「はぁ……ドキドキする」
タクシーの中で、思わずそうこぼす。
「失敗したら、また別の方法を考えればいい」
ローズピンクの唇から、ハスキーな声が落ちる。
「そうだけど……」
窓の外をのぞくと、“Garden of Eden”の金文字が、重厚な木製の扉の上に掲げられている。入り口には、黒服の男が立っていた。
フーッと息を吐いてから、
「よし、行こうか」
そう言って、日永に手を差し出した。
「招待状はお持ちでしょうか」
黒服の男は、柔らかな口調で尋ねてきた。僕は、その言葉を予期していたかのように名刺を取り出し、男の目の前にかざす。
そこには「ブライトエージェンシー 社長秘書 山本貴」とある。
「こちらの子を中に入れていただけますか」
日永の肩に手を置いた。従業員は納得したように頷き、扉を開いた。だが、日永は動かない。
「カレンちゃん、行っておいで」
そっと背中を押す。すると日永はくるりと振り返り、僕の胸に飛び込んできた。
「やっぱり、行きたくない。なんか、怖い」
「何も怖いことなんてないよ。美味しいお酒を楽しんでちょっとお話しするだけ」
甘い声で囁く。
「……一緒についてきてよ」
「僕は行けないよ。選ばれた人だけが中に入ることを許されてるんだから。カレンちゃんは選ばれた子なんだよ」
「一緒に来てくれないなら、行かない」
「困ったな……」
ポケットに手を突っ込み、スマホの画面をタップする。
数秒後、着信音が鳴る。
素早く取り出し、画面を従業員にも見えるように日永へ向ける。表示は「中条監督」。
「はい、山本です……あっもう店の前に到着しております。はい、すぐに参りま──あっ、こら」
日永がスマホを奪い取る。
「監督、お願いがあります……山本さんも中に入れてもらえませんか?」
「カレンちゃ──」
「……ありがとうございます!すぐ向かいますね!」
日永は僕にスマホを差し出す。
「大変申し訳ございません……いえ……いえいえそんな……はい……ありがとうございます。お心遣い、誠に痛み入ります。それでは後ほど……ええ……失礼いたします」
通話を切る。
「はぁ……悪い子だなぁ」
日永の額に軽くデコピンをする。そのまま、するりと腰に手を回して引き寄せ、耳元に唇を寄せる。
「いい子にしないと、ご褒美あげないよ?」
日永の体が強張った。なかなか自然な演技だ。
「中では、僕の言うこと聞けるね?」
ほとんど耳に触れる距離で囁く。こくこくと頷く日永の頭をポンポンした後、無表情で従業員を見据える。
顔を赤くした従業員が、慌てて目を逸らした。
「すみません、お見苦しいところをお見せして」
僕はにこやかな笑顔を作りながら言う。懐から財布を取り出す。綾木の父親のものだ。
「親父、俺にゲロ甘だからこれくらい気にしないって」なんて言っていたが、本当に大丈夫だろうか。
中から三万円を抜き取り、従業員へ差し出す。
「三流芸能事務所の社長秘書などこの場にはいなかった」
「あっ……その……」
戸惑う手に、無理やり握らせる。
「くれぐれも、ご内密に」
口元は笑っているのに、目だけが笑っていない表情をつくる。従業員は何度も首を縦に振り、札をポケットへ押し込んだ。
「どうも」
軽く微笑んでから、日永に手を差し出す。
「行こう、カレンちゃん」
分厚い扉をくぐって中へ入ると、すぐ先にもう一つ扉があった。
その前に立つ従業員に呼び止められる。
「恐れ入りますが、店内ではスマートフォンの電源をお切りいただき、こちらでお預かりしております」
僕は一瞬だけ日永と目を合わせ、ポケットからスマホを取り出した。電源を落とし、差し出す。日永も同じように従う。番号札のついた小さな引き換えタグを手渡され、それをポケットにしまった。ここから先は、外との繋がりが完全に断たれる。
二つ目の扉が開かれた。
甘ったるい香水とアルコールの匂いが、鼻をつく。グラスが触れ合う音と控えめな笑い声が混ざり合い、ひとつのざわめきとなって空間を満たしていた。薄暗いフロアには、間接照明が金色ににじみ、壁や天井の装飾を鈍く照らしている。前方のステージを囲むように卓が並び、それぞれに数人の女たちが座って、男たちに酒を注ぎながら言葉を交わしている。側面には長いバーカウンターがあった。女優、俳優、テレビにも出演している有名プロデューサー。彼らは皆、余裕のある笑みを浮かべながらソファに腰をかけている。
