ベッドの下から謎の頭蓋骨が見付かって、二日後の金曜日の夜。
いつも綺麗にしてある小高先生の家のリビングで、ソファに寝転んで本を読んでいると、くあ、とあくびが漏れる。
「お、もう眠くなっちゃったか? 簡易ベッド広げてるからそっちで寝ろよー」
「んー……はい……」
小高先生は、春にたまたま義兄から受けた暴力の痕を見られてからこうしていつも気にかけてくれて、俺が家に居づらく感じている時はいつでも自宅に来ていいと言ってくれていた。
何かと問題になるこのご時世だが、リスクを取ってでも踏み込んで手を差し伸べてくれる小高先生を、俺は心から信頼している。
先生の言葉に甘えて頻繁に泊まらせてもらっているが、いつも用意してくれる温かいご飯をお腹いっぱい食べて、面白い本を読ませてくれて、緊張することがないからかすぐにこうして眠くなって、朝までぐっすり眠れてしまう。
テレビを見ながらあぐらをかいて洗濯物を畳んでいる先生の横をのそのそと通り過ぎ、広いリビングの端に広げてくれた俺用の簡易ベッドに寝そべる。
眠気に襲われながら、先生の横顔に声をかける。
「……先生……」
「んー?」
「……土日も泊まっていいですか……」
「それは全然いいけど」
「ありがとうございます……」
「……なんかまた家で辛いことあったのか?」
「……まあ……」
さすがに小高先生にも、家に謎の骨があって気味が悪いから帰りたくないとは言えなかった。
「いつまででもいていいから、安心してもう寝な」
小高先生の優しい声に、お礼を言って目を閉じる。安心感からか、すぐに意識を手放した。
***
次の月曜日に登校するまで、幸いあの幽霊と遭遇せずに済んだ。
ホッと一息ついて机に鞄を置くと、いつもは振り返って挨拶に余計な一言を付け加えてくるはずの安達が、机に突っ伏したまま動かなかった。そんな安達の前の席に座り、心配そうに見ながら頭を撫でている委員長と目が合う。
「……?」
「うーん、ちょっとね……」
俺が何かあったのか目で問いかけると、委員長は誤魔化すように笑った。
すると安達が机に突っ伏したまま低い声を上げる。少し掠れていた。
「わがれだ」
「…………わ?」
「だからぁ! 好きピと別れたの! 昨日!!」
「うわッ!」
思いっきり起き上がり、振り返った安達はいつも濃いメイクをしているのに今日は素顔で、散々泣いたのか目がこれでもかというほど腫れていた。
「それは……残念だったね……」
「もう最悪だよー、アイツ三股してたんだよ!? 信じられる!?」
「真面目そうな人だと思ってたのにね……」
「うぅ〜〜優香ぁ〜〜〜」
安達は、慰める委員長に縋るように手を握る。
「それにしても三股って、よく隠してたな?」
「本当だよ! なんか知らないアカウントからメッセで他の女とイチャイチャしながら歩いてる写真が送られてきてさ、私最初は信じなかったんだけどね!? 冗談っぽく詰めたら吐きやがった!」
「晴奈、手、手痛いよ」
委員長が苦笑いをして、何かスイッチが入ったのか再び委員長に縋り付きながら泣き出した安達の周りに、個性豊かな安達の女友だちがわらわらと心配して集まる。
喜怒哀楽がハッキリしていて、素直で、みんなに慕われていつも中心にいる。今日の放課後とかは多分、たくさんの友だちとパーッと遊びに行ったりするんだろう。本人は悲しんでいるのに申し訳ないけれど、安達はいつまで経っても変わらないなと安心した。
一瞬、“知らないアカウントから──”と言った安達の言葉が引っかかってあの幽霊の顔が浮かんだけど、考えすぎだと割り切って、俺は静かに席に着いて授業の準備を始めた。
***
初めてあの幽霊が現れ、柳や村岡の件があってから一ヶ月が経った。
柳はそのまま不登校になり、村岡は火事の影響だろう、すっかり憔悴して痩せ、大人しくなってしまった。
あの幽霊の仕業なのかはよく分からない。複雑な罪悪感を持ち合わせながらも、とりあえず俺の学校生活は静かなものに戻った。
ある日の放課後、図書委員の当番があったためいつもより遅めに昇降口に向かうと、たむろしていた数人の男子生徒が俺を見て「来た!」と声を上げた。
妙にキラキラした集団が近づいてくるのを見て、何だろうと思いながらビクビクしていると、真ん中の、身長が高くてオシャレで美形の男子が俺にニコッと笑いかけた。
「藍沢くんだよね? 俺、隣のクラスの須永(すなが)。実は前からずっと仲良くなりたいと思ってたんだけど、良ければこれからみんなで駅前のマック寄って行かない?」
奢るよ、と付け加えた須永くんは、今まで人に親切にしてもらったことがほとんどないせいで明らさまに戸惑っている俺を見て、吹き出すように笑った。
「大丈夫だって! 取って食おうってわけじゃないから!」
須永くんに肩を組まれ、半ば強引にみんなの輪に入れられる。
「藍沢ってハンバーガー何好きなん?」
「5時から限定のクーポンあるべ、使おー! 藍沢、アプリ入れてる?」
突然ことで驚いたが、みんな明るく俺に向かって笑いかけてくれた。
今までまともに友だちを作れた経験がない俺の胸の奥に、嬉しさが込み上げる。それに家にもすぐに帰らなくてよくなるし、ちょうどいいと思った。
少し戸惑いながらも頷くと、みんなが歓迎してくれた。
そして俺は本当に単純なヤツで、少し嬉しいことがあると、一ヶ月前にどうしようもないまま再びベッドの下に押し込んだ頭蓋骨のことなんて、もうすっかり忘れてしまっていた。
その日はどうなるかとドキドキしながら一緒にいたけれど、思いの外ファストフード店で長居しながら色々話して盛り上がってしまった。須永たちはとても優しく接してくれて、連絡先も交換してくれた。何だか慌ただしかったけど、人生で初めて友だちができて舞い上がってしまい、帰っても部屋でベッドに寝転びながら、急にたくさん増えた友だちリストの名前を眺めてはニヤけるのを抑えられなかった。
それにしても、何で俺と仲良くなりたいなんて思ってくれたんだろう。認めるのは癪だが、安達の言うように“陰気臭い日陰者”なのに。正直全然分からないけど、嬉しいな。
うとうとしながら今日須永が送ってくれた写真を眺めていると、ふと画面の上部に通知を知らせるバナーが現れた。今日連絡先を交換した誰かかなと思い、少しドキドキしながら開くと、そのアカウントはまだ友だち登録されていないものだった。
迷惑系の類かとがっかりしながら、メッセージを開くと。
“レイ ハ ボク ガ マモル”
文字を読んだ瞬間、グッと喉が締まった感覚がする。
誰だ、何だこれ。
バッと起き上がり、まさかあの幽霊じゃないかと不安に思って辺りを見回す。
コンコンッと、窓がノックされる音がした。
気のせいだよな。ここ二階だし。
身体が緊張するのを自覚しながら、無視しようとしたとき。
コンコンッ。もう一度、今度は確実にノックされた。
