この場所から退散できることに安堵が押し寄せ、張りつめていた表情が緩みそうになる。慌てて、僕は気持ちを引き締めた。そして、ふと、先ほど日永に礼を言い忘れていたことを思い出した。日永が戻ってきたら、伝えよう。
そう思った瞬間、照明がバツンと落ちた。背筋をぞわりと冷たいものが這い上がる。嫌な予感がする。
気づけば、僕は扉へ向かって走り出していた。勢いよく会場の扉を開け放つと、中も真っ暗だった。だが、会場の空気はまだ緩い。
「何の演出だ?」
「びっくりした〜」
そんなひそひそ声が聞こえる。誰も、まだ異変に気づいていない。
そのとき、パッとステージだけに光が灯った。だが、その白い照明は、すぐに異様な点滅を始めた。まるで壊れた映写機みたいに、断続的な光がステージを照らし出す。ステージの中央には、春川が立っていた。うつむいたまま、両腕をだらりと垂らし、体をわずかに傾けている。まるで、糸に吊るされた人形のようだ。
春川の肩が揺れる。コマ送りのように、一瞬ごとに違う位置まで顔が持ち上がっていく。その顔が正面を向いた瞬間、全身が粟立った。
三木原の顔が、そこにあった。
会場のざわめきが、すぅっと静まっていく。そして春川が、いや――三木原が、ぐにゃりと口元を歪めた。
「ギャハハハハハハハハハッ!!」
耳をつんざくような笑い声が響く。女性の喉から出ているとは思えない、しゃがれた、潰れた、絶叫みたいな笑い声。唖然としていると、ぐいっと腕を引かれた。日永だった。鋭い目でステージを見据えている。
「手伝え」
その低い一言で、ようやく我に返った。日永は履いていたヒールを乱暴に脱ぎ捨てると、一直線にバーカウンターへ駆け出した。僕も慌てて後を追う。
「器と塩、日本酒!」
日永が鋭い声で言う。だが、バーテンダーは呆然と日永を見つめたまま動けない。日永はひらりとバーカウンターを飛び越えた。
「どこ!」
その声に、ようやくバーテンダーがカウンター下の棚を震える指で示した。日永はそこから器を二枚、塩袋、日本酒の瓶を数本取り出すと、カウンターへ叩き置いた。そのときだった。
「ゆ、幽霊だぁ!三木原真子の霊が出たぁ!」
前方から甲高い声が響く。カナタだ。ステージを指差しながら、興奮した顔で騒いでいる。その手元を見て、僕は息を呑んだ。
「撮ってる……!」
カナタは脇に構えたスマホで、春川を撮影していた。日永が舌打ちする。
「……あいつから取り上げろ」
「わ、分かった!」
周囲のざわめきが一気に広がっていく。
「え、何あれ」
「三木原真子って誰?」
「あれじゃない?今Xで話題になってるやつ!」
僕はカナタのところまで駆け寄ると、その手からスマホをひったくった。
「何やってるんだ!」
だがカナタはきょとんとした顔で瞬きをした。
「あっ、もう気分は大丈夫そうですか?」
「なんで撮影なんか――」
「やるなって言われるとやりたくなっちゃいません?」
悪びれもせず言う。
「この会が終わるまで僕が預からせてもらいます。うちの者が映っていたら削除しますからね」
そう言ってスマホを懐にしまう。
「は〜い」
カナタが軽い調子でそう返事をしたとき、荒井がステージの中央へ、そろりそろりと近づいていくのが見えた。
「お、お〜い……?」
半笑いで春川に声をかけ、肩に手を伸ばす。だが、次の瞬間、荒井の体が、ぴたりと硬直した。目を見開いたまま動かない。会場のざわめきが大きくなる。ぎこちなく、荒井の右腕が持ち上がった。手にはマイクが握られている。荒井は信じられないものを見るような目で、自分の腕を凝視している。そのまま、ずぶっと、マイクを自分の口へ突っ込んだ。
「ぐっ……! ごっ――!」
えずいているが、止まらない。ぐい、ぐい、と無理やり喉奥へねじ込もうとする。口の端から涎が垂れ、目から涙が溢れる。
