遺響綴録:銀幕に巣食うもの

会議室のドアを軽くノックすると、中から「どうぞ」という声が返ってきた。そっとドアを開けると、春川が椅子に座っていた。顔には疲労がにじんでいる。その視線が、僕の後ろへと移る。
「……君は」
「僕が事務所の中を案内してたんです。ちょうど近くにいたので」
完全な嘘ではない。
「あの、これ」
紙袋を差し出す。
「LINEで言ったハーブティーです。よく眠れるって評判で……母が気に入ってるやつなんです」
「わざわざ……ありがとう」
春川は丁寧に受け取った。僕はタイミングを見計らって口を開く。
「撮影でご一緒したとき、あまり眠れていないように見えたので……気になっていて」
春川は指先で袋の端をなぞった。
「……実は、あれから眠りが浅くて……」
そう言って、ちらりと日永のほうを見る。やはり、いきなり二人で来たのはまずかったか。
「そうだったんですね。お疲れですよね。今日はこれを渡しに来ただけなので――」
「あなたの中には、怪異が入り込んでいる」
乾いた声が、僕の言葉を遮った。
――いきなり何を言ってんだ!
唐突にそんなことを言われても困惑するだけだ。下手をすれば、怪しい勧誘だと思われて今後一切関わらせてもらえなくなるかもしれない。慌ててフォローしようと口を開きかけたが、
「俺は神社で神職をやってる。いわゆるお祓いが専門。あなたの中の怪異が、俺には見える」
日永は淡々と事実を述べる。僕は恐る恐る春川の表情をうかがう。困惑、恐怖、拒絶――どれが来てもおかしくない。
「……そっか」
ぽつりと、春川は呟いた。
「やっぱりね」
どこか納得したように、小さく笑う。
「君、最初に会ったときから、ちょっと違ったんだよね。業界の人の匂いがしないっていうか……まだ入りたてだからかなって思ってたけど」
少し言葉を探すように間を置いてから、続ける。
「なんていうか……俗世間とは違う場所にいる人……みたいな感じ」
春川の言いたいことは分かる。日永の纏う空気は独特だ。肩の力は抜けているのに、その静かな存在感に目が離せなくなる。そばにいると、自然と背筋が伸びる気がする。
「このままだと、精神が乗っ取られる」
日永が春川を見つめながら言った。
「撮影中に起きたこと、感じたこと、どんな些細なことでもいい。具体的に、正直に、話して。怪異を取り除くために、必要なことだから」
春川の目が一瞬、不安に揺れたが、こくりと頷いた。
「……分かった」
春川は、撮影が始まってからの思いを吐き出すように語り始めた。
「演技の指導ってことで、急に顔を手で挟まれて、汗で湿ってて――」
僕は視線を机に落とし、身動き一つせずに、訥々と語られる春川の話を聞いた。
「衣装がはだけて……もう一回撮らせてほしいって言ったとき……みんなの視線が……責めてるみたいに見えて……そのとき、プツンって、感情が完全に私から切り離された感覚があって……こう……撮影中ずっと感じてた恥ずかしくて消えたい思いとか嫌悪感とかが、ふっと消えたの。ああ、最初からこうすればよかったんだって……そう理解したっていうか――」
日永は、春川から目を離さない。相槌も打たず、表情も変えない。その在り方が、かえって春川の言葉を引き出しているようだった。
「それで……祭壇の事故のときなんだけど。燃えてる祭壇をぼーっと見てたら……炎の向こう側に、女の人が立ってるのに気づいた。最初はエキストラの人かなって思ったんだけど……でも、立ったまま動かないのは変だなって……でもそういう疑問も、すぐどうでもよくなって……ただ、その人から目が離せなくなって――」
僕は無意識に息を止めていた。
「目が合った、って思った瞬間――気づいたら、病院のベッドの上だった」
「えっ」
思わず顔を上げてしまう。
「まったく記憶がないの。そこから先は、本当に何も」
春川と目が合う。
「……あのときは、本当にありがとう。月芝くんが助けてくれなかったら、たぶん……死んでたかもしれない」
僕は慌てて手を振った。
「いやいや……」
「その後、何かおかしなことは起きなかった?」
日永が、先ほどと同じトーンで問いかける。
「そのあとは……うん、特には……」
「東京に戻ってからも?」
「うん。予告でも使われていた、人ごみの中のシーンをエキストラさんたちと撮ったんだけど……その時は何も騒ぎは起きなかった」
「撮影以外の場所では?」
「……ないと思う」
「そう」
日永は口元に手を当て、考え込む。少しして、顔を上げた。
「昨日のこと、教えて」
ぴたり、と春川の動きが止まる。
「……無理して話さなくてもいいですよ」
僕は思わず口を挟んだ。
「まだ混乱してると思うし……」
「……ううん」
春川は小さく首を振った。
「話すよ」
一度、深く息を吸う。
