扉を出てからは、駆け足でトイレに向かった。視界が揺れる。トイレの扉を乱暴に押し開けると、そのまま個室に飛び込み、便器に覆いかぶさった。
「う、えっ……」
次の瞬間、胃の中のものを一気に吐き出した。
「……っ、はぁ……っ」
息がうまくできない。肩で呼吸を繰り返しながら、便器にしがみつく。
頭の中に浮かぶ光景が、内側から胃をかき回している。
もう一度、吐き気が込み上げる。
「うぇっ……!」
空気と苦い液体だけが絞り出された。手が震える。うまく力が入らない。呼吸を整えようとしても、まったくうまくいかない。息が激しく乱れる。
落ち着け、落ち着け、落ち着け――
その時、そっと肩に手が置かれた。息をのんで振り返る。
「どうした」
静謐で、芯の強い声。その声を聞いた瞬間、一筋、涙がこぼれた。
「ぼ、僕……僕は――」
「うん」
「最低の卑怯者だ」
視界がにじむ。あのときの光景が、鮮明によみがえる。
撮影現場に入ったばかりの頃。
最初は、みんな優しかった。監督もスタッフも、笑ってくれていた。
「すごいね」「上手だね」――そう言われるのが、嬉しかった。
でも、ある日を境に、空気が変わった。
急に、誰も話しかけてこなくなった。目を合わせても、すぐに逸らされる。
監督だけが、僕に言葉をかけた。
「ふざけてんのか、お前」
「なんだその顔は。気持ち悪い」
「お前の演技はリアルじゃない。全然ダメ」
どうすればいいのか分からなくなる。NGが重なり、現場の空気が冷えていくのが分かる。
誰も助けてくれない。
そんな中で、三木原だけが、違った。
「大丈夫だよ」
撮影の合間、誰もいないところで、そっと声をかけてくれた。パンをくれたり、ハンカチを貸してくれたり。笑ってくれた。
「今日もお疲れ様。よく頑張ったね」
その言葉が、どれだけ嬉しかったか。優しいお姉さんだった。大好きだった。
三木原と撮影が被る最後の日、撮影が終わって控室を出たあと、帽子を忘れたことに気づいた。三木原の楽屋に、置きっぱなしだったことを思い出し、取りに戻ろうと、廊下を引き返した。楽屋が視界に入ったとき、ドアがわずかに開いていた。中から、ガタン、と音がした。
「……?」
なんとなく怖くて、そっと近づき、恐る恐る覗くと、三木原が床に倒れ、監督がその上に覆いかぶさっていた。何をしているのかは分からなかった。でも、何かよくないことが起きているのは、本能的に分かった。
三木原と、目が合った。その表情は、うまく読み取れなかった。ただ、目を見開いて、こちらを見ていた。その視線に気づいたのか、中条がこちらを振り向いた。床からのっそり起き上がり、つかつかと歩み寄ってくる。
バァンっと大きな音をたてて、ドアが勢いよく開いた。
「――っ」
いきなり首を掴まれた。息ができない。
「今見たことは、誰にも言うな」
低く、押し殺した声。
「見なかったことにしろ。忘れろ。約束だ」
中条の指に力がこもる。息ができない。
「……っ、ぅ……」
必死に首を上下に動かした。パッと手が離され、冷たい床にしりもちをつく。
そのまま監督は、何事もなかったかのように部屋へ戻っていく。ドアが閉まる直前、もう一度、三木原と目が合った。その目は、何も映していなかった。光を吸い込むような、穴のような目だった。
それが三木原を見た最後の記憶だった。
僕は、すべてを日永に語った。
「……僕は……誰にも……言わなかった……」
言葉が詰まる。
「……僕のせいだ」
最初、怪異の顔を見ても三木原だと認識できなかったのは、その顔の記憶を自分自身で封じ込めていたからだったのだ。もっと早く気づいていれば、死者が出る前に手を打てたかもしれない。
「……そのとき三木原の生霊がお前に取りつき、死後は澱みとなって残り続けた……今回の撮影が始まったことで再び影響を及ぼし始めたのは……演じることへの真剣な思いが共鳴したから……」
