夏が過ぎ、秋がやってくる。
今日もこっそりと、早めに家を出る。毎日ずっと俺のそばにいるようになった学生服の幽霊こと、“ユウ”を連れて。
いつものように朝のコンビニでお弁当をカゴに入れると、いつの間にか入れた覚えのないシュークリームが増えている。目を細めながら隣を見上げると、ユウがニコニコ笑っていた。
「また勝手に……」
一緒に過ごすうちに、もう小声で話すことには慣れた。そしてユウは喋れないから言いたいことがあるとスマホにメッセージを送ってくるので、スマホを片時も離さないようにすることにも慣れてしまった。
「シュークリームばっかり、飽きないの? お弁当食べないと栄養偏るよ」
“ボク ユウレイ ダモン”
「だもん、じゃないよ」
小さく会話しながら列に並んで、会計を済ませて通学路を歩く。
通学路でユウは毎日、自分のことが見えていると思われる野良猫に今日こそは撫でさせてもらおうと恐る恐る手を伸ばすが、今日もシャーッと威嚇され失敗に終わっていた。去っていく猫の背中を見届けて、また歩き出すのが俺たちの日課。
初めて喋った日から、学校では俺と同じく幽霊が見える美馬葵と、その幼なじみでオカルトオタクの八木力が自然と話しかけてくれたり、一緒にいてくれるようになった。カラオケでは世話になった不真面目男の伊崎響も、心なしか前より朝から登校して来る回数が増えたように思う。三人が名前で呼び合うから、俺も釣られて名前で呼ぶようになった。
その様子を見た安達はニヤニヤしながら“ついに万年ぼっちの藍沢クンにもお友達ができまちたか〜良かったでちね〜”なんてからかってきた。その時は適当に言い返したけれど、幼い頃から付かず離れずの距離感で見守ってくれていることに、心の中でこっそり感謝した。
窓の外に見える木が綺麗に紅葉している。
ある日のホームルームでは、進行を担当する委員長の優しく柔らかな声が教室に響いていた。
俺は後ろからもたれかかってくるユウに髪の毛で遊ばれているのを放置して、委員長がさらさらと文字を書く黒板を真面目に見つめる。
「では、文化祭の出し物、1-Bは“お化け屋敷”で決定でーす!」
委員長が元気に言うと、パチパチと拍手が起きる。俺も手を叩くと、ユウも真似をした。
「じゃあ次、担当決めていきます。お化け役・しかけ役やりたい人ー」
委員長の声に、生徒たちに混ざってユウが勢いよく手を挙げる。お前は既にお化けだろ。
担当決めはバランス良く立候補者が現れてすんなりと終わった。俺は、オカルトオタクの力が物凄い前のめりに希望した大道具を一緒に担当することになった。葵と、今日は欠席の響も一緒に担当する。
「ユウくんも手伝ってね」
各所の担当で集まって打ち合わせをするとき、葵がユウに向かってコソッと小声で言って微笑む。ユウは嬉しそうに頷いて、俺に抱き着きながらウキウキした様子だった。
その日の夜、家に持ち帰った作業をユウと二人で進める。最近はユウと会話することが多いため、家の人たちに怪しまれないように前よりもしっかり内鍵が閉まっているかを確認するようになった。
作業に飽きたのか、ユウが俺の学校のノートに落書きをしている。呆れながら覗くと、“レイ カワイイ ダイスキ”の文字。そして無限に追加されていく猫の絵。思わず笑ってしまいながら、そういえば昔、俺もよく母さんの隣で絵を描いたりしてたなと思い出す。
休憩がてら俺も手を止め、スマホのトークを開く。母さんと前に食事をしたのは、確か夏休み。ユウと会う少し前くらいだった。今日の昼、そろそろまた会いたくて、次の予定を確認するメッセージを送ったけれど既読がつかない。忙しいんだろうなと思いながら、母さんは頑張り屋さんだから少し心配に思った。
次の日から本格的に文化祭の準備が始まる。葵と力に引きずられ、響も朝から登校してくることが多くなった。
「何? また物盗まれた?」
「うん、昨日は体操服とこの前買ったばっかりの水筒。最近無かったのに」
「ヤバすぎだろ、犯人分かんねえの?」
「うーん……なんか、昔からこういうの多すぎて探す気が起きないんだよね、面倒で」
「麻痺しすぎじゃね」
放課後、準備に使うダンボールやスプレーを箱に入れて抱えながら響と廊下を歩く。
私物が無くなるのは久しぶりだった。ユウ曰く上履きは柳の仕業だったらしいから、てっきり他もそうかと思ったけど違うようだ。だからといって、響に言ったように今更犯人探しをする気力は起きなかった。正直相談するよりも萌さんから渡されるお金で買い直した方が早い。大事にして逆恨みされても嫌だし。
「犯人分かったら言えよ、ボコしてやるから」
「ボコはしなくていいけど……気持ちはありがと」
響の言葉に苦笑いしていると、さっきからユウが頬を膨らませて響を凝視しながら張り付いてくる。ユウは何だかいつも響にだけはやたらと嫉妬している様子だった。
「……歩きにくい……」
「? 例のヤツか?」
「あ、うん」
ぼそりと言うと、響はいつものローテンションで、見えていないユウをわざと煽るように俺の頭を雑に撫でる。
