遺響綴録:銀幕に巣食うもの

四階建ての古びたビル、その二階のドアに、「ネクストエンターテイメント」と書かれたプラスチックの表札が貼り付けられている。思ったよりもずっと小さい。というか、正直かなりボロい。
日永がドアの前に立ち、ノックしようと腕を軽く振ったその瞬間、
「この無能が!いっぺん死ね!」
ドスの効いた罵声が、中から突き抜けるように響いた。
思わず、日永と顔を見合わせる。すぐに、バンッと何かが叩きつけられるような派手な音が続いた。
日永がコンコン、とノックする。
「ちょっ――」
今はまずくないか、と声をかける暇もなかった。ドキドキしながらドアを見つめるが、反応はない。もう一度ノックすると、ガチャリとドアが開いた。中から現れたのは、ヨレヨレのスーツを着た猫背の中年男性だった。頭頂部が禿げていて、気弱そうな雰囲気だ。
「……なんでしょうか」
か細い声。
「社長、いますか」
日永が淡々と聞く。
「……いますけど」
「会いたいんですが」
「……アポは、取ってますか」
「取ってません」
「それなら……まずはアポを取ってもらって……」
男が下を向いたまま、ぼそぼそと断ろうとする。その言葉を遮るように、日永が帽子を取った。
「どうしてもダメですか」
まっすぐ相手の目を見る。
「5分だけでもいいんです」
男は数秒、日永の顔を見つめた。
「……ちょっと、お待ちください」
それだけ言って、中へ引っ込む。ドアの向こうから、すぐに怒鳴り声が聞こえた。
一分ほどして、ガチャッ、と勢いよくドアが開いた。中から出てきたのは、別の男だった。真っ黒に日焼けした顔に、金髪のメッシュが入ったオールバック。がっしりとした体つきで、黒Tシャツがぴっちりと筋肉に沿っている。日永は、その男を正視した。
何か言わなくて大丈夫か。横でひやひやする。
すると男が、ニカッと笑った。不自然なくらい真っ白な歯が、ずらりと並ぶ。
「きみ、芸能人になりたいの?」
低くよく通る、落ち着いたバリトンの声だった。さっきの怒鳴り声の主とは思えない。
「はい」
「うん、声もいいねぇ」
男は満足そうに頷いた。
「ちょっと話、聞かせてもらうよ」
そう言ってから、こちらにちらりと視線を向ける。
「君は……?」
僕は分厚いメガネをクイッと持ち上げた。
「ぼ、ぼ、僕は……ハルトく、高橋ハルトの兄です!僕も同行させてもらいますからね!」
無駄に高い声で、早口にまくし立てる。
「親に黙って東京まで来ようとしてたところを、兄に見つかって」
日永が淡々と補足する。
「親を説得するか、自分も連れていくか、どちらかにしろって言われて」
「ど、同席させてもらえないなら、連れて帰りますから!」
すかさず被せる。男は一瞬だけ僕たちを見比べてから、
「……そうですか。じゃあ、お兄さんもどうぞ」
とあっさり言った。
そのまま、日永と並んで事務所の中へ足を踏み入れた。小さなオフィスの中には、先ほど応対した男性と、もう一人、二十代後半くらいの男性がいた。そうすると、やはり先ほどの怒鳴り声はこの男に間違いないだろう。
日永と僕は、パーテーションで区切られたスペースに案内された。男は日永に名刺を差し出した。金縁のそれには、「ネクストエンターテイメント 代表取締役社長 荒井龍二」と書かれている。ソファに腰を下ろすと、
「改めて名前、聞いてもいい?」
荒井はにこやかに言いながら、間髪入れずに質問を重ねてくる。
「高橋ハルトです」
「いま、いくつ?」
「16歳です」
「どこ出身?」
「長野県です」
「ああ、いいよね長野。俺、信州蕎麦好きなんだよ。長野のどこ?」
「長野市の田舎で、山に囲まれてます」
「俳優志望?」
「はい」
「好きな俳優とかいるの?」
「丹羽さんです」
荒井の目がわずかに光る。
「おっ、うちの看板俳優じゃない。だから大手じゃなくて、わざわざうちに来てくれたの?」
「そうです」
日永は必要最低限の言葉だけで、答えていく。
「好きな作品は?」
「『楽園のネズミ』です」
「へえ。その年で中条作品好きなの? 渋いねぇ」
荒井は満足そうに笑ってから、ぐっと体を乗り出した。
「ここだけの話ね。うち、中条監督とのパイプ、結構太いのよ」
「そうなんですか?」
「正直ベースで言うよ?」
声のトーンが少し低くなる。