「がっ……!」
突然、カナタが身を半分に折った。ハッとして顔を向けると、その口の中には手が突っ込まれている。
「お、おい⁉」
丹羽が肩を掴む。だが、次の瞬間には、丹羽も同じ姿になってもがき始めた。一人、また一人と、男たちが苦しみだす。
「いやぁぁぁっ!」
女性たちの悲鳴が上がった。席を立って逃げようとする。だが、まともに歩けていない。ふらついてテーブルにぶつかる。誰もまっすぐ立てない。焦点の合っていない目で、混乱したように周囲を見回している。
会場が、一気に地獄みたいな騒ぎになった。僕は必死にカナタの腕を掴み、引き剥がそうとする。だが、びくともしない。
どうして、自分は平気なんだ。視線が、無意識に胸ポケットへ向いた。
――お守りのおかげか。
日永から渡されたものを、あの日からずっと身につけている。
そんなことを考えていると、日永がこちらへ駆け戻ってきた。両手には日本酒の瓶を抱えている。
「多分、飲み物になにか盛られてる」
顔をしかめながら、テーブルのシャンパングラスを覗き込む。
「変な匂いがする」
そう吐き捨てると、日本酒の瓶を一本開け、僕に渡した。
「ステージを囲め。こっちの壁の真下から、あっちの壁の真下まで。途切れさせるな」
「わ、分かった!」
僕は瓶を掴み、走った。どぼどぼどぼ、と酒を床へ撒いていく。赤いカーペットに黒い染みが広がる。背後では、悲鳴とえずき声が混ざり合っている。誰かが転び、グラスが割れる音がした。ステージの上では、三木原が、まだ笑っていた。
「ギャハハハハハハッ!!」
耳障りな笑い声が、頭蓋の内側を掻き回す。僕が壁際まで辿り着いた瞬間、日永が滑り込むように駆け寄ってきた。手には、ショットグラス。中には山盛りの塩が詰め込まれている。その上に、小皿が伏せて被せられていた。日永はそれをひっくり返し、酒の線の端へ置く。そして、ショットグラスをそっと持ち上げた。
「お前はこのから中に入るな」
低く言って、日永は持っているショルダーバッグをぎゅっと握り締めた。次の瞬間、境界を越え、ステージへ向かって一気に駆け出す。中央へ飛び込むと同時に、荒井へ飛び蹴りを叩き込んだ。
「んぐっ⁉」
荒井の体が吹き飛び、そのままステージ下へ転げ落ちる。日永はウィッグを乱暴に引き剥がし、そのままステージの外へ放り投げた。
そして、三木原の正面へ進み出ると、片膝をつく。バッグから一枚の白い布を取り出し、頭から深く被った。静かに両手を合わせる。そして、低く響く声で、何かを唱え始めた。
不気味な笑い声が、ぴたりと止まる。三木原の黒い目が、ゆっくりと日永へ向いた。それと同時に、呻いていた男たちの動きも止まった。
僕は慌てて荒井のもとへ駆け寄った。白目を剥き、泡を吹きながら倒れている。喉へ突っ込まれていた手を引っ張ると、ずるりと抜けた。恐る恐る口元へ手を伸ばす。呼吸はある。ほかの男たちの元にも駆け寄り、同じように腕を引き剥がしていく。皆、気絶していた。
ステージを振り向く。三木原が、体を傾けていた。不自然な角度のまま、日永の顔を覗き込んでいる。日永は唱え続けたまま、そっとハンドバッグへ手を差し入れた。取り出したのは、一枚の紙。試写会のチケットだった。
その瞬間、三木原の視線が、ぐりん、と音がしそうな勢いでそちらへ向く。日永はチケットを頭上へ掲げるように持ち上げた。唱える声が、一段と低くなる。
そのとき、びゅうっ、と突風が吹き抜けた。思わず目を閉じる。神を降ろしたのか、そう思ってそっと目を開けた瞬間、何かが脇を走り抜けた。
ぎょっとして目を向ける。中条だ。顔を真っ赤にし、目を血走らせている。
「このクソ女がぁぁッ!!」
