遺響綴録:銀幕に巣食うもの

翌日、現場に着いた瞬間、空気の違いに気づいた。張りつめている。スタッフたちの顔も、どことなく険しい。
「……なんか、ピリピリしてますね」
小声で呟くと、隣にいた木内が顔をしかめた。
「確かに」
そう言って、近くにいたスタッフに声をかける。
「おはようございます。なんか空気悪くないですか?」
「あ、おはようございます……その……」
スタッフは言い淀みながらも、小さく声を落とした。
「昨日、あのあと機材トラブルが続いちゃって……照明替えてもまた落ちるし、カメラも急に電源落ちたり、音声に変なノイズ入ったり……監督がマジでブチギレちゃって」
「あちゃ~……」
木内が顔をしかめる。その会話を聞きながら、僕はさりげなく周囲に視線を巡らせた。どこにも、日永の姿はない。
そのとき、少し離れた場所に、春川の姿が見えた。あいさつをしに近づく。
「おはようございます」
春川が緩慢な動作で振り返る。
「あ、おはようございます——」
まだメイクをしていないからだろうか、顔色が悪く見える。
「……体調、大丈夫ですか?」
そう聞くと、春川は一瞬だけ間を置いてから、
「あー……まあ……昨日ちょっと寝不足で」
と、軽く笑った。明るい声をつくっているのが分かる。
「昨日、大変だったみたいですね」
「まぁね……ただでさえトラブル続きなのに、私、何回もNG出されちゃって。さすがにいたたまれなくなっちゃった」
少しだけ言葉を切ってから、続ける。
「まあでも、今日は大きいシーンだから。引きずってる場合じゃないんだけどね」
春川の視線の先を追うと、施設の前の敷地に、祭壇のセットが組まれているのが見えた。その周囲では、エキストラと思しき人たちが、指示を受けている。ざっと見ただけでも20人から30人はいるように見える。
今日撮影するのは、この作品の中でもインパクトのある、儀式のシーンだ。主人公が出会った少女が祭壇の上で経文を唱え、祭壇を取り囲む信者たちは、地面に額を打ちつけるようにして祈り続ける。やがて側近役の人間たちが経文を唱えながら祭壇に火を入れ、銅鑼を鳴らす。それを合図に、教祖は舞を踊り出し、信者たちは互いに手を取り合い、円を描くように祭壇の周りを回り始める。銅鑼の音が速く、強くなるにつれて教祖も信者もリズムを失い、次第に制御を失ったかのような激しい踊りへと変わっていく。それを主人公は離れた茂みの中から見ているが、気づけば、自分が祭壇の上に立ち少女を間近で見ているような錯覚に陥る——そんな場面だ。
「あー緊張してきた!」
春川はぎゅっと胸のあたりをつかんだ。
「僕もです。火を使う演出なんて初めてですし」
「やっぱりベテラン俳優さんでも緊張するんですね~」
少しいたずらっぽく言う彼女に、僕はいやいやと手を振る。
「からかわないでくださいよ」
「春川さーん!」
僕の言葉に被さるように、少し離れたところから声が飛んできた。
「じゃあまたあとで」
春川は軽く手を振り、足早にスタッフのもとへ向かっていった。

