いい加減スキンシップに慣れて



 一限目が過ぎて二限目になっても雛形は登校してこない。ただの寝坊かもしれない。それか体調が悪くて休んでるのかもしれない。
 心配になって連絡するけど、気まぐれにしか返事をしない雛形から既読はつかない。どうしても気になって職員室に行き、先生から「午後の授業は出席する」と聞いて安堵のため息をつく。
 先生から聞いた通り、雛形は午後の授業が始まるまでには登校していた。それはいいんだけど、肩をがっくり落としていつになくへこんでいた。何があったのか聞こうとした矢先、授業開始のチャイムが鳴る。
 授業中は後ろの席が気になってしまう。先生が黒板に向かっているときに背後を盗み見る。雛形は机に寝そべりぼんやりとノートを取っていた。ノートをチラッと見ると、ミミズの這ったような字で識別できなかった。
 授業中はずっとそんな感じのまま上の空で、そんな雛形が胸に引っかかって落ち着かない。
 授業が終わった途端振り返るなり質問する。
「何があったの?」
「マグカップが割れた……」
 雛形は机の上に突っ伏して手はだらんと伸ばしている。
 あのマグカップでスムージーを飲まないと調子が出ないのは本当なんだ。
 マグカップが割れるなんて日常で起こりうる事故ではある。雛形にとったら、マグカップごときでとはならず、かなり一大事な事故だ。
「うわー、それは災難だったね……」
 それにしても、かなり愛用しているみたいで十年は使っているらしかった。取っ手の装飾が印象的なマグカップで同じものを買うにしても、そもそも一点物のマグカップらしかった。似たようなものは探せるかもしれないけど、全く同じものは望めない。


 放課後、雛形と一緒に帰り道を歩く。
 河川敷に着いても、座り込んでぼんやりと目の前を流れる川を見つめている。
 文化祭に向けての自主練を中断して雛形の隣に座る。
 マグカップが割れてしまって相当ショックなのだろう。
「この先、傷つくことだってある。だけどその分楽しいこともある。だから次はきっといいことがある」
 雛形は青空を見上げてそうしみじみと言葉にする。
 僕に向けて言った言葉なのか、それとも自分自身に言い聞かせるためなのかはわからないけど、心臓が跳ねるほど驚く。
 僕が知らない壮絶な過去を抱えているであろう雛形が言うと言葉の重みがある。
「そうだ。俺が病気になってひとりになるのが怖いなら、健康診断に行ったら安心する?」
「……!? それは大事ではあるけど、そこまでしなくても……」
 真剣に話しているところ申し訳ないけどくすっと笑う。
 ここまで真剣に将来を考えてくれる人って、この先に現れるだろうか。大袈裟かもだけど、これから先の未来に雛形より素敵な人には巡り会えないと断言できる。だって、悩みを受け止めてくれて、それでも好きだと言ってくれるから。
 大切な母親を亡くして恋には億劫になっていた。でも、信じてもいいだろうか。その差し伸ばす手を取っていいのだろうか。
「ダンスの練習する?」
「その前に話があるんだけどいい?」
「どんな話?」
「ずっと待たせてたから返事がしたい」
 これ以上、返事を先延ばしにはしたくない。
「また断るつもりなら聞かない」
 雛形はぷいっとそっぽを向いて聞く耳を持たない。
「違うよ」
 僕を見てほしくて雛形の服を遠慮がちに掴む。
 二回も振るつもりなんてない。
 雛形はゆっくり体ごと向きを変えて僕を見る。
「!?」
 瞬きせずに僕を見つめる雛形の瞳には驚きと期待が入り混じっているように映った。
「僕なんかで良ければ付き合いたい」
「なんかはいらない。今から恋人ってことでいい?」
 僕が頷いて同意すると、抱き寄せられて雛形の腕の中にすっぽり収まる。
 僕を包む雛形の心音に耳を澄ましていると落ち着く。
「付き合えて嬉しい」
 雛形は僕を抱きしめながら幸せを噛みしめていた。
「僕も嬉しい」
 雛形が恐る恐る僕の頬に触れる。
 顔が近づいてきて反射的に目を強く瞑る。
「ごめん。舞い上がって我慢できなくなった」
 唇が触れ合うすんでのところで雛形は慌てて体を離す。
「……」
 キスしようとしたんじゃないの?
 遠慮させてしまったけど、本当はして欲しかった。
 恋人とするキスは許容範囲内なんて言ったら、僕が待ち望んでるみたいで口を閉ざす。
「デートしない?」
「今から?」
 突然の誘いに心が躍って身を乗り出す。
「そ、今から。予定あった?」
「ないない! 予定なんてない!」
 首を左右に激しく振り全否定する。無意識に首と手の動きが連動してしまう。
「そんな必死にならなくてもいいのに。どこ行こうか?」
 形のいい唇がスマイルラインを作る。