カーテンが締まった窓の方に恐る恐る目をやる。開けたら確実にいる。嫌だ、もう顔を合わせたくない。
コンッ、コンッ……。
何とか無視を決め込んで、ノックが収まったと思いきや、今度はまたスマホの通知が鳴った。
“レイ アケテ”
“アケテ”
連投されて現れる文字。何なんだよもう、何であいつはこんなに俺に執着するんだ。もしかしてあの骨か? 大事そうに抱えてたし、何か関係あるんじゃ、もしかしてあの幽霊の──。こんがらがった頭で考えながら、ダメ元で骨を返せば消えてくれるんじゃないかとベッドの下を震える手で漁っていると。
「あった……!……うわぁッ!?」
顔を上げると、あの幽霊がまた逆さまの顔で立っていて、思わず肩を震わせる。幽霊は、拗ねたようにプクッと頬を膨らませていた。
幽霊は俺の顔をジッと見て、またグリンッと顔を正しい位置に戻す。
「…………ッ……」
「……」
終始無言で微笑んだままの幽霊と対峙する。
ドキドキと、心臓の音が響く中で。
「…………」
「……」
「…………ていうか、」
「……」
「あ、開けなくても勝手に入ってくるじゃん……いつも……」
震えた声でそう言うと、幽霊はたっぷり間を置いたあと、“バレちゃった”とでも言いたげに、口の端からペロッと舌を出した。そのタイミングで、再びスマホの通知が鳴る。幽霊を警戒しながら画面を覗くと、“コワガル レイ カワイイ”の文字。
呆気に取られる。完全にからかわれているんだと自覚した瞬間、今までの恐怖心が一気に薄れていった。
それから、恐らくこの気味の悪い幽霊に関係する骨を捨てに行こうとすると、目の前に立ちはだかられ、かれこれ十分以上攻防を繰り返していた。
「離せ!! 今すぐ捨てる!!」
俺は幽霊に後ろからぎゅっと抱き着かれながら、全く動かないものの必死にドアに手を伸ばす。幽霊はというと、そんな俺を可愛がるように頭を撫でながら何度も頬にキスをしている。めっちゃムカつく、なんだコイツ。
「もう、離せって……!」
幽霊を引き剥がすために身を捩って抵抗していると、不意に外からドンッ!と部屋のドアを蹴る音がした。ビクッと肩が震えて、手を止める。
「おい、澪〜、いんだろ? 声聞いたから誤魔化せねえぞ」
「お兄ちゃんたち金欠なんだよー、金よこせ金、この前母さんから貰ってんだろ」
義理の兄たちが、ドンドンとドアを蹴っていた。身体が強張る。どうしよう、なにか答えないと。でも食費は渡したくない。もしかしたら、また初めてできた友だちと遊びに行けることがあるかもしれないのに。渡したくない、でも、渡さなかったらまた殴られるのかな。
怖くて何も言えずにいると、幽霊がふわりと俺の前に来て、その冷たい手で俺の耳をそっと塞いだ。
そして、幽霊から溢れた黒い霧のような物が、ドアの隙間から向こう側へと伸びていった。
「…………?」
ただ呆然とする俺に、幽霊はニコッと笑いかける。微かに、義兄たちがバタバタ階段を降りて行く音が聞こえた。
幽霊は相変わらず黙って微笑んだまま、いそいそと再び自分で骨をベッドの下にしまい込んだあと、俺の手を握りベッドに寝るよう誘導する。緊張が抜けて抵抗する気力も失い、されるがままの俺は、隣に寝そべった幽霊の顔をうとうとしながら見上げる。
幽霊だから、表情とか顔色はまるで作り物のように生気を感じないけれど。
まるで童話に出てくる王子様みたいに、美しい容姿をしていると思った。
幽霊の腕の中で、頭を撫でられながら眠気に任せて目を閉じる。触れ合っている場所は全部冷たいのに、何故か父さんと母さんの温もりが浮かんだ。
寂しい思いも怖い思いもせず、こんなに安心して眠れた夜は、本当に久しぶりだった。
***
はじめて幽霊と眠った日から二週間。あの幽霊は、俺が一度受け入れてしまったからか前よりも頻繁に現れるようになった。特に夜に現れることが多く、何故だか知らないがいつもご機嫌な様子で俺を寝かしつけてくる。
頭を撫でたり、抱き締めたり、頬にキスをしたり、まるで親が子にするような愛情表現に、自分でもどうかと思うが徐々に慣れつつあった。それに今のところ俺に危害を加える気配は無さそうだし、抵抗しても無駄なのは身に染みているので、好きにさせる以外他になかった。
須永をはじめとする友だちも、あれからもよく遊びに誘ってくれて、人生で初めてというくらい充実した毎日を送っていた。
ある夜、ベッドに寝転びながらスマホで友だちとグループチャットをしていると、幽霊がまた後ろから俺に抱き着きながら画面越しに膨れっ面をしているのが見えた。そして手を伸ばし、画面にある名前たちをトントンと順番に指差す。
「なに、勝手に触るなよ」
そう言って振り返りながら軽く睨む。すると、幽霊はムッとしながらふるふると首を振って、またいつものように俺の頬に優しくキスをする。
通知が鳴った。別のトークルームで、幽霊が送ってくる謎アカウントから“コノコタチ ハ レイ ノ トナリ 二 イタラ ダメ”。文字を読んでもう一度睨むと、幽霊は深く頷く。意味分かんない。
「……分かってると思うけど、この人たちに何もするなよ、嫌がらせとか、怖がらせたりとか」
幽霊は不満そうに口を一文字に結ぶ。
「何かしたら骨捨てるし、もう口きかないから」
「……ッ!」
釘を刺すと、幽霊はガーンッと効果音が付きそうな程明らさまにショックを受けていた。関われば関わるほど表情が豊かになっていくなと思っていると、幽霊は誤魔化すように俺からスマホを取り上げ、いそいそと寝かし付けに入る。
慌ててる姿が何だか面白くて、目を閉じながら小さく笑ってしまった。
***
次の日の放課後、須永たちとみんなでカラオケに行くことになった。“クラスの友だちも連れて来て”って言われたけど、俺クラスに友だちいないんだけどなあと思いながら、何とか絞り出した候補として安達と委員長に声をかけてみるも、二人とも用事があってダメだった。
代わりに前から須藤たちに興味があったらしい、安達のギャル友だちである小金井瑠愛(こがねい・るな)と坂部美依沙(さかべ・みいさ)が行きたいと言ってくれてとても助かった。俺は流行りの歌とか知らないし、二人は安達と一緒で華やかで明るいし、盛り上げてくれるだろう。
ひと安心して、放課後になり男子たちだけで先にカラオケ店に入る。小金井や坂部を含め、他の人が誘った女子組は少し遅れるらしい。カラオケ自体初めてだけど、大人数なので特別広いパーティールームというところに入れられて、落ち着きなくソワソワしていると、隣に座っていた男子が俺の肩をトントンと叩いた。
「腹減ってたらこれで注文な」
「あ、うん」
「操作分かんなかったら聞けよ」
「ありがとう、伊崎(いざき)」
俺にタブレットを差し出したのは、少し長い黒髪に気怠げな雰囲気と口につけたピアスが特徴的な伊崎響(いざき・きょう)。不登校気味だが、俺の後ろの席のクラスメイトだった。