「わ、何すんの」
「ほれほれユウくん〜、悔しかったらこの手を退けてみな」
「何言ってんだよ……」
「実験。一回幽霊に触られてみたい」
「力みたいなこと言うじゃん」
案の定ユウはムキーッとなって怒り、響の手に噛み付こうとしたのを俺が慌てて止める。
誰かの前で、見えないものが見えるということに罪悪感を抱かなくていいのも、隠さなくていいのも、初めてのことだった。こんなに気持ちが軽くなるんだ。響たちと関わることができて、初めて知った。
三人で教室に戻っても、響はベタベタ俺に接触することで、人目も気にせず見えないはずのユウをからかいまくっていた。ユウは響の思惑通り、見事にプンプンしている。
そんな俺たち二人に、安達のギャル仲間である坂部と小金井、そして委員長も一緒に近付いてくる。坂部は今日も派手な色使いのヘアメイクをして、何だか妙にニコニコしていた。
「ちょっとちょっとぉ、おふたりさんっ」
「あ?」
「女子たちが騒いでますよ〜? “イケメンと美少年がイチャついてるの目の保養サイコー、ずっとしてて〜”って」
「は? 何それ……」
「ふふ、藍沢くんたち楽しそうだったから」
「そ、そうか? な??」
「私は別に伊崎のことはイケメンだと思わないけどね」
「小金井サーン、それ言う必要ありますー?」
大人っぽい印象の小金井が、珍しく子供のようにケラケラと笑う。俺は笑いながら呆れていると、スマホの通知が鳴って、同時にユウがぎゅうっと痛いくらいに抱き着いていつものように頬にキスをした。
画面に目をやると。
“ボク ノ ホウガ レイ ト ナカヨシ”
ため息を吐く。俺は、膨れっ面のユウを一瞥し、さすがに人がいっぱいいる前では話せないから、画面に指を滑らせる。
“俺は、前は怖かったけど今はわりとお前のこと気に入ってる”
“だからいちいち友達にヤキモチ妬くな”
“めんどくさい”
もう一度ユウに視線をやる。
こんなに無愛想な返答なのに、ユウはこっちが思わず笑ってしまうくらい、分かりやすくゴキゲンな顔に変わっていた。
両手を頬に当て、身体をくねくねさせて照れているユウの姿を見ながら、単純だなあと思う。みんながわいわい話している輪の中で怪しまれない程度にクスクス笑っていると。
「……イチャついてるなあ」
葵が、微笑みながらそんな俺たちを見ていた。周りは俺と響のことだと思っているだろうが、俺と葵の間では通じている。
「イ、イチャついてない!」
「またまた〜」
「ほんとに!」
「なあなあなあ! 澪澪澪! こっちも見ろって!」
「? なに──」
葵と言い合っていると、背後から力の興奮した声に呼ばれて振り返ると。
至近距離に突然、髪の長い女の幽霊が現れた。
「ぎゃあッ!?!」
「ヤバくねこれ? 俺凄くね!?」
「え、何これ力が作ったの?」
「そうそうそう! やっと具現化できたぜ俺のアイドルサダコ様!」
「……さすがのクオリティすぎて教室に置いておくの嫌がられそうだね……」
自分で作った幽霊の人形のオブジェにキスをする力を、葵たちがドン引きしながら見つめる。
ユウも俺たちに混ざって、まるでクラスメイトのように賑やかな時間を共にした。
***
文化祭が二日後に迫ってきたある日。
放課後、準備中に出たゴミをまとめてゴミ置き場まで運んでいると、校舎の影に委員長の姿があった。
委員長はいつも率先して色んなことをしてくれているから、ゴミ出しが終わったら何か手伝えることがあるかなと思い、声をかけようとその背中に近付くと、急にその場にしゃがみ込んでしまった。
「……あの、委員長、大丈夫?」
体調が悪いのかと心配になり、小走りに近付いて声をかけると、バッ!と勢いよく振り返る。
委員長は、両手を握り締めながら、俺が見たことないような切羽詰まった顔をしていた。
「あ、藍沢くん……」
「どうしたの? 体調悪い?」
「ああ、ううん、大丈夫だよ。ありがとう」
「でも……」
気になって離れられないでいると、ふと、遠くを歩いている金髪。村岡の背中を見つけた。
胸の奥がザワつく。村岡に暴力を振るわれていたとき、委員長がそれを見付けて俺を庇うと、アイツは嫉妬に狂ってさらに俺を痛め付けてきた。村岡の中に、委員長に対する異常な好意があるのは明らかだった。もしかしたら直接委員長に何かしたのだろうか、だとしたら許せない。
俺は隣にゴミ袋を置き、しゃがんで委員長と目を合わせる。
「……あのさ、委員長」
「……?」
「俺、今までたくさん委員長に助けられてきたでしょ? いつも気にかけてくれて、本当に感謝してるんだ」
「そんな、私は何も……」
「そんなことない。俺、もし委員長が困ってることがあったら、力になりたいって思ってるから。もし、俺に話してもいいと思えることが何でも言って、ね?」
委員長は、驚いたように大きな瞳をぱちぱちと瞬きさせ、ふわりと微笑む。
「……ありがとう、藍沢くん」
笑ってくれたことに、とりあえずホッとして立ち上がり、手を差し出す。委員長も俺の手を取って立ち上がる。
