 その背中を見送る葵を見上げると、少しだけ威圧感のようなものを感じる。

「……葵?」
「ん?」

 しかし声をかけると、すぐにいつもの優しい表情に戻った。

「……ううん、ありがとう。一緒にやってくれて」
「澪くんが優しいからだよ。早く片付けちゃおう」
「うん」

 葵と分担して、散らばった食器の破片を片付ける。ユウは、俺たちが怪我をしないようにかずっとソワソワした様子で見守っていた。

 それからは順調に作業が進み、無事に出来上がったカレーをみんなで配膳する。
 食べる前に、カメラマンが俺たちの班のテーブルにやって来た。俺の左隣に座っている力がこそっと耳打ちしてくる。

「なあ、ユウ今どこにいる?」
「? 俺の後ろだけど」
「ここ、ここに座らして!」

 力がわざと、自分と俺の間に一人分のスペースを空けた。それを見て、右隣の葵が微笑む。

「僕ら“九人”班だもんね」

 葵の言葉に、ユウは嬉しそうに笑った。ユウは空いたスペースに座る。力が、見えないながら“俺の肩に手置いて”と言うと、その通り手を置いた。

「? そっちの子、もっと寄れるよ?」
「あ、いいんですこのままでー!」
「そう? 分かった」

 カメラマンの言葉に、力が笑って返す。女子たちはみんな不思議そうな顔をしているが、誰も何も言わなかった。響は火の担当をしていて疲れたのか、ずっと欠伸をしていた。

「撮りまーす! 3、2、1」

 パシャッとシャッター音が鳴る。

「心霊写真になってるかなぁ〜現像されんの楽しみだな〜」
「はは……」

 力がルンルンしながら楽しそうに言ってくる。俺は苦笑いしか返せなかったが、ユウは静かに微笑みながら、何だか嬉しさを噛み締めているように見えた。

***

“レイ ドコ イクノ”
“レイ オコッテル ノ?”

 飯盒炊爨の片付けが終わり、みんなで宿舎に戻ってお風呂に入ったあと、消灯までの時間でスマホを片手に暗い廊下を歩く。
 俺は、委員長から送られてきた宿舎の非常階段の方へと向かっていた。

「……別に怒ってないよ」

 ユウがずっと心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
 本当に怒っているわけじゃない。でも、ユウが俺と安達を“お似合い”だと思ってるんだと知ってから、ずっとそれが心の奥に引っかかって気分が晴れなかった。

「……ちょっと友だちと約束あるから、部屋にいて」

 とりあえず一人になりたい。ユウといたら心が乱れる気がして、冷たく言ってしまう。

“ボク モ イッショ ニ イク”
「ダメ」
“ドウシテ?”
「……葵といればいいだろ、葵はユウのこと見えるんだから。……俺といるよりそっちの方が楽しいと思うけど」

 意地悪なことを言っている自覚はあった。案の定、ユウはすごく悲しげな表情を浮かべた。

「……ついてくるなよ」

 立ち止まったユウを置いて、早足に歩く。
 廊下の角を曲がって、ユウの姿が見えなくなるとそこで立ち止まって、深く息を吐く。

 胸の奥が、きゅうっと締め付けられるように痛んだ。
 いつも俺の友だちにヤキモチ妬くくせに。勝手にいっぱい触れてくるくせに、“ダイスキ”って言うくせに。
 自分は俺を置いて葵といつも楽しそうにして、安達と俺をお似合いだと思ってて。

「…………“好き”って、言ったのに」

 ベッドの中で伝えた俺の言葉には、何も答えなかった。
 相手は幽霊だ。こんな気持ちおかしい。そんなこと分かってる。
 でも一緒にいてこんなに安心するのも、触れられて嬉しいのも、ずっと俺から離れないで欲しいって思うのも、そうじゃないなら説明がつかない。

 自分から触れられない事実がこんなに苦しいのに、これが、この気持ちが好きじゃないなんて、有り得ないだろう。

 小さく小さく呟いた声は闇に消えた。
 秋の夜の空気が冷たく頬に触れる。
 さっきのユウの悲しげな顔を思い出すと、鼻の奥が痛くなった。


 少し気持ちを落ち着かせてから歩き出すと、何やら言い争うような声が微かに聞こえてきて、嫌な予感がして駆け出す。

「やめて! 離して!!」
「てめぇ舐めてんじゃねえぞ!!」

 近付くにつれ声が大きくなって、村岡の怒鳴り声だと分かると、委員長に“こっそり見てて欲しい”と言われたのも忘れて飛び出してしまった。
 村岡は委員長の手首を掴んで怒鳴りつけていた。