怒鳴りながら、一直線にステージへ突進していく。
「やばっ――!」
僕も駆け出す。だが、追いつけない。酒で痛覚も理性も飛んでいるのか、とんでもない勢いだ。中条は酒の境界線を飛び越え、そのままステージへよじ登る。
その瞬間、三木原の体が、ぐきり、と中条の方へ向いた。
「なんだブス女!何見てんだよ!!」
中条はわめき散らしながら、日永へ向かっていく。僕は近くのテーブルにあった酒瓶をひったくり、全力で駆けた。
中条が日永の肩へ手を伸ばす。
「触るなぁッ!!」
僕は叫びながらステージへ飛び乗り、勢いそのままに、中条の首筋を横から酒瓶でぶん殴った。ぐえっ、と潰れた蛙みたいな声が漏れる。中条の体が横へ吹き飛んだ。そのままステージから転げ落ち、酒の境界の外側へ叩き出される。
はぁ、はぁ、と肩で息をする。バッと顔を上げると、三木原と目が合った。光の差していない、真っ黒な目。
「三木原さ――」
そう言いかけた瞬間、春川の体から、ふっと力が抜けた。同時に、視界が激しく揺れる。
「――ッ⁉」
次の瞬間、頭が、がんっと床へ叩きつけられた。瞼の裏で、火花みたいに星が散る。
キィィィィン――という高い音が、頭の奥で響き続ける。遠くで、日永が何か叫んでいた。けれど、何を言っているのか分からない。
薄く目を開けると、すぐ目の前に三木原の顔があった。喉の奥から、ひゅっと音が漏れる。至近距離で見る底なしの目に、吸い込まれそうだと思った。その瞬間、頭に割れるような痛みが走った。
「あっ……ぐっ…う……」
知らないはずの記憶が、皮膚の内側へ無理やり流し込まれてくる。
熱い照明。まとわりつく汗。アルコールの匂い。怖い。もう嫌だ。気持ち悪い。痛い。苦しい。消えたい。帰りたい。
意識が、引きずり込まれる。胃の奥がねじ切れそうだ。
そのとき、胸のあたりが、かっと熱を持った。荒れ狂う感情の濁流の中で、その熱だけが、今の自分をこの世界に繋ぎ止めてくれている気がした。
僕は服の上からお守りをぎゅっと握りしめ、三木原の目を真正面から見つめる。そして、ゆっくり口を開いた。
「あなたは、“物語を共有する時間”が好きだった」
三木原の表情は動かない。
「小さいころ、欲しいものを聞かれて、本を選んだ。お母さんと同じ本を読んで、感想を話す時間――同じ感情を共有できる時間を、欲しがってた」
声の震えを止められない。それでも、なんとか言葉をつなげる。
「『白露』を観たとき、衝撃を受けた。原作を読んだとき、自分なりに想像してたんですよね。この場面は、こんな表情で、こんな声で話すんだろうって。でも、映画には、それ以上のものがあった。頭の中でぼんやり想像していた感情が、スクリーンの中で、本当に生きていた」
僕はお守りを握る手に、さらに力を込めた。
「お母さんは映画を観ながら、笑って、泣いて、素直に感情を動かしてた。自分が感じたものを、お母さんも感じてる。同じ場面で笑って、泣いてる。その瞬間、気づいたんじゃないですか。演技って、“人の心を繋げるもの”なんだって。だから女優になりたかった。誰かと誰かが、同じ気持ちになれる瞬間を作りたかった」
喉が詰まる。
胸をどんっと拳で叩き、言葉を吐き出した。
「でも、実際に飛び込んだ世界は違った。そこは、“人間理解”の世界なんかじゃなかった。“作品のためだ”って言えば、人を消費して、壊すことがまかり通る世界だった」
涙が込み上げそうになるのを、ぐっと唇を噛みしめてこらえる。
「それでも、演じることを捨てられなかった。演技を諦めるってことは、これまでの自分を――お母さんと過ごした幸せな時間を、否定することだったから」
三木原は、先ほどから少しも変わった様子はない。それでも僕は、叫ぶように続けた。