二人で他愛もない話をして、ゴミを捨ててから教室に戻ると、ユウは俺がゴミ捨てに行っていたことなど気付かずに教室の隅で葵がしている作業を楽しそうに見ていた。
いつもは抵抗出来ないのをいいことに、俺にくっついて離れないくせに。
何故か分からないが見ていると無性に腹が立つので、静かに元の作業に戻った。
「あれ、澪ー、今日澪が家から持ってきてくれたカラーペンは?」
「え? みんな使えるようにそこに……あれ?」
「無いよなー、誰か持ってってそのままなんかな」
作業をしている力の言葉に首を傾げながら、ペンを置いた机を見ると、全部無くなっていた。
もしかしてまた盗まれたのかな。あのカラーペンのセットは昔、絵を描くのが好きだった俺に母さんが買ってくれたものだからさすがにやめて欲しい。
どうか返ってきてくれと願う。嫌な気持ちに追い打ちをかけられたような気分だった。
結局、ペンはみんなが帰る頃、いつの間にか机に置いてあった。でも俺が好きな青と黄色だけ無くなっていて、やっぱり今日はついてないなと肩を落とした。
***
慌ただしく日々が過ぎ、文化祭当日。
俺たちのクラスのお化け屋敷は、時間をかけて準備したおかげで大好評だった。
力はお客さんのリアクションを見るのに夢中だし、響は眠いから遅刻すると連絡がきたので、自由時間は葵と一緒に校内をウロウロしながら他のクラスの出し物を楽しむ。
「ユウくんって面白いよね。準備手伝ってくれてるときにさ、集中すると顔逆さまになるの」
「で、自分で戻すんだろ?」
「そうそう、あれが面白くて……今だってしかけ役に混ざってお客さんを驚かすのに夢中だし、本来怖い幽霊なんだけどさ、なんか可愛いよね」
「……そうかな、別に可愛くはないけど」
「……ふふふ、ごめんごめん、取らないからヤキモチ妬かないで」
「は!? 別に妬いてないよ!」
はいはいと楽しそうに俺をあしらう葵の言葉に、何とか訂正してもらおうと必死になっていると、正面から、今日は一際オシャレをした安達と委員長が歩いて来た。
「お! 陰沢(いんざわ)クンと美馬ちゃんだー、何か面白いとこあった?」
「陰沢って誰」
「オメーだよ」
「分かってるよ」
「一階でやってた三年生のところのたこ焼きが美味しかったよ、安達さんたちはもう食べた?」
「何それまだ食べてなーい!」
「美味しそうだね、晴奈行ってみる?」
「行く行くぅ!」
「……あ、藍沢くん、肩のところゴミ付いてる」
「えっ……あ、ありがとう委員長」
「ううん。藍沢くんも美馬くんも、教えてくれてありがとうね」
「優香早く早く! たこ焼き楽しみ〜!」
俺の肩に優しく触れてゴミを拭ってくれた委員長が優しい笑みを残し、安達にグイグイと手を引かれて去って行く。
そんな委員長の後ろ姿を、葵がジッと見つめていた。俺はさっきの仕返しにと、葵の肩をつつく。
「委員長に見惚れちゃって、可愛いな葵」
わざとニヤニヤしながら言うと、葵は俺の方を振り向いて力無く笑った。
「……ね、澪くんといい安達さん真中さんコンビといい、美人と話すのは緊張するよ」
「……俺をそこに含めるなよ……」
「澪くんも美人だよ」
葵がニコニコ笑って歩き出すのを、後ろから追いかける。
せっかくからかってやろうと思ったのに葵の方が上手なようで、何だか悔しかった。
それからしばらく経って、葵は受付を担当する時間になり一人になる。安達が一緒にいてやろうかとからかってきたけど、女子がいっぱい周りにいるし遠慮しておいた。
ユウはお化け屋敷の中にいるのだろうか。どうせ今は俺のことなんか気にもしてないんだろう。
ユウのことを考えるとなんだかまた腹が立ってきたので、外の空気でも吸いに行って静かなところで少しゆっくりしようと思い、昇降口に向かって歩き出した。
靴を履き替えて外に出ようとしたとき、クイッと服を引っ張られる感覚がして立ち止まり、振り返る。
小さな女の子が、俯いて俺の服を掴んでいた。
「ママ……」
女の子が涙声で呟く。外から入って来た生徒の家族だろうか。お母さんとはぐれちゃったのかな。
「大丈夫? ママ探してるの?」
しゃがんで、俯いて頷く小さな頭を撫でる。俺も、小さい頃は公園で母さんの姿が見えなくなっただけでいつも大泣きしてたっけ。懐かしいな。
そういえば、母さんへのメッセージはまだ既読が付いていない。本当に大丈夫かな。
頭の中で母さんの顔を思い出し、少し心配になりながらも目の前の女の子に意識を切り替える。
「一緒に探しに行こうか」
「うん……」
俺はそっと女の子の手を取る。
頷く女の子が、ゆっくりと顔を上げた瞬間。
俺は目を見開いて、慌てて手を離した。
「あっあアあ゙なだっ、わだっ、わだシが見エルのね」
不自然なくらい口角を上げた女の子の目は、空洞だった。
ブワッと冷や汗が吹き出る。すぐにその場から逃げ出す。ユウが来て、全然見なくなったから完全に麻痺していた。
あれは完全に悪霊だ。捕まったら殺される。
校内をひたすら走る。人の多いところに行かなきゃと走っているのに、まるで誘導されているように人気の無い方へと足が向いていた。
