ある夏の日の明け方。
さわさわと頭を触られる感覚がして意識が覚醒する。同時に嫌な予感と視線を感じてゆっくりと目を開けると、ドッ!!と大きく心臓が跳ねた。禍々しい真っ黒な瞳が、瞬きもせずジッと俺を見つめ、青白い手を俺の頭の方へと伸ばしている。そこにいたのは微笑を浮かべた、顔が逆さまになっている学ラン姿の男。人ならざるものであるのは明らかだった。
ドッドッドッと心臓の音が身体の中に響き渡る。呼吸が止まる。落ち着け。認識されていると思わせたら危害を加えられる。幼い頃から身に染みている。
それにしてもここ二週間ほどはパッタリとこういう類のものに遭遇しなかったのに、まさか部屋に入って来るなんて。一体どこで拾って来たんだ、心臓に悪すぎる。
目を合わせないように気を付けながら、ドクドクと鳴る心臓を押さえながらゆっくりと起き上がる。トイレに行きたくて起きたふりをして、存在を無視しながらベッドを降り、内鍵を開けてそっと部屋を出た。
ドアを背にしてやっとしっかり呼吸が出来る。声が出そうになったのを何とか堪えた自分を褒めてやりたかった。
しばらく経ってそっとドアを開けて部屋の中を覗くと、そこにはもう何もいなかった。ホッと胸をなでおろす。
シンとした静かな空気を深く吸い込む。あの幽霊のおかげでもう眠れそうにないし、早く支度をして学校が開くまでどこかで時間を潰そう。そうすれば家の人たちの顔を見なくて済む。
音を立てないよう気を付けながら、俺はさっさと学校に行く準備をして静かに家を出た。
俺の周りにおかしな事が起き始めたのは、この日からだった。
***
早く起こされたせいでまだ眠い。
ホームルームが始まるギリギリのタイミングであくびをしながら席に着く。すぐに、前の席に座っている長い金髪の女子生徒がくるりと振り返った。
「おはよー、今日も辛気臭えな藍沢(あいざわ)ー」
ニカッと明るく笑うその顔に、目を細める。
安達晴奈(あだち・はるな)。
物心がついた頃から霊感が強かったおかげで怖がりで、尚且つ大人しい性格もあって周りと馴染めなかった俺に対し、唯一何も考えずに話しかけてくる幼なじみだ。
「おはよ。お前は今日も朝からうるせえな」
「黙れし。てか寝不足? キレーなだけのその顔に覇気が無いよ。いや、いつもか」
「うるさい」
「……あ、お前また上履きパクられたん? 今年何個目よ」
「いいんだよ、別にもう」
安達が、来客用のスリッパを履いた俺の足元に目をやって呆れたようにため息を吐く。今に始まったことではないし、私物がよく無くなるのは上履きに限ったことでもない。
犯人は、いつも一人でいる俺を遠くから見てギャハハと嘲笑っている派手な男子たちか。それとも中学の頃から俺を嫌いなのか、いつも妙に居心地の悪い視線を送ってくる地味な男子の柳(やなぎ)か。どっちにしろ、もう気にするのにも飽きてしまった。
「……藍沢くん、面倒かもしれないけど少しは抗議しなきゃダメだよ? 私代わりに先生に相談してみようか?」
「優香ー、優しすぎ! コイツが毎日こんな辛気臭え顔してるから舐められんだって」
「ちょっと晴奈……」
「いいんだよ委員長、ありがとう」
「そう……? 何かできることあれば言ってね」
安達の隣の席で友だちの、クラス委員長である真中優香(まなか・ゆうか)が心配そうに俺を見る。真面目な優等生で、おまけに美人なクラスの人気者だけど、俺みたいな日陰者のことも気にかけてくれる優しい人だ。
チャイムが鳴り、担任が教室に入って来てホームルームが始まる。俺は窓の外をぼんやり眺めながら、もう一度あくびをした。
──ひとつめは、その日の放課後だった。
「え……何あれ……」
「キモ……」
「先生呼んだ方がいいよね」
帰るために昇降口まで降りると、人集りができていた。
背伸びをしてざわめきの中心を興味本位で覗いてみると、そこには一人の男子生徒が床を這っている姿があった。
体調が悪いのかなと思い、ジッと見つめると、思わずギョッとする。
ぐりん、と、血走らせ上を向いた目玉。
その男子生徒は、俺を中学の頃から嫌っている柳だった。床を這ってブツブツと何かを呟きながら、舌を出してしきりに何も無い床を舐めている。背中に悪寒が走る。明らかに異常だった。
周りの生徒たちは怖がって近付けないでいる。俺は迷ったが、人の合間を縫って前に出た。
「柳、柳」
「うゔ……あー…………」
「柳、大丈夫か? 保健室行こう、立てるか?」
「あ゛ぁ…………ううゔ〜…………」
躊躇いがちに背中を擦りながら声を掛けるも、柳はまるで獣のような呻き声を出しながら、状況が変わることはなかった。
どうしたもんかと焦っていると、ふと、同じ制服ではない学生服の足元が見えた。
ドクッッ、と、心臓が跳ねる。
まさか、あいつか?