「……お前俺の名前知ってたんだ」
「? 当たり前だよ、クラスメイトじゃん」
「そうかよ」
伊崎が須藤たちと仲が良かったことは知らず、放課後会うのは今日が初めてだし、合流してから終始不機嫌そうで少し怖かったけれど、俺には親切にしてくれて、不良っぽいけど良い人だったんだと知る。
みんながドリンクバーで飲み物を取り終えて、曲を選んでいる最中にトイレで席を立つ。
部屋の前まで帰って来ると、扉が微かに開いていた。音が聞こえるまでちゃんと閉め切ったはずなのになと思いながら、中に入ろうと手を伸ばしたとき。
「藍沢マジ使えねー、なんでアイツ安達と真中釣ってこれねえんだよ」
「あんなつまんねーヤツにニコニコしてやった時間返して欲しいよな」
聞こえてきた冷たい声に、心臓が鷲掴みにされるような感覚が走る。
扉を開けられない。
「カラオケ初めてとか、あの顔持っててマジで遊んでねーんだなアイツ」
「だって一緒にいてもつまんねーもん」
ギャハハと、大きな笑い声が反響する。
するりと、ドアノブに掛けた手が落ちる。
「まあ小金井と坂部? 釣れたからいんじゃね」
いつもより低い須藤の声がする。
ああそうか、最初からそうだったんだ。
最初から。
放課後誘ってくれたのも、グループチャットで夜遅くまで話したのも、嬉しかったのは俺だけで、全部これが目的だったんだ。
“実は前からずっと仲良くなりたいと思ってたんだけど──”。
全部、全部。
「あの二人、安達や真中より股緩そうだし」
「こいつ最低だわ!」
笑い声の中で、ぼやけた視界から、床に向かって涙が落ちた。そのときだった。
背中に、ふわりと冷気が触れる。だらりとした手が、にぎにぎと確かめるように握られる。青白く冷たい、幽霊の手だった。
「……なんだよ、ばか」
こんなことで泣いているのが恥ずかしくて、顔を隠しながら小声で言うと、頭を撫でられる。
惨めな気持ちと、何だか温かいのとで心がごちゃごちゃして余計に涙が滲む。
幽霊は、俺の手を握ってそのまま、再びドアノブを握るように誘導した。
横を向いて顔を見ると、深く頷く。
俺は、袖で涙を拭いた。
その真っ黒な瞳が、今はここにある何よりも頼もしく、優しかった。
俺は意を決してドアノブを引っ張り、一歩踏み出す。
「……ごめん、話聞こえちゃった。俺帰るね」
「……え?」
「マジ?」
中に入って、呆然としているみんなを他所に鞄を取り、お金だけテーブルに置く。
「……今まで無理させてごめん、もう関わってくれなくていいから」
言ったくせに、少しだけ声が震えた。情けない。
さっさと部屋を出て廊下を早足に歩いていると、受付で坂部と小金井に会う。
「あれ、藍沢っちどーしたん?」
「帰んの?」
「あ、えっと……」
目を丸くする二人に、二人も行かない方がいいって説明したいけど、何て言えばいいか分からずに口篭る。すると。
「女子組お前ら最初? アイツらのこと本気で好きで何されてもいいって奴しか行かない方がいいぞ、ヤリモクだから」
「……はあ!?!」
「何それホント?」
俺の後ろから、伊崎が顔を出した。
二人は伊崎の言葉を聞いたあとに俺の顔をジッと見てから、怒りを爆発させる。
「正直あんま喋ったことない伊崎のことは信用ならんけど、藍沢のその顔見てたら本当っぽいね。クソすぎ」
「え、俺?」
「最っっ悪!! 他の子たちにもチャット回しとくから! 伊崎も教えてくれてありがとね!?」
「どいたまー」
小金井も坂部も、俺のことを信じてくれたみたいだった。
ちゃんと説明してくれたのは伊崎なのに。背の高い伊崎を見上げると、無表情のまま言った。
「……中学一緒だからって適当にアイツらとつるんでたけど、お前いねえなら“つまんねー”なって俺も抜けてきた」
「…………伊崎」
「アイツらの言うこと気にすんなよ。お前面白えから」
「……ありがとう……」
「横から見てたけど、機械音痴すぎてカルボナーラ10個頼んでたし、コイツオモロすぎるわって、俺の目に狂いは無かったね。お前が置いてった金多分全然足りねえよ」
「……え? は!? 待って、言えよ!?」
「藍沢っちやばー! ウケる!!」
「いやいや、ウチらのこと馬鹿にしていい気味じゃん、バレる前に早く逃げよ」
小金井がそう言うと、坂部と伊崎も逃げろ逃げろと乗っかってエレベーターに乗る。その間も、やっぱりお金は払った方がとゴネる俺を見て、真面目すぎなんだよと三人は笑った。
エレベーターを降りたあと、駅までの道を小金井と坂部の後ろを歩いていると、隣で静かに伊崎が口を開いた。
「……俺、学校嫌いであんまり行かねえのに、話したこともないお前が名前覚えてたの結構嬉しかったし」
見上げると、優しく微笑んでいた。
「さっきのは、根性あるなって思ったよ」
胸が熱くなる。俺はきっと、一人だったらただ逃げ出すだけで、あんな風に言って部屋を出る勇気は無かったと思う。あの時、アイツが手を握ってくれたから──そう思いかけて、ブンブンと頭を振る。
「わは、奇行。おもれー」
そう言って笑う伊崎を、いつの間にかまた俺に抱き着いていた幽霊は頬を膨らませ、睨み付けていた。でも何もしようとしないあたり、ただ嫉妬でもしているのだろうか。
何にせよ、今日はコイツの存在に救われてしまったのは事実だ。
「ザッキー、藍沢っちー、帰りマック寄ってこー!」
「ザッキーってもしかして俺?」
「アンタ以外いないでしょ」
「藍沢っちも、行こー!」
坂部たちが、夕焼けを背に俺を振り返って手招きをしている。
その笑顔を見ていると、じわり、じわりと瞼が熱くなる。今度は良い意味で。
「…………ありがとな」
幽霊にだけ聞こえるよう小声で言うと、幽霊は嬉しそうに笑って俺の頬にキスをしてから、フッと姿を消した。
俺も三人の元へ行く。初めてできた友だちは今日いなくなってしまったけれど、同時に新しい友だちができた。
辛かったけれど、笑顔で溢れた一日になった。
***
次の日の昼休み、遅れて登校してきた伊崎が廊下から俺を呼んだ。
「何? 一緒にお弁当食べたかったのに」
「悪かったって、俺朝起きれねんだよ」
廊下を歩きながら文句を言っていると、人気のない多目的室にたどり着く。
伊崎が扉を開けると、そこには二人の男子生徒がいた。美馬葵(みま・あおい)と八木力(やぎ・ちから)。どちらも変わり者と言われていて、あまり周りとは関わっていないクラスメイトだった。
「連れて来たぞ、葵(あおい)」
「ありがとう響ちゃん」
奥にいた、眼鏡で小柄な男子生徒の美馬が俺に駆け寄ってくる。その後ろから、一緒にいた八木がソワソワした様子で俺を見ている。八木は美馬とは対照的に大柄で、明るい茶髪が印象的だった。
「コイツら俺と同じ団地の幼なじみ。俺が藍沢と仲良くなったって言ったら、話したいことあるって」
伊崎から説明を聞いて、話したいことって何だろうと思ってると、美馬がゆっくりと口を開いた。