そして最奥――ステージ正面のソファ席に、中条が座っていた。そこだけがわずかに一段高く、まるで王の玉座のようだ。男たちが入れ替わり立ち替わりその席へ向かい、“謁見”しては去っていく。
「あ、荒井社長がいる」
僕は日永に囁いた。中条に頭を下げ、遠目からでも輝いて見える白い歯を見せながら、何やら話している。
その時、日永がクイっと僕の袖口を引いた。
「どうした?」
小声で尋ねると、
「あれ、春川じゃないか?」
と日永は短く囁いた。
「はっ? え、どこ?」
慌てて視線を巡らせる。
「中条の卓にいる、金髪で黒いワンピースの」
「金髪?」
春川は黒髪のセミロングのはずだ。中条の卓の端の席に、金髪で艶のある黒いワンピースの女が座っている。目を凝らした瞬間、ちょうどその横顔が見えた。
「……春川さんだ」
どうして、こんなところに。
「連れ出したほうがいい」
日永はそう言うと、中条が次の男と話し始めたタイミングで、卓へ向かってスタスタと歩き出した。春川の肩に軽く手を置き、短く何かを耳打ちし、すぐにこちらへ引き返してくる。
僕たちはバーの端へ移動した。少しして、春川が隣の男に声をかけて席を立ち、こちらへ向かって歩いてきた。そのまま僕たちの前を素通りし、扉の外へ出る。数分後、戻ってきて、こちらをちらりと見た。
日永が手招きすると、小走りで寄ってきた。
「春川さん!なんでこんなところにいるんですか⁉」
小声で問いかけると、春川は目を細めて僕を見て――ハッと口を押さえた。
「うそっ!まさか、月芝くん⁉ そっちこそなんで⁉」
「春川さんの中のものを取り除くためです!」
「ど、どういうこと?」
「説明すると長くなるので……それより、どうして……」
「中条監督から誘われて……」
「監督から?」
驚いて尋ねると、春川は頷いた。
「祭壇のシーンを見て、私を気に入ったって……“リアル”を感じたって……」
「でも、長田監督が亡くなって昨日の今日で……大丈夫ですか? マスコミとか……そもそも18歳でしたよね?」
「16歳の月芝くんに諭されるなんて」
春川は苦笑した。
「今まで日曜会がメディアで取り上げられたことなんてないでしょ? 偉い人たちがいっぱいいるんだから……そういうことだよ……一応、金髪のウィッグで変装して、迎えの車をよこしてもらって、こっそり来たけどね」
「この場所は、あなたの中の怨霊を刺激する可能性がある」
日永の鋭い言葉に、春川は硬直する。
「えっ怨霊って……」
「今すぐ帰ったほうがいい」
「……無理だよ」
「は?」
日永が眉間にしわを寄せる。
「だって……今さら帰れない。中条監督の誘いを断って干された子がいるって、噂聞いたことあるし……」
「でも――」
「それに」
春川は僕の言葉を遮った。
「これって、二度とない幸運なんだよ。あの中条監督から直接声をかけられるなんて……私程度の替えなんて、星の数ほどいるんだから」
自嘲気味に笑う。
「私はもともと女優志望だったんだけど、事務所の方針でアイドルとしてデビューすることになってさ。女性アイドルって賞味期限がすごく短いの。今のうちに、コネでもなんでも自分からつかみにいかないと、あっという間に落ちぶれちゃう。この焦りって、月芝くんには分かんないと思うけどね」
何も言うことができない。
「ここにいたいなら、好きにすればいい」
「ちょっ、日永――」
「その代わり、俺をあの卓に連れてって。もともと中条とは話すつもりだったから。話は適当に合わせて」
「う、うん。分かった」
春川はぎこちなく頷いた。
「お前はお前で情報収集しといて。あとで合流」
日永は僕にそう言うと、春川に向かって僕たちの設定を説明しながら、中条の卓へと歩いていった。
ぽつんと一人残され、僕は一瞬呆けたが、すぐに気を取り直し、社長秘書の顔をつくった。
とりあえず、場に溶け込もう。ゆったりとした足取りでバーカウンターに近づいたとき、
「おひとりですか」
と横から声がした。
さっと顔を向けると、柔和な笑みを浮かべた男が立っていた。身長は一八〇センチ後半はあるだろうか。ゆるくウェーブがかった長めの髪をハーフアップにしており、ラフなスーツスタイルがよく似合っている。整った顔立ちからして、おそらく芸能人だろう。周囲には数人の美女を引き連れている。