日永は口元に手を当て、独り言を呟く。冷静に考察するその様子を見ているうちに、僕の頭も少しずつ冷えてきた。
「……でも、“澱み”って、負の感情の塊なんじゃ――」
「確かにそういう場合がほとんど。でも、“強い感情は残ることがある”と最初に言っただろ。 “演じたい”という思いが残っていても不思議じゃない」
「あ……なるほど……だから撮影がトリガーになったのか……だとすると、春川さんに入ったのも納得できる。一生懸命に役へ取り組んでたから。でも……それだけじゃなくて……傷ついた心にも共鳴したんじゃないかな……だから、深く入り込めた……」
僕は、さっき聞いた話を日永に伝えた。
「……反吐が出る」
日永は険しい顔で、吐き捨てるように言った。僕もまた胸のむかつきがぶり返してきた気がして、意識してゆっくり呼吸をする。
「蛇の夢は……」
言葉が続かない。日永は静かに頷いた。
「カラオケバーでは春川の恐怖が極限まで達し、それと共鳴して怨霊になったんだ。三木原にとって撮影は――」
「希望でもあり……絶望でもあった」
僕はこれまでの出来事をすべて踏まえた上で、直感に近い確信を抱いていた。
「日永」
「うん」
「これは僕の勝手な考えなんだけど……三木原さんの願いは――」
僕の言葉に、日永は何も言わなかった。
「えっと、何でそう思ったのかっていうと――」
「信じるよ」
「……へ?」
間抜けな声が漏れた。
「お前の言ったことが、腑に落ちた」
「でも、その……俺みたいな――」
「お前は、人の気持ちを受け止めて、理解しようとする気質を持ってる。だから引き寄せるんだ。人を。“澱み”や怪異を」
日永は静かに続けた。
「俺たちが話を聞いた人たちも、お前が真摯に耳を傾けるから、自分の気持ちを共有できる相手だと感じた。だから胸の内をさらけ出した」
違う、日永がいたおかげだ。日永がいたから――
「そして、“澱み”や怪異の本質は、行き場を失った感情だ。だから、それを受け止めてくれそうなところへ引き寄せられる」
日永の手が僕の肩に置かれる。
「人は耐え難いことに直面したとき、感情を切り離す。三木原もそうだった。三木原の生霊は、そういう気質を持っていたお前、同じ理不尽に耐えていたお前だったから、取りついたんだ。負の感情だけじゃない。三木原の、まるごとの感情が」
日永は穏やかな顔で僕を見た。
「俺は、お前の言うことだから信じる」
そう言って、立ち上がる。
「水もらってくるから、ちょっと休んでな」
日永はそう言い残し、トイレを出ていった。
洗面台の鏡に映る自分を見る。ひどい顔だ。パン、と両手で頬を叩く。気持ちを切り替えよう。こんなところで気を抜いてはいけない。今は役に集中しなくちゃいけない。
蛇口をひねり、勢いよく流れる水で何度も顔を洗う。冷たい水が、熱を持った目元を冷ましてくれた。十分に顔が冷えたところで水を止め、ペーパータオルで顔を拭う。
そのとき、ぽん、と肩に手が置かれた。
皮膚がざわつく。日永の手の感触じゃない。恐る恐る、顔を上げる。
「あぁ、やっぱりお前か」
赤ら顔の中条が、にやついた笑みを浮かべて目の前に立っていた。
「なーんか、どっかで見覚えあると思ったんだよなぁ」
頭が真っ白になる。息が止まる。
「どうやってもぐりこんだんだ?マセガキが」
伸びてきた手が僕の二の腕をばんばんと叩いた。
「やるじゃぁねぇかぁ!女遊びは芸の肥やし!今はいろいろうるせぇ時代になったけどなぁ、こういうのが役者の深みになるんだよ!」
酒臭い息がかかるほど近くで、中条は笑う。
「……出歯亀で女に目覚めたか?」
耳元で囁きながら、手が首筋へ伸びてきた。逃げたいのに、体が動かない。
目をつぶった瞬間、バンッ!!と激しい音がした。
目を開けると、中条の姿が視界から消えていた。横を見ると、中条が小便器に無様な格好でへばりついている。目の前には、片足を腰まで上げたままの日永が立っていた。
