遺響綴録:銀幕に巣食うもの

暗闇の中、建物の外壁に沿って進み、窓の下でしゃがむ。顔を上げかけた瞬間、視界の隅に何かが入り込んだ。声が出かけるが、細い指が唇の前で止まり、動けなくなる。少女が至近距離に立っている。彼女は微笑みながら、シーっと息の音を立てた。
「カット!違う違う違う!」
間髪入れずに長田監督の声が飛ぶ。
「あのさぁ、普段ステージの上で腰振ったり、ファンとの握手会で媚売ったりしてるでしょ?男が喜びそうな仕草、分かるでしょーが」
「すみません」
春川萌乃が頭を下げる。監督はうーんと二重顎に手を当てて唸り、それから、にやりと口元を歪めた。
「ちょっとこっち来て」
ちょいちょいっと手招きをする。春川は戸惑った表情を浮かべつつも、小走りで監督の元へ向かう。
「ここでさ、新曲のサビ踊ってみてよ」
「……はい?」
「だからぁ、君のグループの新曲のサビ」
「……あぁもう君の唇にく~ぎづけ~、チュッとしたくてたま——」
「ねぇ!」
大きな声に、ぎこちなく踊っていた春川がピタリと止まる。
「あのさぁ、こっちも遊びでやってんじゃないんだよ?真面目にやってくれる?」
「はい……」
春川は小さく返事をすると、今度は手足をきびきびと動かし、ダンスを踊り始めた。
「ストップ!」
監督の声で動きが止まる。右手は唇の横、左手は腰の後ろ、やや前のめりの姿勢だ。監督は立ち上がると、春川の顔を両手でつかみ、ぐいっと左へ傾けた。さらに右手を引き、その人差し指を自分の唇に押し付ける。
「そう!この感じ!ここでニッコリ微笑む!そうそうそう!……うん、これ覚えといてね。もっかい撮るよ!」
二度目のテイクはOKが出た。
「休憩入りまーす!」
その一言で、張りつめていた空気がふっと緩む。春川はそそくさとロケバスの方へ歩いていった。僕はスタッフから水を受け取り、一口飲んでからその背中を追う。ロケバスの外では春川のマネージャーが所在なさげにスマホをいじっていた。僕が「春川さんに少しごあいさつさせていただいてもいいですか」と尋ねると、マネージャーはスマホから視線をちらりと上げ、顎をしゃくるようにして頷いた。中に入ると、春川が一番後ろの後部座席に俯いて座っていた。
「大丈夫ですか?」
そっと声をかけると、春川が勢いよく顔を上げた。泣いているのかと思ったが、むすっとしたふくれっ面だった。
「全然大丈夫じゃないです」
「ですよね」
「マジキモかったんだけど。完全にセクハラじゃん」
手に持っていたペットボトルを、メコメコと音を立てて握りつぶす。
「ごめんなさい、足引っ張っちゃって」
「いやいや、気にしないでください……あれ、それって原作の小説ですか」
春川の横に置いてある本を指さした。ところどころに付箋がつけてある。
「あっはい、そうです」
「春川さん、原作読み込んでるんですね」
「元々原作が好きっていうのもあるんですけど……」
少しだけ目を伏せる。
「ほら私ってアイドルだからどうしても色眼鏡で見られるっていうか、演技も期待されてないじゃないですか。客寄せパンダの役割だってのは分かってるけど、できる努力は最大限したいなって思ってて……って言われてもって感じですよね。なんか語っちゃってハズカシー」
春川は顔を手で覆った。
「いえ、実はさっき春川さんの台本にたくさん書き込みしてあるのを見て、僕も頑張らなきゃって気合いが入ったんです。すみません、勝手にのぞき見しちゃって。それと、僕、年下なんでタメ口で大丈夫ですよ」
春川は指の隙間からこちらを見た。
「もう年下にフォローされてんの情けないわー」
そう言うと春川はガバっと体を起こし、パンパンと頬を叩いた。
「まあでも、やるしかないしね」
春川の表情がグッと引き締まる。
「LINE教えてもらえない?」
「えっ?」
唐突な話に思わず聞き返してしまう。
「あっごめん変な意図はなくて。NG連発したのと休憩時間つぶさせちゃったお詫びにスタバのギフト送りたいなって」
ここは素直に受け取ったほうが、春川の気持ちも楽になるだろう。
「お気遣いありがとうございます。じゃあ、遠慮なくもらっちゃおうかな」
春川とLINEを交換し、ギフトを受け取ったところで、
「休憩あと5分でーす!」
外からスタッフの声が聞こえた。
「行きましょうか」
「そうだね」
ロケバスのステップを降りたところで、ふと春川の視線が横へ流れた。
「あれ、君は……」
春川の目線の先を追って、僕もそちらを振り向いた。木陰に、人が立っていた。パーカーにデニム、キャップを目深にかぶっていて、顔はよく見えない。体格からして少年だろうか。
「こんにちは」
少し掠れた、端正な声。まさか、と思うより先に、相手がキャップのつばに指をかけ、ほんの少し持ち上げた。
「日永……」
無意識にそう呟いていた。春川が僕の方を見る。
「知り合い?」
「えっと……」
どう説明すればいいのか分からない。その間に、日永が一歩前に出た。
「後輩です。今日は見学で」
「あ、そうなんだ。よろしくね」
日永は小さく頷いたあと、こちらに目をやった。気づけば、日永のもとに駆け寄っていた。
「どうして……」
声を潜めて問いかける。
「準備入りまーす!」
スタッフの声が、タイミング悪く響いた。僕は一瞬だけ迷って、それから日永の手をつかんだ。そのまま引いて、機材の置かれたエリアの端まで連れていく。
「……ここにいて。あとで話そう」
そう言って手を離した。ゆっくりと背を向ける。視界の端に、さっきと同じように静かに立っている日永の姿が映る。僕は背中に日永の視線を感じながら、現場の方へ駆け出した。