「えぇ、まぁ」
平静な声で答える。
「私、ブライトエージェンシー社長秘書の山本貴と申します。すみません、今名刺が手元になくて……」
「社長秘書ですか?っぽいですね~。いかにもシゴデキって感じ。俺はフリーでモデルやってます。カナタって名前で活動してます。よろしくお願いします」
そう言って、カナタは僕にそっと耳打ちした。
「女の子たくさん連れてくるって条件で、コネで入れさせてもらってるんです」
「あぁ、なるほど」
僕はクイッと眼鏡を上げた。
「あれ、山本さん……」
カナタが僕の顔を食いつくように見つめる。
「もしかして――」
鼓動が早くなる。
「ハーフですか? 綺麗な目ですね」
「……クォーターです。日本語しか話せませんけど」
内心、ほっと胸をなで下ろす。カナタは「へぇ」と納得した様子で頷いた。
「それで、山本さんに声をかけさせてもらったのはですね、ちょっと付き合ってもらいたくって」
「付き合う?」
カナタは前方を指さした。
「今日はあそこの卓にいる荒井さんって人のコネで来てるんです」
えっ、と思わず声が出そうになった。
「でも、おじさん二人の相手はちょっと荷が重いなって……そしたらちょうど、手持ち無沙汰そうな同年代の人を見つけちゃって。声かけちゃいました」
確かに、ここにいる男性層の年齢は四十~六十代が中心だ。若い男は、自分とカナタくらいかもしれない。
「じゃあ、一緒に行きましょうか」
「わ~マジで助かる!ありがとうございます」
カナタが目配せすると、取り巻きの美女のうち二人が僕の両脇を固めた。思わず体に力が入る。カナタが先導して歩き出したので、内心の動揺を悟られないよう平静を装って後ろをついていく。
すると、右隣の女性がぐいっと顔を寄せてきた。
「カナタって両刀だから、気をつけてね」
そう囁くと、すぐに元の姿勢に戻った。
――リョウトウってなんだ。
甘党とか辛党とか、そういう類の言葉だろうか。
よく分からないが、僕はこくりと頷いてから、前を向いた。
タクシーの中で、思わずそうこぼす。
「失敗したら、また別の方法を考えればいい」
ローズピンクの唇から、ハスキーな声が落ちる。
「そうだけど……」
窓の外をのぞくと、“Garden of Eden”の金文字が、重厚な木製の扉の上に掲げられている。入り口には、黒服の男が立っていた。
フーッと息を吐いてから、
「よし、行こうか」
そう言って、日永に手を差し出した。
「招待状はお持ちでしょうか」
黒服の男は、柔らかな口調で尋ねてきた。僕は、その言葉を予期していたかのように名刺を取り出し、男の目の前にかざす。
そこには「ブライトエージェンシー 社長秘書 山本貴」とある。
「こちらの子を中に入れていただけますか」
日永の肩に手を置いた。従業員は納得したように頷き、扉を開いた。だが、日永は動かない。
「カレンちゃん、行っておいで」
そっと背中を押す。すると日永はくるりと振り返り、僕の胸に飛び込んできた。
「やっぱり、行きたくない。なんか、怖い」
「何も怖いことなんてないよ。美味しいお酒を楽しんでちょっとお話しするだけ」
甘い声で囁く。
「……一緒についてきてよ」
「僕は行けないよ。選ばれた人だけが中に入ることを許されてるんだから。カレンちゃんは選ばれた子なんだよ」
「一緒に来てくれないなら、行かない」
「困ったな……」
ポケットに手を突っ込み、スマホの画面をタップする。
数秒後、着信音が鳴る。
素早く取り出し、画面を従業員にも見えるように日永へ向ける。表示は「中条監督」。
「はい、山本です……あっもう店の前に到着しております。はい、すぐに参りま──あっ、こら」
日永がスマホを奪い取る。
「監督、お願いがあります……山本さんも中に入れてもらえませんか?」
「カレンちゃ──」
「……ありがとうございます!すぐ向かいますね!」
日永は僕にスマホを差し出す。
「大変申し訳ございません……いえ……いえいえそんな……はい……ありがとうございます。お心遣い、誠に痛み入ります。それでは後ほど……ええ……失礼いたします」
通話を切る。
「はぁ……悪い子だなぁ」