 電車に揺られて水族館へ向かう。
 薄暗い館内は人がまばらで、優雅に泳ぐ魚を心ゆくまで満喫する。気に入った魚の前で少し長く立ち止まって観賞しても、ほかの客の邪魔にはならなかった。
 付き合って初めてのデートに浮かれてしまう。
 隣で色鮮やかな熱帯魚を観賞する雛形の横顔をこっそりカメラに収める。写真のつもりが動画を撮影していた。でも、雛形には魚を撮影しているていを装いカメラを回し続ける。
「今、動画撮ってる?」
「んーっと、撮ってるかな……」
 頬をポリポリ掻いて視線が泳ぐ。
「それじゃ、俺も撮ろ」
「えっ! 撮らなくていいって!」
 撮影しようとスマホを構えた雛形に僕は顔を背ける。カメラのほうは向かず魚を目で追う。
 いつまで撮影するんだろう。
 撮影される側になると、スマホ越しに注がれる視線が火傷しそうなくらい熱い。
「こっち向いて」
「向いたら撮るのをやめる?」
「向いてくれたらやめる」
 ゆっくり横を向き、撮影中の雛形を見る。雛形はカメラ越しににっこりと微笑み撮影をやめる。
 大きな水槽の周りはちょうど人がいなかった。
「一緒に写真撮ろ」
「いいね! 撮ろう!」
「撮るよ。はい、チーズ」
 僕と目線を合わせるように雛形が中腰になってシャッターを切る。
 二人で写真を確認すると、胸から上を写真に収めた制服姿の僕と雛形の写真が映っている。背後にはゆっくり回遊するジンベエザメが映り込んでいた。雛形のシャッターチャンスはベストタイミングだった。
「ちょっとこれ何!?」
 雛形の長い指がスマホ画面をスクロールしたとき、写真フォルダが僕で埋め尽くされていた。
 水族館の建物を撮影している僕。水中トンネルをくぐる僕。イルカショーを鑑賞中の僕。ペンギンを撮影中の僕。そのほかにもたくさんあった。
「堀平の写真」
「それは見たらわかるよ。そうじゃなくて、いつの間に写真を撮ってたの?」
「初デートの思い出を写真に残しておきたくて」
 雛形が映る動画はあるけど写真はまだ撮っていない。ツーショットじゃない写真もたくさん撮っておこう。
 スマホを構えてベンチで休憩しながら魚を眺める雛形をカメラに収める。
 館内は静かで大きな水槽を二人占めする。ジンベエザメが悠々と泳いでいるところを眺めていると、雛形から手を握られる。
 びくっと肩が跳ね、手はしっとり濡れる。
「今日は許して。人が来るまででいいから」
 距離を詰めて真っ直ぐ見つめられると雛形から視線を逸らせなくなる。
 薄暗がりで周りには誰もいなくてすごく良い雰囲気。今ってキスするタイミングなのでは?
 息がかかるほどの距離まで詰めた雛形に今度こそキスされると思い、目をギュッと閉じる。
 が、静寂に包まれた館内に、パチンッと頬を手で引っ叩く音がして目を開ける。
「怖がらせたらだめだ。本当にごめん」
 雛形は引っ叩いてひりつく頬を手で押さえる。
 緊張していただけで怖がっていない。
「……うん」
 またしても違った。雰囲気に流されてキスしてくれて良かったのになんて思いつつも、それを口に出すのは気恥ずかしい。
 いつになったらキスができるんだろう。
 気遣ってくれるのはものすごく嬉しいけど、今このときはその気遣いが焦れったい。
 帰る前に館内のお土産屋を見て回り、雛形が席を外している間にこっそり買い物をする。
 気に入るかな。
 どうしても初デートの記念にプレゼントしたかった。