「俺、この業界に三十年近くいるんだけどさ。これまで何千人と“芸能人になりたい子”を見てきたわけ。その中で、光るものがあるって思う子は、ほんのひと握り。両手で足りるくらいだ」
そこで一拍置いて、
「俺がそう思った子はね――全員、売れてる」
視線が、まっすぐ日永に向けられる。
「高橋ハルト君。君は、俺が見てきた中で一番の逸材だよ。俺に任せてくれたら、トップ俳優にしてあげる。もちろん中条作品にも出すし、丹羽との共演だって、どこよりも早く実現させる」
にっと笑う。
「俺はね、君を一目見たときから“運命”を感じたよ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください!」
僕は甲高い声で割り込んだ。
「まずは両親に相談しないと。ほ、保護者の同意がないと契約は無効ですよね!」
「うん、お兄さんの言う通りだ」
荒井はすぐに頷いた。
「でもね。たとえ親御さんを説得できなかったとしても、俺は君が来るのを待ってるよ」
その言葉に、日永は何も返さない。
ここからだ。僕は小さく手を上げた。
「す、少し……お聞きしたいことがあるんですが、よろしいですか」
荒井の視線がこちらに向く。
「ここに所属していた三木原真子という女優について、伺いたいんですが」
その瞬間、空気が変わった。事務所全体が、しん、と静まり返る。
「なんでも、自殺されたと聞きまして……あなた方は、何かご存じではないですか? ぼ、僕としてはですね……ハルトくんを安心して任せられるところか、ちゃんと知っておかないといけないので!」
荒井は、ゆっくりと眉尻を下げた。
「……三木原のことは、僕も本当に残念に思っています」
ため息まじりの声。
「中条作品にも出演して、これからが楽しみな役者だったんですがね……」
「何か、悩んでいる様子とか、き、気づかなかったんですか?」
荒井は顎に手を当てる。どこか芝居がかった仕草だ。
「実は、中条作品に出てから、次の役がなかなか決まらなくて。大御所監督の作品に出た“自分”と、現実とのギャップ……それを受け入れられなかったんでしょう」
やれやれというように首を振る。
「まだまだこれからだと励ましてはいたんですが……耐えられなかったんだと思いますよ。一度うまくいったからって、トントン拍子に上がれる世界じゃない。どれだけ歯を食いしばって食らいつけるか。それがこの業界で生き残る条件です。残念ながら彼女は……この世界向きの人間ではなかった」
「ハ、ハルトくんはですね!」
さっきよりも声を張る。
「と、とても繊細な子なんですよ!そんなガツガツした世界でやっていけるタイプじゃない!僕は反対です、芸能界なんて!」
勢いでまくし立てる。
「落ち着いて、お兄ちゃん」
日永が、そっと僕の手を押さえた。一瞬、素でどきりとする。
「僕、荒井さんと二人で話したい」
「だ、ダメだって言ったよね⁉お父さんとお母さんに――」
「言っていいよ。でも、そうしたらもう、お兄ちゃんと口きかないから」
「なっ……」
僕はぐぬぬとうめいてから、ボサボサの髪をさらにぐしゃぐしゃとかき回した。ふーっと息をつく。
「……3分だけ。きっかり3分だけ」
3本指を立てて見せる。
「分かった」
日永が頷く。一瞬、視線が交錯した。
「じゃ、じゃあきっかり3分測るからね!」
スマホのタイマーをセットする。
パーテーションの外に出ると、若い男性がこちらをじっと見ていた。心拍数が上がる。男は、ふっと鼻で笑い、目を逸らした。唇がわずかに動く。
キモ。
僕は視線を落とし、そのまま事務所の外へ出た。タイマーを押してから、ふうっと息を吐く。メガネの度が強すぎて、少しクラクラする。目を閉じて、眉間をぐっと押さえた。そのまま立ち尽くしていると、あっという間に3分が経ち、アラームが鳴る。
ドアノブに手をかけたそのとき、内側からドアが開いた。日永が出てくる。その後ろには、荒井の姿。またあの白い歯を見せて、にやりと笑う。
「じゃあね」
軽く手を振る荒井に、日永はこくりと頷いた。
僕たちは黙ったまま階段を降り、外に出た。さらに建物の角を曲がったところで、ようやく大きく息を吐き出し、メガネを外す。一番上まできっちり留めていたチェックシャツのボタンを外し、そのまま脱いで腕にかける。ぐしゃぐしゃにしていた髪も、指で整えた。