後ろを気にしながら階段を駆け上がり、角を曲がる。
「うッ……!!」
曲がった先の廊下の真ん中に、さっきの少女の幽霊がひとりで立っていた。
「ドどっど、どオしてっ、逃ゲるノ」
引き返したいのに、足がその場に縛り付けられたように動けなくなった。
「ママ……ママ……」
ドッドッドッと心臓の音が響く。冷や汗が背中を伝う。
少女の幽霊は、瞬きをする度に距離を詰めてくる。
体温が下がっていくのが分かる。
嫌だ、嫌だ、どっか行け。そう叫びたいのに、喉から声が出なかった。
少女の幽霊が、氷のような冷たい手で俺の手首を強く握る。手から、体温を吸い取られる感覚に陥る。
「マ゙マ゙ぁ゙!!!」
少女の幽霊が俺を見上げて呻き声のような声で叫ぶ。手首に激痛が走る。
涙が滲んで、為す術もなくぎゅっと目を閉じた。
その瞬間。
ふわりと、知った冷たさが背中に触れた。
「…………ユ、ウ……?」
手の痛みが消え、すんなり声が出た。薄らと目を開けると、首に回された見知った腕が見える。
視界がぼやける。背中の冷たさに、体の熱がじわじわ蘇っていく感覚がする。瞼が熱い。悔しい。
ユウが出した黒い霧のようなものが、少女の幽霊の首を締めるように巻きついて、更に苦しめるように持ち上げる。
「ギァアアアアアア!!!」
耳を劈く悲鳴に思わず目をつぶると、ユウの冷たい手がそっと俺の耳を塞いだ。
次にゆっくりと目を開けたとき、少女の幽霊は綺麗に姿を消していた。
一気に緊張が解けて思わずその場に座り込むと、ユウが心配そうに俺を抱き締めてスリスリ頭に頬を擦り付けた。
俺は情けなく鼻を啜りながら、ユウの腕の中に顔を埋める。
「ばか、ばーか! お前が……ッ」
怖さで頭がこんがらがっている。だから、そのせいだ。
「お前が……俺から離れるからっ…………!」
酷く弱々しい自分の声が、ユウが来てくれて安心している自分自身が、情けなくて恥ずかしかった。
自分が悪いのは分かっている。ユウがこんなだから、油断してあの幽霊の異様さに気付けなかった。
ユウに八つ当たりしているくせに、ちょっとだけ涙が出た。あまりにもかっこ悪すぎて、絶対ユウにバレたくないと思ったのに。
ユウが抱き締める手を緩めて、俺の頬を両手で包む。指で涙を拭うと、優しく微笑みながら俺のおでこや瞼にキスをした。
ユウの服を掴みたくて伸ばした手は、やっぱり触れられずに空を掴む。
わけもわからずその事実がただ、ただひたすらに俺の胸を締め付けた。
***
文化祭は大盛況に終え、俺たちのクラスのお化け屋敷は学校内で賞を貰った。人の十倍気合を入れて準備に取り組んでいた力は、後日行われた朝礼で表彰台に立ち、嬉し涙を堪えながら天を仰いで全校生徒に若干引かれていた。
文化祭の次の日には出張先にいる父さんから電話があって、久しぶりに長い時間話すことができて嬉しかった。良い友だちがたくさんできたことや、文化祭の話もいっぱい聞いてくれて、“行けなくてごめんな”と言いながらたくさん話を聞いてくれた。萌さんや義兄たちとのことについては、適当に上手くいっているフリをした。
そして少女の幽霊の件があってから、ユウはますます俺にベッタリになった。
慌ただしい日々から静かな日常が戻ってきて、少しずつ肌寒くなってきたある日。
珍しく朝から登校してきた響の姿を見てギョッとする。
「え、何どうした? 大丈夫?」
「おう、ヘーキヘーキ」
頭と手に、痛々しく包帯が巻かれてあった。
「何かあったの?」
「事故!? あ、喧嘩か!?」
一緒にいた葵と力も目を見開く。
響は頭を掻きながら、心配されて少し困ったような表情を浮かべた。
「喧嘩っつーか、いきなり後ろから殴られたんだよ。覆面した男に」
「は!?」
「全然大丈夫じゃないじゃん!」
「バカか。そのあと逃げた犯人追いかけて返り討ちにしてやったのよ」
そう言って響が誇らしげに包帯を巻いた拳を見せてきた。
「マジで見た目ほどの怪我じゃねーから、そんな心配すんな。な?」
響は安心させるように、身長の低い俺と葵の頭を雑に撫で、いつもの様子で眠そうに欠伸を漏らす。
一体誰がそんなこと。
胸を痛めていると、視界に黒い粒のようなものが入ってくる。
「…………?」
すぐ隣を見上げると、ユウが自分の身体に黒い霧を薄く纏わせ、力や葵と話している響を感情の無い瞳でジッと黙って見ていた。背筋がゾッとする。
一瞬、響に嫉妬して噛み付こうとしていたユウの姿が頭を過ぎった。
──そんなわけないよな。あれはただその場のノリで、ユウが攻撃的になるのは“俺を苦しめる存在”なんだから。俺を“守ってくれてる”んだから。
響は、俺の友だちだ。
ユウなわけない。ありえない。
言い聞かせるように心の中で呟いていると、ふとユウと目が合った。
思わず肩が震えたけれど、ユウはいつもの調子で嬉しそうに笑い、俺に抱き着いて瞼や頬にキスをする。
「……やめろって、葵には見えるんだぞ」
ユウを見上げ、目を細めながら小さな声で呟く。
胸の奥に湧いた小さな疑惑をかき消した。
この幽霊が俺に与える温もりを、嘘じゃないと信じるために。