 喉が渇いて水族館近くのカフェに入る。店内にはおしゃれな洋楽が流れていて落ち着いた雰囲気だった。
 注文したドリンクを待っていると、雛形が顔近くでイルカのキーホルダーを左右の手に持つ。
「可愛くない?」
「うわー、すごく可愛い!」
 色違いでひとつは淡いブルー。もうひとつは濃いブルーだった。イルカのくりんとした目が特徴的。
「どっちがいい?」
「こっちにしていい?」
 正直どちらも可愛いから悩むけど、淡いブルーのほうを指差す。
「いいよ」
 プレゼントしてくれたイルカのキーホルダーを手のひらに乗せて大切そうに眺める。
 まさか雛形もこっそり買い物してたのには気づかなかった。
 注文したドリンクが届き、ギフト用に包んでもらったプレゼントを丁寧に両手を添えて差し出す。
「僕からもプレゼント。良かったら使って」
「今、開けていい?」
「どうぞ」
 プレゼントは海の生き物がデザインされたマグカップ。
 ちゃっかり自分用に雛形とデザイン違いを買った。
 僕たちは同じようなことを考えていたみたいだ。
 お揃いのものって、離れていても雛形が近くにいるみたいで安心する。
「明日から使う度に堀平を思い出して頭がいっぱいになりそう」
「それくらい気に入ってくれたなら良かった。ちなみに僕も買っちゃった」
 そう言って、てへへと照れ笑いする。
 ドリンクを飲みながら、「よくかぶらなかったな」と話す雛形と僕はお揃いのキーホルダーとマグカップを手に持ち写真撮影をする。


 文化祭当日があっという間にやってくる。
 ダンス部の公演が刻一刻と迫り、舞台袖から客席をこっそり覗き込む。客席の埋まりは半分だった数十分前とは違い、満席になっていて立ち見客が出るほどの盛り上がり。
 舞台袖から雛形を見つける。雛形の隣には雛形の義弟と義妹がいた。
 振付師本人の前だから緊張しているんじゃない。彼氏の前でフルバージョンを初披露するから、心臓が飛び出しそうなほどバクバクする。
 深呼吸して舞台に立つと、あちこちから歓声が上がる。それぞれが立ち位置につき曲が始まると、観客はスポットライトに照らされたダンス部員のパフォーマンスに視線が釘付けになる。
 二曲合わせて五分強のパフォーマンスが終わった途端、観客席から大歓声が沸き起こる。ステージ上から雛形を見ると、微笑んで拍手していた。隣では雛形の義弟と義妹がペンライトを振っている。
 文化祭の目玉であるカッコ良さと可愛さの要素を両方とも取り入れた雛形が振り付けたダンスは、大盛況で終わる。
 舞台裏に引っ込んだダンス部員はハイタッチして喜びを分かち合う。
「来年も雛ちゃんに振り付けを頼もうよ」
「それはどうかな」
 詳しく聞くと、来年の振り付けは丁寧に断られたらしい。でも、こう付け加えたみたい。
「堀平から頼まれたらする」とそう一言。
「んじゃ、堀平に任せるか」
「僕が頼むの?」
 彼氏のお願いなら聞き入れるってことかな。それなら、また来年もお願いしよう。ダンスになると尋常じゃない集中力を発揮する雛形の振り付けが一番好きだから。


 文化祭は雛形と一緒に回る。雛形の義弟と義妹は途中まで一緒だったけど、今はおばさんと一緒にいる。
 家庭部ではスイーツとパンを販売していて、イートインスペースが設けてある。
 雛形はたくさん並ぶ個包装された商品を手に取っては、どうしようかと眉間に深いしわを寄せている。
「おすすめって何?」
「桃と紅茶のパウンドケーキ」
 パウンドケーキは種類を豊富に取り揃えている。中でも、旬の果物を取り入れた桃が入った紅茶のパウンドケーキは我ながら美味しくできて、雛形にも食べて欲しかった。
「じゃあ、それにする」
 イートインスペースで飲食しながら、彼氏持ちの上富から助言してもらったテクをいざ実践する。
 潤んだ瞳で上目遣いにして唇を噛む。
 これがモテ仕草ならしく、雛形でもさすがに我慢の限界でキスがしたくなるはず。
 が、そうはならず、目に毒とでも言いたげに頬杖をついて「うーん」と(うな)っている。
 効果がなかったわけではなさそう。後もう一押しなんだけど、これ以上は恥ずかしくてできそうにない。