日永の額に軽くデコピンをする。そのまま、するりと腰に手を回して引き寄せ、耳元に唇を寄せる。
「いい子にしないと、ご褒美あげないよ?」
日永の体が強張った。なかなか自然な演技だ。
「中では、僕の言うこと聞けるね?」
ほとんど耳に触れる距離で囁く。こくこくと頷く日永の頭をポンポンした後、無表情で従業員を見据える。
顔を赤くした従業員が、慌てて目を逸らした。
「すみません、お見苦しいところをお見せして」
僕はにこやかな笑顔を作りながら言う。懐から財布を取り出す。綾木の父親のものだ。
「親父、俺にゲロ甘だからこれくらい気にしないって」なんて言っていたが、本当に大丈夫だろうか。
中から三万円を抜き取り、従業員へ差し出す。
「三流芸能事務所の社長秘書などこの場にはいなかった」
「あっ……その……」
戸惑う手に、無理やり握らせる。
「くれぐれも、ご内密に」
口元は笑っているのに、目だけが笑っていない表情をつくる。従業員は何度も首を縦に振り、札をポケットへ押し込んだ。
「どうも」
軽く微笑んでから、日永に手を差し出す。
「行こう、カレンちゃん」
分厚い扉をくぐって中へ入ると、すぐ先にもう一つ扉があった。
その前に立つ従業員に呼び止められる。
「恐れ入りますが、店内ではスマートフォンの電源をお切りいただき、こちらでお預かりしております」
僕は一瞬だけ日永と目を合わせ、ポケットからスマホを取り出した。電源を落とし、差し出す。日永も同じように従う。番号札のついた小さな引き換えタグを手渡され、それをポケットにしまった。ここから先は、外との繋がりが完全に断たれる。
二つ目の扉が開かれた。
甘ったるい香水とアルコールの匂いが、鼻をつく。グラスが触れ合う音と控えめな笑い声が混ざり合い、ひとつのざわめきとなって空間を満たしていた。薄暗いフロアには、間接照明が金色ににじみ、壁や天井の装飾を鈍く照らしている。前方のステージを囲むように卓が並び、それぞれに数人の女たちが座って、男たちに酒を注ぎながら言葉を交わしている。側面には長いバーカウンターがあった。女優、俳優、テレビにも出演している有名プロデューサー。彼らは皆、余裕のある笑みを浮かべながらソファに腰をかけている。
そして最奥――ステージ正面のソファ席に、中条が座っていた。そこだけがわずかに一段高く、まるで王の玉座のようだ。男たちが入れ替わり立ち替わりその席へ向かい、“謁見”しては去っていく。
「あ、荒井社長がいる」
僕は日永に囁いた。中条に頭を下げ、遠目からでも輝いて見える白い歯を見せながら、何やら話している。
その時、日永がクイっと僕の袖口を引いた。
「どうした?」
小声で尋ねると、
「あれ、春川じゃないか?」
と日永は短く囁いた。
「はっ? え、どこ?」
慌てて視線を巡らせる。
「中条の卓にいる、金髪で黒いワンピースの」
「金髪?」
春川は黒髪のセミロングのはずだ。中条の卓の端の席に、金髪で艶のある黒いワンピースの女が座っている。目を凝らした瞬間、ちょうどその横顔が見えた。
「……春川さんだ」
どうして、こんなところに。
「連れ出したほうがいい」
日永はそう言うと、中条が次の男と話し始めたタイミングで、卓へ向かってスタスタと歩き出した。春川の肩に軽く手を置き、短く何かを耳打ちし、すぐにこちらへ引き返してくる。
僕たちはバーの端へ移動した。少しして、春川が隣の男に声をかけて席を立ち、こちらへ向かって歩いてきた。そのまま僕たちの前を素通りし、扉の外へ出る。数分後、戻ってきて、こちらをちらりと見た。
日永が手招きすると、小走りで寄ってきた。
「春川さん!なんでこんなところにいるんですか⁉」
小声で問いかけると、春川は目を細めて僕を見て――ハッと口を押さえた。
「うそっ!まさか、月芝くん⁉ そっちこそなんで⁉」
「春川さんの中のものを取り除くためです!」
「ど、どういうこと?」
「説明すると長くなるので……それより、どうして……」
「中条監督から誘われて……」
「監督から?」
驚いて尋ねると、春川は頷いた。
「祭壇のシーンを見て、私を気に入ったって……“リアル”を感じたって……」
「でも、長田監督が亡くなって昨日の今日で……大丈夫ですか? マスコミとか……そもそも18歳でしたよね?」
