遺響綴録:銀幕に巣食うもの

天井の暖色の薄暗い照明を、ぼんやりと見つめる。体が動かない。唯一動かせる目で周りを見渡す。なんだかぼやけていてよく見えない。
足首に、何か冷たいものが触れた。濡れた感触が絡みつく。視線を落とすと、細長い紐のようなものが、皮膚の上を滑っている。ぬらりとした動きに合わせて表面が鈍く光る。
蛇だ。声を上げた。はずだった。喉が、閉じている。蛇は、ゆっくりと這い上がってくる。助けを呼ぼうとする思考だけが、空回りする。
頭上で、何かが擦れる音がした。眼球が痛くなるほど瞳を限界まで上へ動かすが、何も見えない。
気のせい、か?
そう思った瞬間、黒い影が視界を覆った。蛇の頭だ。無数の。気づいたときには、腕にも、腹にも、いくつもの重みが増え、皮膚をびっしりと覆い尽くしていた。
いつの間に。声は出ない。喉の奥が、何かを拒むように硬い。叫びの形にぽっかりと開いた口に、影が差す。黒い頭が入り込んでくる。ひとつ、ふたつ、みっつ…絡み合いながら、喉の奥へと潜り込んでくる。終わりがない。どこまでが“外”で、どこからが“内側”なのか。
境界が、崩れていく。
——ばくん!
「月芝くん!」
視界が、急に明るくなった。八の字になった太い眉毛、その下の丸い目がこちらを覗き込んでいる。マネージャーの木内だ。
「大丈夫?」
肩に触れていた木内の手が離れ、代わりに、ペットボトルが差し出される。それを受け取り、口に含む。
「……ありがとうございます。大丈夫です」
「ほんとに?今日はもう戻ろうか」
「いや、全然元気なんで」
「最初さ、うなされてるのかと思ったんだけど、首を押さえ出したから、もしや何かの発作かと思ってびっくりした! 顔色は悪くないけど、一応——」
「ほんとに大丈夫です」
笑顔でそう言ってから、表情を引き締めた。
「現場をどうしても見ておきたいんです。今日しかチャンスないから」
「……分かった。無理はしないでね」
車が再び走り出す。駅前で車に乗ってからすぐ眠ってしまったようだ。いつ、流れていく景色が一面の田んぼとなったのだろう。東京で生まれ育った僕には、映像作品の中でしか見たことがない風景だ。車が山道に入り、5分ほど走ったところで、コンクリートの建物が見えた。
「おっ、あったあった。うわ〜雰囲気あるねぇ。いかにもって感じじゃん」
木内はそう言いながら、道の端に車を寄せ、身を乗り出して建物を眺めた。
「じゃあ、行ってきますね」
僕はシートベルトをはずした。
「ほんとに一人で大丈夫?」
「はい。集中して役と向き合いたくて。木内さんは仮眠でも取っててください」
「いやいや寝ないから!とりあえず車で待っておくけど、何かあったらすぐ連絡して」
木内はスマホが圏内であることを確かめながら、早口でまくしたてた。
「了解です」
僕は笑ってドアを開け、足を踏み出した。数歩進んだところで振り返ると、木内が小さく手を振ってくる。僕も軽く手を上げて、視線を前に戻した。
建物へ向かって歩き出す。コンクリートの二階建て。外壁は黒くくすみ、木々の影がかかっているせいで、いっそう陰鬱とした雰囲気だ。明日から撮影するシーンのロケ地としてはピッタリだと思う。
今回僕が出演するのは、サスペンス小説を原作とした実写映画だ。にわかに世間を騒がせ始めた新興宗教。その信者には芸能人や政治家の名前まで取り沙汰され、真偽不明の噂が飛び交っている。新聞記者である主人公は真相を暴くため、自ら信者として潜入取材を行う――そんなあらすじだ。物語の鍵を握るのが、美しい女性教祖。主人公は高校時代、まだその宗教団体が地方の山奥で細々と活動していた頃、少女だった教祖と出会っているという設定だ。かつて介護施設として使われていたこの敷地は、二人の出会いを撮影するためのロケ地だ。
僕が演じるのは、高校時代の主人公。少女との出会いによって曖昧に揺れ動く感情を表現しなければならない。