「急にごめんね。ずっと藍沢くんと話したかったんだけど、勇気が出なくて」
「……?」
「藍沢くんってさ、“見える人”だよね?」
「!」
美馬に落ち着いた声で指摘され、思わず目を見開く。
「雰囲気で分かってたんだけど、僕人見知りだし、藍沢くんみたいに綺麗な顔の人周りにいないから緊張しちゃって」
「いや、そんな……」
照れくさそうに笑う美馬の言葉に、他の二人が“おい”とツッコむ。
「藍沢くんも僕と同じで、昔から怖い思いとかして困ってたんじゃないかなと思うんだ。僕には幸い、霊が嫌う喧しくてアホで明るいこの二人がよく一緒にいてくれたから、随分助けられたんだけど」
他の二人が“おい”とまたツッコむ。口調は優しいけど意外と毒舌なんだなと思う。
「…………でさ、藍沢くん、今、物凄く強い怨念を持った霊が近くにいるよね?」
ドキッと心臓が跳ねる。もしかしなくても、あの幽霊のことだろう。
「……あ、う、うん……」
「そうなのか!? やべーー!」
「力くんちょっと黙って」
何故か瞳を輝かせる八木に、美馬がピシャリと言う。
初めて俺以外にあの幽霊を認識している人間に会って、これから何を言われるのか不安に思っている俺を他所に、八木は言われた通り黙ったものの何か言いたくて仕方なさそうだった。
「その霊、単体でいたらすごく危険なレベルの怨霊だと思うんだ。でも多分、藍沢くんの存在が彼の力を抑えてるんだと思う」
「え……どういうこと?」
「僕の推測だけど、彼は君に害を与える存在を次々に排除しようとしているように見えるんだ。二ヶ月くらい前かな、この辺にいた悪霊の類が一気に姿を消したのは分かるよね?」
「うん、それは確かに、見なくなったなって思ってた」
「恐らくそれは、藍沢くんの近くにいる彼が全て消してしまったんだと思う。僕らのような人は、霊に認識してることがバレてしまったら怖い目に遭うことが多いから」
「……そうだね、アイツが現れたのもそれくらいの時期だったよ」
「村岡くんのグループにも嫌がらせされてたって聞いた。村岡くんの家が火事になったのも、多分君を傷付けた報復なんだと思う。それに、柳くんも……」
そこまで言ったところで、美馬の顔が暗くなる。
「……? 柳のこと、何か知ってるの?」
「僕、その……ちょうど二ヶ月前くらいに学校にスマホ忘れちゃって、学校が閉まる少し前くらいの、結構遅くに取りに戻ったんだ。そしたら、その……柳くんが、藍沢くんの椅子を……」
美馬は言い淀むが、少し間を置いてから意を決したように息を吸う。
「藍沢くんの椅子を舐めて、その、じ、自慰行為をしていて……」
「え!?」
「キッッショ……」
ゾワッと背筋に悪寒が走る。伊崎も静かに引いている様子だった。
「今までもしていたのか分からないんだけど、ただ、その後ろからおぞましい形相で柳くんのことを見てたんだ……顔が、逆さまになった学ラン姿の霊が」
アイツの顔が浮かぶ。同時に、廊下のど真ん中、人前で床を舐めていた、柳の異常だったあの姿も。
「その霊を見て怖くて動けなくなっちゃって、そしたら柳くんに気付かれちゃってね……“誰かに言ったらお前といつもつるんでる八木を殺す”って、本気の感じで脅されて、怖くて藍沢くんに言えなかった……本当にごめん!」
美馬がバッ!と頭を下げる。
俺は慌てて肩に手を置き、美馬に顔を上げてもらって首を振った。
「……馬鹿だよなー、俺があんなヒョロヒョロにやられるわけねえのに!」
八木が、ケラケラと隣で明るく笑う。
八木はそう言うけど、大切な友だちを人質に取られたら言うことを聞くしかないだろう。美馬に同情する。
「言えなかった代わりと言ってはなんだけど、せめてもの抵抗として毎日朝早く登校して、朝とみんなが帰ってからの夕方、毎日こっそり空き教室の椅子と藍沢くんの椅子を入れ替えさせてもらってたんだ、勝手なことしてごめんね」
「そんなことまでしてくれてたのか……ありがとう」
力なく笑う美馬の優しさに、胸が熱くなる。
「話が逸れてごめん、とにかく、今藍沢くんの近くにいる霊について、もしかしたら怖い思いをしてるかもしれないんだけど、君に危害を加えることはないから安心していいと思う。村岡くんの件も、柳くんがああなったのも間違いなく霊の“呪い”だと思うけど、その呪いの矛先は“君を苦しめる存在”だと思うから」
“レイ ハ ボク ガ マモル”。幽霊が、俺に送ったメッセージを思い出す。
「それで、もし万が一、やっぱり怖いとか危害を加えられたとか、困ったことになったら何でも言って。お祓いしてくれる神社とか僕たくさん知ってるし、他の人に相談できなくても、僕なら聞けることがあると思うから」
美馬の気遣いに、今度は俺が頭を下げる。
「ありがとう……!」
ずっと分かってもらえる日なんて来ないと思っていた。不気味な笑みを向けられ、追いかけられ、見えないものが見える恐怖も、孤独も。ずっと独りで抱えていくものなのだと思っていた。
美馬の言葉は、小さい頃、独りで泣いていた自分を救ってくれるようだった。
「で、で、で!? 藍沢はどんなのに今まで会ったことあんの!? やっぱり幽霊ってみんな人型なん!? 海外のホラー映画に出てくる異形型みたいなのはいた!?」
ずっとソワソワしていた八木が、もう無理と言ったように頭を上げた俺に前のめりで聞いてくる。美馬曰く八木は全く見えないが“オカルトオタク”らしく、俺の話に興味津々だった。そして伊崎も、幽霊が見える、そばに強い怨霊がいると知ったあとも、俺に対して特に態度を変える様子はなかった。
伊崎、美馬、八木。三人に会って、心の中が一気に軽くなった気がした。
その日の夜。今日も俺の寝かし付けに現れた幽霊の顔をじっと見る。
「……また、逆さま」
布団に埋もれながら、小声で指摘して顔に手を伸ばすと、その手は空を掴む。俺から幽霊に触ることはできないみたいだ。
幽霊は、いつものように顔を正しい位置に戻したあと、照れたように両手を頬に添えていた。恋する乙女みたいな仕草だなと、ぼんやり思う。
今日も抱き締められ、トントンと背中を優しく叩かれる。ゆっくりと、睡魔が襲ってくる。
「……お前……本当に俺を守ってくれてるのか……?」
うとうとしながら問いかけるも、幽霊は何も答える素振りはなく、ただ微笑むだけだった。
「……もういい……ばか……」
触れないって分かっているのに。俺は言葉とは裏腹に、幽霊の背中に手を回していた。
ゆっくりと意識を手放す。
明日、起きてから伝えようと思った。ずっとここにいる気なら、もう幽霊幽霊って呼んでても仕方ないから名前を考えたこと。
でも上手く考えられなかったので、単純に幽霊だから“ユウ”にしようって思ったこと。
そして明日は、“ばか”じゃなくて、“おやすみ、ユウ”って言うんだと小さく思いながら、俺は今日も、冷たい温もりの中でそっと目を閉じた。