「だから、傷ついてもしがみついた!お母さんには弱音を吐けなかった。だって、知ってたから。お母さんが、どれだけ自分のために尽くしてくれたのか。働き詰めでも笑っていたこと。苦しくても、しんどくても、それを隠して自分を育ててきたこと」
震える息を吐く。
「あなたは、その背中をずっと見てた。心配をかけたくなかった。だから、平気なふりをした」
三木原を見つめたまま、僕は静かに言った。
「最後まで、“お母さんの自慢の娘”でいたかった」
胸が焼けるように熱い。けれど、不思議と、もう恐怖はなかった。
「あなたの願いは――」
微笑みかける。
「“お母さんに、私を育ててよかったって思ってほしかった”」
そう告げた瞬間、ふっと体が軽くなった気がした。同時に、それまで遠くでくぐもっていた日永の声が、はっきりと耳に届く。
「掛けまくも畏き荒御魂よ、現世の縛りを断ち、御座へ還り給へ」
三木原の体が、ゆっくりと持ち上がり、日永の方へ向く。日永は試写会のチケットを掲げたまま、低い声で言葉を紡ぎ続けていた。三木原の視線が、吸い寄せられるようにそこへ落ちる。白い指先が、ゆっくりとチケットへ伸びた。触れた瞬間――ずぶり、と。まるで沼へ沈むように、三木原の腕がチケットの中へ吸い込まれていく。抵抗する様子はなかった。
ああ、これで終わるんだ。そう思った瞬間、言葉が勝手に口からこぼれていた。
「三木原さん」
吸い込まれていく背中に向かって、僕は声をかける。
「お母さんは、あなたが生まれてからずっと、あなたの幸せを願っていた」
意味のないことなのだろう。それでも。
「あなたがいるだけで、お母さんは幸せだったんです」
三木原の体はもう半分持っていかれている。
「もう、誰もあなたを傷つけません」
胸の奥から、祈るみたいに言葉が溢れる。
「だから、どうか――ゆっくり休んでください」
その瞬間、ほんのわずかに、三木原の顔がこちらへ向いた気がした。次の瞬間には、三木原の姿は完全にチケットの中へ吸い込まれていた。
そう思った瞬間、照明がバツンと落ちた。背筋をぞわりと冷たいものが這い上がる。嫌な予感がする。
気づけば、僕は扉へ向かって走り出していた。勢いよく会場の扉を開け放つと、中も真っ暗だった。だが、会場の空気はまだ緩い。
「何の演出だ?」
「びっくりした〜」
そんなひそひそ声が聞こえる。誰も、まだ異変に気づいていない。
そのとき、パッとステージだけに光が灯った。だが、その白い照明は、すぐに異様な点滅を始めた。まるで壊れた映写機みたいに、断続的な光がステージを照らし出す。ステージの中央には、春川が立っていた。うつむいたまま、両腕をだらりと垂らし、体をわずかに傾けている。まるで、糸に吊るされた人形のようだ。
春川の肩が揺れる。コマ送りのように、一瞬ごとに違う位置まで顔が持ち上がっていく。その顔が正面を向いた瞬間、全身が粟立った。
三木原の顔が、そこにあった。
会場のざわめきが、すぅっと静まっていく。そして春川が、いや――三木原が、ぐにゃりと口元を歪めた。
「ギャハハハハハハハハハッ!!」
耳をつんざくような笑い声が響く。女性の喉から出ているとは思えない、しゃがれた、潰れた、絶叫みたいな笑い声。唖然としていると、ぐいっと腕を引かれた。日永だった。鋭い目でステージを見据えている。
「手伝え」
その低い一言で、ようやく我に返った。日永は履いていたヒールを乱暴に脱ぎ捨てると、一直線にバーカウンターへ駆け出した。僕も慌てて後を追う。
「器と塩、日本酒!」
日永が鋭い声で言う。だが、バーテンダーは呆然と日永を見つめたまま動けない。日永はひらりとバーカウンターを飛び越えた。
「どこ!」
