席に戻るまでの距離が、やけに長く感じた。周囲の視線を感じる。この場にいるだけで、値踏みされているような気がする。
卓へと足を踏み入れると、
「どこ行ってたんだ」
と、よく通る低い声が飛んできた。中条がグラスを傾けたままこちらを見ていた。
「すみません……少し、お手洗いに」
自然に言えた、と思う。
「それと――」
一歩、横にずれる。
「友人を呼びに行っていました」
中条の視線が、隣へ流れる。
日永が一歩前に出る。
「西尾カレンといいます。中条監督にご挨拶させていただきたくて、萌乃に無理を言いました」
声はいつも通りだ。女性としてはやや低いが、不自然さはない。
中条はグラスを持つ手を止め、ジロジロと日永を見つめる。
「へぇ……春川くんの友人?」
「はい。以前から芸能界に興味があるって話をしていて……今日のことを話したら、ぜひ一度見てみたいって」
中条はふっと口元を緩めた。
「こっち座りなよ。せっかく来たんだ」
中条が顎で自分の横を示す。日永は静かに頷き、席に腰を下ろした。
「芸能界、入りたいの?」
「はい。『楽園のネズミ』を知ってから、芸能界に興味を持つようになりました」
「へぇ、そこがきっかけなんて珍しいじゃないの」
「監督の作品は、リアルを感じるんです。人間の本当の感情を。どうやって撮っているんですか」
中条の顔を真っ直ぐ見つめる。
「あのね、人間ってのはねぇ、極限まで追い込まれてはじめて真価を発揮できるんだよ」
中条はグイっとウイスキーをあおった。
「女優・谷本百合恵もそういう経験の積み重ねで作り上げられた。ちょっと話してやってよ」
中条は隣に座っている谷本を肘でつついた。
「下手くそとか帰れって怒鳴られない時のほうが珍しいわ。今でもね。若い頃は泣いてしまって、『泣くくらいなら死ね!』って言われて、台本で頭をはたかれたこともあったっけ」
五十代にも関わらず、しわひとつない顔で、谷本は優雅にほほ笑みながら中条のグラスにウイスキーを注いだ。
「でも、そのおかげで演技力が磨かれて今の私があるんだから、監督には感謝してもしきれないの」
「ま、こういうことなんだよね」
中条は再びウイスキーを一気にあおった。
「『楽園のネズミ』に子役として出演していた月芝直輝くんも印象に残ってます。アカデミー賞新人賞を受賞していましたよね」
日永の眼光が、心なしか先ほどよりわずかに鋭くなっている気がした。
「あ〜俺ね、子役って大っ嫌いなのよ。あの、こっちに媚びてくるみたいなわざとらしい笑顔と、作った耳障りな高い声。あれ聞くと虫唾が走るんだよ」
中条は貧乏ゆすりを始めた。
「俺の調教はね、まず、撮影期間中は親と会わせないようにするとこから始めんのよ。こっちも長年やってるからね。親言いくるめるのなんて簡単。頼れるのは撮影現場の大人だけって状況にして、最初はおだてんの。よくできまちたね〜って。で、そのあとはず〜っと叱る。現場の他の大人には声をかけさせない。俺とだけコミュニケーションを取らせて、徹底的に俺の表現を落とし込むんだ」
日永は無表情で中条の話を聞いている。
「『楽園のネズミ』では、何不自由ない裕福な家庭のボンボンが、実は親から虐待されているって役どころだったじゃない?にじみ出る陰鬱さがいるんだよ。それを作るのに大分苦労したんだよなぁ。虐待シーンもさぁ、最初全然“リアル”がないわけよ。だから俺が何回もデモンストレーションして、ようやく納得のいく画が撮れたんだよねぇ。いや、あそこの表情で新人賞取ったんだと、俺は確信してるね」
「実はさ」と、にやつきながら中条が日永に近づく。