続
いつも綺麗にしてある小高先生の家のリビングで、ソファに寝転んで本を読んでいると、くあ、とあくびが漏れる。
「お、もう眠くなっちゃったか? 簡易ベッド広げてるからそっちで寝ろよー」
「んー……はい……」
小高先生は、春にたまたま義兄から受けた暴力の痕を見られてからこうしていつも気にかけてくれて、俺が家に居づらく感じている時はいつでも自宅に来ていいと言ってくれていた。
何かと問題になるこのご時世だが、リスクを取ってでも踏み込んで手を差し伸べてくれる小高先生を、俺は心から信頼している。
先生の言葉に甘えて頻繁に泊まらせてもらっているが、いつも用意してくれる温かいご飯をお腹いっぱい食べて、面白い本を読ませてくれて、緊張することがないからかすぐにこうして眠くなって、朝までぐっすり眠れてしまう。
テレビを見ながらあぐらをかいて洗濯物を畳んでいる先生の横をのそのそと通り過ぎ、広いリビングの端に広げてくれた俺用の簡易ベッドに寝そべる。
眠気に襲われながら、先生の横顔に声をかける。
「……先生……」
「んー?」
「……土日も泊まっていいですか……」
「それは全然いいけど」
「ありがとうございます……」
「……なんかまた家で辛いことあったのか?」
「……まあ……」
さすがに小高先生にも、家に謎の骨があって気味が悪いから帰りたくないとは言えなかった。
「いつまででもいていいから、安心してもう寝な」
小高先生の優しい声に、お礼を言って目を閉じる。安心感からか、すぐに意識を手放した。
***
次の月曜日に登校するまで、幸いあの幽霊と遭遇せずに済んだ。
ホッと一息ついて机に鞄を置くと、いつもは振り返って挨拶に余計な一言を付け加えてくるはずの安達が、机に突っ伏したまま動かなかった。そんな安達の前の席に座り、心配そうに見ながら頭を撫でている委員長と目が合う。
「……?」
「うーん、ちょっとね……」
俺が何かあったのか目で問いかけると、委員長は誤魔化すように笑った。
すると安達が机に突っ伏したまま低い声を上げる。少し掠れていた。
「わがれだ」
「…………わ?」
「だからぁ! 好きピと別れたの! 昨日!!」
「うわッ!」
思いっきり起き上がり、振り返った安達はいつも濃いメイクをしているのに今日は素顔で、散々泣いたのか目がこれでもかというほど腫れていた。
「それは……残念だったね……」
「もう最悪だよー、アイツ三股してたんだよ!? 信じられる!?」
「真面目そうな人だと思ってたのにね……」
「うぅ〜〜優香ぁ〜〜〜」
安達は、慰める委員長に縋るように手を握る。
「それにしても三股って、よく隠してたな?」
「本当だよ! なんか知らないアカウントからメッセで他の女とイチャイチャしながら歩いてる写真が送られてきてさ、私最初は信じなかったんだけどね!? 冗談っぽく詰めたら吐きやがった!」
「晴奈、手、手痛いよ」
委員長が苦笑いをして、何かスイッチが入ったのか再び委員長に縋り付きながら泣き出した安達の周りに、個性豊かな安達の女友だちがわらわらと心配して集まる。
喜怒哀楽がハッキリしていて、素直で、みんなに慕われていつも中心にいる。今日の放課後とかは多分、たくさんの友だちとパーッと遊びに行ったりするんだろう。本人は悲しんでいるのに申し訳ないけれど、安達はいつまで経っても変わらないなと安心した。
一瞬、“知らないアカウントから──”と言った安達の言葉が引っかかってあの幽霊の顔が浮かんだけど、考えすぎだと割り切って、俺は静かに席に着いて授業の準備を始めた。
***
初めてあの幽霊が現れ、柳や村岡の件があってから一ヶ月が経った。
柳はそのまま不登校になり、村岡は火事の影響だろう、すっかり憔悴して痩せ、大人しくなってしまった。
あの幽霊の仕業なのかはよく分からない。複雑な罪悪感を持ち合わせながらも、とりあえず俺の学校生活は静かなものに戻った。
ある日の放課後、図書委員の当番があったためいつもより遅めに昇降口に向かうと、たむろしていた数人の男子生徒が俺を見て「来た!」と声を上げた。
妙にキラキラした集団が近づいてくるのを見て、何だろうと思いながらビクビクしていると、真ん中の、身長が高くてオシャレで美形の男子が俺にニコッと笑いかけた。
「藍沢くんだよね? 俺、隣のクラスの須永(すなが)。実は前からずっと仲良くなりたいと思ってたんだけど、良ければこれからみんなで駅前のマック寄って行かない?」
奢るよ、と付け加えた須永くんは、今まで人に親切にしてもらったことがほとんどないせいで明らさまに戸惑っている俺を見て、吹き出すように笑った。
「大丈夫だって! 取って食おうってわけじゃないから!」
須永くんに肩を組まれ、半ば強引にみんなの輪に入れられる。
「藍沢ってハンバーガー何好きなん?」
「5時から限定のクーポンあるべ、使おー! 藍沢、アプリ入れてる?」
突然ことで驚いたが、みんな明るく俺に向かって笑いかけてくれた。
今までまともに友だちを作れた経験がない俺の胸の奥に、嬉しさが込み上げる。それに家にもすぐに帰らなくてよくなるし、ちょうどいいと思った。
少し戸惑いながらも頷くと、みんなが歓迎してくれた。
そして俺は本当に単純なヤツで、少し嬉しいことがあると、一ヶ月前にどうしようもないまま再びベッドの下に押し込んだ頭蓋骨のことなんて、もうすっかり忘れてしまっていた。
その日はどうなるかとドキドキしながら一緒にいたけれど、思いの外ファストフード店で長居しながら色々話して盛り上がってしまった。須永たちはとても優しく接してくれて、連絡先も交換してくれた。何だか慌ただしかったけど、人生で初めて友だちができて舞い上がってしまい、帰っても部屋でベッドに寝転びながら、急にたくさん増えた友だちリストの名前を眺めてはニヤけるのを抑えられなかった。
それにしても、何で俺と仲良くなりたいなんて思ってくれたんだろう。認めるのは癪だが、安達の言うように“陰気臭い日陰者”なのに。正直全然分からないけど、嬉しいな。
うとうとしながら今日須永が送ってくれた写真を眺めていると、ふと画面の上部に通知を知らせるバナーが現れた。今日連絡先を交換した誰かかなと思い、少しドキドキしながら開くと、そのアカウントはまだ友だち登録されていないものだった。
迷惑系の類かとがっかりしながら、メッセージを開くと。
“レイ ハ ボク ガ マモル”
文字を読んだ瞬間、グッと喉が締まった感覚がする。
誰だ、何だこれ。
バッと起き上がり、まさかあの幽霊じゃないかと不安に思って辺りを見回す。
コンコンッと、窓がノックされる音がした。
気のせいだよな。ここ二階だし。
身体が緊張するのを自覚しながら、無視しようとしたとき。
コンコンッ。もう一度、今度は確実にノックされた。