 文化祭が終わってその日のうちに片付けをした帰り、雛形の家にお邪魔する。バイトで来たのではなく、ただ彼氏の家に遊びに来ただけ。
「疲れたー」
 あくびをした雛形はベッドにダイブする。
「そうだね。終わったらあっという間だったなあ。僕も疲れちゃった」
 どっと疲れが押し寄せて僕も少し横になりたいかも。
「堀平も寝転びな」
 寝転んだまま枕を整えてシーツを撫でるように払う。それから、布団をめくって僕を呼び込む。
「お言葉に甘えて」
 雛形の隣で横になって目を閉じる。
 前から思ってたけど、雲の上に浮かんでいるような極上の寝心地がたまらない。シーツの肌触りも最高。ふかふかの布団に頭まですっぽりかぶると、雛形の匂いが充満していて頭がくらくらする。
「あんま可愛いことしないで。ものすごく我慢してるんだから」
 雛形も布団に頭まですっぽり包まり、こつんとおでこがぶつかる。
「我慢はしなくてもいい」
 辛うじて聞き取れるような小声でそう話す。
 心臓は激しく波打ち、緊張は最高潮に達していた。
「それって本当!?」
「言い出した手前、悪いけどやっぱり無理かも……」 
 意識すると全身火だるまになったように熱く汗だくになる。額からしたたった汗が目に入ってしみる。
 期待させて突き放す真似はしたくない。でも、全身汗まみれでキスどころではない。
「ゆっくりでいいって。この先もずっと一緒だから、機会はいくらでもあるよ」
 優しく微笑む雛形はそっと僕の額の汗を拭う。
 ずっと一緒か……。
 気ばかり急いていたけど、亀のようにのんびりしたペースで今よりも距離が縮まるといいな。
 気長に待ってくれるし、ポジティブだし、本当にそういうところが好き。
「優お義兄」
「優お義兄ちゃん、入るよ」
 ドアの向こうで雛形の義弟と義妹の声がして、雛形と僕は慌ただしくベッドサイドに座る。
 ドアがガチャッと開き、二人がとびっきりの笑顔で「オーディション受かった!」と部屋に転がり込んでくる。
「おめでとう」
 雛形と僕は同時に口を開きお祝いの言葉を口にする。
 いつか雛形とコンサートに行って二人の活躍を応援したい。
「顔が真っ赤だよ。熱があるなら寝てないとだめだよ」
 しっかり者である雛形の義妹は、頬が火照った雛形と僕をベッドで横にならさせる。布団までかけてくれるけど居た堪れない。
「母さーん、優お義兄とバイトの人が熱みたい」
 雛形の義弟が慌ただしく部屋を出ていき、雛形のおばさんを呼びに行く。
「あのー、そういうわけでは……」
 顔が赤いのは恥ずかしいからであって熱ではない。
 何だか大層なことになってしまった。
「二人して熱!? おかゆとスポーツドリンクと後何が必要かな??」
 雛形のおばさんが部屋に来て、メモ帳に買い物リストを作成する。
「ゼリー!」
「プリン!」
 雛形の義弟と義妹はどっちのほうがいいかでちょっとした口喧嘩になる。
 どっちも必要ないんだけど、これは一体どうしたらいいんだろう。
 雛形のほうを向くと、必死に笑いを堪えている。
 早く止めてよ。小学生の二人がいる前で、ありのままを伝えるなんて無理がある。
「いや、あのこれは……」
「理汰と要凪は先に車の中で待ってて。着替えたら行くから」
「はーい」
「相当疲れてたのね。大人しく寝てなさいよ」
 雛形のおばさんはそう言い残してドアをバタンと閉める。引き留めようと布団から手を伸ばすが、その思いは虚しくも届かなかった。
「ぷははっ」
 笑いをずっと堪えていた雛形は腹を抱えて大笑いする。
「笑い事じゃないよ。どうするの、あれ」
「帰って来たら説明する。熱を測らないで勘違いしてるおばさんが悪い。良い大人なのに思い込みが激しいんだ。気にしなくていいよ」
 今、説明するべきではと思うけど、雛形に離さないというように腕の中にぎゅっと抱きしめられて、思い浮かんだ言葉は宙に消えていった。
 後から雛形と一緒に怒られよう。