体育の授業は胃痛がして、体育館の片隅でクラスメイトがダンスしているところを見学する。床と靴がこすれ合う
キュッキュッという摩擦音が体育館にリズムよく響く。
雛形の告白から日にちが経つのに、嬉しさと戸惑いの気持ちでぐちゃぐちゃだ。どちらかというと、戸惑いのほうが心を占めている。『もしも堀平が汗っかきでも好きになってると思う』とは言ってたけど、あの雛形が僕を好きなんて現実味がない。
正直、僕は千月のダンスに一目惚れしてダンスに興味を持った。ファンの中にはガチ恋勢がいるけど僕は純粋なファン。大体顔を知らない相手にどうやって恋に落ちるのか僕にはわからない。
雛形のことを考えていると、自然と視線がそちらに行く。
千月は雛形であるという事実はいまだに受け止めきれていない。なぜなら、あんなにダンスの才能があるのに、体育の授業でダンスをする雛形はそんな覇気を全く感じさせない。学校では見られない雛形を知っているのは僕だけ。
授業終了のチャイムが鳴り響き、雛形が駆け寄ってくる。普段は歩くのが遅いのに、僕だけ特別扱いされてるみたい。
「胃の調子はどう?」
「胃薬を飲んだからマシになった」
「なら良かった。体育館裏で待っといて。昼飯一緒に食べよ」
「うん、じゃあ先に行って待ってる」
お弁当を持って体育館裏で座って待つ。
待っている間に手汗防止クリームを念入りに塗る。塗っておかないと不安になる。それは雛形とスキンシップに慣れる練習を人目のないところで毎日欠かさずしているからだ。休日であろうと関係ない。そもそも家はさほど離れていないので、会おうと思えばいつでも会える。
遅いな。
待っているから長く感じられるのかもしれない。でも、結構待っているのに雛形は中々来ない。
「遅くなってごめん。クラスメイトに捕まってた」
ようやく雛形が息せき切って体育館裏へと駆けつける。
仲良くお弁当を食べた後、雛形に残しておいたパンを手渡す。本当は焼き立てをあげたかったけど、雛形は振り付けの仕事で忙しくて放課後は会えなかった。
「パン??」
雛形は首を傾げて不思議がる。
それもそのはずだ。家庭部はお菓子作りがほとんどだけど、たまにパン作りをするらしい話を先輩から聞いた。
「お菓子じゃない日もあるんだ。パンよりお菓子のほうが良かった?」
「それはない。どっちも好き」
昨日一緒に食べられなかった家庭部で作った明太ポテトパンを食べながら、食べ終わったらするだろうスキンシップの練習に意識を向けたらもうだめだ。汗が止まらない。
雛形はパンをわずか二口であっという間に平らげる。
僕としてはもっと時間をかけて食べてほしかった。あんなに念には念を入れて塗りたくった手汗防止クリームは効果がなく、今は手汗で酷い状況になっている。
「しよ」
ついに練習が始まってしまう。汗でべたついた手を制服で素早く拭き僕から手を繋ぐ。
雛形は律儀にスマホアプリのタイマーで時間を計る。
十秒から始まって、慣れてきたら二十秒、三十秒、四十秒と十秒おきに長くなっていった。「四十秒は何ともない」と言わなければ良かった。今更ながらあのとき言った言葉を取り消したい。
一分があまりにも長い。
余裕そうにしなければ今頃五十秒で済んだのに、たった一分がとてつもなく長く感じてしまう。汗がとめどなく噴き出してきて今すぐにでも手を引っ込めたくなる。
「後何秒?」
「後三十秒」
まだ三十秒しか経ってないの!?
