遺響綴録:銀幕に巣食うもの

駅から徒歩七分。住宅街に入ったところに、目指すパン屋――「ほっとベーカリー」はあった。白い外壁に木製の扉、小さな黒板の立て看板がちょこんと置いてある。どこか温かみのある、町のパン屋という雰囲気だ。開店直後ということもあってか、店内に客の姿はない。扉を開けると、焼きたてのパンの香りがふわりと鼻をくすぐった。
「いらっしゃいませー」
カウンターの奥から、五十代くらいのふくよかな女性が明るい声をかけてくる。店内をぐるりと見渡す。その中に――あった。丸いフォルムにチョコペンで顔が描かれた、くまのパン。
「あれだ」
小さく呟いて、くまのパンと、適当にいくつかのパンをトングでトレーに乗せる。カウンターに持っていくと、女性が慣れた手つきで袋に詰めた。オレンジ色のエプロンには「タナベ」というネームプレートが付けられている。
「1500円になります」
財布から現金を取り出しながら、できるだけ自然な調子で話しかける。
「ここって、いつからやってるんですか?」
「今年でちょうど十年になりますねぇ」
「へえ。ずっとこちらで働かれてるんですか?」
「ええ、オープンのときにパート募集してて。それからずっと」
にこやかに頷く女性に、僕も笑顔を返す。
「そうなんですね。実は、子どものころにこのくまのパンをもらったことがあって……最近ふと思い出して、調べたらここにたどり着いたんです」
「まあまあ、そうなの?」
女性の顔がぱっと明るくなる。
――ここからだ。
「実は……ここで働いてた方からもらったんですけど、三木原さんっていう女性で――」
その瞬間、女性の表情がさっと曇った。
「……三木原さんと、どういうご関係で?」
少しだけ慎重な声音。
「子どものころ、よく可愛がってもらってて」
そう答えると、女性はこちらをまじまじと見てから、
「……もしかして、芸能人の方?」
と小声で尋ねてきた。
「あ……はい、実は」
「やっぱりねぇ。しゅっとしてるなって思ってたのよ」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げ、一拍置いてから、声のトーンを落とす。
「亡くなったことは知ってたんですけど……詳しいことは全然知らなくて」
少しだけ目を伏せる。女性も、つられるように眉尻を下げた。
「……真子ちゃん、ほんと、いい子だったわよね。美人なのに全然気取らなくてね。いつも“タナベさ〜ん”って気さくに話しかけてきて……」
懐かしむように、遠くを見る。
「三木原さん、どれくらい働いてたんですか?」
「ええっと……3年くらいかしらね。高校卒業して上京してから、初めてのバイトだって言ってたわ」
高校卒業後、ここで3年程度働いていたということは、亡くなる直前まで関わっていた可能性が高い。タナベは、周囲を気にするように一瞬視線を巡らせてから、こちらに少し身を乗り出す。
「実はね……ご遺体、見つけたの、私なの」
「えっ……そうなんですか」
声をひそめて聞き返す。タナベは、小さく頷いた。
「バイトの時間になっても来なくてね。あの子、無断欠勤なんて一度もなかったし……それに、体調もあまりよくなさそうだったから、何かあったんじゃないかって思って……」
「体調、崩されてたんですか?」
「そうなのよ。半年以上かなぁ、喉の調子がずっと悪そうでね。病院行ったの?って聞いたら、“行ったけど風邪が長引いてるみたい”って言われてね……掛け持ちのバイトを減らしなさいって言ったりもしてたんだけどねぇ」
「他のバイトもしてたんですか?」
「なんかね、レッスン代とか、いろいろお金がかかるみたいで……芸能のお仕事以外は、ほとんどバイトしてるって言ってたわ」
「そうだったんですね……」
「私、この近くに住んでるんだけどね。真子ちゃんもこのあたりに住んでたの。若いかわいい子がボロボロのアパートに住んでるのが心配で……よくお惣菜を持っていったりしてたのよ」
タナベは少し俯いて、続けた。
「それでね、心配だからって店長に言って、アパートまで行ったの。大家さんに事情を話して、鍵を開けてもらって。そしたら真子ちゃんがね、流しに上半身を突っ込むみたいな格好で座ってて……ぴくりとも動かなくてね……水がジャーって勢いよく流れる音がしてるから、急いで駆け寄ったら……」
タナベは言葉を切る。そして、右手で左手首の上をすっとなぞった。
「手首をね……」
「……そんなことが」
「女優をめざした理由について、何か言っていましたか」
隣から、声が飛んできた。ずっと黙っていた日永が突然口を開いたことに、タナベは少し驚いたように目を瞬かせる。