今朝の幽霊の顔を思い出して、喉がすくむ。恐る恐る顔を上げると、そこには何もいなかった。
「はーいどいてどいて! 早く帰りなさい! 何なんだ柳、どうした!?」
「先生の声聞こえるかー?!」
俺が固まっている間に、誰かに呼ばれたのか二人の男の先生がやって来て、柳を起こした。
その内の一人の先生の顔を見て、身体の緊張が解ける。
「藍沢、見ててくれたんだな、ありがとう」
「いや、俺もさっき来ただけです」
「あとは先生たちに任せて藍沢も帰りな」
「はい、ありがとうございます」
「気を付けてな」
小高拓真(こだか・たくま)先生。俺たち一年の世界史を担当する若い先生で、生徒たちからの人望も厚い。そして家庭環境が良くない俺をいつも気にかけてくれる。ほぼ小高先生しか使わないという資料室の鍵を内緒で俺に渡してくれていて、今朝も、早朝に登校した俺は世界史の資料室で本を読んだり仮眠を取って過ごしていた。入学当初から居場所のない俺に逃げ場を与えてくれた、本当に優しい先生だ。
明るい笑顔で手を振る小高先生に俺も手を振り返して、解散した人混みに混じり立ち上がる。
「………っ!」
自分の靴箱の扉を開けると、ビクッと肩が震える。内側に、無数の黒い手形があった。そして中には自分の靴と、過去に無くなったはずの俺の上履き三足が詰め込まれてあった。恐る恐る、ボロボロになった上履きを手に取ると、少し湿っている。
下校する生徒たちの賑やかな声が遠くに聞こえる。蝉時雨が響いている。
不気味に笑っていたあの幽霊の青白い顔が、しばらく頭から離れなかった。
***
今日も家の人たちがちょうど食事をしている頃に家に帰る。そっと鍵を開け、中に入ると、誰もいないと思っていた廊下には義理の母である萌(もえ)さんが立っていた。人の良さそうな笑みを浮かべている。
「……ぁ、……」
「ママに“ただいま”の一言も言えないの? さすがあの女の息子ね、澪(れい)くん」
「……た、ただいま……帰りました……」
「おかえりなさい」
グッ、と、鞄の持ち手を握る手に力が入る。
リビングからは、萌さんの連れ子である二人の義理の兄の楽しそうな声が漏れていた。
「そろそろ無くなる頃かと思って」
萌さんが俺に近付いてきて、俺の胸にドンッと拳を当てる。その手には、クシャクシャになった三万円が握られていた。
「分かってると思うけど、これからも隆人(たかと)さんが帰ってくる日以外は、私たちがいる時にリビングには入って来ないでね」
「……はい……」
「ふふ、良い子。じゃあ今のうちにお風呂に入って、さっさと二階に上がりなさい」
萌さんはそう言って微笑み、さっさとリビングの中に入っていった。
俺はお金を鞄に突っ込み、言われたとおりに早く風呂に入って二階に駆け上がり、ドアの内鍵を閉めてテレビをつけ、買っておいたコンビニ弁当を出して食べる。
この家は大きいだけで良いところなんてひとつも無いと思っていたが、大きいが故に一度自室に入ってしまうと、外の音は聞こえない。その一点だけは、余計な寂しさも感じず落ち着くことができて良い。自分で部屋に内鍵を付けたのは、ここにだけはあの人たちに踏み込まれたくないという小さな抵抗だった。
ご飯を食べ終えると、ふうっと深く息を吐く。なんか今日は色々あって疲れた。早く寝よう。ベッドによじ登って、布団の中に潜り込む。
眠りに入って見た夢は、俺が幼い頃の夢だった。
容姿端麗の両親の元に生まれた。父は代々続く大企業の創設者一族の四男で、今も仕事で全国を飛び回り多忙にしている将来有望なエリート。実母はその美貌を活かして、本名の如月梨華(きさらぎ・りか)の名前でファッションモデルや俳優をしている。
父さんは、自身の会社の役員から母さんを紹介されて結婚した。生まれた俺は色んな人に可愛い可愛いと愛された。
父さんは寡黙で不器用で、その上多忙でほとんど家にいなかったけれど、幼い頃はわざわざ毎晩手紙を書いて俺とコミュニケーションを取ろうと頑張ってくれて、疲れているにも関わらず休日や暇ができたときは必ず俺と遊んだり家族を旅行に連れて行ってくれて、母さんに笑われながら、不器用なりにも一緒に家事をこなしていた。
母さんはいつも綺麗でとても優しくて、仕事が忙しい中でも彩り豊かで美味しいご飯やお弁当を作ってくれた。小さな俺がどんなにわがままを言っても、みんなには見えない怖いものを見て泣き喚いても、優しく“大丈夫よ”と言いながら頭を撫でてくれた。買い物に出かけるたび、“パパには内緒ね”といたずらっ子のように笑って、好きなお菓子や本をたくさん買ってくれた。大好きな母さんを思って描いた似顔絵やビーズで作ったプレゼントなんかも、とても喜んでくれた。“澪は本当に可愛いね”と口癖のように言いながらたくさん俺の写真を撮っていた、愛で溢れた人だった。
そんな父さんと母さんは、俺が小学校三年生になる頃に離婚した。
俺はてっきり母さんの方に引き取られると思っていたが、親権を持ったのは父さんだった。母さんが家を出て行く日、わんわん泣き喚きながら縋り付く俺を、母さんは悲しそうに抱き締めた。玄関を出て行く母さんの背中を見て、父さんはどんな顔をしているのか、もし同じように悲しんでいるのなら、少しでもまだ三人一緒にいられる望みはないかと泣きながら見上げたとき。
俺は父さんの、憎しみに満ちた表情を見て背筋を凍らせた。