その声に、ようやくバーテンダーがカウンター下の棚を震える指で示した。日永はそこから器を二枚、塩袋、日本酒の瓶を数本取り出すと、カウンターへ叩き置いた。そのときだった。
「ゆ、幽霊だぁ!三木原真子の霊が出たぁ!」
前方から甲高い声が響く。カナタだ。ステージを指差しながら、興奮した顔で騒いでいる。その手元を見て、僕は息を呑んだ。
「撮ってる……!」
カナタは脇に構えたスマホで、春川を撮影していた。日永が舌打ちする。
「……あいつから取り上げろ」
「わ、分かった!」
周囲のざわめきが一気に広がっていく。
「え、何あれ」
「三木原真子って誰?」
「あれじゃない?今Xで話題になってるやつ!」
僕はカナタのところまで駆け寄ると、その手からスマホをひったくった。
「何やってるんだ!」
だがカナタはきょとんとした顔で瞬きをした。
「あっ、もう気分は大丈夫そうですか?」
「なんで撮影なんか――」
「やるなって言われるとやりたくなっちゃいません?」
悪びれもせず言う。
「この会が終わるまで僕が預からせてもらいます。うちの者が映っていたら削除しますからね」
そう言ってスマホを懐にしまう。
「は〜い」
カナタが軽い調子でそう返事をしたとき、荒井がステージの中央へ、そろりそろりと近づいていくのが見えた。
「お、お〜い……?」
半笑いで春川に声をかけ、肩に手を伸ばす。だが、次の瞬間、荒井の体が、ぴたりと硬直した。目を見開いたまま動かない。会場のざわめきが大きくなる。ぎこちなく、荒井の右腕が持ち上がった。手にはマイクが握られている。荒井は信じられないものを見るような目で、自分の腕を凝視している。そのまま、ずぶっと、マイクを自分の口へ突っ込んだ。
「ぐっ……! ごっ――!」
えずいているが、止まらない。ぐい、ぐい、と無理やり喉奥へねじ込もうとする。口の端から涎が垂れ、目から涙が溢れる。
「がっ……!」
突然、カナタが身を半分に折った。ハッとして顔を向けると、その口の中には手が突っ込まれている。
「お、おい⁉」
丹羽が肩を掴む。だが、次の瞬間には、丹羽も同じ姿になってもがき始めた。一人、また一人と、男たちが苦しみだす。
「いやぁぁぁっ!」
女性たちの悲鳴が上がった。席を立って逃げようとする。だが、まともに歩けていない。ふらついてテーブルにぶつかる。誰もまっすぐ立てない。焦点の合っていない目で、混乱したように周囲を見回している。
会場が、一気に地獄みたいな騒ぎになった。僕は必死にカナタの腕を掴み、引き剥がそうとする。だが、びくともしない。
どうして、自分は平気なんだ。視線が、無意識に胸ポケットへ向いた。
――お守りのおかげか。
日永から渡されたものを、あの日からずっと身につけている。
そんなことを考えていると、日永がこちらへ駆け戻ってきた。両手には日本酒の瓶を抱えている。
「多分、飲み物になにか盛られてる」
顔をしかめながら、テーブルのシャンパングラスを覗き込む。
「変な匂いがする」
そう吐き捨てると、日本酒の瓶を一本開け、僕に渡した。
「ステージを囲め。こっちの壁の真下から、あっちの壁の真下まで。途切れさせるな」
「わ、分かった!」
僕は瓶を掴み、走った。どぼどぼどぼ、と酒を床へ撒いていく。赤いカーペットに黒い染みが広がる。背後では、悲鳴とえずき声が混ざり合っている。誰かが転び、グラスが割れる音がした。ステージの上では、三木原が、まだ笑っていた。
「ギャハハハハハハッ!!」
耳障りな笑い声が、頭蓋の内側を掻き回す。僕が壁際まで辿り着いた瞬間、日永が滑り込むように駆け寄ってきた。手には、ショットグラス。中には山盛りの塩が詰め込まれている。その上に、小皿が伏せて被せられていた。日永はそれをひっくり返し、酒の線の端へ置く。そして、ショットグラスをそっと持ち上げた。