「どうだった?」
そう聞くと、日永は無言でメモの切れ端をこちらに見せた。そこには、兵庫県から始まる住所が記載されていた。
「上手くいってよかった……」
体の力が抜ける。
「さすが俳優」
ぽつりと日永が言う。
「いや、それ言うなら日永でしょ。全然物おじしてなかったし。本当に俳優向いてるんじゃない?」
「お兄ちゃんがそう言うなら、そうかもね」
日永は口角を上げた。
「俺が荒井に、“お兄ちゃんは執着心がすごいんです”って言ったら、本当に気の毒そうな顔してたし」
「でも、その執着キャラのおかげで三木原さんの実家の住所をゲットできたじゃん?」
僕も軽い口調で返す。
「打ち合わせ通りできた?」
高橋ハルトの兄は、実は三木原の偏執的なファンという設定だった。いつか三木原の実家を見つけ出して、お線香を上げたいと願っており、兄と取引をするために、三木原の実家の住所を教えてほしいと、日永が荒井に頼むという段取りだ。
「お兄ちゃんが執着してる人は二人いて、一人は弟の俺、もう一人は三木原さんなんです。お兄ちゃんの目をそらすために協力してもらえませんか、って言った」
若干打ち合わせと違うが、目的が達成できれば些細なことだ。
「ま、まぁとにかく、一番欲しかった情報はゲットできたし……さっき買ったパン食べよっか」
近くのカフェでレモネードを二つ買い、小さな公園のベンチに腰を下ろした。紙袋からパンを取り出しながら、僕は口を開く。
「今のところ、三木原さんが自殺した理由として考えられるのは……病気と、女優業が思うようにいかなかったこと、かな」
「どっちもしっくりこない」
「……だよね」
少し考えてから、スマホを取り出して、「喉 病気」と検索する。
「喉の病気で、元の声が出なくなることもあるみたいだけど……たとえ喉頭を全部摘出しても、食道発声とか、機械を使う方法もあるみたいだね。余命が短い病気だったとしても、普通はもっと生きたいとか、残りの時間を大事にしようって思うだろうし」
日永は、ストローでレモネードをちゅうっと吸った。僕もくまのパンにかぶりつく。やさしい甘さが口の中に広がる。ごくりと飲み込んでから、続きを口にする。
「中条監督の作品に出て、これからってときに、一年役が決まらないくらいで自殺するのも……やっぱり不自然だよね。メンタルが弱いタイプなら、あり得るのかもしれないけど……」
「荒井は、立場上、事務所に責任があるとは絶対に言わない。だから当然本人の問題にする」
日永の言葉に、僕も頷く。
「タナベさんの方は……嘘をついてるようには見えなかったし、嘘をつく理由もないよね。きっと三木原さんの姿をそのまま伝えてくれたと思う。それでも……」
顔が半分になったパンを見つめながら、言葉を探す。
「あくまで、その人の一面でしかないからな……」
「……なんにせよ、もっと情報がいる」
そう言って、日永はダッチブレッドにかぶりついた。瞬間、目がきらっと輝く。普段は何を考えているのか分かりにくいのに、美味しいときだけは驚くほど分かりやすい。僕の視線に気づいたのか、日永がこちらを向いた。
「なに?」
「いや……なんでもない」
ごまかすようにレモネードを口にすると、甘酸っぱい爽やかな味が、口いっぱいに広がった。
パンを食べ終え、紙袋の中にゴミをまとめながら、
「兵庫って、行ったことある?」
と尋ねると、ない、という返事が返ってきた。
「僕もまだ行ったことないんだよね」
頭の中でざっと計算する。路線検索によると、行き帰りだけで少なくとも七時間はかかる。確実に夜遅くなるだろう。
親とのトーク画面を開く。
〈今日、綾木の家に泊まることになったから、ごはんいらない〉
送信ボタンを押してから、続けて綾木のトーク画面を開く。
〈急なんだけど、今日お前んちに泊まってるってことにしてもいい?もし親に聞かれたら口裏合わせてほしい〉
数秒もしないうちに既読がつき、
〈うわーついにツクシーがグレた!悪いコトするんだ!〉
というメッセージのあとに、OKのスタンプが飛んできた。思わず小さく笑ってしまう。つくしがぺこりとお辞儀している「ありがとう」のスタンプを送り、
〈良いコトをします〉
と打ち込んで送信した。
さて、と顔を上げる。
「じゃあ行こうか、兵庫」
そう言って日永とともに、ベンチから腰を上げた。