続
今日もこっそりと、早めに家を出る。毎日ずっと俺のそばにいるようになった学生服の幽霊こと、“ユウ”を連れて。
いつものように朝のコンビニでお弁当をカゴに入れると、いつの間にか入れた覚えのないシュークリームが増えている。目を細めながら隣を見上げると、ユウがニコニコ笑っていた。
「また勝手に……」
一緒に過ごすうちに、もう小声で話すことには慣れた。そしてユウは喋れないから言いたいことがあるとスマホにメッセージを送ってくるので、スマホを片時も離さないようにすることにも慣れてしまった。
「シュークリームばっかり、飽きないの? お弁当食べないと栄養偏るよ」
“ボク ユウレイ ダモン”
「だもん、じゃないよ」
小さく会話しながら列に並んで、会計を済ませて通学路を歩く。
通学路でユウは毎日、自分のことが見えていると思われる野良猫に今日こそは撫でさせてもらおうと恐る恐る手を伸ばすが、今日もシャーッと威嚇され失敗に終わっていた。去っていく猫の背中を見届けて、また歩き出すのが俺たちの日課。
初めて喋った日から、学校では俺と同じく幽霊が見える美馬葵と、その幼なじみでオカルトオタクの八木力が自然と話しかけてくれたり、一緒にいてくれるようになった。カラオケでは世話になった不真面目男の伊崎響も、心なしか前より朝から登校して来る回数が増えたように思う。三人が名前で呼び合うから、俺も釣られて名前で呼ぶようになった。
その様子を見た安達はニヤニヤしながら“ついに万年ぼっちの藍沢クンにもお友達ができまちたか〜良かったでちね〜”なんてからかってきた。その時は適当に言い返したけれど、幼い頃から付かず離れずの距離感で見守ってくれていることに、心の中でこっそり感謝した。
窓の外に見える木が綺麗に紅葉している。
ある日のホームルームでは、進行を担当する委員長の優しく柔らかな声が教室に響いていた。
俺は後ろからもたれかかってくるユウに髪の毛で遊ばれているのを放置して、委員長がさらさらと文字を書く黒板を真面目に見つめる。
「では、文化祭の出し物、1-Bは“お化け屋敷”で決定でーす!」
委員長が元気に言うと、パチパチと拍手が起きる。俺も手を叩くと、ユウも真似をした。
「じゃあ次、担当決めていきます。お化け役・しかけ役やりたい人ー」
委員長の声に、生徒たちに混ざってユウが勢いよく手を挙げる。お前は既にお化けだろ。
担当決めはバランス良く立候補者が現れてすんなりと終わった。俺は、オカルトオタクの力が物凄い前のめりに希望した大道具を一緒に担当することになった。葵と、今日は欠席の響も一緒に担当する。
「ユウくんも手伝ってね」
各所の担当で集まって打ち合わせをするとき、葵がユウに向かってコソッと小声で言って微笑む。ユウは嬉しそうに頷いて、俺に抱き着きながらウキウキした様子だった。
その日の夜、家に持ち帰った作業をユウと二人で進める。最近はユウと会話することが多いため、家の人たちに怪しまれないように前よりもしっかり内鍵が閉まっているかを確認するようになった。
作業に飽きたのか、ユウが俺の学校のノートに落書きをしている。呆れながら覗くと、“レイ カワイイ ダイスキ”の文字。そして無限に追加されていく猫の絵。思わず笑ってしまいながら、そういえば昔、俺もよく母さんの隣で絵を描いたりしてたなと思い出す。
休憩がてら俺も手を止め、スマホのトークを開く。母さんと前に食事をしたのは、確か夏休み。ユウと会う少し前くらいだった。今日の昼、そろそろまた会いたくて、次の予定を確認するメッセージを送ったけれど既読がつかない。忙しいんだろうなと思いながら、母さんは頑張り屋さんだから少し心配に思った。
次の日から本格的に文化祭の準備が始まる。葵と力に引きずられ、響も朝から登校してくることが多くなった。
「何? また物盗まれた?」
「うん、昨日は体操服とこの前買ったばっかりの水筒。最近無かったのに」
「ヤバすぎだろ、犯人分かんねえの?」
「うーん……なんか、昔からこういうの多すぎて探す気が起きないんだよね、面倒で」
「麻痺しすぎじゃね」
放課後、準備に使うダンボールやスプレーを箱に入れて抱えながら響と廊下を歩く。
私物が無くなるのは久しぶりだった。ユウ曰く上履きは柳の仕業だったらしいから、てっきり他もそうかと思ったけど違うようだ。だからといって、響に言ったように今更犯人探しをする気力は起きなかった。正直相談するよりも萌さんから渡されるお金で買い直した方が早い。大事にして逆恨みされても嫌だし。
「犯人分かったら言えよ、ボコしてやるから」
「ボコはしなくていいけど……気持ちはありがと」
響の言葉に苦笑いしていると、さっきからユウが頬を膨らませて響を凝視しながら張り付いてくる。ユウは何だかいつも響にだけはやたらと嫉妬している様子だった。
「……歩きにくい……」
「? 例のヤツか?」
「あ、うん」
ぼそりと言うと、響はいつものローテンションで、見えていないユウをわざと煽るように俺の頭を雑に撫でる。
「わ、何すんの」