雛形は手汗がすごい僕の手を離そうとしない。
とにかく早く三十秒が過ぎ去ってほしい。
「三、二、一、今日はこれで終わり」
雛形がスマホの画面を見ながらカウントダウンをして、やっと一分が経過して肩の荷が下りる。
「ハンカチ使って。本当にごめん。不快だったよね?」
べたつく不快感をものともしない雛形を申し訳なさげに見てハンカチを差し出す。
「全然。ハンカチはいらない。一分はどうだった?」
僕の手汗が雛形の手に付着しているはずなのに、少し時間が経ってもやはり不快感をおくびにも出さない。むしろ喜んでいるように見える。
「長い」
「それでもよく耐えられたね。途中で投げ出さなくてえらい。だけど無理なときは言って」
「うん」
雛形は僕の頭をポンポンする。
スキンシップにも許容範囲があって頭は大丈夫。それでも手に触れられるのだけはどうしても抵抗がある。
「明日は四十秒にしよ」
「えっ……」
まさかの時間短縮の提案に思わず声が出る。
「無理せずゆっくりやろう。焦っていいことないから」
そう言って優しく微笑む。何だか機嫌が良さそう。
歩幅を合わせてくれるところは雛形のいいところ。スキンシップが苦手でも態度を変えないで、急かさずゆったり構えてくれるところは、一緒にいて居心地の良さを覚える。雛形となら苦手を克服できるかもしれない。
文化祭が近づくにつれて、周りは滞りなく準備が進んでいる。それなのに、ダンス部は頭を悩ませていた。
ダンス部の男子部員は僕を含めて五人だけ。女子部員が圧倒的に割合を占める。
文化祭では楽曲から衣装に至るまで全て自作なのがダンス部の伝統だ。それなのに、肝心の振り付けがまだ完成していない。このままだと練習する時間が減ってしまう。僕も含めて部員は不安に駆られていた。
「苦肉の策だけど、誰か振り付けができる知り合いはいない?」
部長が現状を打破しようと部員に助けを求める。
部員にはそれぞれ担当があって、僕は衣装作りを担当していた。振り付けはというと、ほとんど部長が担っていた。
部員はそれぞれ顔を見合わせて様子を窺う。
そんな中、僕がそろそろと手を挙げると部員一同が僕に視線を注ぐ。
「あの、いるにはいるんですけど、やってもらえるかはわかりません」
「本当!? その人に聞いてみてもらえる?」
部長だけでなく部員一同が直面している問題に打開策が見いだされ胸を撫で下ろす。
これでもし雛形が無理ってなったらどうしよう。そのときはそのときなんだけど、雛形頼りの僕は重圧に押し潰されそう。
「はい、聞いてみます」
そうは言ったものの雛形はただでさえ忙しいというのに、そんな事情を知りながら頼み込むのは少し気が引けた。それでも、できるなら雛形の振り付けたダンスを踊ってみたい。
放課後、そんなダンス部の実情を雛形に話す。
「いいよ」
雛形は悩む素振りを見せず快く承諾する。
僕としては嬉しいけど、さらに振り付け作業を増やしていいものか悩ましい。
「いいの!? 仕事が立て込んでるときにほんとごめん」
「大丈夫。堀平だって部活とクラスの出し物で大変じゃない?」
確かにそうではある。部活は掛け持ちをしているからダンス部と家庭部の出し物がある。それに加えて、クラスの出し物と準備に追われててんてこ舞いだ。
「それはそうだけど、雛形ほどじゃないよ」
「で、いつまでに仕上げたらいい?」
「今週いっぱいに完成してるのが理想かな」
「わかった」
僕が少しでも振り付けができたら手伝えたのに、巻き込んでしまった雛形に任せっきりで申し訳ない。僕にできることってないのだろうか。
ダンス部の部長はしきりに気を揉んでメール画面を不安げに眺める。
まだ雛形から振り付けの動画が送られてこない。部長と違って僕は雛形に全幅の信頼を置いていたから平然としていた。なぜなら、雛形には自分のペースがあるけど必ず期日を守るって知っていたから。
「本当に忘れられてたりしない?」
「それはないので安心してください」
そうこうしていると、雛形から動画が送られてくる。
部員一同で送られてきた動画を食い入るように見る。