蹴り飛ばしたのだと理解するより早く、日永は静かに足を下ろした。そして、手に持っていた水入りのグラスを洗面台へそっと置き、無言のまま中条へ歩み寄った。
次の瞬間、鈍い音が響く。日永の蹴りが、中条のみぞおちにめり込んだ。続けざまにもう一発。さらに、股間へ容赦なく三発蹴り込む。
「ぐッ……ぁ……!」
中条が床に崩れ落ちる。日永はその髪をつかむと、便器へ頭を打ちつけた。
一度。二度。
ゴンッ、ゴンッと嫌な音が響く。
「日永!」
僕は慌てて日永の腕をつかんだ。
「それ以上やったら死んじゃうって!」
「これくらいじゃ死なない」
日永は平然と言った。それから、ようやく僕の方を見る。
「大丈夫か?」
「……僕は、何ともないよ」
「そう」
短く答えると、日永は中条の髪から手を離した。中条の頭が、ゴッ、と鈍い音を立てて便器の中へ落ちる。うぅ、と苦しげなうめき声が漏れた。
「飲みたかったら」
日永は顎で洗面台の上を示した。
「……う、うん」
僕がグラスを手に取ると、日永はもう出口へ向かって歩き出していた。僕は一瞬だけ中条を振り返ってから、日永のあとを追いかけた。
グラスの水を一気に飲み干す。冷たい水が喉を通っていく感覚で、ようやく思考が戻ってきた。
「……もう、ここには用はない」
隣を歩く日永が淡々と言う。
「春川を連れて出る。すぐに怨霊を封じるぞ」
その言葉に、僕は思わず顔を上げた。
「今から?」
「時間を置くほど危険になる」
日永は短く答える。そのとき、扉の向こうから、わあっと大きな歓声が上がった。
「……なんかやってるの?」
「さっきはステージで女の人たちが一人ずつ自己紹介してたけど」
日永は興味なさそうに言って、ポケットから番号札を取り出し、僕へ手渡した。
「俺が春川を連れてくる。お前は先にスマホ回収しておいて」
「……分かった」
クラブの扉に近づくと、黒服のスタッフがこちらを見た。
「お帰りですか?」
「ああ。女と抜けるから」
気だるそうな口調を意識して番号札を渡すと、スタッフは慣れた様子で頭を下げた。
「かしこまりました」
「う、えっ……」
次の瞬間、胃の中のものを一気に吐き出した。
「……っ、はぁ……っ」
息がうまくできない。肩で呼吸を繰り返しながら、便器にしがみつく。
頭の中に浮かぶ光景が、内側から胃をかき回している。
もう一度、吐き気が込み上げる。
「うぇっ……!」
空気と苦い液体だけが絞り出された。手が震える。うまく力が入らない。呼吸を整えようとしても、まったくうまくいかない。息が激しく乱れる。
落ち着け、落ち着け、落ち着け――
その時、そっと肩に手が置かれた。息をのんで振り返る。
「どうした」
静謐で、芯の強い声。その声を聞いた瞬間、一筋、涙がこぼれた。
「ぼ、僕……僕は――」
「うん」
「最低の卑怯者だ」
視界がにじむ。あのときの光景が、鮮明によみがえる。
撮影現場に入ったばかりの頃。
最初は、みんな優しかった。監督もスタッフも、笑ってくれていた。
「すごいね」「上手だね」――そう言われるのが、嬉しかった。
でも、ある日を境に、空気が変わった。
急に、誰も話しかけてこなくなった。目を合わせても、すぐに逸らされる。
監督だけが、僕に言葉をかけた。
「ふざけてんのか、お前」
「なんだその顔は。気持ち悪い」
「お前の演技はリアルじゃない。全然ダメ」
どうすればいいのか分からなくなる。NGが重なり、現場の空気が冷えていくのが分かる。
誰も助けてくれない。
そんな中で、三木原だけが、違った。
「大丈夫だよ」
撮影の合間、誰もいないところで、そっと声をかけてくれた。パンをくれたり、ハンカチを貸してくれたり。笑ってくれた。
「今日もお疲れ様。よく頑張ったね」
その言葉が、どれだけ嬉しかったか。優しいお姉さんだった。大好きだった。
三木原と撮影が被る最後の日、撮影が終わって控室を出たあと、帽子を忘れたことに気づいた。三木原の楽屋に、置きっぱなしだったことを思い出し、取りに戻ろうと、廊下を引き返した。楽屋が視界に入ったとき、ドアがわずかに開いていた。中から、ガタン、と音がした。