「ほれほれユウくん〜、悔しかったらこの手を退けてみな」
「何言ってんだよ……」
「実験。一回幽霊に触られてみたい」
「力みたいなこと言うじゃん」
案の定ユウはムキーッとなって怒り、響の手に噛み付こうとしたのを俺が慌てて止める。
誰かの前で、見えないものが見えるということに罪悪感を抱かなくていいのも、隠さなくていいのも、初めてのことだった。こんなに気持ちが軽くなるんだ。響たちと関わることができて、初めて知った。
三人で教室に戻っても、響はベタベタ俺に接触することで、人目も気にせず見えないはずのユウをからかいまくっていた。ユウは響の思惑通り、見事にプンプンしている。
そんな俺たち二人に、安達のギャル仲間である坂部と小金井、そして委員長も一緒に近付いてくる。坂部は今日も派手な色使いのヘアメイクをして、何だか妙にニコニコしていた。
「ちょっとちょっとぉ、おふたりさんっ」
「あ?」
「女子たちが騒いでますよ〜? “イケメンと美少年がイチャついてるの目の保養サイコー、ずっとしてて〜”って」
「は? 何それ……」
「ふふ、藍沢くんたち楽しそうだったから」
「そ、そうか? な??」
「私は別に伊崎のことはイケメンだと思わないけどね」
「小金井サーン、それ言う必要ありますー?」
大人っぽい印象の小金井が、珍しく子供のようにケラケラと笑う。俺は笑いながら呆れていると、スマホの通知が鳴って、同時にユウがぎゅうっと痛いくらいに抱き着いていつものように頬にキスをした。
画面に目をやると。
“ボク ノ ホウガ レイ ト ナカヨシ”
ため息を吐く。俺は、膨れっ面のユウを一瞥し、さすがに人がいっぱいいる前では話せないから、画面に指を滑らせる。
“俺は、前は怖かったけど今はわりとお前のこと気に入ってる”
“だからいちいち友達にヤキモチ妬くな”
“めんどくさい”
もう一度ユウに視線をやる。
こんなに無愛想な返答なのに、ユウはこっちが思わず笑ってしまうくらい、分かりやすくゴキゲンな顔に変わっていた。
両手を頬に当て、身体をくねくねさせて照れているユウの姿を見ながら、単純だなあと思う。みんながわいわい話している輪の中で怪しまれない程度にクスクス笑っていると。
「……イチャついてるなあ」
葵が、微笑みながらそんな俺たちを見ていた。周りは俺と響のことだと思っているだろうが、俺と葵の間では通じている。
「イ、イチャついてない!」
「またまた〜」
「ほんとに!」
「なあなあなあ! 澪澪澪! こっちも見ろって!」
「? なに──」
葵と言い合っていると、背後から力の興奮した声に呼ばれて振り返ると。
至近距離に突然、髪の長い女の幽霊が現れた。
「ぎゃあッ!?!」
「ヤバくねこれ? 俺凄くね!?」
「え、何これ力が作ったの?」
「そうそうそう! やっと具現化できたぜ俺のアイドルサダコ様!」
「……さすがのクオリティすぎて教室に置いておくの嫌がられそうだね……」
自分で作った幽霊の人形のオブジェにキスをする力を、葵たちがドン引きしながら見つめる。
ユウも俺たちに混ざって、まるでクラスメイトのように賑やかな時間を共にした。
***
文化祭が二日後に迫ってきたある日。
放課後、準備中に出たゴミをまとめてゴミ置き場まで運んでいると、校舎の影に委員長の姿があった。
委員長はいつも率先して色んなことをしてくれているから、ゴミ出しが終わったら何か手伝えることがあるかなと思い、声をかけようとその背中に近付くと、急にその場にしゃがみ込んでしまった。
「……あの、委員長、大丈夫?」
体調が悪いのかと心配になり、小走りに近付いて声をかけると、バッ!と勢いよく振り返る。
委員長は、両手を握り締めながら、俺が見たことないような切羽詰まった顔をしていた。
「あ、藍沢くん……」
「どうしたの? 体調悪い?」
「ああ、ううん、大丈夫だよ。ありがとう」
「でも……」
気になって離れられないでいると、ふと、遠くを歩いている金髪。村岡の背中を見つけた。
胸の奥がザワつく。村岡に暴力を振るわれていたとき、委員長がそれを見付けて俺を庇うと、アイツは嫉妬に狂ってさらに俺を痛め付けてきた。村岡の中に、委員長に対する異常な好意があるのは明らかだった。もしかしたら直接委員長に何かしたのだろうか、だとしたら許せない。
俺は隣にゴミ袋を置き、しゃがんで委員長と目を合わせる。
「……あのさ、委員長」
「……?」
「俺、今までたくさん委員長に助けられてきたでしょ? いつも気にかけてくれて、本当に感謝してるんだ」
「そんな、私は何も……」
「そんなことない。俺、もし委員長が困ってることがあったら、力になりたいって思ってるから。もし、俺に話してもいいと思えることが何でも言って、ね?」
委員長は、驚いたように大きな瞳をぱちぱちと瞬きさせ、ふわりと微笑む。
「……ありがとう、藍沢くん」
笑ってくれたことに、とりあえずホッとして立ち上がり、手を差し出す。委員長も俺の手を取って立ち上がる。