それから、父さんは俺が母さんに会うことを許さなかった。でも父さんが俺が中学一年の頃に再婚し、会社で昇進したり出張が多くなって、そのタイミングで母さんが内緒で俺の学校の近くまで会いに来てくれた。きっと再婚の話をどこかで聞いて、俺を心配してくれたのだろう。
再婚で一緒に住むことになった萌さんと連れ子の兄さんたちは、再婚するまでに何度も面会した。一緒に暮らすまでは本当に優しくて良い人たちで、この人たちと家族になれたら本当に嬉しいと思ったのに、中三の頃、父さんの仕事が一層忙しくなって家を空けがちになった途端に豹変した。今では父さんの前でだけ俺を“家族”として扱い、普段は同居人以下の扱いをする。特に父さんのことを異常に愛している萌さんは、母さんにそっくりな俺を心の底から嫌っていた。
すぐ父さんに相談しようと思ったけれど、やめた。ずっと今まで一切手を抜くことなく一人で責任の重い仕事と家事をこなし、俺にもたくさん愛情を注いでくれる父さんが、新しい家族を前にして少し肩の荷が軽くなったように笑う姿を見て、邪魔はしたくないと思った。自分が高校を卒業して家を出るまで、何とか我慢すればいい。
父さんのことは尊敬しているし、大好きだ。家を空けがちなっても時間ができたら俺に電話をかけてきて気にかけてくれているし、ずっと萌さんたちに偽りの姿を見せられ、騙されていることも分かっている。
でもあの人と再婚したことは、母さんと引き離して新しい家族と俺を引き合わせたことだけは、理不尽な気持ちだと自覚しつつ本音では恨んでいる。
だから、不定期に父さんに内緒で母さんに会って、笑い合いながら一緒にご飯を食べる時間は、俺がありのままでいられる数少ない幸せな時間なのだ。
夢の中で、母さんに頭を撫でられる景色が浮かんだ。あったかい。幸せだ。もう朝なんて来なくていいから、ずっとこのまままがいい。子どもの自分が、母さんに甘えるように手を伸ばす。
────ピピピッ、ピピピッ。
スマホのアラーム音が響いて、幸せな景色は煙のように晴れて消えてしまった。
布団に埋もれたまま薄ら開いた目に、窓から差し込む朝陽と涙が滲んだ。
***
朝。今日は早めに教室の前に着くと、何やら大きな笑い声が響いていた。
「オラ、昨日みたいに膝着いてやってみろよ〜」
「マジイカれてんだろお前」
「や、やめてよ……本当に何も覚えてないんだって……!」
静かに扉を開けて教室に入ると、黒板の近くでは柳が派手な男子たちに囲まれてからかわれていた。とても顔色が悪い。まだ体調が治っていないのだろうか。
横目で様子を伺いながら席に着くと、安達がくるりと振り返った。
「はよー」
「おはよ……なあ、あれ大丈夫なのかな」
「あー……」
安達は俺が“あれ”と言った光景に目をやり、呆れたように肩をすくめる。
「ほんとしょーもないよね」
「お前ああいうの放置できるタイプだっけ」
「アンタが来る前に言ったよ。“くだらねえことしてんじゃねーよ”って! 女子の言うことなんて聞きやしねーのよ」
「…………」
「ん? 藍沢?」
俺は机に鞄を置いて、柳たちの方に向かった。俺は本来気が弱くて、身体も男にしては華奢な方だし、安達くらいしか軽口を叩けるような相手もいない。でも昔から妙な正義感だけはあった。そのせいで好かれなかったこともあるだろう。
それでも、緊張でドキドキと心臓が鳴るのを自覚しながら、思い出すのは両親の顔。
“大丈夫、大丈夫よ”
“澪のことは何があっても父さんが守るから”
怖いものを見た時や、それを近所の子どもたちにからかわれていじめられた時。二人はいつも駆け付けて、俺を守って、抱き締めてくれた。
たとえ離れ離れでも、二人の子どもである俺も、いつだって目の前の間違ったことから目を背けない凛とした人間でありたい。
「昨日は体調悪かったんだろ、いじったりするなよ。嫌がってるだろ」
「あ? 急に喋り出してどうしたのお前」
「影薄すぎて忘れてたわ」
「お前アレがただの体調不良に見えたのかよ、頭どうかしてんだろ」
相変わらず大声でギャハハと下品に笑う。何も言い返さずにただジッと睨み付けていると、徐々に白けたような表情を浮かべた。そのタイミングで、隣から委員長が声を上げた。
「藍沢くんの言う通りだよ! 子どもみたいなことやめなって!」
委員長が俺に加勢してくれるようにそう言うと、男子たちはつまんなそうな顔で柳から離れて行った。その中心人物である、金髪の村岡は俺と委員長を睨んで舌打ちし、大きな音を立てて仲間と教室を出て行った。俺はふうっと深く息を吐き、委員長の方を向く。
「委員長、ありがとう。俺だけだったら絶対聞いてくれなかった」
「ううん、藍沢くんが行動したからだよ」
委員長は胸に手を当て、緊張したーと顔を赤らめて笑った。俺も釣られて笑う。
「お人好しコンビ〜」
「かっこいいー!」
安達を含む委員長の友だちのギャルたちが、そんな俺たちをからかう。委員長は、もう!と言いながら恥ずかしそうに友だちの方へ行った。
柳は大丈夫かなと振り返ると、一瞬呼吸が止まる。もしかしたら俺が人前で庇ったことでプライドを傷つけてしまったのだろうか。柳は顔を赤くし、長い前髪の隙間から、凄まじい怒りのこもった瞳で俺をジッと上目遣いに見ていた。
「ご、ごめん、余計なことしたかな……」
動揺で声を震わせながら問いかけると、柳はブツブツと聞こえない声で何かを言いながら、鞄を抱き抱えて走って教室を出て行ってしまった。
呆然としているうちに、チャイムが鳴り響く。
「……しゃーないよ、あんま気にすんな」
安達が軽く言って、励ますように俺の背中を叩いた。