「……?」
なんとなく怖くて、そっと近づき、恐る恐る覗くと、三木原が床に倒れ、監督がその上に覆いかぶさっていた。何をしているのかは分からなかった。でも、何かよくないことが起きているのは、本能的に分かった。
三木原と、目が合った。その表情は、うまく読み取れなかった。ただ、目を見開いて、こちらを見ていた。その視線に気づいたのか、中条がこちらを振り向いた。床からのっそり起き上がり、つかつかと歩み寄ってくる。
バァンっと大きな音をたてて、ドアが勢いよく開いた。
「――っ」
いきなり首を掴まれた。息ができない。
「今見たことは、誰にも言うな」
低く、押し殺した声。
「見なかったことにしろ。忘れろ。約束だ」
中条の指に力がこもる。息ができない。
「……っ、ぅ……」
必死に首を上下に動かした。パッと手が離され、冷たい床にしりもちをつく。
そのまま監督は、何事もなかったかのように部屋へ戻っていく。ドアが閉まる直前、もう一度、三木原と目が合った。その目は、何も映していなかった。光を吸い込むような、穴のような目だった。
それが三木原を見た最後の記憶だった。
僕は、すべてを日永に語った。
「……僕は……誰にも……言わなかった……」
言葉が詰まる。
「……僕のせいだ」
最初、怪異の顔を見ても三木原だと認識できなかったのは、その顔の記憶を自分自身で封じ込めていたからだったのだ。もっと早く気づいていれば、死者が出る前に手を打てたかもしれない。
「……そのとき三木原の生霊がお前に取りつき、死後は澱みとなって残り続けた……今回の撮影が始まったことで再び影響を及ぼし始めたのは……演じることへの真剣な思いが共鳴したから……」
日永は口元に手を当て、独り言を呟く。冷静に考察するその様子を見ているうちに、僕の頭も少しずつ冷えてきた。
「……でも、“澱み”って、負の感情の塊なんじゃ――」
「確かにそういう場合がほとんど。でも、“強い感情は残ることがある”と最初に言っただろ。 “演じたい”という思いが残っていても不思議じゃない」
「あ……なるほど……だから撮影がトリガーになったのか……だとすると、春川さんに入ったのも納得できる。一生懸命に役へ取り組んでたから。でも……それだけじゃなくて……傷ついた心にも共鳴したんじゃないかな……だから、深く入り込めた……」
僕は、さっき聞いた話を日永に伝えた。
「……反吐が出る」
日永は険しい顔で、吐き捨てるように言った。僕もまた胸のむかつきがぶり返してきた気がして、意識してゆっくり呼吸をする。
「蛇の夢は……」
言葉が続かない。日永は静かに頷いた。
「カラオケバーでは春川の恐怖が極限まで達し、それと共鳴して怨霊になったんだ。三木原にとって撮影は――」
「希望でもあり……絶望でもあった」
僕はこれまでの出来事をすべて踏まえた上で、直感に近い確信を抱いていた。
「日永」
「うん」
「これは僕の勝手な考えなんだけど……三木原さんの願いは――」
僕の言葉に、日永は何も言わなかった。
「えっと、何でそう思ったのかっていうと――」
「信じるよ」
「……へ?」
間抜けな声が漏れた。
「お前の言ったことが、腑に落ちた」
「でも、その……俺みたいな――」
「お前は、人の気持ちを受け止めて、理解しようとする気質を持ってる。だから引き寄せるんだ。人を。“澱み”や怪異を」
日永は静かに続けた。
「俺たちが話を聞いた人たちも、お前が真摯に耳を傾けるから、自分の気持ちを共有できる相手だと感じた。だから胸の内をさらけ出した」
違う、日永がいたおかげだ。日永がいたから――
「そして、“澱み”や怪異の本質は、行き場を失った感情だ。だから、それを受け止めてくれそうなところへ引き寄せられる」
日永の手が僕の肩に置かれる。