「首を絞めるシーンあったでしょ?あれ、実際にちょっと絞めて、本当に失禁させたんだよね」
そう言ってガハハハッと声を上げて笑った。周りもそれに合わせて笑い声を上げる。私は頬を引きつらせることしかできない。短いワンピースの裾をぎゅっと握りしめて、そっと日永の顔をうかがう。相変わらず表情が変わらないのが、逆に怖い。
「君は人の目を引きつける魅力がある」
中条はトーンを戻し、目を光らせた。
「俺についてくる覚悟があるなら、また会いにきなよ。好きな事務所に口利きしてあげるからさ」
そう言って日永の顔に手を伸ばす。
その瞬間、パンッという乾いた音が響いた。空気が一瞬で凍り付く。日永が中条の手を払いのけたのだ。この卓だけ時が止まったかのように、誰も身動きひとつ取らない。
静寂を破ったのは中条だった。
「ダッハハハハハ!」
腹を抱えて大笑いする。皆の肩が安堵で下がる。
「気が強い女だな!」
周りも愛想笑いで合わせる。
「そのくらいのほうが、こっちもやりがいがあるからねぇ」
そう言って舌なめずりをし、またウイスキーをあおった。
「トイレに行ってきます」
日永はそう言って立ち上がり、礼もせずにそのまま卓を離れた。
「いいねぇ!久々に興奮したぜ、おい!」
中条は上機嫌で、さらにハイペースで飲み始める。ちらりと後方を見ると、日永が扉から出ていく後ろ姿が見えた。
そのとき、照明がすっと暗くなった。何事かと思っていると、メインステージの端にぱっとスポットライトが当たる。先ほど中条に挨拶に来ていた芸能事務所の社長だ。黒い肌と白い歯のコントラストが強烈で、記憶に残っている。名前は確か、荒井だったか。
「レディースアーンドジェントルメーン!さぁさぁ、お楽しみタイムの始まりでーす!」
荒井は、ライトに照らされた真っ白な歯をずらりと見せて笑った。
卓へと足を踏み入れると、
「どこ行ってたんだ」
と、よく通る低い声が飛んできた。中条がグラスを傾けたままこちらを見ていた。
「すみません……少し、お手洗いに」
自然に言えた、と思う。
「それと――」
一歩、横にずれる。
「友人を呼びに行っていました」
中条の視線が、隣へ流れる。
日永が一歩前に出る。
「西尾カレンといいます。中条監督にご挨拶させていただきたくて、萌乃に無理を言いました」
声はいつも通りだ。女性としてはやや低いが、不自然さはない。
中条はグラスを持つ手を止め、ジロジロと日永を見つめる。
「へぇ……春川くんの友人?」
「はい。以前から芸能界に興味があるって話をしていて……今日のことを話したら、ぜひ一度見てみたいって」
中条はふっと口元を緩めた。
「こっち座りなよ。せっかく来たんだ」
中条が顎で自分の横を示す。日永は静かに頷き、席に腰を下ろした。
「芸能界、入りたいの?」
「はい。『楽園のネズミ』を知ってから、芸能界に興味を持つようになりました」
「へぇ、そこがきっかけなんて珍しいじゃないの」
「監督の作品は、リアルを感じるんです。人間の本当の感情を。どうやって撮っているんですか」
中条の顔を真っ直ぐ見つめる。
「あのね、人間ってのはねぇ、極限まで追い込まれてはじめて真価を発揮できるんだよ」
中条はグイっとウイスキーをあおった。
「女優・谷本百合恵もそういう経験の積み重ねで作り上げられた。ちょっと話してやってよ」
中条は隣に座っている谷本を肘でつついた。
「下手くそとか帰れって怒鳴られない時のほうが珍しいわ。今でもね。若い頃は泣いてしまって、『泣くくらいなら死ね!』って言われて、台本で頭をはたかれたこともあったっけ」