勝手な正義感で一人盛り上がって、無神経なことをしてしまったのだろうか。助けを求められたわけじゃないから、柳の気持ちを置き去りにしたのは確かだ。自尊心を傷付けてしまったかもしれない。明日でも、また会えたら謝ったほうがいいよな。チクチクと針で刺されるような後悔に苛まれながら、俺は先生が教室に入ってくるのと同時に席に着いた。
次の日から柳は学校に来なくなり、謝罪はできず、俺に対しては派手な男子たちから明確な嫌がらせが始まった。嫌がらせといっても集団で行われるものは相変わらず文具や教材などの私物が無くなったり、それがゴミ箱に入れられていたりするくらいだったが、一番厄介なのは村岡からの暴力だった。
俺が一人でいるところを狙っては後ろから服を掴み、トイレや廊下の隅に連れて行かれて殴ったり蹴られたりした。たまにその様子が委員長に見付かって激しく怒られると、暴力は加速した。どうやら委員長に特別な感情でもあるようだった。
そういう目は分かる。俺を罵る時の萌さんと同じだから。
心を無にして耐えるのは慣れていた。暴力は義理の兄たちから頻繁に受けていて、もう強い痛みはあまり感じなかったから、学校にも変わらず通い、特に誰かに相談することもなかった。でも俺が無反応でいることが気に食わなかったのか、ある日の放課後、村岡は俺を校舎の裏庭に連れて行ってひとしきり殴ったあと、自分のポケットからいつも吸っているのであろう煙草を取り出し、火をつけた。
煙草を持って、暴力の痕を隠すために着ている俺の長袖を捲る。
「……!? やめッ……!」
「ポーカーフェイスの藍沢くんもこれは怖えんだ?」
嫌な笑みを浮かべ、暴れる俺に村岡が煙草を押し付けようとしたときだった。
「何やってんだ!!!」
校舎の方から声が響いて、ビクリと肩が震える。キョロキョロと首を振ると、小高先生がこっちに駆け寄って来ていた。
村岡は煙草を持ったまま舌打ちをして、走って逃げて行った。
「藍沢、大丈夫か!?」
「あ、はい……ありがとうございます」
「すぐ保健室に行こう。立てるか?」
「はい……」
小高先生の顔を見て、どうしようもなくホッとする。先生の手を取って立ち上がろうとした時。
ドクンッ、と、心臓が鳴った。
「? 藍沢?」
冷や汗が背中を伝う。
裏庭の奥にある木の向こうから、逆さまの青白い顔が、ニコリと笑いながらこっちを見ていた。
一気に襲ってきた、今まで感じたことのない気味の悪さに背筋が凍る。渦巻く黒い瞳に、捕まって息ができなくなる。
「藍沢……? おい、藍沢?」
金縛りに会った時のような状態になった俺の身体を、小高先生が揺さぶる。
ハッと我に返り、浅い呼吸をしながら瞬きをすると、あの幽霊はパッと姿を消した。
「す、すみません、俺……」
「顔色も悪いな、熱中症かも。ほら、乗れ」
小高先生が俺に背を向けてしゃがむ。
背負われて小高先生の温もりに触れると、冷たくなった指先からゆっくりと身体に熱が戻って来て、すぐに意識が遠退いていった。
──ふたつめは、その次の日だった。
俺が朝登校すると、柳は変わらず来ていなくて、村岡もいなかった。教室はざわざわと不穏な空気が流れていて、特にいつもはワーワー騒いでいる派手な男子たちの顔が暗かった。
「……何かあったの?」
机に鞄を置いて安達に話しかけると、安達も気まずそうに口を開いた。
「村岡ん家、昨日火事になったらしいよ。家族は無事らしいけど、村岡は結構火傷酷いみたいで……」
「え……それは……気の毒だね……」
「まあね。また理由がさ、」
暴力を受けていた相手なので正直同情はしないが、本当に気の毒には思う。
そして、安達の次の言葉に、俺は静かに息を飲んだ。
「村岡の“煙草の不始末”なんだって」
“罪悪感ハンパなさそうー”という安達の声と、教室のざわめきが遠ざかっていった。
火事。煙草の不始末。暴力。いじめ。嫉妬。村岡。
無くなって、返ってきた上履き。柳の“体調不良”。俺に妙な視線を送る柳。
頭の奥で、幽霊が逆さまの顔で笑う。
「…………藍沢? 大丈夫?」
安達の声に、慌てて大丈夫と答え、首に流れた汗を袖で拭う。
窓の外では夏の太陽が煌々と輝き、俺の影をどこまでも深くした。
***
その日の夜。ニュースにもなっていた村岡の家の火事や、柳のことについてもモヤモヤとした気持ちを抱えながら、宿題をしたり本を読んだりして部屋で静かに過ごしていると。
ベッドの下から、カサカサと小さな音がした。
カサカサ、カサカサ。何かが移動するような音。ゴキブリでもいるのかと思って、ベッドの下を覗き込むと。
「……ヒィッ!?!」
闇から逆さまの笑顔がこっちを見ていて、俺はその場で腰を抜かした。
バックン! バックン!と警報のように心臓の音が響く。幽霊はぬるりとベッドの下から出て来て、丸まった新聞紙を抱えたまま俺の方へとゆっくりと歩み寄る。
俺は腰を抜かしたまま後退り、壁に背中が当たる。
幽霊が、俺に手を伸ばす。ゴト、と、幽霊が落とした新聞紙に包まれた何かが大きな音を立てる。俺は幼い頃、何度も怖い思いをした記憶がフラッシュバックして、パニックになりながらやめてくれと首を振る。
そんな俺の頬を、幽霊は優しく撫でる。
冷たい手に、身体が大きく震える。
幽霊が、怯える俺の瞳をジッと見てから、何かに気付いたように自分の手でグリン!と自分の顔をひっくり返し、人間と同じ“形”になる。
咄嗟に浮かんだのは、村岡と柳の顔だった。
殺される、殺される殺される!