「あー違うんだって!そうじゃないんだよなぁ!」
監督は丸めた台本を太ももに何度も叩きつけた。
「その声、どうにかなんない?全然通らないんだけど。普段ずっと口パクだから、腹から声出したことないか?」
「……すみません」
「すみませんじゃなくてさぁ。ちょっとこっち来て」
その一言で、春川の肩が小さく跳ねたのが分かった。
「早く来いって!」
苛立ちを含んだ声に押されるように、春川が駆け出す。監督はその様子を一瞥して、立ち上がった。
「ちゃんと立って」
そう言いながら、いきなり春川の胸元と腹に手を当ててぐっと押す。春川の体がわずかによろめいた。
「ここ、使えてないでしょ」
腹に置かれた芋虫のような指先が、揉みこむような動きをする。
「息吸って。で、吐く。はい、もう一回。もっと深く。胸じゃなくて下、下。ここ」
腹を押さえたまま、今度は背中に手を回す。端から見れば、抱き寄せているような格好だ。
「……はい」
春川は真顔で、呟くように返事をする。
そのとき、不意にこめかみの奥がズキリと痛んだ。反射的に片手で頭を押さえる。強く脈打つような痛み。
「……っ」
思わず顔をしかめ、そっとその場を離れた。端のほうに置かれていた折りたたみ椅子に腰を下ろす。目を閉じ、息を整える。
「はい、じゃあ戻ってやってみよっか」
監督の声が、遠くで聞こえる。
「次、同じとこから!」
僕は耳をふさぎ、自分の呼吸に集中した。吸って、吐く。吸って、吐く。瞼の裏の暗闇に意識を沈めていくと、痛みが遠のいていく。ゆっくりと目を開けた。視界が、さっきよりもわずかに暗い気がする。足元に、古びたスニーカーが見えた。
ハッとして顔を上げ、一瞬、息が止まる。
「……日永」
キャップの影の中で、日永の目がかすかに光って見えた。いつから、そこにいたのか。
「お前、つかれてるよ」
「……えっ?」
風がザァっと吹き抜け、木々が揺れる。
「あぁ……うん、えっと……一日中撮影で……それで疲れがたまってたのかも」
「月芝くーん!」
スタッフが呼んでいる。
「あっもう行かないと」
僕は慌てて立ち上がる。
「あとで——」
そう言いかけた瞬間、言葉が止まった。視線を落とすと、日永の手が僕の袖をつかんでいる。日永はもう片方の手でポケットを探り、小さな何かを取り出した。
「これ持ってて。応急処置」
そう言われ、ずいっと目の前に差し出される。僕はぎこちない動きでそれを受け取った。黄味がかった光沢のある薄い布の袋。ふわりと、今まで嗅いだことのない香りが立ちのぼる。木の香りのような気がするが、分からない。
「これは……くれんの?」
日永は頷いた。
「……ありがとう」
袋をポケットにしまうと、袖をつかんでいた手が離れた。沈黙が流れる。
「じゃあ……また」
そう言葉を絞り出し、重い足を現場の方へ何とか向ける。
次に振り向いたときにはいなくなっている——なぜか、そう確信していた。

祭壇の上に立つと、思ったより高さがあった。見下ろすと、エキストラが円形に配置されている。今からは、端から見ていたはずの儀式の中心にいると錯覚するシーン——祭壇の上で少女と主人公が対峙するカットのリハだ。
「ここ、結構高いですね」
春川に話しかけると、うんとかすかに頷いた。明らかに元気がない。
「春川さ——」
「月芝くん、ここは陶酔した表情で熱っぽく見つめる感じでね」
監督の指示で、僕の声はかき消されてしまった。横目で春川の俯いた横顔を見ながら、僕は「はい」と監督に頷き、定位置についた。合図と同時に、銅鑼が激しく鳴る。春川とエキストラが一斉に動き出した。銅鑼の音が早く強くなっていくとともに、踊りも激しさを増す。
「ストップ!ストップ!」
鋭い声に、銅鑼が鳴り止んだ。監督がモニターを指し示しながら助監督に指示を出している。助監督が素早い足取りでこちらに向かってきて、エキストラの一人の肩を叩いた。
「君、そう君」
監督のあからさまに不機嫌な声が響く。
「外れろ」
指摘されたエキストラが、きょとんとした顔で周囲を見る。
「え……僕ですか?」
「いいから外れろ!」
「えっなんで……」
「早く言う通りにしろって!」
監督が椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がる。流石にまずいと思ったのか、助監督がサッとかけより、なだめにかかる。
「……チッ」
舌打ちのあと、監督は不機嫌そうにため息をついた。
「……休憩!」

