遺響綴録:銀幕に巣食うもの

日永はすぐに動き出した。まず、敷地の中央――崩れた祭壇の残骸があるあたりへ向かう。焦げた木材と消火剤の粉の匂いはまだ残っていた。日永はその少し手前の平らな場所にしゃがむと、木の板と脚を袋から取り出し、慣れた手つきで簡易的な台を組み立てていった。ほどなく膝の高さほどの白木の台が出来上がった。
次に、50㎝くらいのポールのような木の柱を敷地の四隅に一本ずつ立てた。四本すべて立て終えると、日永は袋の奥から白っぽい紐を取り出した。細い布を何本も撚り合わせたような質感だ。柔らかそうに見えるのに、ぴんと張ると芯がある。それを四本の柱へ順番に渡し、敷地をぐるりと囲む。
その作業が終わると、日永はおもむろに着ているパーカーを脱ぎだした。作業で暑くなったのかと思っていると、下に来ているTシャツにも手をかけた。
「えっな、何してんの⁉」
裏返った声が出てしまった。
「斎服に着替えるだけ」
「ここで⁉」
日永は、するりとTシャツを脱いだ。無駄な肉が削ぎ落ちた、しなやかな白い体だった。
「身を清めないといけない」
そう言って、袋の中からペットボトルと白い布を取り出した。
「濡らして拭く。背中、お願い」
「……え」
「届かないから」
「わ、わかった」
言われるまま布を湿らせていると、日永が背を向けた。布をそっと背中へ当てる。水の感触が冷たかったのか、日永の肩がわずかに揺れた。
「ごめん、冷たかった?」
とっさに謝ると、別に、と日永は小さい声で答えた。布をやさしく肌の上をすべらせる。手の平に肌の暖かさ、指先に背骨の感触が伝わってくる。
「もっと強くして」
唐突にそう言われ、今度はこちらがビクリとしてしまった。
「ご、ごめん」
さっきよりも少し手の平に圧をかけて、背中全体を拭き上げた。
「これで大丈夫?」
「うん、ありがと」
日永にペットボトルと布を手渡すと、ぎこちなく後ろを向いた。
「別に見ててもいいけど」
背後から日永の少しからかいを含んだような声がした。衣擦れの音が背後で続く。
やがて、「終わったよ」という声がした。振り返ると、白い服に身を包んだ日永が、月明かりの中に立っていた。ゆったりとした上衣に、すとんと落ちる袴のような下衣。布地は薄く、体を動かすと柔らかく揺れる。肩には脛当たりまでの長い布を左右に垂らしていた。歴史の教科書で見た、古代の装束――弥生か飛鳥か、そのあたりの貴人を思わせる姿だった。
「……きれ……っ、げほっ」
言いかけて、わざとらしく咳払いをした。
「ぎ、儀式の服って感じだな」
馬鹿みたいなごまかし方だと自分でも思う。日永は特に気にした様子もなく、白い紐で囲った敷地の内側を顎で示した。
「先に入って」
「え、僕が?」
「うん。台の5メートル前くらいに立ってて」
僕はごくりと唾を飲み込み、白い紐をまたいだ。中央の木の台へ向かい、言われた通りの位置に立つ。少しして、静かな足音が近づいてきた。日永は台の前まで来ると、僕の方へ向き直り、息を吸った。
「これより、鎮魂の儀を執り行う」
よく通る声で日永がそう告げた瞬間、空気が変わった。さっきまでただの廃墟の敷地だった場所が、何か別の場所になった。そんなふうに感じた。僕は無意識に喉を鳴らし、背筋を伸ばす。
日永の手には、畳まれた布があった。それを、丁寧に台の上へ置く。続いて、腰に差している、白い紙が何枚もぶら下がった棒を手に取った。日永が一歩踏み出し、それをさっと横に振る。続けて、何か古い言葉のようなものを唱え始めた。意味は分からない。けれど、日永の声で紡がれるその響きは、不思議と耳に馴染んだ。冷えた夜気の中に溶け込むように音が流れていく。
ふいに、びゅうっと強い風が吹き抜けた。思わず目をつぶる。そっと目を開けたが、景色は何も変わっていなかった。ただ、少し、空気が重くなった気がした。
声が止む。日永が、肩から垂らしていた長い布の端を持ち上げる。月明かりを受けて銀色に光る布が、ふわりと宙に浮いた。舞が始まった。足裏が地面に吸いつくように置かれ、そこから体全体がほどけるように動き出す。無駄な力がどこにもなく、なのに指先まで意志が通っているのが分かった。手にした布が煙のように揺れ、日永の周囲を漂う。右へ払われ、左へ返され、弧を描き、輪になり、またほどける。