そう思って身体を強張らせたが、幽霊は、俺に危害を加えることなくただ頭を撫でると、真っ黒な瞳のまま微笑み、パッと消えた。
「──っぷはぁっ! はあっ、はあっ……」
胸の辺りの服を掴んで、横に倒れ込んで必死に息をする。
少しずつ、呼吸と心臓が落ち着き始めた頃、幽霊が落とした丸い新聞紙の端がペラリとめくれた。そこにあったものに、俺はまた息を飲む。
半壊した頭蓋骨の目の空洞が、あの幽霊と同じように、ジッとこっちを見つめていた。
続
さわさわと頭を触られる感覚がして意識が覚醒する。同時に嫌な予感と視線を感じてゆっくりと目を開けると、ドッ!!と大きく心臓が跳ねた。禍々しい真っ黒な瞳が、瞬きもせずジッと俺を見つめ、青白い手を俺の頭の方へと伸ばしている。そこにいたのは微笑を浮かべた、顔が逆さまになっている学ラン姿の男。人ならざるものであるのは明らかだった。
ドッドッドッと心臓の音が身体の中に響き渡る。呼吸が止まる。落ち着け。認識されていると思わせたら危害を加えられる。幼い頃から身に染みている。
それにしてもここ二週間ほどはパッタリとこういう類のものに遭遇しなかったのに、まさか部屋に入って来るなんて。一体どこで拾って来たんだ、心臓に悪すぎる。
目を合わせないように気を付けながら、ドクドクと鳴る心臓を押さえながらゆっくりと起き上がる。トイレに行きたくて起きたふりをして、存在を無視しながらベッドを降り、内鍵を開けてそっと部屋を出た。
ドアを背にしてやっとしっかり呼吸が出来る。声が出そうになったのを何とか堪えた自分を褒めてやりたかった。
しばらく経ってそっとドアを開けて部屋の中を覗くと、そこにはもう何もいなかった。ホッと胸をなでおろす。
シンとした静かな空気を深く吸い込む。あの幽霊のおかげでもう眠れそうにないし、早く支度をして学校が開くまでどこかで時間を潰そう。そうすれば家の人たちの顔を見なくて済む。
音を立てないよう気を付けながら、俺はさっさと学校に行く準備をして静かに家を出た。
俺の周りにおかしな事が起き始めたのは、この日からだった。
***
早く起こされたせいでまだ眠い。
ホームルームが始まるギリギリのタイミングであくびをしながら席に着く。すぐに、前の席に座っている長い金髪の女子生徒がくるりと振り返った。
「おはよー、今日も辛気臭えな藍沢(あいざわ)ー」
ニカッと明るく笑うその顔に、目を細める。
安達晴奈(あだち・はるな)。
物心がついた頃から霊感が強かったおかげで怖がりで、尚且つ大人しい性格もあって周りと馴染めなかった俺に対し、唯一何も考えずに話しかけてくる幼なじみだ。
「おはよ。お前は今日も朝からうるせえな」
「黙れし。てか寝不足? キレーなだけのその顔に覇気が無いよ。いや、いつもか」
「うるさい」
「……あ、お前また上履きパクられたん? 今年何個目よ」
「いいんだよ、別にもう」
安達が、来客用のスリッパを履いた俺の足元に目をやって呆れたようにため息を吐く。今に始まったことではないし、私物がよく無くなるのは上履きに限ったことでもない。
犯人は、いつも一人でいる俺を遠くから見てギャハハと嘲笑っている派手な男子たちか。それとも中学の頃から俺を嫌いなのか、いつも妙に居心地の悪い視線を送ってくる地味な男子の柳(やなぎ)か。どっちにしろ、もう気にするのにも飽きてしまった。
「……藍沢くん、面倒かもしれないけど少しは抗議しなきゃダメだよ? 私代わりに先生に相談してみようか?」
「優香ー、優しすぎ! コイツが毎日こんな辛気臭え顔してるから舐められんだって」
「ちょっと晴奈……」
「いいんだよ委員長、ありがとう」
「そう……? 何かできることあれば言ってね」
安達の隣の席で友だちの、クラス委員長である真中優香(まなか・ゆうか)が心配そうに俺を見る。真面目な優等生で、おまけに美人なクラスの人気者だけど、俺みたいな日陰者のことも気にかけてくれる優しい人だ。
チャイムが鳴り、担任が教室に入って来てホームルームが始まる。俺は窓の外をぼんやり眺めながら、もう一度あくびをした。
──ひとつめは、その日の放課後だった。
「え……何あれ……」
「キモ……」
「先生呼んだ方がいいよね」
帰るために昇降口まで降りると、人集りができていた。
背伸びをしてざわめきの中心を興味本位で覗いてみると、そこには一人の男子生徒が床を這っている姿があった。
体調が悪いのかなと思い、ジッと見つめると、思わずギョッとする。
ぐりん、と、血走らせ上を向いた目玉。
その男子生徒は、俺を中学の頃から嫌っている柳だった。床を這ってブツブツと何かを呟きながら、舌を出してしきりに何も無い床を舐めている。背中に悪寒が走る。明らかに異常だった。
周りの生徒たちは怖がって近付けないでいる。俺は迷ったが、人の合間を縫って前に出た。
「柳、柳」
「うゔ……あー…………」
「柳、大丈夫か? 保健室行こう、立てるか?」
「あ゛ぁ…………ううゔ〜…………」
躊躇いがちに背中を擦りながら声を掛けるも、柳はまるで獣のような呻き声を出しながら、状況が変わることはなかった。
どうしたもんかと焦っていると、ふと、同じ制服ではない学生服の足元が見えた。
ドクッッ、と、心臓が跳ねる。
まさか、あいつか?