「お前はこのから中に入るな」
低く言って、日永は持っているショルダーバッグをぎゅっと握り締めた。次の瞬間、境界を越え、ステージへ向かって一気に駆け出す。中央へ飛び込むと同時に、荒井へ飛び蹴りを叩き込んだ。
「んぐっ⁉」
荒井の体が吹き飛び、そのままステージ下へ転げ落ちる。日永はウィッグを乱暴に引き剥がし、そのままステージの外へ放り投げた。
そして、三木原の正面へ進み出ると、片膝をつく。バッグから一枚の白い布を取り出し、頭から深く被った。静かに両手を合わせる。そして、低く響く声で、何かを唱え始めた。
不気味な笑い声が、ぴたりと止まる。三木原の黒い目が、ゆっくりと日永へ向いた。それと同時に、呻いていた男たちの動きも止まった。
僕は慌てて荒井のもとへ駆け寄った。白目を剥き、泡を吹きながら倒れている。喉へ突っ込まれていた手を引っ張ると、ずるりと抜けた。恐る恐る口元へ手を伸ばす。呼吸はある。ほかの男たちの元にも駆け寄り、同じように腕を引き剥がしていく。皆、気絶していた。
ステージを振り向く。三木原が、体を傾けていた。不自然な角度のまま、日永の顔を覗き込んでいる。日永は唱え続けたまま、そっとハンドバッグへ手を差し入れた。取り出したのは、一枚の紙。試写会のチケットだった。
その瞬間、三木原の視線が、ぐりん、と音がしそうな勢いでそちらへ向く。日永はチケットを頭上へ掲げるように持ち上げた。唱える声が、一段と低くなる。
そのとき、びゅうっ、と突風が吹き抜けた。思わず目を閉じる。神を降ろしたのか、そう思ってそっと目を開けた瞬間、何かが脇を走り抜けた。
ぎょっとして目を向ける。中条だ。顔を真っ赤にし、目を血走らせている。
「このクソ女がぁぁッ!!」
怒鳴りながら、一直線にステージへ突進していく。
「やばっ――!」
僕も駆け出す。だが、追いつけない。酒で痛覚も理性も飛んでいるのか、とんでもない勢いだ。中条は酒の境界線を飛び越え、そのままステージへよじ登る。
その瞬間、三木原の体が、ぐきり、と中条の方へ向いた。
「なんだブス女!何見てんだよ!!」
中条はわめき散らしながら、日永へ向かっていく。僕は近くのテーブルにあった酒瓶をひったくり、全力で駆けた。
中条が日永の肩へ手を伸ばす。
「触るなぁッ!!」
僕は叫びながらステージへ飛び乗り、勢いそのままに、中条の首筋を横から酒瓶でぶん殴った。ぐえっ、と潰れた蛙みたいな声が漏れる。中条の体が横へ吹き飛んだ。そのままステージから転げ落ち、酒の境界の外側へ叩き出される。
はぁ、はぁ、と肩で息をする。バッと顔を上げると、三木原と目が合った。光の差していない、真っ黒な目。
「三木原さ――」
そう言いかけた瞬間、春川の体から、ふっと力が抜けた。同時に、視界が激しく揺れる。
「――ッ⁉」
次の瞬間、頭が、がんっと床へ叩きつけられた。瞼の裏で、火花みたいに星が散る。
キィィィィン――という高い音が、頭の奥で響き続ける。遠くで、日永が何か叫んでいた。けれど、何を言っているのか分からない。
薄く目を開けると、すぐ目の前に三木原の顔があった。喉の奥から、ひゅっと音が漏れる。至近距離で見る底なしの目に、吸い込まれそうだと思った。その瞬間、頭に割れるような痛みが走った。
「あっ……ぐっ…う……」
知らないはずの記憶が、皮膚の内側へ無理やり流し込まれてくる。
熱い照明。まとわりつく汗。アルコールの匂い。怖い。もう嫌だ。気持ち悪い。痛い。苦しい。消えたい。帰りたい。
意識が、引きずり込まれる。胃の奥がねじ切れそうだ。
そのとき、胸のあたりが、かっと熱を持った。荒れ狂う感情の濁流の中で、その熱だけが、今の自分をこの世界に繋ぎ止めてくれている気がした。