僕には何も見えない。それでも、“何か”がそこにいて、その布に、日永に、引き寄せられている――そんな気がした。息をするのも忘れて見入っていた。
やがて日永は大きく踏み込み、肩の布を自分の周囲へ一気に巡らせた。白い帯が、大きな円を描く。ほんの一瞬。輪の内側で、夜の景色がぐにゃりと歪んだ気がした。熱気の上に見える蜃気楼みたいに。次の瞬間には、日永の手首が返され、長い布は細く巻き取られていく。するすると一つにまとまり、そのまま彼の腕の中へ収まった。抱きしめるような姿勢だった。暴れる子どもをなだめるようにも、泣き崩れる誰かを受け止めるようにも見えた。そのまま、日永は動かない。
数十秒だったのか、数分だったのか、あるいはほんの数秒だったのか。静止した世界に、ふっと音が戻った。日永の吐いた、小さな息だった。
ゆっくりと布をほどき、再び肩へ掛け直す。それから台に向き直り、もう一度、低い声で何かを唱え始めた。今度の言葉は、さっきよりも短い。終わりへ向かって細くなり、最後は糸が切れるようにふっと途切れた。日永は深く一礼し、顔を上げる。そして、ゆっくりとこちらを振り返った。
「これにて、鎮魂の儀を納める」
静寂が落ちた。さっきまでまとわりついていた重たい気配が、いつの間にか薄れている。
得体の知れない何かに、日永が確かに対処したのだ。そう思ったそのとき、日永の体が、ふらりと傾いた。
「……っ、日永!」
考えるより先に駆け寄っていた。腕の中に収まった日永の体は驚くほど軽かった。額にうっすら汗が浮かび、呼吸も少しだけ荒い。
「だ、大丈夫?」
「……ん」
返事とも呼べない小さな声が返ってくる。
「僕の背中におぶされる?」
そっと尋ねると、日永はこくりと頷いた。僕は日永の体からそっと手を放し、しゃがみこんだ。少し間があって、肩に重みがかかる。腕が首元へ回され、体温が背中へ伝わってきた。思っていたよりずっと熱い。敷地の端に撮影用の折りたたみ椅子がいくつか置かれていたのを思い出し、僕はそこまで慎重に歩き、日永をゆっくり座らせた。
「……少し休んでて。片付けは僕がやるから。何をどうすればいいか、全部言って」
日永は閉じていた瞼を薄く開き、こちらを見る。
「……わかった」
そこからは、言われるままに動いた。つい先ほどまで異空間に思えた場所が、すっかり元通りになったころには、日永の様子も大分元通りになっていた。
日永は椅子に座ったまま、静かに夜空を見ていた。僕も隣の椅子に、そっと腰を下ろす。
「体調、大丈夫?」
「うん」
いつもと同じ淡々とした声だった。
「これで……怪異は、消えた?」
日永は首を横に振った。
「怪異は、基本的には消せない」
「えっそうなの?」
「これは……静かにさせただけ」
「じゃあ、また同じようなことが起きるってこと?」
「たぶん、それはない」
日永は夜の闇を見たまま、答えた。
「それって……」
思わず言いかけて、口をつぐむ。日永の瞼が重たそうだ。聞きたいことはいくらでもあった。けれど、今質問攻めにするのは忍びない。僕は背もたれに体を預け、日永と同じように夜空を見上げた。ここは星がよく見える。
二人のあいだに沈黙が落ちる。言葉がなくても、そこにいることだけで成立する時間。日永に出会ってたった三日でこんなに翻弄されているのに、不思議と一緒にいて気疲れしない。隣を見ると、日永は目を閉じていた。眠っているのか、ただ休んでいるだけなのか分からない。長い睫毛の影が目の下に落ちている。僕はその横顔からそっと視線を外した。この沈黙が、やはり好きだと思った。

帰り道、僕たちはほとんど言葉を交わさなかった。――というか、交わせなかった、が正しい。デジャヴだ。施設を出てバイクにまたがった日永が、ぽつりと、
「なんか、思いきり走りたい気分」
と言った次の瞬間、バイクは爆音の唸りを上げた。
「ちょっ、まっ――」
叫んだ声は、風に千切れて消えた。僕にできることは二つだけだった。警察に捕まりませんように、事故りませんように、と心の中で唱え続けること。そして、日永の背中に必死でしがみつくこと。さっきまで僕の腕の中に収まっていた薄い体に、今は命綱みたいにすがっている。