撮影現場を隅から隅まで見たが、やはり日永の姿は消えていた。ため息をついたところで、後方でにわかにざわめきが起こった。えーっという驚いたような声もする。振り向くと、モニターの前に人だかりができていた。僕もその輪に近づく。
「どうかしたんですか?」
近くにいるスタッフに声をかける。
「なんかね、さっきの映像、やばいんだよ」
そのスタッフはどこか興奮したような面持ちでそう答えた。僕は背伸びをしてモニターを覗いた。
「……うわ」
思わず声が漏れた。一時停止された映像。エキストラの皆が祭壇を見ている中、一人の顔がカメラの方を向いていた。不気味なのは首の角度だ。体は祭壇の方を向いているのに、顔だけが不自然にこちらにねじれている。目は虚ろでどこにも焦点が合っていないのに、こちらと目が合っている気がする。ぞわりと全身に鳥肌が立った。スタッフたちのざわめきの中、誰かが小さく、ぽつりと呟いた。
「……やっぱ、ここって“いる”のかな」
その一言で場がシンと静まり返った。発言者に視線が集まる。若手の助監督だ。
「いや、その、ほら、ここって介護施設として使われてたらしいじゃないですか。なんか、いかにも心霊現象が起きそうなスポットって感じがして」
急に注目されて緊張したからか、長い前髪をいじりながら早口でまくしたてた。
「ちょっと調べてみたんですけど、ここ、半グレが運営してたとこの系列らしいんですよね。入居者を虐待してて、摘発されて。ニュースとかにも一時期出てたやつです……」
「あ~それ覚えてるわ。結構えぐいやつじゃなかったっけ?」
別のスタッフが言葉を継ぐ。
「えっなに田中ってオカルトとか好きなタイプなん?」
「恨みながら死んでいった人たちの霊がさまよってる、的な?」
「いやいやないでしょ」
「マジやめて俺ホラーとかほんと無理なんだけど」
「でも確かに昨日からの機材トラブルもさ、なんか普通じゃないよな」
ひそひそとした声が、波のように広がっていく。
「はいはいそこまで!休憩そろそろ終わり!監督戻ってくるよー!」
チーフ助監督の張り上げた声と、パンパンと手を叩く音で、ざわついた空気は半ば強引に断ち切られた。
——いる、のかな。
その言葉が、妙に耳に残った。なぜだか、日永と最初に会ったときのことを思い出す。
死後の世界や幽霊なんてものがあるのかどうか、真剣に考えたことはない。でも、もし日永が幽霊だと言われても、驚かないかもしれない——そんな考えが、ふと頭をよぎる。
馬鹿げている。あの日、タオル越しに触れた頭の丸みを、確かに覚えている。僕はポケットの中に手を入れ、すべすべとした袋を指でいじったあと、ぎゅっと握りしめた。

夕方になると、見慣れない人たちが増えていた。身なりからしてスタッフではない。
「映画会社の上の人たちが来てるみたい。プロデューサーも来てるって」
木内が小声で教えてくれた。そうなんですね、とつられて僕も小声で返した。
そのとき、
「先生!今日はお忙しい中ありがとうございます!」
長田監督の上ずったような声が高く響いた。思わずそちらを見る。監督がペコペコと、そういう動きをするおもちゃみたいに、お辞儀を繰り返している。その先に立っている人物を見て、喉の奥がひゅっと狭くなった。小柄な体躯、白髪交じりの長髪をひとつに縛ったヘアスタイル、特徴的なブラウンのカラーサングラス。視線を逸らそうとした。けれど、遅かった。その人の目が、こちらを捉えた。意思とは正反対に足が動く。
「久しぶりだな」
低く、よく通る声。
「はい、お久しぶりです」
自分でも意外なくらい普段通りの声が出た。
「デカくなったなぁ。あのときは——確か、小三くらいだったか」
「そのくらいですね」
顔の筋肉がひきつっている感覚はない。問題なく愛想笑いはできているはずだ。
「最近はどうだよ?」
「あ……実は映画はあの時以来で」
「なぁんでだよ?オファー殺到したんじゃないか?」
「ちょっと勉強に集中しようかってなって……親の方針で」
「いやーでも流石ですよ月芝くん。アカデミー賞新人俳優賞は伊達じゃない!これも中条先生の指導の賜物ですねぇ!」
監督がはしゃいだような声で言いながら、バシバシと僕の背中を叩いた。
「ふぅん。楽しみにしてるよ」
僕は伏し目がちにがんばりますと告げ、頭を何度か下げながら、その場を立ち去った。
気づいたときには、ポケットの中のものを強く握りしめていた。少し震える指で取り出し、そっと、鼻先に近づける。ふわり、と心地の良い香りが立ちのぼる。すぅっと深く吸い込む。胸の奥に絡みついていた何かが、少しずつほどけていく心地がする。知らないうちに、奥歯を噛みしめていたらしい。力を抜くと、じんとしたしびれが口の中に広がった。