五十代にも関わらず、しわひとつない顔で、谷本は優雅にほほ笑みながら中条のグラスにウイスキーを注いだ。
「でも、そのおかげで演技力が磨かれて今の私があるんだから、監督には感謝してもしきれないの」
「ま、こういうことなんだよね」
中条は再びウイスキーを一気にあおった。
「『楽園のネズミ』に子役として出演していた月芝直輝くんも印象に残ってます。アカデミー賞新人賞を受賞していましたよね」
日永の眼光が、心なしか先ほどよりわずかに鋭くなっている気がした。
「あ〜俺ね、子役って大っ嫌いなのよ。あの、こっちに媚びてくるみたいなわざとらしい笑顔と、作った耳障りな高い声。あれ聞くと虫唾が走るんだよ」
中条は貧乏ゆすりを始めた。
「俺の調教はね、まず、撮影期間中は親と会わせないようにするとこから始めんのよ。こっちも長年やってるからね。親言いくるめるのなんて簡単。頼れるのは撮影現場の大人だけって状況にして、最初はおだてんの。よくできまちたね〜って。で、そのあとはず〜っと叱る。現場の他の大人には声をかけさせない。俺とだけコミュニケーションを取らせて、徹底的に俺の表現を落とし込むんだ」
日永は無表情で中条の話を聞いている。
「『楽園のネズミ』では、何不自由ない裕福な家庭のボンボンが、実は親から虐待されているって役どころだったじゃない?にじみ出る陰鬱さがいるんだよ。それを作るのに大分苦労したんだよなぁ。虐待シーンもさぁ、最初全然“リアル”がないわけよ。だから俺が何回もデモンストレーションして、ようやく納得のいく画が撮れたんだよねぇ。いや、あそこの表情で新人賞取ったんだと、俺は確信してるね」
「実はさ」と、にやつきながら中条が日永に近づく。
「首を絞めるシーンあったでしょ?あれ、実際にちょっと絞めて、本当に失禁させたんだよね」
そう言ってガハハハッと声を上げて笑った。周りもそれに合わせて笑い声を上げる。私は頬を引きつらせることしかできない。短いワンピースの裾をぎゅっと握りしめて、そっと日永の顔をうかがう。相変わらず表情が変わらないのが、逆に怖い。
「君は人の目を引きつける魅力がある」
中条はトーンを戻し、目を光らせた。
「俺についてくる覚悟があるなら、また会いにきなよ。好きな事務所に口利きしてあげるからさ」
そう言って日永の顔に手を伸ばす。
その瞬間、パンッという乾いた音が響いた。空気が一瞬で凍り付く。日永が中条の手を払いのけたのだ。この卓だけ時が止まったかのように、誰も身動きひとつ取らない。
静寂を破ったのは中条だった。
「ダッハハハハハ!」
腹を抱えて大笑いする。皆の肩が安堵で下がる。
「気が強い女だな!」
周りも愛想笑いで合わせる。
「そのくらいのほうが、こっちもやりがいがあるからねぇ」
そう言って舌なめずりをし、またウイスキーをあおった。
「トイレに行ってきます」
日永はそう言って立ち上がり、礼もせずにそのまま卓を離れた。
「いいねぇ!久々に興奮したぜ、おい!」
中条は上機嫌で、さらにハイペースで飲み始める。ちらりと後方を見ると、日永が扉から出ていく後ろ姿が見えた。
そのとき、照明がすっと暗くなった。何事かと思っていると、メインステージの端にぱっとスポットライトが当たる。先ほど中条に挨拶に来ていた芸能事務所の社長だ。黒い肌と白い歯のコントラストが強烈で、記憶に残っている。名前は確か、荒井だったか。
「レディースアーンドジェントルメーン!さぁさぁ、お楽しみタイムの始まりでーす!」
荒井は、ライトに照らされた真っ白な歯をずらりと見せて笑った。
