遺響綴録:銀幕に巣食うもの

静寂が落ちる。
終わった。その実感と同時に、僕はその場に、どさりと座り込む。自分の荒い呼吸だけが、やけに大きく響いていた。
ぺたぺたと足音が近づいてくる。顔を上げる間もなく、フッと影が落ちた。次の瞬間。
バチンッ!!
両頬を思いきり挟まれた。
「境界の中に入るなって言っただろうが!死にたいのか!」
怒鳴り声がステージ上に響く。日永は顔を歪め、本気で怒っていた。
「ご、ごべんなざい……」
頬を潰されて、うまく喋れない。日永の体がぐらりと揺れた。とっさに両肩をつかむ。
「日永!」
日永はトサッと額を僕の肩に預けた。そして、深く、長いため息を吐く。
「……二度とするな」
低い声だった。けれど、その奥に安堵が混じっているのが分かった。
「はい……ごめんなさい……」
僕は薄い肩を持つ手に力を込めた。
「……ん……」
春川のかすかな呻き声が聞こえた。二人で駆け寄ると、薄く目を開けた春川の視線が定まらないまま天井をさまよい、やがて僕たちを捉えた。
「……なにが……」
掠れた声だった。
「……終わりましたよ」
起き上がろうとする春川の背を支えながらそう告げると、春川はしばらく瞬きを繰り返した。それから胸元へそっと手を入れる。取り出したお守りは黒く焦げたように変色し、裂けていた。春川はそれを両手で包み込むと、深く頭を下げた。
「……ありがとう……ございました」
「とりあえず、ここを出ましょう」
僕が言うと、春川は静かに頷いた。立ち上がる足取りは思っていたよりもしっかりしている。
僕たちは会場を出た。夜風が、熱を持った頬を冷やしていく。タクシーを止め、春川を乗せる。
「今日はちゃんと休んで」
そう言うと、春川は何か言いかけて、結局小さく頭を下げるだけだった。
タクシーが走り去っていくのを見届けてから、僕は懐にしまっていたスマホを取り出した。カナタのスマホだ。一一〇番と一一九番に通報する。会場で集団体調不良が起きていることだけを簡潔に伝えた。通話を終えると、スマホを見下ろしたまま口を開いた。
「……これ、どうする?」
日永は一瞥すると、手を差し出した。
「俺の方で処分する」
僕はそのスマホを渡した。それから、僕たちはもう一台タクシーを拾った。
車が走り出す。車内では、エンジンの低い振動と、時折鳴るウインカーの音だけが小さく響いていた。窓の外を、人影もネオンも途切れることなく流れていく。色とりどりの光に染まる、いつも通りの日永の横顔。僕は窓ガラスに映るそれを、ただ眺めていた。
ホテルの前でタクシーが止まる。降りると、夜風が火照った頬をなぞり、急に現実感が押し寄せてきた。
入口の前で、僕と日永は向かい合った。
「……さっきは、助けてくれてありがとう」
「俺も、お前に助けられた。ありがとう」
短い沈黙が落ちる。
「……明日、もう帰るんだよね」
「うん」
日永は肩にかけたバッグをそっと押さえた。
「これを祠に納める」
静かな声だった。僕は少しためらってから聞く。
「……お参りって、できる?」
日永は 頷いた。
「……また、会いに行くよ」
「分かった」
日永がホテルの入口へ向かおうとする。その腕を、とっさに掴む。
「あの、さ」
日永が振り返る。湖面みたいな瞳に、僕が映っている。
「LINE、送っていい?」
引き留めてまで言うことがそれか。もっと他にあっただろ。
「わりと……頻繁に」
そう付け足した。数秒の沈黙。それから日永は、ふっと吹き出した。
「お前の好きにしろ」
僕も笑った。
「うん、好きにする」
日永は、そのままホテルの中へ入っていった。その姿が完全に見えなくなってから、ホテルに背を向けた。
その瞬間、ポケットのスマホが短く震える。取り出して画面をタップする。
「あははっ」
無表情の白猫が、小さく手を振っている。僕は、「またね」のつくしのスタンプを送り返した。
スマホをぎゅっと握りしめ、少し軽くなった足取りで、僕は歩き出した。



うめき声がかすかに聞こえる会場。
カナタはパチリと目を見開き、何事もなかったかのように上体を起こすと、ぐっと背を反らして大きく伸びをした。ぐったりと横たわる人々の間を、まるで、見えていないかのように歩いていく。
トイレに入ると、まず手を洗った。鏡に映る自分の顔を見つめる。唇の端がわずかに切れていた。
「ちょっと、頑張りすぎちゃったなぁ」
そう呟き、ペーパータオルで血を軽く拭う。
それからカバンを開けると、中からエコバッグを取り出す。スーツを脱ぎ、カバンごとまとめてそれへ詰め込むと、地味なTシャツとズボン姿になる。髪をほどくと、長い前髪が自然に目元を覆った。
そのまま、何事もなかったように外へ出る。そのとき、ポケットのスマホが震えた。画面を見ることもなく通話に出る。
『おい田中、お前二コール以内に出ろって言ってるだろーが!今どこだ』
「ちょっと外です」
ぼそぼそとした声で答える。
『ったく!明日のことだけど、朝イチでロケハン資料印刷して――』
「はい……はい……分かりました……はい」
通話が切れる。スマホをポケットにしまい、鼻歌を小さく口ずさむ。
「あぁ……日永糸臣、楽しみだなぁ」
そう呟きながら、男は雑踏の中へ溶け込んでいった。