今朝の幽霊の顔を思い出して、喉がすくむ。恐る恐る顔を上げると、そこには何もいなかった。
「はーいどいてどいて! 早く帰りなさい! 何なんだ柳、どうした!?」
「先生の声聞こえるかー?!」
俺が固まっている間に、誰かに呼ばれたのか二人の男の先生がやって来て、柳を起こした。
その内の一人の先生の顔を見て、身体の緊張が解ける。
「藍沢、見ててくれたんだな、ありがとう」
「いや、俺もさっき来ただけです」
「あとは先生たちに任せて藍沢も帰りな」
「はい、ありがとうございます」
「気を付けてな」
小高拓真(こだか・たくま)先生。俺たち一年の世界史を担当する若い先生で、生徒たちからの人望も厚い。そして家庭環境が良くない俺をいつも気にかけてくれる。ほぼ小高先生しか使わないという資料室の鍵を内緒で俺に渡してくれていて、今朝も、早朝に登校した俺は世界史の資料室で本を読んだり仮眠を取って過ごしていた。入学当初から居場所のない俺に逃げ場を与えてくれた、本当に優しい先生だ。
明るい笑顔で手を振る小高先生に俺も手を振り返して、解散した人混みに混じり立ち上がる。
「………っ!」
自分の靴箱の扉を開けると、ビクッと肩が震える。内側に、無数の黒い手形があった。そして中には自分の靴と、過去に無くなったはずの俺の上履き三足が詰め込まれてあった。恐る恐る、ボロボロになった上履きを手に取ると、少し湿っている。
下校する生徒たちの賑やかな声が遠くに聞こえる。蝉時雨が響いている。
不気味に笑っていたあの幽霊の青白い顔が、しばらく頭から離れなかった。
***
今日も家の人たちがちょうど食事をしている頃に家に帰る。そっと鍵を開け、中に入ると、誰もいないと思っていた廊下には義理の母である萌(もえ)さんが立っていた。人の良さそうな笑みを浮かべている。
「……ぁ、……」
「ママに“ただいま”の一言も言えないの? さすがあの女の息子ね、澪(れい)くん」
「……た、ただいま……帰りました……」
「おかえりなさい」
グッ、と、鞄の持ち手を握る手に力が入る。
リビングからは、萌さんの連れ子である二人の義理の兄の楽しそうな声が漏れていた。
「そろそろ無くなる頃かと思って」
萌さんが俺に近付いてきて、俺の胸にドンッと拳を当てる。その手には、クシャクシャになった三万円が握られていた。
「分かってると思うけど、これからも隆人(たかと)さんが帰ってくる日以外は、私たちがいる時にリビングには入って来ないでね」
「……はい……」
「ふふ、良い子。じゃあ今のうちにお風呂に入って、さっさと二階に上がりなさい」
萌さんはそう言って微笑み、さっさとリビングの中に入っていった。
俺はお金を鞄に突っ込み、言われたとおりに早く風呂に入って二階に駆け上がり、ドアの内鍵を閉めてテレビをつけ、買っておいたコンビニ弁当を出して食べる。
この家は大きいだけで良いところなんてひとつも無いと思っていたが、大きいが故に一度自室に入ってしまうと、外の音は聞こえない。その一点だけは、余計な寂しさも感じず落ち着くことができて良い。自分で部屋に内鍵を付けたのは、ここにだけはあの人たちに踏み込まれたくないという小さな抵抗だった。
ご飯を食べ終えると、ふうっと深く息を吐く。なんか今日は色々あって疲れた。早く寝よう。ベッドによじ登って、布団の中に潜り込む。
眠りに入って見た夢は、俺が幼い頃の夢だった。
容姿端麗の両親の元に生まれた。父は代々続く大企業の創設者一族の四男で、今も仕事で全国を飛び回り多忙にしている将来有望なエリート。実母はその美貌を活かして、本名の如月梨華(きさらぎ・りか)の名前でファッションモデルや俳優をしている。
父さんは、自身の会社の役員から母さんを紹介されて結婚した。生まれた俺は色んな人に可愛い可愛いと愛された。
父さんは寡黙で不器用で、その上多忙でほとんど家にいなかったけれど、幼い頃はわざわざ毎晩手紙を書いて俺とコミュニケーションを取ろうと頑張ってくれて、疲れているにも関わらず休日や暇ができたときは必ず俺と遊んだり家族を旅行に連れて行ってくれて、母さんに笑われながら、不器用なりにも一緒に家事をこなしていた。
母さんはいつも綺麗でとても優しくて、仕事が忙しい中でも彩り豊かで美味しいご飯やお弁当を作ってくれた。小さな俺がどんなにわがままを言っても、みんなには見えない怖いものを見て泣き喚いても、優しく“大丈夫よ”と言いながら頭を撫でてくれた。買い物に出かけるたび、“パパには内緒ね”といたずらっ子のように笑って、好きなお菓子や本をたくさん買ってくれた。大好きな母さんを思って描いた似顔絵やビーズで作ったプレゼントなんかも、とても喜んでくれた。“澪は本当に可愛いね”と口癖のように言いながらたくさん俺の写真を撮っていた、愛で溢れた人だった。
そんな父さんと母さんは、俺が小学校三年生になる頃に離婚した。
俺はてっきり母さんの方に引き取られると思っていたが、親権を持ったのは父さんだった。母さんが家を出て行く日、わんわん泣き喚きながら縋り付く俺を、母さんは悲しそうに抱き締めた。玄関を出て行く母さんの背中を見て、父さんはどんな顔をしているのか、もし同じように悲しんでいるのなら、少しでもまだ三人一緒にいられる望みはないかと泣きながら見上げたとき。
俺は父さんの、憎しみに満ちた表情を見て背筋を凍らせた。
それから、父さんは俺が母さんに会うことを許さなかった。でも父さんが俺が中学一年の頃に再婚し、会社で昇進したり出張が多くなって、そのタイミングで母さんが内緒で俺の学校の近くまで会いに来てくれた。きっと再婚の話をどこかで聞いて、俺を心配してくれたのだろう。