カーテンが締まった窓の方に恐る恐る目をやる。開けたら確実にいる。嫌だ、もう顔を合わせたくない。
コンッ、コンッ……。
何とか無視を決め込んで、ノックが収まったと思いきや、今度はまたスマホの通知が鳴った。
“レイ アケテ”
“アケテ”
連投されて現れる文字。何なんだよもう、何であいつはこんなに俺に執着するんだ。もしかしてあの骨か? 大事そうに抱えてたし、何か関係あるんじゃ、もしかしてあの幽霊の──。こんがらがった頭で考えながら、ダメ元で骨を返せば消えてくれるんじゃないかとベッドの下を震える手で漁っていると。
「あった……!……うわぁッ!?」
顔を上げると、あの幽霊がまた逆さまの顔で立っていて、思わず肩を震わせる。幽霊は、拗ねたようにプクッと頬を膨らませていた。
幽霊は俺の顔をジッと見て、またグリンッと顔を正しい位置に戻す。
「…………ッ……」
「……」
終始無言で微笑んだままの幽霊と対峙する。
ドキドキと、心臓の音が響く中で。
「…………」
「……」
「…………ていうか、」
「……」
「あ、開けなくても勝手に入ってくるじゃん……いつも……」
震えた声でそう言うと、幽霊はたっぷり間を置いたあと、“バレちゃった”とでも言いたげに、口の端からペロッと舌を出した。そのタイミングで、再びスマホの通知が鳴る。幽霊を警戒しながら画面を覗くと、“コワガル レイ カワイイ”の文字。
呆気に取られる。完全にからかわれているんだと自覚した瞬間、今までの恐怖心が一気に薄れていった。
それから、恐らくこの気味の悪い幽霊に関係する骨を捨てに行こうとすると、目の前に立ちはだかられ、かれこれ十分以上攻防を繰り返していた。
「離せ!! 今すぐ捨てる!!」
俺は幽霊に後ろからぎゅっと抱き着かれながら、全く動かないものの必死にドアに手を伸ばす。幽霊はというと、そんな俺を可愛がるように頭を撫でながら何度も頬にキスをしている。めっちゃムカつく、なんだコイツ。
「もう、離せって……!」
幽霊を引き剥がすために身を捩って抵抗していると、不意に外からドンッ!と部屋のドアを蹴る音がした。ビクッと肩が震えて、手を止める。
「おい、澪〜、いんだろ? 声聞いたから誤魔化せねえぞ」
「お兄ちゃんたち金欠なんだよー、金よこせ金、この前母さんから貰ってんだろ」
義理の兄たちが、ドンドンとドアを蹴っていた。身体が強張る。どうしよう、なにか答えないと。でも食費は渡したくない。もしかしたら、また初めてできた友だちと遊びに行けることがあるかもしれないのに。渡したくない、でも、渡さなかったらまた殴られるのかな。
怖くて何も言えずにいると、幽霊がふわりと俺の前に来て、その冷たい手で俺の耳をそっと塞いだ。
そして、幽霊から溢れた黒い霧のような物が、ドアの隙間から向こう側へと伸びていった。
「…………?」
ただ呆然とする俺に、幽霊はニコッと笑いかける。微かに、義兄たちがバタバタ階段を降りて行く音が聞こえた。
幽霊は相変わらず黙って微笑んだまま、いそいそと再び自分で骨をベッドの下にしまい込んだあと、俺の手を握りベッドに寝るよう誘導する。緊張が抜けて抵抗する気力も失い、されるがままの俺は、隣に寝そべった幽霊の顔をうとうとしながら見上げる。
幽霊だから、表情とか顔色はまるで作り物のように生気を感じないけれど。
まるで童話に出てくる王子様みたいに、美しい容姿をしていると思った。
幽霊の腕の中で、頭を撫でられながら眠気に任せて目を閉じる。触れ合っている場所は全部冷たいのに、何故か父さんと母さんの温もりが浮かんだ。
寂しい思いも怖い思いもせず、こんなに安心して眠れた夜は、本当に久しぶりだった。
***
はじめて幽霊と眠った日から二週間。あの幽霊は、俺が一度受け入れてしまったからか前よりも頻繁に現れるようになった。特に夜に現れることが多く、何故だか知らないがいつもご機嫌な様子で俺を寝かしつけてくる。
頭を撫でたり、抱き締めたり、頬にキスをしたり、まるで親が子にするような愛情表現に、自分でもどうかと思うが徐々に慣れつつあった。それに今のところ俺に危害を加える気配は無さそうだし、抵抗しても無駄なのは身に染みているので、好きにさせる以外他になかった。
須永をはじめとする友だちも、あれからもよく遊びに誘ってくれて、人生で初めてというくらい充実した毎日を送っていた。
ある夜、ベッドに寝転びながらスマホで友だちとグループチャットをしていると、幽霊がまた後ろから俺に抱き着きながら画面越しに膨れっ面をしているのが見えた。そして手を伸ばし、画面にある名前たちをトントンと順番に指差す。
「なに、勝手に触るなよ」
そう言って振り返りながら軽く睨む。すると、幽霊はムッとしながらふるふると首を振って、またいつものように俺の頬に優しくキスをする。
通知が鳴った。別のトークルームで、幽霊が送ってくる謎アカウントから“コノコタチ ハ レイ ノ トナリ 二 イタラ ダメ”。文字を読んでもう一度睨むと、幽霊は深く頷く。意味分かんない。
「……分かってると思うけど、この人たちに何もするなよ、嫌がらせとか、怖がらせたりとか」
幽霊は不満そうに口を一文字に結ぶ。
「何かしたら骨捨てるし、もう口きかないから」
「……ッ!」
釘を刺すと、幽霊はガーンッと効果音が付きそうな程明らさまにショックを受けていた。関われば関わるほど表情が豊かになっていくなと思っていると、幽霊は誤魔化すように俺からスマホを取り上げ、いそいそと寝かし付けに入る。
慌ててる姿が何だか面白くて、目を閉じながら小さく笑ってしまった。
***
次の日の放課後、須永たちとみんなでカラオケに行くことになった。“クラスの友だちも連れて来て”って言われたけど、俺クラスに友だちいないんだけどなあと思いながら、何とか絞り出した候補として安達と委員長に声をかけてみるも、二人とも用事があってダメだった。
代わりに前から須藤たちに興味があったらしい、安達のギャル友だちである小金井瑠愛(こがねい・るな)と坂部美依沙(さかべ・みいさ)が行きたいと言ってくれてとても助かった。俺は流行りの歌とか知らないし、二人は安達と一緒で華やかで明るいし、盛り上げてくれるだろう。
ひと安心して、放課後になり男子たちだけで先にカラオケ店に入る。小金井や坂部を含め、他の人が誘った女子組は少し遅れるらしい。カラオケ自体初めてだけど、大人数なので特別広いパーティールームというところに入れられて、落ち着きなくソワソワしていると、隣に座っていた男子が俺の肩をトントンと叩いた。
「腹減ってたらこれで注文な」
「あ、うん」
「操作分かんなかったら聞けよ」
「ありがとう、伊崎(いざき)」
俺にタブレットを差し出したのは、少し長い黒髪に気怠げな雰囲気と口につけたピアスが特徴的な伊崎響(いざき・きょう)。不登校気味だが、俺の後ろの席のクラスメイトだった。
「……お前俺の名前知ってたんだ」