「やめろよ!! 委員長から離れろ!!」
「あ……!? なんでお前がここに……!」
「いいから離れろ、嫌がってるだろ!」

 酷く驚いた様子の村岡と委員長を引き離す。村岡は俺と、俺が後ろに庇った委員長を交互に見て舌打ちをした。

「クソが、マジでキメェなお前ら!!」

 村岡はそう吐き捨て、早足に去って行った。異常な程汗をかいていたのが気になったけど、それよりも委員長だと、後ろを振り返る。

「藍沢くんごめん、ありがとう……」
「いいよ、大丈夫? 何かされてない?」
「ううん、大丈夫……でも、その」

 委員長が、躊躇いがちに俺の服の裾を握る。

「藍沢くんが嫌じゃなかったら、落ち着くまで少し手を繋いでて欲しい……」

 震えた声でそう言った委員長の手を取ると、その手は冷たく震えていた。
 怖かったんだなと胸を痛めていると、急に委員長が俺に抱き着いてきた。
 驚いたが、華奢な肩が震えていて、やっぱり自分よりも随分大きい男に手を掴まれて怒鳴られたりしたらどうしても怖いよなと納得する。
 俺だって村岡に暴力を振るわれていた時は怖かった。女子ならその何倍も怖いだろう。

「藍沢くん、ごめんね」
「ううん、大丈夫。怖かったよね」
「……ありがとう、ほんとにありがとう」

 委員長は何度もお礼を言って、俺は首を振りながら、しばらく委員長の背中に手を回し、ポンポンと優しく叩いた。
 ユウが、いつも寝かし付けてくれるときのように。

 しばらくして、落ち着いた委員長は恥ずかしそうにもう一度俺にお礼を言った。そして、部屋に戻るために一緒に歩き出す。

「…………藍沢くん、こんなタイミングで、自分でもどうかと思うんだけど……」
「?」

 静かに歩いていた途中、委員長がそう口を開いて立ち止まった。俺も立ち止まり、何かと首を傾げると。

「…………私、いつも優しくて、正義感が強くてかっこいい藍沢くんのことがずっと好きでした。……良ければ、その……彼女にして欲しい……です……」

 徐々に萎んでいく委員長の言葉に、ドキッと胸が高鳴る。

「えっ、俺!?」
「う、うん……」

 委員長は恥ずかしそうに俯いてしまった。まさかの告白にドキドキと鼓動が響いて、顔に熱が集まる。嘘、委員長が俺なんかを好きなんて、全然気付かなかった。え、いつから。
 あまりの衝撃にぐるぐると考えてしまったけれど、返事を待っている様子の委員長を見ると、ユウの顔が浮かんだ。

 気持ちを落ち着かせるため、深呼吸をする。
 意を決して、口を開いた。

「……ごめん、委員長みたいな優しくて素敵な人が俺なんかを好きになってくれたなんて、凄く嬉しいんだけど」
「…………」
「俺、好きな人がいるんだ。だから、委員長と付き合うことはできない。ごめんなさい」

 頭を下げると、委員長は慌てて俺の肩を押し上げた。

「そんな、やめて藍沢くん。話聞いてくれただけで嬉しかったから」

 俺を見上げて、髪を耳にかけながら微笑む委員長の目は、涙ぐんでいた。勇気を出してくれたんだろう。応えることはできないけど、その気持ちがとても嬉しかった。

「ごめんね、突然こんなこと言って。もちろん諦めるから、良ければこれからも友だちとしてみんなで仲良くしてくれたら嬉しいな」

 振られた直後なのにどこまで良い人なんだと感動する。俺はもちろんと頷く。

「ふふ、直接聞いてもらえてスッキリした。いいなあ、藍沢くんに好きになってもらえた人」
「そんなふうに言ってもらえる価値、俺には無いよ」
「そんなことないよ」

 委員長が、俺を見上げて笑う。薄暗い照明に照らされた顔は、赤かった。

「藍沢くんはとっても素敵な人だよ」

 その顔が、心に焼き付く。
 きっと委員長みたいな人と恋愛ができたら良かったんだろう。
 何でって自分でも思う。そもそも人間じゃない、いつ目の前から消えてしまうか分からない幽霊を好きになったって、幸せになれる可能性なんてゼロだ。

 触れられない。体温も感じない。
 それでも、ユウがいいと思ってしまう。

「……ありがとう」

 精一杯笑いかけると、委員長は照れながら笑った。

 委員長と別れて、消灯時間ギリギリに部屋まで戻るとユウはいなかった。
 やっぱり冷たくしたから怒ってるのかな。謝りたかったのに。
 その日はいつもの寝かし付けにも現れず、俺は久しぶりに一人で眠った。

 次の朝にも、ユウは姿を見せなかった。

 こんなに離れているのは久しぶりで心配になって、メッセージで“昨日は意地悪言ってごめん”“どこにいるの”と送ったけれど、返事はなかった。

「……あれ」

 最終日の朝、歯ブラシセットを持って洗面所に向かおうと荷物の中を漁っていると、無くなっていた。
 また盗まれたのかな。昨日、使ったあと確実にカバンの左端に直したのに。深くため息を吐く。
 ユウはいないし、物は無くなるし、朝から散々な気分だった。