建物の外をぐるりと回って裏手に出ると、山中へと分け入る細い道のようなものが続いている。人が通った形跡はほとんどないが、完全な獣道というほどでもない。かすかに水の流れる音が聞こえる。川があるのだろう。
主人公は山中で道に迷って、宗教施設にたどり着く設定だ。薄暗い山道を一人さまよう少年の心情に思いを馳せる。
――少しくらいなら山の中に入っても大丈夫だろ。
僕は道に一歩踏み入れた。腰の高さまで伸びた草がさわりと腕をなでる。
――時計はバッグの中に入れておくか。
父親から高校の入学祝にもらったものだ。まだ新しいのに枝に引っかけたりしたらいけない。僕は立ち止まり、ベルトを外した。手のひらに乗せると、盤面が木漏れ日を反射してチカリと光った。
その瞬間、視界を、黒と白の影が横切った。
「うわ!」
思わず目をつぶってしまう。気づいたときには、手の中が空になっていた。
一拍遅れて、顔を上げると、少し先の枝に一羽の鳥がとまっている。
頭から背中にかけては黒、胸から腹にかけては白い。そのコントラストが目を引いた。長い尾を揺らしながら、こちらを見ている。その嘴には、僕の時計が咥えられていた。
近づこうとした瞬間、鳥はひらりと飛び上がった。羽が青く光る。
「ちょ、待って」
鳥は、少し先の枝に止まった。また近づくと、さらに先へ。完全に、追いかけっこの状態だ。
「……マジかよ」
枝や草をはらいながら道を進むと、川に出た。そこにかかる木造の橋を渡ると、足場がだんだん悪くなっていく。足元と鳥を交互に見ながらなんとかついていく。黒と白の羽が、木々の間を軽やかに移動していく。
息が上がり始めた頃、鳥がひときわ高く飛んだ。そのまま木々の枝をすり抜け、一本の大木にとまった。他よりもひときわ太く、ねじれるように伸びた幹。枝も大きく張り出している。僕は息を切らしながら、その根元までたどり着いた。枝の上で、鳥がこちらを見下ろしている。嘴には、まだ時計が挟まっている。
「……いい加減、返してくれよ」
当然、返事はない。ただ、ほんの一瞬、首を傾げたように見えた。その直後、ふっと飛び立つ。
「あっ――」
僕も同時に走り出していた。山の斜面の方向だ。道と呼べるようなものはない。もうここまで来たら、意地だ。幹や枝をつかみながら斜面をよじ登る。視線を上げると、上方に、灰色の構造物が見えた。
――あれは……鳥居か?こんなところに?
「うわっ」
足が滑った。踏ん張りきれず、膝が地面につく。ズボンに土がついたが、気にしている余裕はない。舌打ちをして、すぐに立ち上がり追いかける。鳥は、石の鳥居にスッと降り立った。
「頼むからそこで止まってくれ」
息を乱しながらそう呟いて鳥居の下に差し掛かったとき、鳥が、嘴を開いた。ぽろりと銀色の塊が落ちる。
「――っ」
両手をサッと伸ばし、なんとかキャッチする。
「……あぶな」
手の中の時計をじっくりと確かめる。傷はないようだ。安堵の息が漏れた。そして、我に返る。
「……どうやって来たっけ」
鳥を見ながらここまで来た。道順など覚えていない。急に、心細さが込み上げてくる。ポケットからスマホを取り出し、画面を点けると、左上には圏外の二文字。
「ヤバい…」
冷や汗が出てくる。その時。シャラっと音がした。さっきの鳥か、と一瞬思ったが、違う。鳥が枝に止まるときにこんな音は一度もしなかった。
僕はゆっくりと周囲を見渡した。木々の枝、その中に、白いものが見えた。
――足、人の足だ。
心臓の鼓動が大きくなる。マネキンだろうか。そう思うほど現実味がない白さだ。いや、マネキンがこんなところで木にぶら下がっているほうがよほど不自然だ。
――じゃあ――
視線を逸らしたくなるのをこらえながら、近づいていく。枝の真下まで来たとき、
「何しに来た」
頭上から、声が落ちてきた。反射的に後ずさりながら、顔を上げると、少年が、太い枝の上に座っていた。