二人で他愛もない話をして、ゴミを捨ててから教室に戻ると、ユウは俺がゴミ捨てに行っていたことなど気付かずに教室の隅で葵がしている作業を楽しそうに見ていた。
いつもは抵抗出来ないのをいいことに、俺にくっついて離れないくせに。
何故か分からないが見ていると無性に腹が立つので、静かに元の作業に戻った。
「あれ、澪ー、今日澪が家から持ってきてくれたカラーペンは?」
「え? みんな使えるようにそこに……あれ?」
「無いよなー、誰か持ってってそのままなんかな」
作業をしている力の言葉に首を傾げながら、ペンを置いた机を見ると、全部無くなっていた。
もしかしてまた盗まれたのかな。あのカラーペンのセットは昔、絵を描くのが好きだった俺に母さんが買ってくれたものだからさすがにやめて欲しい。
どうか返ってきてくれと願う。嫌な気持ちに追い打ちをかけられたような気分だった。
結局、ペンはみんなが帰る頃、いつの間にか机に置いてあった。でも俺が好きな青と黄色だけ無くなっていて、やっぱり今日はついてないなと肩を落とした。
***
慌ただしく日々が過ぎ、文化祭当日。
俺たちのクラスのお化け屋敷は、時間をかけて準備したおかげで大好評だった。
力はお客さんのリアクションを見るのに夢中だし、響は眠いから遅刻すると連絡がきたので、自由時間は葵と一緒に校内をウロウロしながら他のクラスの出し物を楽しむ。
「ユウくんって面白いよね。準備手伝ってくれてるときにさ、集中すると顔逆さまになるの」
「で、自分で戻すんだろ?」
「そうそう、あれが面白くて……今だってしかけ役に混ざってお客さんを驚かすのに夢中だし、本来怖い幽霊なんだけどさ、なんか可愛いよね」
「……そうかな、別に可愛くはないけど」
「……ふふふ、ごめんごめん、取らないからヤキモチ妬かないで」
「は!? 別に妬いてないよ!」
はいはいと楽しそうに俺をあしらう葵の言葉に、何とか訂正してもらおうと必死になっていると、正面から、今日は一際オシャレをした安達と委員長が歩いて来た。
「お! 陰沢(いんざわ)クンと美馬ちゃんだー、何か面白いとこあった?」
「陰沢って誰」
「オメーだよ」
「分かってるよ」
「一階でやってた三年生のところのたこ焼きが美味しかったよ、安達さんたちはもう食べた?」
「何それまだ食べてなーい!」
「美味しそうだね、晴奈行ってみる?」
「行く行くぅ!」
「……あ、藍沢くん、肩のところゴミ付いてる」
「えっ……あ、ありがとう委員長」
「ううん。藍沢くんも美馬くんも、教えてくれてありがとうね」
「優香早く早く! たこ焼き楽しみ〜!」
俺の肩に優しく触れてゴミを拭ってくれた委員長が優しい笑みを残し、安達にグイグイと手を引かれて去って行く。
そんな委員長の後ろ姿を、葵がジッと見つめていた。俺はさっきの仕返しにと、葵の肩をつつく。
「委員長に見惚れちゃって、可愛いな葵」
わざとニヤニヤしながら言うと、葵は俺の方を振り向いて力無く笑った。
「……ね、澪くんといい安達さん真中さんコンビといい、美人と話すのは緊張するよ」
「……俺をそこに含めるなよ……」
「澪くんも美人だよ」
葵がニコニコ笑って歩き出すのを、後ろから追いかける。
せっかくからかってやろうと思ったのに葵の方が上手なようで、何だか悔しかった。
それからしばらく経って、葵は受付を担当する時間になり一人になる。安達が一緒にいてやろうかとからかってきたけど、女子がいっぱい周りにいるし遠慮しておいた。
ユウはお化け屋敷の中にいるのだろうか。どうせ今は俺のことなんか気にもしてないんだろう。
ユウのことを考えるとなんだかまた腹が立ってきたので、外の空気でも吸いに行って静かなところで少しゆっくりしようと思い、昇降口に向かって歩き出した。
靴を履き替えて外に出ようとしたとき、クイッと服を引っ張られる感覚がして立ち止まり、振り返る。
小さな女の子が、俯いて俺の服を掴んでいた。
「ママ……」
女の子が涙声で呟く。外から入って来た生徒の家族だろうか。お母さんとはぐれちゃったのかな。
「大丈夫? ママ探してるの?」
しゃがんで、俯いて頷く小さな頭を撫でる。俺も、小さい頃は公園で母さんの姿が見えなくなっただけでいつも大泣きしてたっけ。懐かしいな。
そういえば、母さんへのメッセージはまだ既読が付いていない。本当に大丈夫かな。
頭の中で母さんの顔を思い出し、少し心配になりながらも目の前の女の子に意識を切り替える。
「一緒に探しに行こうか」
「うん……」
俺はそっと女の子の手を取る。
頷く女の子が、ゆっくりと顔を上げた瞬間。
俺は目を見開いて、慌てて手を離した。
「あっあアあ゙なだっ、わだっ、わだシが見エルのね」
不自然なくらい口角を上げた女の子の目は、空洞だった。
ブワッと冷や汗が吹き出る。すぐにその場から逃げ出す。ユウが来て、全然見なくなったから完全に麻痺していた。
あれは完全に悪霊だ。捕まったら殺される。
校内をひたすら走る。人の多いところに行かなきゃと走っているのに、まるで誘導されているように人気の無い方へと足が向いていた。
後ろを気にしながら階段を駆け上がり、角を曲がる。