病院まではあっという間だった。正面入口から少し離れた暗がりで、バイクが止まる。降りてヘルメットを外すと、またもや膝が笑っていた。生きて帰ってこられたことに、まず感謝した。
日永はバイクから降りなかった。これで別れるのかと思うと、急に胸の奥が落ち着かなくなる。
「あのさ!」
少し声が上ずった。
「また……会える?」
日永はヘルメット越しに僕を見て、それから肩をすくめた。
「さあ」
そっけない返事だった。
「じゃ、じゃあ連絡先とか……スマホ、持ってる?」
「持ってない」
「へっ」
思わず間の抜けた声が出た。今どき、そんな高校生がいるのか。もしかしたら田舎では、わりと普通のことなのだろうか。
「えっと……固定電話とかはある?」
「ある」
「番号――」
「覚えてない」
僕は口を開きかけて、閉じた。ひょっとしたら、うざがられているのかもしれない。沈黙した僕を見て、ふっと日永が口元を綻ばせた。白い歯がのぞき、目がきれいに弧を描く。
「会いたければ、会いにくればいい」
そう言って、日永はエンジンをかけた。
「――日永」
呼ぶと、日永はぴたりと動きを止めた。
「ありがとう」
僕はヘルメット越しの日永を見つめた。日永は振り返らなかった。ただ、片手をひらっと上げた。返事の代わりみたいに。
次の瞬間、バイクのエンジンが夜を裂いた。黒い車体はそのまま滑るように走り出し、街灯の届かない道へ吸い込まれていく。やがて、バイクの音が完全に消えた。夜の静けさの中、僕はしばらく、その場から動けなかった。

翌日、検査結果に異常はなく、僕は予定どおり午前中に退院した。
空はよく晴れていた。日差しに目を細めながら、車へ乗り込む。運転席に座った木内が、「あ、そうだ」と思い出したようにスマホを取り出した。
「実はさ、昨日の映像で、スタッフたちが朝から大騒ぎしてるんだよね」
「映像?」
「うん。エキストラを下から撮ってたアングルのカメラなんだけど」
木内はLINEのグループで共有された動画を開き、僕のほうへ画面を向け、再生した。
祭壇が崩れ、エキストラたちが一斉に逃げ出す。燃えた木材がカメラにぶつかり、映像がぶれて九十度横に傾く。画面いっぱいに炎が広がった。その向こう側。炎の奥に、誰かが立っていた。胸のあたりまでの黒髪。白っぽい服。じっとこちらを見ているように見える。次の瞬間、炎が大きく揺れ、煙が立ちこめ、何も見えなくなった。
「……スタッフか、エキストラじゃないんですか」
そう呟くと、木内は首を振った。
「スタッフにロングヘア下ろしてる人いないし。エキストラかとも思ったんだけどね」
スマホを伏せ、声を潜める。
「スタッフがさ、わざわざ映像の人数確認したの。そしたらエキストラの数はぴったりだったって」
炎の中で見た、あの虚ろな目を思い出し、体に力が入った。けれどすぐに、昨夜の光景が脳裏によみがえる。
――たぶん、それはない
あの言葉を思い出す。
――大丈夫。もう終わったんだ。
そう自分に言い聞かせ、僕は窓の外へ視線を向けた。

その翌日から、撮影は何事もなく進んだ。春川も、少し気まずそうな顔をしながら現場へ戻ってきた。監督に変に絡まれることもなくなり、順調にカットを重ねた。
休憩時間、お弁当を食べていると、スタッフの会話が耳に入ってきた。
「すんなり進んで何よりだよ」
「ほんと。みんな疲れてたから変な空気になっちゃってたんだろうね~」
「一日休めて、結果オーライか」
「いやいや、あのあと、上の人たちで色々話し合ったみたいだよ」
「なにそれくわしく」
「いやさ――」
僕はそっとその場を離れた。
夕方、ここでの撮影はすべて終了した。スタッフたちが慌ただしく荷物を機材車に積み込んでいく。僕らも東京へ戻る支度をする。車に乗り込む直前、僕はふと山のほうを振り返った。御機神社はここからは見えない。日永は、今ごろ何をしているのだろう。僕は山の稜線を見つめたまま、車のドアを閉めた。走り出した車窓から、山並みが少しずつ遠ざかっていく。ポケットの中の布袋を取り出し、そっと鼻先へ寄せる。思いきり息を吸い込んだ。匂いが、少し薄くなっているような気がした。