僕の今日の最後の撮影は、ソロショットだった。後日、もう一度施設に近づく場面。背を低くして草の中へと踏み込む。数歩進んだところで、ぴたりと足を止めた。耳を澄ます表情をつくり、ゆっくりと体をかがめ、草の隙間に手をかける。その時、フッと視界が一段暗くなった。
「カット!おい、照明何やってる!」
間髪入れずに監督の怒声が飛ぶ。
「すみません!」
照明スタッフが慌ててライトをチェックしにかかる。
「ったく、最近の若いやつは機材チェックもまともにできねーのか」
監督はぶつぶつと悪態をつきながら、腕を組んで舌打ちした。ここまでかなり時間が押していることもあり大分苛立っているようだ。ライトはすぐに安定したらしい。白い光が、何事もなかったかのように同じ場所を照らしている。
「はい、もう一回いきまーす!」
3、2、1、アクション。
背を低くして一歩踏み出した、その瞬間。バチッという音がして、照明が落ちた。
「カット!おい、ふざけんな!」
監督は吐き捨てるように叫ぶと、照明スタッフのもとへズカズカと歩み寄り、脛を蹴り上げた。
「ふざけんなよ!無能は俺の現場にいらねーんだよ!お前もう帰れよ!」
「すみません!すぐに予備と取り替えます!」
照明スタッフは平謝りしながら、機材置き場へと走っていった。現場に、気まずい空気が流れる。僕はなんとなく機材置き場の方へ目を向けた。日永が、こちらに視線を注いでいるのが、遠目にもはっきり分かる。業界の裏側を見せてしまった。今のやり取りを、日永はどう思っただろう。そもそも、テレビとか映画とか見るんだろうか。そんなことをぼんやりと考えているうちに、準備が整った。
三度目の正直。今度は、何も起きなかった。
「……カット!」
その一言に安堵の息をついたのも束の間、モニターを見ていた監督が、天パをぐしゃぐしゃとかき回し、舌打ちをした。
「月芝くんの後ろに、虫の群れみたいなのが映ってたから、もう一回!」
「え?」
虫などまったく気がつかなかった。僕は思わずあたりを見回した。草むら。木の影。足元。どこにも、虫らしきものは見当たらない。スタッフがすぐに駆け寄ってきて、防虫スプレーを手早く僕の周囲に吹きかけていく。ありがとうございます、と言いながら、再び周囲を見渡す。山の中だ。虫が映り込むことくらい、珍しくないだろう。気持ちを切り替えなければ。僕は定位置に戻った。

「……オッケー!」
監督の声に、僕は大きく息をついて脱力した。
「月芝くん今日これで上がりでーす!」
助監督の明るい声に、お疲れ様ですとあちらこちらから声が上がる。
「お疲れ様です」
頭を下げながら、視線は無意識に機材置き場へ向いていた。
——あれ
さっきまで立っていたはずの場所に、人影がない。
「月芝くん、おつかれさまー!……ん?どうかした?」
傍に寄ってきていた木内が不思議そうに顔を覗き込む。
「あ、いえ……何も」
言葉を濁して、もう一度だけ視線を巡らせる。いない。さっきまで、確かにいたのに。
「今日は早く休もう。明日もみっちりだし」
「はい」
そのまま流されるように、ロケバスの方へ歩き出す。足を進めながらも、胸の奥にはざらついた感覚が残っていた。
——どこ行ったんだ。後で話そうって言ったのに。
ロケバスに乗り込む直前、なんとなく振り返る。日はすっかり落ちていて、照明の届かない場所は完全な闇に沈んでいる。光の中から闇を覗き込むと、闇のほうがこちらへ滲み出してくるような気がして、心がざわついた。僕は頭をブルブルっと振ってから視線を車内へ戻し、バタンとドアを閉めた。