再婚で一緒に住むことになった萌さんと連れ子の兄さんたちは、再婚するまでに何度も面会した。一緒に暮らすまでは本当に優しくて良い人たちで、この人たちと家族になれたら本当に嬉しいと思ったのに、中三の頃、父さんの仕事が一層忙しくなって家を空けがちになった途端に豹変した。今では父さんの前でだけ俺を“家族”として扱い、普段は同居人以下の扱いをする。特に父さんのことを異常に愛している萌さんは、母さんにそっくりな俺を心の底から嫌っていた。
すぐ父さんに相談しようと思ったけれど、やめた。ずっと今まで一切手を抜くことなく一人で責任の重い仕事と家事をこなし、俺にもたくさん愛情を注いでくれる父さんが、新しい家族を前にして少し肩の荷が軽くなったように笑う姿を見て、邪魔はしたくないと思った。自分が高校を卒業して家を出るまで、何とか我慢すればいい。
父さんのことは尊敬しているし、大好きだ。家を空けがちなっても時間ができたら俺に電話をかけてきて気にかけてくれているし、ずっと萌さんたちに偽りの姿を見せられ、騙されていることも分かっている。
でもあの人と再婚したことは、母さんと引き離して新しい家族と俺を引き合わせたことだけは、理不尽な気持ちだと自覚しつつ本音では恨んでいる。
だから、不定期に父さんに内緒で母さんに会って、笑い合いながら一緒にご飯を食べる時間は、俺がありのままでいられる数少ない幸せな時間なのだ。
夢の中で、母さんに頭を撫でられる景色が浮かんだ。あったかい。幸せだ。もう朝なんて来なくていいから、ずっとこのまままがいい。子どもの自分が、母さんに甘えるように手を伸ばす。
────ピピピッ、ピピピッ。
スマホのアラーム音が響いて、幸せな景色は煙のように晴れて消えてしまった。
布団に埋もれたまま薄ら開いた目に、窓から差し込む朝陽と涙が滲んだ。
***
朝。今日は早めに教室の前に着くと、何やら大きな笑い声が響いていた。
「オラ、昨日みたいに膝着いてやってみろよ〜」
「マジイカれてんだろお前」
「や、やめてよ……本当に何も覚えてないんだって……!」
静かに扉を開けて教室に入ると、黒板の近くでは柳が派手な男子たちに囲まれてからかわれていた。とても顔色が悪い。まだ体調が治っていないのだろうか。
横目で様子を伺いながら席に着くと、安達がくるりと振り返った。
「はよー」
「おはよ……なあ、あれ大丈夫なのかな」
「あー……」
安達は俺が“あれ”と言った光景に目をやり、呆れたように肩をすくめる。
「ほんとしょーもないよね」
「お前ああいうの放置できるタイプだっけ」
「アンタが来る前に言ったよ。“くだらねえことしてんじゃねーよ”って! 女子の言うことなんて聞きやしねーのよ」
「…………」
「ん? 藍沢?」
俺は机に鞄を置いて、柳たちの方に向かった。俺は本来気が弱くて、身体も男にしては華奢な方だし、安達くらいしか軽口を叩けるような相手もいない。でも昔から妙な正義感だけはあった。そのせいで好かれなかったこともあるだろう。
それでも、緊張でドキドキと心臓が鳴るのを自覚しながら、思い出すのは両親の顔。
“大丈夫、大丈夫よ”
“澪のことは何があっても父さんが守るから”
怖いものを見た時や、それを近所の子どもたちにからかわれていじめられた時。二人はいつも駆け付けて、俺を守って、抱き締めてくれた。
たとえ離れ離れでも、二人の子どもである俺も、いつだって目の前の間違ったことから目を背けない凛とした人間でありたい。
「昨日は体調悪かったんだろ、いじったりするなよ。嫌がってるだろ」
「あ? 急に喋り出してどうしたのお前」
「影薄すぎて忘れてたわ」
「お前アレがただの体調不良に見えたのかよ、頭どうかしてんだろ」
相変わらず大声でギャハハと下品に笑う。何も言い返さずにただジッと睨み付けていると、徐々に白けたような表情を浮かべた。そのタイミングで、隣から委員長が声を上げた。
「藍沢くんの言う通りだよ! 子どもみたいなことやめなって!」
委員長が俺に加勢してくれるようにそう言うと、男子たちはつまんなそうな顔で柳から離れて行った。その中心人物である、金髪の村岡は俺と委員長を睨んで舌打ちし、大きな音を立てて仲間と教室を出て行った。俺はふうっと深く息を吐き、委員長の方を向く。
「委員長、ありがとう。俺だけだったら絶対聞いてくれなかった」
「ううん、藍沢くんが行動したからだよ」
委員長は胸に手を当て、緊張したーと顔を赤らめて笑った。俺も釣られて笑う。
「お人好しコンビ〜」
「かっこいいー!」
安達を含む委員長の友だちのギャルたちが、そんな俺たちをからかう。委員長は、もう!と言いながら恥ずかしそうに友だちの方へ行った。
柳は大丈夫かなと振り返ると、一瞬呼吸が止まる。もしかしたら俺が人前で庇ったことでプライドを傷つけてしまったのだろうか。柳は顔を赤くし、長い前髪の隙間から、凄まじい怒りのこもった瞳で俺をジッと上目遣いに見ていた。
「ご、ごめん、余計なことしたかな……」
動揺で声を震わせながら問いかけると、柳はブツブツと聞こえない声で何かを言いながら、鞄を抱き抱えて走って教室を出て行ってしまった。
呆然としているうちに、チャイムが鳴り響く。
「……しゃーないよ、あんま気にすんな」
安達が軽く言って、励ますように俺の背中を叩いた。
勝手な正義感で一人盛り上がって、無神経なことをしてしまったのだろうか。助けを求められたわけじゃないから、柳の気持ちを置き去りにしたのは確かだ。自尊心を傷付けてしまったかもしれない。明日でも、また会えたら謝ったほうがいいよな。チクチクと針で刺されるような後悔に苛まれながら、俺は先生が教室に入ってくるのと同時に席に着いた。