「16歳の月芝くんに諭されるなんて」
春川は苦笑した。
「今まで日曜会がメディアで取り上げられたことなんてないでしょ? 偉い人たちがいっぱいいるんだから……そういうことだよ……一応、金髪のウィッグで変装して、迎えの車をよこしてもらって、こっそり来たけどね」
「この場所は、あなたの中の怨霊を刺激する可能性がある」
日永の鋭い言葉に、春川は硬直する。
「えっ怨霊って……」
「今すぐ帰ったほうがいい」
「……無理だよ」
「は?」
日永が眉間にしわを寄せる。
「だって……今さら帰れない。中条監督の誘いを断って干された子がいるって、噂聞いたことあるし……」
「でも――」
「それに」
春川は僕の言葉を遮った。
「これって、二度とない幸運なんだよ。あの中条監督から直接声をかけられるなんて……私程度の替えなんて、星の数ほどいるんだから」
自嘲気味に笑う。
「私はもともと女優志望だったんだけど、事務所の方針でアイドルとしてデビューすることになってさ。女性アイドルって賞味期限がすごく短いの。今のうちに、コネでもなんでも自分からつかみにいかないと、あっという間に落ちぶれちゃう。この焦りって、月芝くんには分かんないと思うけどね」
何も言うことができない。
「ここにいたいなら、好きにすればいい」
「ちょっ、日永――」
「その代わり、俺をあの卓に連れてって。もともと中条とは話すつもりだったから。話は適当に合わせて」
「う、うん。分かった」
春川はぎこちなく頷いた。
「お前はお前で情報収集しといて。あとで合流」
日永は僕にそう言うと、春川に向かって僕たちの設定を説明しながら、中条の卓へと歩いていった。
ぽつんと一人残され、僕は一瞬呆けたが、すぐに気を取り直し、社長秘書の顔をつくった。
とりあえず、場に溶け込もう。ゆったりとした足取りでバーカウンターに近づいたとき、
「おひとりですか」
と横から声がした。
さっと顔を向けると、柔和な笑みを浮かべた男が立っていた。身長は一八〇センチ後半はあるだろうか。ゆるくウェーブがかった長めの髪をハーフアップにしており、ラフなスーツスタイルがよく似合っている。整った顔立ちからして、おそらく芸能人だろう。周囲には数人の美女を引き連れている。
「えぇ、まぁ」
平静な声で答える。
「私、ブライトエージェンシー社長秘書の山本貴と申します。すみません、今名刺が手元になくて……」
「社長秘書ですか?っぽいですね~。いかにもシゴデキって感じ。俺はフリーでモデルやってます。カナタって名前で活動してます。よろしくお願いします」
そう言って、カナタは僕にそっと耳打ちした。
「女の子たくさん連れてくるって条件で、コネで入れさせてもらってるんです」
「あぁ、なるほど」
僕はクイッと眼鏡を上げた。
「あれ、山本さん……」
カナタが僕の顔を食いつくように見つめる。
「もしかして――」
鼓動が早くなる。
「ハーフですか? 綺麗な目ですね」
「……クォーターです。日本語しか話せませんけど」
内心、ほっと胸をなで下ろす。カナタは「へぇ」と納得した様子で頷いた。
「それで、山本さんに声をかけさせてもらったのはですね、ちょっと付き合ってもらいたくって」
「付き合う?」
カナタは前方を指さした。
「今日はあそこの卓にいる荒井さんって人のコネで来てるんです」
えっ、と思わず声が出そうになった。
「でも、おじさん二人の相手はちょっと荷が重いなって……そしたらちょうど、手持ち無沙汰そうな同年代の人を見つけちゃって。声かけちゃいました」
確かに、ここにいる男性層の年齢は四十~六十代が中心だ。若い男は、自分とカナタくらいかもしれない。
「じゃあ、一緒に行きましょうか」
「わ~マジで助かる!ありがとうございます」
カナタが目配せすると、取り巻きの美女のうち二人が僕の両脇を固めた。思わず体に力が入る。カナタが先導して歩き出したので、内心の動揺を悟られないよう平静を装って後ろをついていく。
すると、右隣の女性がぐいっと顔を寄せてきた。
「カナタって両刀だから、気をつけてね」
そう囁くと、すぐに元の姿勢に戻った。
――リョウトウってなんだ。
甘党とか辛党とか、そういう類の言葉だろうか。
よく分からないが、僕はこくりと頷いてから、前を向いた。