「? 当たり前だよ、クラスメイトじゃん」
「そうかよ」
伊崎が須藤たちと仲が良かったことは知らず、放課後会うのは今日が初めてだし、合流してから終始不機嫌そうで少し怖かったけれど、俺には親切にしてくれて、不良っぽいけど良い人だったんだと知る。
みんながドリンクバーで飲み物を取り終えて、曲を選んでいる最中にトイレで席を立つ。
部屋の前まで帰って来ると、扉が微かに開いていた。音が聞こえるまでちゃんと閉め切ったはずなのになと思いながら、中に入ろうと手を伸ばしたとき。
「藍沢マジ使えねー、なんでアイツ安達と真中釣ってこれねえんだよ」
「あんなつまんねーヤツにニコニコしてやった時間返して欲しいよな」
聞こえてきた冷たい声に、心臓が鷲掴みにされるような感覚が走る。
扉を開けられない。
「カラオケ初めてとか、あの顔持っててマジで遊んでねーんだなアイツ」
「だって一緒にいてもつまんねーもん」
ギャハハと、大きな笑い声が反響する。
するりと、ドアノブに掛けた手が落ちる。
「まあ小金井と坂部? 釣れたからいんじゃね」
いつもより低い須藤の声がする。
ああそうか、最初からそうだったんだ。
最初から。
放課後誘ってくれたのも、グループチャットで夜遅くまで話したのも、嬉しかったのは俺だけで、全部これが目的だったんだ。
“実は前からずっと仲良くなりたいと思ってたんだけど──”。
全部、全部。
「あの二人、安達や真中より股緩そうだし」
「こいつ最低だわ!」
笑い声の中で、ぼやけた視界から、床に向かって涙が落ちた。そのときだった。
背中に、ふわりと冷気が触れる。だらりとした手が、にぎにぎと確かめるように握られる。青白く冷たい、幽霊の手だった。
「……なんだよ、ばか」
こんなことで泣いているのが恥ずかしくて、顔を隠しながら小声で言うと、頭を撫でられる。
惨めな気持ちと、何だか温かいのとで心がごちゃごちゃして余計に涙が滲む。
幽霊は、俺の手を握ってそのまま、再びドアノブを握るように誘導した。
横を向いて顔を見ると、深く頷く。
俺は、袖で涙を拭いた。
その真っ黒な瞳が、今はここにある何よりも頼もしく、優しかった。
俺は意を決してドアノブを引っ張り、一歩踏み出す。
「……ごめん、話聞こえちゃった。俺帰るね」
「……え?」
「マジ?」
中に入って、呆然としているみんなを他所に鞄を取り、お金だけテーブルに置く。
「……今まで無理させてごめん、もう関わってくれなくていいから」
言ったくせに、少しだけ声が震えた。情けない。
さっさと部屋を出て廊下を早足に歩いていると、受付で坂部と小金井に会う。
「あれ、藍沢っちどーしたん?」
「帰んの?」
「あ、えっと……」
目を丸くする二人に、二人も行かない方がいいって説明したいけど、何て言えばいいか分からずに口篭る。すると。
「女子組お前ら最初? アイツらのこと本気で好きで何されてもいいって奴しか行かない方がいいぞ、ヤリモクだから」
「……はあ!?!」
「何それホント?」
俺の後ろから、伊崎が顔を出した。
二人は伊崎の言葉を聞いたあとに俺の顔をジッと見てから、怒りを爆発させる。
「正直あんま喋ったことない伊崎のことは信用ならんけど、藍沢のその顔見てたら本当っぽいね。クソすぎ」
「え、俺?」
「最っっ悪!! 他の子たちにもチャット回しとくから! 伊崎も教えてくれてありがとね!?」
「どいたまー」
小金井も坂部も、俺のことを信じてくれたみたいだった。
ちゃんと説明してくれたのは伊崎なのに。背の高い伊崎を見上げると、無表情のまま言った。
「……中学一緒だからって適当にアイツらとつるんでたけど、お前いねえなら“つまんねー”なって俺も抜けてきた」
「…………伊崎」
「アイツらの言うこと気にすんなよ。お前面白えから」
「……ありがとう……」
「横から見てたけど、機械音痴すぎてカルボナーラ10個頼んでたし、コイツオモロすぎるわって、俺の目に狂いは無かったね。お前が置いてった金多分全然足りねえよ」
「……え? は!? 待って、言えよ!?」
「藍沢っちやばー! ウケる!!」
「いやいや、ウチらのこと馬鹿にしていい気味じゃん、バレる前に早く逃げよ」
小金井がそう言うと、坂部と伊崎も逃げろ逃げろと乗っかってエレベーターに乗る。その間も、やっぱりお金は払った方がとゴネる俺を見て、真面目すぎなんだよと三人は笑った。
エレベーターを降りたあと、駅までの道を小金井と坂部の後ろを歩いていると、隣で静かに伊崎が口を開いた。
「……俺、学校嫌いであんまり行かねえのに、話したこともないお前が名前覚えてたの結構嬉しかったし」
見上げると、優しく微笑んでいた。
「さっきのは、根性あるなって思ったよ」
胸が熱くなる。俺はきっと、一人だったらただ逃げ出すだけで、あんな風に言って部屋を出る勇気は無かったと思う。あの時、アイツが手を握ってくれたから──そう思いかけて、ブンブンと頭を振る。
「わは、奇行。おもれー」
そう言って笑う伊崎を、いつの間にかまた俺に抱き着いていた幽霊は頬を膨らませ、睨み付けていた。でも何もしようとしないあたり、ただ嫉妬でもしているのだろうか。
何にせよ、今日はコイツの存在に救われてしまったのは事実だ。
「ザッキー、藍沢っちー、帰りマック寄ってこー!」
「ザッキーってもしかして俺?」
「アンタ以外いないでしょ」
「藍沢っちも、行こー!」
坂部たちが、夕焼けを背に俺を振り返って手招きをしている。
その笑顔を見ていると、じわり、じわりと瞼が熱くなる。今度は良い意味で。
「…………ありがとな」
幽霊にだけ聞こえるよう小声で言うと、幽霊は嬉しそうに笑って俺の頬にキスをしてから、フッと姿を消した。
俺も三人の元へ行く。初めてできた友だちは今日いなくなってしまったけれど、同時に新しい友だちができた。
辛かったけれど、笑顔で溢れた一日になった。
***
次の日の昼休み、遅れて登校してきた伊崎が廊下から俺を呼んだ。
「何? 一緒にお弁当食べたかったのに」
「悪かったって、俺朝起きれねんだよ」
廊下を歩きながら文句を言っていると、人気のない多目的室にたどり着く。
伊崎が扉を開けると、そこには二人の男子生徒がいた。美馬葵(みま・あおい)と八木力(やぎ・ちから)。どちらも変わり者と言われていて、あまり周りとは関わっていないクラスメイトだった。
「連れて来たぞ、葵(あおい)」
「ありがとう響ちゃん」
奥にいた、眼鏡で小柄な男子生徒の美馬が俺に駆け寄ってくる。その後ろから、一緒にいた八木がソワソワした様子で俺を見ている。八木は美馬とは対照的に大柄で、明るい茶髪が印象的だった。
「コイツら俺と同じ団地の幼なじみ。俺が藍沢と仲良くなったって言ったら、話したいことあるって」
伊崎から説明を聞いて、話したいことって何だろうと思ってると、美馬がゆっくりと口を開いた。