僕は服の上からお守りをぎゅっと握りしめ、三木原の目を真正面から見つめる。そして、ゆっくり口を開いた。
「あなたは、“物語を共有する時間”が好きだった」
三木原の表情は動かない。
「小さいころ、欲しいものを聞かれて、本を選んだ。お母さんと同じ本を読んで、感想を話す時間――同じ感情を共有できる時間を、欲しがってた」
声の震えを止められない。それでも、なんとか言葉をつなげる。
「『白露』を観たとき、衝撃を受けた。原作を読んだとき、自分なりに想像してたんですよね。この場面は、こんな表情で、こんな声で話すんだろうって。でも、映画には、それ以上のものがあった。頭の中でぼんやり想像していた感情が、スクリーンの中で、本当に生きていた」
僕はお守りを握る手に、さらに力を込めた。
「お母さんは映画を観ながら、笑って、泣いて、素直に感情を動かしてた。自分が感じたものを、お母さんも感じてる。同じ場面で笑って、泣いてる。その瞬間、気づいたんじゃないですか。演技って、“人の心を繋げるもの”なんだって。だから女優になりたかった。誰かと誰かが、同じ気持ちになれる瞬間を作りたかった」
喉が詰まる。
胸をどんっと拳で叩き、言葉を吐き出した。
「でも、実際に飛び込んだ世界は違った。そこは、“人間理解”の世界なんかじゃなかった。“作品のためだ”って言えば、人を消費して、壊すことがまかり通る世界だった」
涙が込み上げそうになるのを、ぐっと唇を噛みしめてこらえる。
「それでも、演じることを捨てられなかった。演技を諦めるってことは、これまでの自分を――お母さんと過ごした幸せな時間を、否定することだったから」
三木原は、先ほどから少しも変わった様子はない。それでも僕は、叫ぶように続けた。
「だから、傷ついてもしがみついた!お母さんには弱音を吐けなかった。だって、知ってたから。お母さんが、どれだけ自分のために尽くしてくれたのか。働き詰めでも笑っていたこと。苦しくても、しんどくても、それを隠して自分を育ててきたこと」
震える息を吐く。
「あなたは、その背中をずっと見てた。心配をかけたくなかった。だから、平気なふりをした」
三木原を見つめたまま、僕は静かに言った。
「最後まで、“お母さんの自慢の娘”でいたかった」
胸が焼けるように熱い。けれど、不思議と、もう恐怖はなかった。
「あなたの願いは――」
微笑みかける。
「“お母さんに、私を育ててよかったって思ってほしかった”」
そう告げた瞬間、ふっと体が軽くなった気がした。同時に、それまで遠くでくぐもっていた日永の声が、はっきりと耳に届く。
「掛けまくも畏き荒御魂よ、現世の縛りを断ち、御座へ還り給へ」
三木原の体が、ゆっくりと持ち上がり、日永の方へ向く。日永は試写会のチケットを掲げたまま、低い声で言葉を紡ぎ続けていた。三木原の視線が、吸い寄せられるようにそこへ落ちる。白い指先が、ゆっくりとチケットへ伸びた。触れた瞬間――ずぶり、と。まるで沼へ沈むように、三木原の腕がチケットの中へ吸い込まれていく。抵抗する様子はなかった。
ああ、これで終わるんだ。そう思った瞬間、言葉が勝手に口からこぼれていた。
「三木原さん」
吸い込まれていく背中に向かって、僕は声をかける。
「お母さんは、あなたが生まれてからずっと、あなたの幸せを願っていた」
意味のないことなのだろう。それでも。
「あなたがいるだけで、お母さんは幸せだったんです」
三木原の体はもう半分持っていかれている。
「もう、誰もあなたを傷つけません」
胸の奥から、祈るみたいに言葉が溢れる。
「だから、どうか――ゆっくり休んでください」
その瞬間、ほんのわずかに、三木原の顔がこちらへ向いた気がした。次の瞬間には、三木原の姿は完全にチケットの中へ吸い込まれていた。