「うッ……!!」
曲がった先の廊下の真ん中に、さっきの少女の幽霊がひとりで立っていた。
「ドどっど、どオしてっ、逃ゲるノ」
引き返したいのに、足がその場に縛り付けられたように動けなくなった。
「ママ……ママ……」
ドッドッドッと心臓の音が響く。冷や汗が背中を伝う。
少女の幽霊は、瞬きをする度に距離を詰めてくる。
体温が下がっていくのが分かる。
嫌だ、嫌だ、どっか行け。そう叫びたいのに、喉から声が出なかった。
少女の幽霊が、氷のような冷たい手で俺の手首を強く握る。手から、体温を吸い取られる感覚に陥る。
「マ゙マ゙ぁ゙!!!」
少女の幽霊が俺を見上げて呻き声のような声で叫ぶ。手首に激痛が走る。
涙が滲んで、為す術もなくぎゅっと目を閉じた。
その瞬間。
ふわりと、知った冷たさが背中に触れた。
「…………ユ、ウ……?」
手の痛みが消え、すんなり声が出た。薄らと目を開けると、首に回された見知った腕が見える。
視界がぼやける。背中の冷たさに、体の熱がじわじわ蘇っていく感覚がする。瞼が熱い。悔しい。
ユウが出した黒い霧のようなものが、少女の幽霊の首を締めるように巻きついて、更に苦しめるように持ち上げる。
「ギァアアアアアア!!!」
耳を劈く悲鳴に思わず目をつぶると、ユウの冷たい手がそっと俺の耳を塞いだ。
次にゆっくりと目を開けたとき、少女の幽霊は綺麗に姿を消していた。
一気に緊張が解けて思わずその場に座り込むと、ユウが心配そうに俺を抱き締めてスリスリ頭に頬を擦り付けた。
俺は情けなく鼻を啜りながら、ユウの腕の中に顔を埋める。
「ばか、ばーか! お前が……ッ」
怖さで頭がこんがらがっている。だから、そのせいだ。
「お前が……俺から離れるからっ…………!」
酷く弱々しい自分の声が、ユウが来てくれて安心している自分自身が、情けなくて恥ずかしかった。
自分が悪いのは分かっている。ユウがこんなだから、油断してあの幽霊の異様さに気付けなかった。
ユウに八つ当たりしているくせに、ちょっとだけ涙が出た。あまりにもかっこ悪すぎて、絶対ユウにバレたくないと思ったのに。
ユウが抱き締める手を緩めて、俺の頬を両手で包む。指で涙を拭うと、優しく微笑みながら俺のおでこや瞼にキスをした。
ユウの服を掴みたくて伸ばした手は、やっぱり触れられずに空を掴む。
わけもわからずその事実がただ、ただひたすらに俺の胸を締め付けた。
***
文化祭は大盛況に終え、俺たちのクラスのお化け屋敷は学校内で賞を貰った。人の十倍気合を入れて準備に取り組んでいた力は、後日行われた朝礼で表彰台に立ち、嬉し涙を堪えながら天を仰いで全校生徒に若干引かれていた。
文化祭の次の日には出張先にいる父さんから電話があって、久しぶりに長い時間話すことができて嬉しかった。良い友だちがたくさんできたことや、文化祭の話もいっぱい聞いてくれて、“行けなくてごめんな”と言いながらたくさん話を聞いてくれた。萌さんや義兄たちとのことについては、適当に上手くいっているフリをした。
そして少女の幽霊の件があってから、ユウはますます俺にベッタリになった。
慌ただしい日々から静かな日常が戻ってきて、少しずつ肌寒くなってきたある日。
珍しく朝から登校してきた響の姿を見てギョッとする。
「え、何どうした? 大丈夫?」
「おう、ヘーキヘーキ」
頭と手に、痛々しく包帯が巻かれてあった。
「何かあったの?」
「事故!? あ、喧嘩か!?」
一緒にいた葵と力も目を見開く。
響は頭を掻きながら、心配されて少し困ったような表情を浮かべた。
「喧嘩っつーか、いきなり後ろから殴られたんだよ。覆面した男に」
「は!?」
「全然大丈夫じゃないじゃん!」
「バカか。そのあと逃げた犯人追いかけて返り討ちにしてやったのよ」
そう言って響が誇らしげに包帯を巻いた拳を見せてきた。
「マジで見た目ほどの怪我じゃねーから、そんな心配すんな。な?」
響は安心させるように、身長の低い俺と葵の頭を雑に撫で、いつもの様子で眠そうに欠伸を漏らす。
一体誰がそんなこと。
胸を痛めていると、視界に黒い粒のようなものが入ってくる。
「…………?」
すぐ隣を見上げると、ユウが自分の身体に黒い霧を薄く纏わせ、力や葵と話している響を感情の無い瞳でジッと黙って見ていた。背筋がゾッとする。
一瞬、響に嫉妬して噛み付こうとしていたユウの姿が頭を過ぎった。
──そんなわけないよな。あれはただその場のノリで、ユウが攻撃的になるのは“俺を苦しめる存在”なんだから。俺を“守ってくれてる”んだから。
響は、俺の友だちだ。
ユウなわけない。ありえない。
言い聞かせるように心の中で呟いていると、ふとユウと目が合った。
思わず肩が震えたけれど、ユウはいつもの調子で嬉しそうに笑い、俺に抱き着いて瞼や頬にキスをする。
「……やめろって、葵には見えるんだぞ」
ユウを見上げ、目を細めながら小さな声で呟く。
胸の奥に湧いた小さな疑惑をかき消した。
この幽霊が俺に与える温もりを、嘘じゃないと信じるために。
続