「急にごめんね。ずっと藍沢くんと話したかったんだけど、勇気が出なくて」
「……?」
「藍沢くんってさ、“見える人”だよね?」
「!」
美馬に落ち着いた声で指摘され、思わず目を見開く。
「雰囲気で分かってたんだけど、僕人見知りだし、藍沢くんみたいに綺麗な顔の人周りにいないから緊張しちゃって」
「いや、そんな……」
照れくさそうに笑う美馬の言葉に、他の二人が“おい”とツッコむ。
「藍沢くんも僕と同じで、昔から怖い思いとかして困ってたんじゃないかなと思うんだ。僕には幸い、霊が嫌う喧しくてアホで明るいこの二人がよく一緒にいてくれたから、随分助けられたんだけど」
他の二人が“おい”とまたツッコむ。口調は優しいけど意外と毒舌なんだなと思う。
「…………でさ、藍沢くん、今、物凄く強い怨念を持った霊が近くにいるよね?」
ドキッと心臓が跳ねる。もしかしなくても、あの幽霊のことだろう。
「……あ、う、うん……」
「そうなのか!? やべーー!」
「力くんちょっと黙って」
何故か瞳を輝かせる八木に、美馬がピシャリと言う。
初めて俺以外にあの幽霊を認識している人間に会って、これから何を言われるのか不安に思っている俺を他所に、八木は言われた通り黙ったものの何か言いたくて仕方なさそうだった。
「その霊、単体でいたらすごく危険なレベルの怨霊だと思うんだ。でも多分、藍沢くんの存在が彼の力を抑えてるんだと思う」
「え……どういうこと?」
「僕の推測だけど、彼は君に害を与える存在を次々に排除しようとしているように見えるんだ。二ヶ月くらい前かな、この辺にいた悪霊の類が一気に姿を消したのは分かるよね?」
「うん、それは確かに、見なくなったなって思ってた」
「恐らくそれは、藍沢くんの近くにいる彼が全て消してしまったんだと思う。僕らのような人は、霊に認識してることがバレてしまったら怖い目に遭うことが多いから」
「……そうだね、アイツが現れたのもそれくらいの時期だったよ」
「村岡くんのグループにも嫌がらせされてたって聞いた。村岡くんの家が火事になったのも、多分君を傷付けた報復なんだと思う。それに、柳くんも……」
そこまで言ったところで、美馬の顔が暗くなる。
「……? 柳のこと、何か知ってるの?」
「僕、その……ちょうど二ヶ月前くらいに学校にスマホ忘れちゃって、学校が閉まる少し前くらいの、結構遅くに取りに戻ったんだ。そしたら、その……柳くんが、藍沢くんの椅子を……」
美馬は言い淀むが、少し間を置いてから意を決したように息を吸う。
「藍沢くんの椅子を舐めて、その、じ、自慰行為をしていて……」
「え!?」
「キッッショ……」
ゾワッと背筋に悪寒が走る。伊崎も静かに引いている様子だった。
「今までもしていたのか分からないんだけど、ただ、その後ろからおぞましい形相で柳くんのことを見てたんだ……顔が、逆さまになった学ラン姿の霊が」
アイツの顔が浮かぶ。同時に、廊下のど真ん中、人前で床を舐めていた、柳の異常だったあの姿も。
「その霊を見て怖くて動けなくなっちゃって、そしたら柳くんに気付かれちゃってね……“誰かに言ったらお前といつもつるんでる八木を殺す”って、本気の感じで脅されて、怖くて藍沢くんに言えなかった……本当にごめん!」
美馬がバッ!と頭を下げる。
俺は慌てて肩に手を置き、美馬に顔を上げてもらって首を振った。
「……馬鹿だよなー、俺があんなヒョロヒョロにやられるわけねえのに!」
八木が、ケラケラと隣で明るく笑う。
八木はそう言うけど、大切な友だちを人質に取られたら言うことを聞くしかないだろう。美馬に同情する。
「言えなかった代わりと言ってはなんだけど、せめてもの抵抗として毎日朝早く登校して、朝とみんなが帰ってからの夕方、毎日こっそり空き教室の椅子と藍沢くんの椅子を入れ替えさせてもらってたんだ、勝手なことしてごめんね」
「そんなことまでしてくれてたのか……ありがとう」
力なく笑う美馬の優しさに、胸が熱くなる。
「話が逸れてごめん、とにかく、今藍沢くんの近くにいる霊について、もしかしたら怖い思いをしてるかもしれないんだけど、君に危害を加えることはないから安心していいと思う。村岡くんの件も、柳くんがああなったのも間違いなく霊の“呪い”だと思うけど、その呪いの矛先は“君を苦しめる存在”だと思うから」
“レイ ハ ボク ガ マモル”。幽霊が、俺に送ったメッセージを思い出す。
「それで、もし万が一、やっぱり怖いとか危害を加えられたとか、困ったことになったら何でも言って。お祓いしてくれる神社とか僕たくさん知ってるし、他の人に相談できなくても、僕なら聞けることがあると思うから」
美馬の気遣いに、今度は俺が頭を下げる。
「ありがとう……!」
ずっと分かってもらえる日なんて来ないと思っていた。不気味な笑みを向けられ、追いかけられ、見えないものが見える恐怖も、孤独も。ずっと独りで抱えていくものなのだと思っていた。
美馬の言葉は、小さい頃、独りで泣いていた自分を救ってくれるようだった。
「で、で、で!? 藍沢はどんなのに今まで会ったことあんの!? やっぱり幽霊ってみんな人型なん!? 海外のホラー映画に出てくる異形型みたいなのはいた!?」
ずっとソワソワしていた八木が、もう無理と言ったように頭を上げた俺に前のめりで聞いてくる。美馬曰く八木は全く見えないが“オカルトオタク”らしく、俺の話に興味津々だった。そして伊崎も、幽霊が見える、そばに強い怨霊がいると知ったあとも、俺に対して特に態度を変える様子はなかった。
伊崎、美馬、八木。三人に会って、心の中が一気に軽くなった気がした。
その日の夜。今日も俺の寝かし付けに現れた幽霊の顔をじっと見る。
「……また、逆さま」
布団に埋もれながら、小声で指摘して顔に手を伸ばすと、その手は空を掴む。俺から幽霊に触ることはできないみたいだ。
幽霊は、いつものように顔を正しい位置に戻したあと、照れたように両手を頬に添えていた。恋する乙女みたいな仕草だなと、ぼんやり思う。
今日も抱き締められ、トントンと背中を優しく叩かれる。ゆっくりと、睡魔が襲ってくる。
「……お前……本当に俺を守ってくれてるのか……?」
うとうとしながら問いかけるも、幽霊は何も答える素振りはなく、ただ微笑むだけだった。
「……もういい……ばか……」
触れないって分かっているのに。俺は言葉とは裏腹に、幽霊の背中に手を回していた。
ゆっくりと意識を手放す。
明日、起きてから伝えようと思った。ずっとここにいる気なら、もう幽霊幽霊って呼んでても仕方ないから名前を考えたこと。
でも上手く考えられなかったので、単純に幽霊だから“ユウ”にしようって思ったこと。
そして明日は、“ばか”じゃなくて、“おやすみ、ユウ”って言うんだと小さく思いながら、俺は今日も、冷たい温もりの中でそっと目を閉じた。
続