「えっと……そうねぇ……子どものころに何かの映画を見て……それがきっかけで女優を目指したって言ってたかな……あっ、そうそう! 真子ちゃんが出てた映画の監督の作品だったはず!なんだっけ……玉露みたいな……」
「……白露、ですね」
僕が言うと、
「ああ、それそれ!」
と、タナベは何度も頷いた。
「その映画を見て、どこに感動したとかは言っていましたか?」
「そこまでは……ちょっと分からないわねぇ」
少し困ったように眉を寄せる。
「……お願いなんですが」
タナベの視線がこちらに戻る。
「三木原さんが住んでいたアパート、教えてもらえませんか。せめて外からでも……ご冥福をお祈りしたくて」
一瞬迷うような間があったが、
「……寿荘っていうアパートなんだけど」
と言いながら、レジ横のメモ用紙を引き寄せた。簡単な地図を書き添えて、こちらに差し出す。
「ありがとうございます」
受け取りながら、深く頭を下げる。
「長々とお話、すみません」
「いいのいいの。若いのに、しっかりしてるのねぇ」
「いや、そんな……」
はにかんでから、言葉を選びつつ続ける。
「三木原さんのそばに、タナベさんがいてくれて……よかったなって思います」
タナベの小さな目が、見開かれた。
「十八歳で一人で上京して……近くに、お母さんみたいな存在がいるって、きっと大きな支えだったと思うので」
タナベの目が潤んだ。
「……もっと、してあげられたことがあったと思うんだけどね」
「その気持ちは、きっと届いてると思います」
静かにそう言うと、タナベは目尻をぬぐい、表情を和らげた。
「……そうだといいわね」
「それでは」
軽く会釈して、ドアに向かう。
「あっ、ちょっと」
呼び止められて振り返る。
「サイン、もらってもいいかしら?」
照れたように言うタナベに、僕は「もちろんです」と笑顔で答え、カウンターに引き返した。

店を出て、紙袋を片手にぶら下げながら、僕は隣を歩く日永に声をかけた。
「……結構、収穫あったよね。これ」
「おしゃべりなおばさんで助かった」
「言い方」
思わず苦笑する。
タナベからもらった地図を頼りに、住宅街を抜けて歩くこと十分ほど。やがて、目的の建物が見えてきた。
「……これ、だよね?」
寿荘と書かれた古びた表札。築何十年なのか見当もつかないアパートは、板壁の塗装ほボロボロに剥がれ、玄関前のコンクリートには無数のひびが走っている。鉄骨の外階段は赤錆に覆われ、手すりは歪んでいた。若い女性が暮らす場所としては、あまりにも厳しい。
僕はそっと手を合わせ、短く黙祷した。作法がこれで合っているのかは分からないが、こういうのは気持ちが大事なのだと思う。
目を開けると、隣にいたはずの日永の姿がなくなっていた。
「……あれ?」
きょろきょろと見回すと、アパートの裏手に回り込む日永の背中が見えた。
後を追いかけて裏手に回ると、日永はアパートの窓の前に立っていた。僕も恐る恐る隣に並ぶ。
中を覗いてみると、誰もいない。というより、空き家のようだった。狭い畳敷きの部屋。左側に押し入れと、小さな流し台。それだけの、簡素な空間。
「……何か、見える?」
小声で尋ねる。
「いや」
日永は部屋から目を離さないまま答える。
改めて部屋の中を見ると、流しにもたれかかるように座り込んだ三木原の姿を想像してしまった。いらぬ想像を振り払うように、強く目を閉じる。
日永はそんな僕を後目にくるりと踵を返し、すたすたと歩き出した。慌ててあとを追う。なんだか、いつも日永を追いかけている気がする。
「このあとどうするの?」
「三木原が所属してた事務所に話を聞きに行く」
「でもさ、自殺したタレントのことなんて、まともに話してくれるかな? それに、万が一僕のことに気づかれたらややこしくなりそうだし……」
「次は俺がメインで話す」
「……大丈夫?」
これまでのやり取りを思い返しても、日永は決して話し上手なタイプではない。
「たぶん」
と、いつもの調子で返ってきた。その「たぶん」が不安なのだが。
「その事務所って、有名?」
「いや……僕も正直よく知らない」
歩きながらスマホを取り出して検索する。
「えっと……大手の傘下の会社の、そのまたグループ会社から独立した……みたいな感じ」
「つまり?」
「たぶん、小さい」
画面をスクロールしながら続ける。
「所属タレントは……一人、結構有名な俳優さんがいるな。あとは知らないなぁ。女優メインで売り出してる事務所ではあるみたい」
「服屋に行く」
「……は?」
あまりに脈絡がなさすぎて、間の抜けた声が出る。
「今から?」
「うん」
「なんで?」
「変装。お前の」
確かに、気づかれたらややこしくなるとは言ったが。
「どんな感じに――」
言いかけたところで、日永はすでに近くの商店街の方へ歩き出していた。