さすがは雛形でこの短期間に完成度の高い振り付けを考案してくれる。当初は不安げだった部員も雛形の振り付けを見て満足げな表情を浮かべる。
「この人ってうちの学校だよね!?」
「そうだよな。どっからどう見ても雛ちゃんじゃん」
「振り付けができるなんて聞いてないんですけどー」
「誰かスカウトしてきてよ」
部員はざわざわと色めき立つ。制服を見れば同じ学校の生徒であることは一目瞭然だ。
この時点で雛形の類まれな才能はみんなに知れ渡る。でも、雛形が千月だと気づく人はいなかった。僕と雛形だけが共有する秘密。
「よし、ダンス部にスカウトしよう!」
さっきまでの不安はどこへやら、部長までノリノリになっている。
「スカウトしても雛形は入部しないと思いますよ?」
「それは残念。でも、物は試しだよね。今度スカウトしてみる」
あんなに炸裂するダンステクニックの持ち主をみすみす取り逃したくないのはわかる。僕がすでに勧誘した。でも、雛形は部活には興味がないらしかった。
雛形は多忙の合間を縫って、ダンス部に顔を出してくれるようになる。振付師本人から直接指導してもらえるのは貴重な機会だ。特に雛形のような世界を舞台に活躍する一流振付師には滅多と直接指導してもらえるわけではない。そう思えば、今まで僕にだけ個人レッスンをしてくれた時間はとんでもなく貴重だ。
喜ぶべきなのに胸がざわつく。雛形は僕のものではないのに、ほかの部員に取り囲まれている姿を見ると激しく嫉妬する。
初めて芽生えた感情に心が揺さぶられる。
僕でも嫉妬するんだ。
雛形が背後に目を向け、視線が絡み合う。数秒見つめ合って僕から顔を背ける。
「険しい顔になってる。どこで躓いてる?」
振り付けの動画に視線を移すと、雛形が僕の隣に来る。
呼んでないのに来てくれたのが嬉しくて頬が緩む。
「部活が終わったら少しだけ時間作って」
「ん? いいけど」
雛形は急な誘いにきょとんとする。
部活が終わって雛形と誰もいない調理実習室に向かう。雛形が後ろ手でドアを閉める。
「ハグしてみて」
「今日はもう練習したよ……?」
明らかに瞬きの回数が増えて動揺していた。
「知ってる。覚えてないかもだけど、雛形にハグされたんだ。もう一回ハグしてみて?」
ハグはどちらかというと苦手だけど、今なら大丈夫な気がした。無理をしているとかではなく、ほかの誰でもない雛形だからいいんだ。嫌なら本当に止めてくれてちゃんと僕のペースを守ってくれるから、ちょっとだけ前進できた。
「可愛いこと言うね」
雛形の目尻は下がり愛おしそうに見つめられる。
好きな人にはそんな顔をするんだ。
引き寄せられて雛形にぎゅーっと抱きしめられる。
雛形の胸に耳を押し当てると、ドキドキ高鳴る鼓動が聞こえる。
「心臓の音、すごい……」
「それは好きな人だからだよ」
僕まで心拍数が上がり、雛形に聞こえてしまうのではないかと気が気ではなくて、雛形の服の袖を引っ張って意思表示する。
すると、雛形は抱擁を解く。
「苦しかった?」
「そうじゃなくて……」
本当は恥ずかしくなっただけなのに言葉がつっかえる。
恋をするつもりはなかったのに、毎日一緒に過ごすうちに気持ちが膨らんでいくばかり。
「嫌じゃなかったらまたハグしていい?」
「うん、雛形だったらいいよ」
「俺限定?」
「そうだよ。雛形限定」
雛形じゃない誰かとハグなんて想像できない。想像したくもない。
「ならいいけど、ほかの人にハグは許さないで」
「しないよ。約束する。振り付けを考えてくれてありがとう。うどん作ったからいつでも食べに来て」
「わざわざ作ってくれたの!? 今から行っていい?」
今までで一番嬉しそうに瞳がまばゆいばかりに輝きを放つ。
「うん」
僕なりにできることは考えた。でも、どんなに考えても雛形が美味しそうに食べる姿が思い浮かんでしまう。だから、雛形の好物であるうどんを手作りした。手打ちうどんなんて初めてだから正直なところ味の保証はできない。
でも、雛形の食べっぷりを見れば不安は吹き飛んでいった。いつもより早めの夕飯に、大盛りうどんを五杯おかわりするほど気に入ってもらえたから。