「人は耐え難いことに直面したとき、感情を切り離す。三木原もそうだった。三木原の生霊は、そういう気質を持っていたお前、同じ理不尽に耐えていたお前だったから、取りついたんだ。負の感情だけじゃない。三木原の、まるごとの感情が」
日永は穏やかな顔で僕を見た。
「俺は、お前の言うことだから信じる」
そう言って、立ち上がる。
「水もらってくるから、ちょっと休んでな」
日永はそう言い残し、トイレを出ていった。
洗面台の鏡に映る自分を見る。ひどい顔だ。パン、と両手で頬を叩く。気持ちを切り替えよう。こんなところで気を抜いてはいけない。今は役に集中しなくちゃいけない。
蛇口をひねり、勢いよく流れる水で何度も顔を洗う。冷たい水が、熱を持った目元を冷ましてくれた。十分に顔が冷えたところで水を止め、ペーパータオルで顔を拭う。
そのとき、ぽん、と肩に手が置かれた。
皮膚がざわつく。日永の手の感触じゃない。恐る恐る、顔を上げる。
「あぁ、やっぱりお前か」
赤ら顔の中条が、にやついた笑みを浮かべて目の前に立っていた。
「なーんか、どっかで見覚えあると思ったんだよなぁ」
頭が真っ白になる。息が止まる。
「どうやってもぐりこんだんだ?マセガキが」
伸びてきた手が僕の二の腕をばんばんと叩いた。
「やるじゃぁねぇかぁ!女遊びは芸の肥やし!今はいろいろうるせぇ時代になったけどなぁ、こういうのが役者の深みになるんだよ!」
酒臭い息がかかるほど近くで、中条は笑う。
「……出歯亀で女に目覚めたか?」
耳元で囁きながら、手が首筋へ伸びてきた。逃げたいのに、体が動かない。
目をつぶった瞬間、バンッ!!と激しい音がした。
目を開けると、中条の姿が視界から消えていた。横を見ると、中条が小便器に無様な格好でへばりついている。目の前には、片足を腰まで上げたままの日永が立っていた。
蹴り飛ばしたのだと理解するより早く、日永は静かに足を下ろした。そして、手に持っていた水入りのグラスを洗面台へそっと置き、無言のまま中条へ歩み寄った。
次の瞬間、鈍い音が響く。日永の蹴りが、中条のみぞおちにめり込んだ。続けざまにもう一発。さらに、股間へ容赦なく三発蹴り込む。
「ぐッ……ぁ……!」
中条が床に崩れ落ちる。日永はその髪をつかむと、便器へ頭を打ちつけた。
一度。二度。
ゴンッ、ゴンッと嫌な音が響く。
「日永!」
僕は慌てて日永の腕をつかんだ。
「それ以上やったら死んじゃうって!」
「これくらいじゃ死なない」
日永は平然と言った。それから、ようやく僕の方を見る。
「大丈夫か?」
「……僕は、何ともないよ」
「そう」
短く答えると、日永は中条の髪から手を離した。中条の頭が、ゴッ、と鈍い音を立てて便器の中へ落ちる。うぅ、と苦しげなうめき声が漏れた。
「飲みたかったら」
日永は顎で洗面台の上を示した。
「……う、うん」
僕がグラスを手に取ると、日永はもう出口へ向かって歩き出していた。僕は一瞬だけ中条を振り返ってから、日永のあとを追いかけた。
グラスの水を一気に飲み干す。冷たい水が喉を通っていく感覚で、ようやく思考が戻ってきた。
「……もう、ここには用はない」
隣を歩く日永が淡々と言う。
「春川を連れて出る。すぐに怨霊を封じるぞ」
その言葉に、僕は思わず顔を上げた。
「今から?」
「時間を置くほど危険になる」
日永は短く答える。そのとき、扉の向こうから、わあっと大きな歓声が上がった。
「……なんかやってるの?」
「さっきはステージで女の人たちが一人ずつ自己紹介してたけど」
日永は興味なさそうに言って、ポケットから番号札を取り出し、僕へ手渡した。
「俺が春川を連れてくる。お前は先にスマホ回収しておいて」
「……分かった」
クラブの扉に近づくと、黒服のスタッフがこちらを見た。
「お帰りですか?」
「ああ。女と抜けるから」
気だるそうな口調を意識して番号札を渡すと、スタッフは慣れた様子で頭を下げた。
「かしこまりました」