 最終日は使ったエリアの掃除を念入りに行い、午後からは移動で林間学校は終わった。
 元気なクラスメイトたちは帰ってきたあとそのまま遊びに行ったりしていて、俺も響たちに誘われたけど適当な理由を付けて断った。

 遊びに行ける気分じゃなかった。ユウが、全然顔を見せないから。
 学校からの帰り道を、重い荷物を持ちながら一人で歩くと、何だかじんわりと涙が滲んだ。

 もしかしてもう会えないのかな、あんなこと言わなきゃ良かった、なんて考えが頭を過ぎるが、直ぐにブンブンと振って掻き消す。
 きっとすぐに戻ってくる。大丈夫、ユウはいつも俺のそばにいて、守ってくれたんだから。

 大丈夫、大丈夫。
 苦しい胸で深呼吸をしながら、心の中で自分に言い聞かせた。

 秋の冷たい風が、とぼとぼと一人で歩く俺の髪を揺らした。

***

 土日の休みを挟んで週明けまで、結局ユウは姿を見せなかった。

「……おい澪大丈夫か? 顔色わりーぞ?」
「うん……大丈夫、ありがと」

 教室に入ると、こっちを向いた力と葵がギョッとする。
 ユウは会いにこないし、そして母さんからも相変わらず連絡が無くて、この休みは心配であんまり食べることも寝ることもできなかった。

 机に突っ伏す俺の周りに葵と力が来て、心配そうに背中を撫でたり声をかける。こんなに心配かけるくらいなら休めば良かったな。今さら何も考えずに登校したのを後悔したときだった。

「……藍沢、今しんどい?」

 頭上で、安達の声がした。珍しく落ち着いたトーンだった。

「? しんどいけど大丈夫だよ。どうしたの?」
「ちょっと話したくて。大丈夫ならちょっと来て」
「分かった。ごめん、ちょっと行ってくるね」
「あ、うん」

 顔を上げると、何だかいつもと様子が違う安達に困惑する。葵たちに一言だけ言ってから、安達の後ろをついて廊下に出る。
 くるりと振り返った安達の表情には、いつもの明るさや元気が全くなかった。

「……あのさ、藍沢は昔から幽霊とか見えるじゃん」
「え……うん、そうだけど」
「ホラー映画みたいにさ、心霊スポットとか墓地で遊んだり……昔の私みたいに見えないのに喧嘩売ったり、そういう罰当たりなことしてなくて霊感もない人間が、いきなりそういうのに襲われたりすることってあるのかな……?」
「え……?」

 安達の声が小さく震える。いつもは楽しそうにきらきらしている瞳に、恐怖が滲んでいる。

「……優香とね、林間学校の帰りに遊んでたの。普通にカラオケで遊んだ帰り道だったの」

 ドク、ドク、ドク。
 嫌な予感が、心臓の音を少しずつ大きくする。

「橋を渡ってるとき、突然、黒い霧みたいなのがバーッてなって……そしたら優香が、周りに何もいないのに“見ないで”とか“こっちに来ないで”とか言って、私の声も聞こえないくらい凄いパニックになって……最後は呼吸が苦しそうになって、倒れちゃった」

 “黒い霧”という言葉に、冷や汗がぶわっと吹き出す。胃の中がぐるぐると掻き回されるような感覚に、吐き気を覚える。

「優香、そのまま病院に行って……入院してて、休みの間も様子がおかしいらしいの」

 心臓が暴れる。胸が苦しい。
 いや、違う。違う違う違う。

「でね、私、その霧が晴れる時に、確かに見たんだ────」

“藍沢くんはとっても素敵な人だよ”
 委員長が告白してくれた時の笑顔が浮かぶ。
 そんなわけない。委員長はこんなつまらない俺のことを好きだって言ってくれた人だ。
 そんなわけない。アイツは俺のことを守ってくれるんだ、俺の大切な人を傷付けるわけがない。
 俺を見る優しい目、冷たいけど温かい手、いつも美味しそうにシュウクリームを頬張って、俺を愛してくれる。アイツは俺のことが大好きなんだ。
 そして俺だって、アイツのことが──。



「──顔が逆さまになった、青白い幽霊」



 安達がそう言った瞬間、ぞわりと背筋に悪寒が走った。ずっと忘れていた感覚が、じわりじわりと蘇って体温を冷たくする。

 目を見開く。いつの間にか安達の後ろに、静かに立っていた。

「…………ユウ……うそ、だよな……違うよな……」

 安達の目を気にする余裕を失い、小さく小さく呟く。

「ゆう……? ……藍沢、あんた、どこ見てんの……?」

 安達の声が耳を通り過ぎていく黙って微笑んだまま怯える俺を見ていたユウの口角が、グッと上がる。
 冷や汗が、背中を伝う。

 恍惚としたその顔は、恐ろしい狂気に染まっていた。

 息が止まる。身体が動かなくなる。
 ついこの前まで、優しい色を浮かべていたはずのその瞳は。
 飲み込まれそうなほどにどこまでも深い、真っ黒な闇に満ちていた。