次の日から柳は学校に来なくなり、謝罪はできず、俺に対しては派手な男子たちから明確な嫌がらせが始まった。嫌がらせといっても集団で行われるものは相変わらず文具や教材などの私物が無くなったり、それがゴミ箱に入れられていたりするくらいだったが、一番厄介なのは村岡からの暴力だった。
俺が一人でいるところを狙っては後ろから服を掴み、トイレや廊下の隅に連れて行かれて殴ったり蹴られたりした。たまにその様子が委員長に見付かって激しく怒られると、暴力は加速した。どうやら委員長に特別な感情でもあるようだった。
そういう目は分かる。俺を罵る時の萌さんと同じだから。
心を無にして耐えるのは慣れていた。暴力は義理の兄たちから頻繁に受けていて、もう強い痛みはあまり感じなかったから、学校にも変わらず通い、特に誰かに相談することもなかった。でも俺が無反応でいることが気に食わなかったのか、ある日の放課後、村岡は俺を校舎の裏庭に連れて行ってひとしきり殴ったあと、自分のポケットからいつも吸っているのであろう煙草を取り出し、火をつけた。
煙草を持って、暴力の痕を隠すために着ている俺の長袖を捲る。
「……!? やめッ……!」
「ポーカーフェイスの藍沢くんもこれは怖えんだ?」
嫌な笑みを浮かべ、暴れる俺に村岡が煙草を押し付けようとしたときだった。
「何やってんだ!!!」
校舎の方から声が響いて、ビクリと肩が震える。キョロキョロと首を振ると、小高先生がこっちに駆け寄って来ていた。
村岡は煙草を持ったまま舌打ちをして、走って逃げて行った。
「藍沢、大丈夫か!?」
「あ、はい……ありがとうございます」
「すぐ保健室に行こう。立てるか?」
「はい……」
小高先生の顔を見て、どうしようもなくホッとする。先生の手を取って立ち上がろうとした時。
ドクンッ、と、心臓が鳴った。
「? 藍沢?」
冷や汗が背中を伝う。
裏庭の奥にある木の向こうから、逆さまの青白い顔が、ニコリと笑いながらこっちを見ていた。
一気に襲ってきた、今まで感じたことのない気味の悪さに背筋が凍る。渦巻く黒い瞳に、捕まって息ができなくなる。
「藍沢……? おい、藍沢?」
金縛りに会った時のような状態になった俺の身体を、小高先生が揺さぶる。
ハッと我に返り、浅い呼吸をしながら瞬きをすると、あの幽霊はパッと姿を消した。
「す、すみません、俺……」
「顔色も悪いな、熱中症かも。ほら、乗れ」
小高先生が俺に背を向けてしゃがむ。
背負われて小高先生の温もりに触れると、冷たくなった指先からゆっくりと身体に熱が戻って来て、すぐに意識が遠退いていった。
──ふたつめは、その次の日だった。
俺が朝登校すると、柳は変わらず来ていなくて、村岡もいなかった。教室はざわざわと不穏な空気が流れていて、特にいつもはワーワー騒いでいる派手な男子たちの顔が暗かった。
「……何かあったの?」
机に鞄を置いて安達に話しかけると、安達も気まずそうに口を開いた。
「村岡ん家、昨日火事になったらしいよ。家族は無事らしいけど、村岡は結構火傷酷いみたいで……」
「え……それは……気の毒だね……」
「まあね。また理由がさ、」
暴力を受けていた相手なので正直同情はしないが、本当に気の毒には思う。
そして、安達の次の言葉に、俺は静かに息を飲んだ。
「村岡の“煙草の不始末”なんだって」
“罪悪感ハンパなさそうー”という安達の声と、教室のざわめきが遠ざかっていった。
火事。煙草の不始末。暴力。いじめ。嫉妬。村岡。
無くなって、返ってきた上履き。柳の“体調不良”。俺に妙な視線を送る柳。
頭の奥で、幽霊が逆さまの顔で笑う。
「…………藍沢? 大丈夫?」
安達の声に、慌てて大丈夫と答え、首に流れた汗を袖で拭う。
窓の外では夏の太陽が煌々と輝き、俺の影をどこまでも深くした。
***
その日の夜。ニュースにもなっていた村岡の家の火事や、柳のことについてもモヤモヤとした気持ちを抱えながら、宿題をしたり本を読んだりして部屋で静かに過ごしていると。
ベッドの下から、カサカサと小さな音がした。
カサカサ、カサカサ。何かが移動するような音。ゴキブリでもいるのかと思って、ベッドの下を覗き込むと。
「……ヒィッ!?!」
闇から逆さまの笑顔がこっちを見ていて、俺はその場で腰を抜かした。
バックン! バックン!と警報のように心臓の音が響く。幽霊はぬるりとベッドの下から出て来て、丸まった新聞紙を抱えたまま俺の方へとゆっくりと歩み寄る。
俺は腰を抜かしたまま後退り、壁に背中が当たる。
幽霊が、俺に手を伸ばす。ゴト、と、幽霊が落とした新聞紙に包まれた何かが大きな音を立てる。俺は幼い頃、何度も怖い思いをした記憶がフラッシュバックして、パニックになりながらやめてくれと首を振る。
そんな俺の頬を、幽霊は優しく撫でる。
冷たい手に、身体が大きく震える。
幽霊が、怯える俺の瞳をジッと見てから、何かに気付いたように自分の手でグリン!と自分の顔をひっくり返し、人間と同じ“形”になる。
咄嗟に浮かんだのは、村岡と柳の顔だった。
殺される、殺される殺される!
そう思って身体を強張らせたが、幽霊は、俺に危害を加えることなくただ頭を撫でると、真っ黒な瞳のまま微笑み、パッと消えた。
「──っぷはぁっ! はあっ、はあっ……」
胸の辺りの服を掴んで、横に倒れ込んで必死に息をする。
少しずつ、呼吸と心臓が落ち着き始めた頃、幽霊が落とした丸い新聞紙の端がペラリとめくれた。そこにあったものに、俺はまた息を飲む。
半壊した頭蓋骨の目の空洞が、あの幽霊と同じように、ジッとこっちを見つめていた。
続