「監督から誘われての。誕生日パーティに来ないかって……最初は断ったんだけど……“ちょっと顔出すだけでもいいからさ”って言われて……少しだけ顔を出して、すぐ帰ろうと思って……カラオケバーに行ったの」
春川の視線が落ちる。
「店に入ったら……ちょうど向こうから監督がフラフラ歩いてきて……目が座ってて……嫌な予感がした……そしたら腕を掴まれて……そのまま、近くの個室に連れ込まれて……」
声が、少しずつ小さくなる。
「車で待ってるマネージャーに来てもらおうと思って、スマホを手に取ったら……奪われて……そのまま、こっちに向けて動画を撮り始めたの……動けなくて……声も出せなくて……そしたら、急に“踊って”って言われて」
「踊って?」
日永が聞き返す。
「私、アイドルだからさ。監督が、“君のグループ、結構いいと思っててさ”って……ネクターナイトを踊ってほしいって……」
声はほとんど消え入りそうだった。僕は思わず、少し前のめりになる。
「セクシー系の曲で……監督の前でなんて、絶対に嫌で……それに……怖くて、体が全然動かなくて……そしたら、“ほら”って腕を引かれて……私はバランスを崩して……そのまま監督のほうに倒れかかってしまって……監督もよろけて……ソファに座る形になって……」
言葉が止まる。
「そのときの目が……完全に、“やりたい”って目で」
僕はぐっと唇をかみしめた。
「叫ぼうとしたんです……それで、口を開いた瞬間――」
そこで、また言葉が途切れる。
「……そこから記憶がないんです……気づいたら……監督が……手を喉に突っ込んだ状態で倒れてて……目を見開いたまま……」
「その動画、残ってる?」
日永の問いに、春川は小さく頷いた。スマホを取り出し、わずかに震える指先で操作すると、画面をこちらに向けて差し出した。
「……これ」
日永がそれを受け取る。僕は横から腕を伸ばし、再生ボタンを押した。手ブレの激しい映像の中に、春川が映っていた。ぎこちない、引きつった笑顔。『俺、実はさぁ――』と、
監督の、笑いを含んだ声が流れる。先ほど春川が語った出来事が、揺れる画面の中でなぞられていく。画面が大きく揺れ、春川の顔が画面いっぱいに近づく。口を開いたそのとき、ガクン、と春川の首が後ろに倒れた。ゆっくりと、首が戻ってくる。その顔は――あの女の顔だった。
ヒッ、という短い悲鳴が、画面の向こうから聞こえた。監督の声だ。女はゆっくりと体を起こし、深淵そのもののような真っ黒な目で、ソファに座り込んだ監督を見下ろした。次の瞬間、女の体がぎこちなく動き出した。まるで、糸で操られた人形が無理やり動かされているような――
「……それ、ネクターナイトの振り付けなんです」
春川の言葉に、僕はその動きに意識を向ける。言われてみれば、確かに踊りに見えなくもない。
『グッ、ガッ』と、異様な声がスピーカーから漏れる。おそらく、監督が自分の喉に手を突っ込んでいるのだろう。画面は揺れながら、それでもその女を映し続けていた。だが、まもなく大きくブレて、ソファの脚を映したまま静止する。数秒の空白。
『きゃあああっ!』
春川の悲鳴が響いた。数秒後、ドアが乱暴に開けられ、複数人が部屋に駆け込んでくる。
そこから数十秒、慌ただしく人が動き回り、焦った声がいくつも重なったところで、動画は終わった。
「警察はこの動画を見て、ドラッグでもやってたんじゃないかって疑ったみたいで……検査されたんですけど……もちろん、何も出なくて」
春川は小さく息をつく。
「……結局、原因不明の突然死、ってことになったみたいです」
「長田が死んだのは――」
日永は画面から顔を上げ、再び春川を見つめた。
「あなたの中に入り込んでいるものが原因の可能性が高い」
春川の肩が、びくりと震えた。
「今はあなたの“奥”に完全に入り込んでる。現段階では手を出せる状態じゃない」
春川の表情が強張る。僕が何か声をかけようとした、そのとき。
「あなたは、何も悪くない」
日永がきっぱりと言い切った。部屋に充満していた重苦しい空気を切り裂く、凛とした声だった。
日永は春川のそばへ歩み寄り、リュックから何かを取り出した。長い紐のついた、小さな布袋。僕に渡されたものより一回り大きく、朱色の糸で複雑な紋様が細かく刺繍されている。
「これを、首から下げて」
日永はそれを差し出した。
「お守り」
春川はそっと受け取り、言われた通り首にかけて、服の中にしまい込む。
「……あ」
小さな声を漏らした。
「これ……すごく、いい匂い……」
ほんの少し、顔の緊張がほどけたその瞬間、ぽろり、と涙が一粒こぼれ落ちた。
「……あれ」
自分でも驚いたように、春川は目を見開く。
「ご、ごめんなさい……」
慌てて手で押さえる春川に、僕はそっとポケットティッシュを差し出した。
「……ありがとう」
小さく会釈して、ぎゅっと目元を押さえる。
「準備ができたら、月芝から連絡がいくから」
日永が静かに言う。
春川は、こくりと頷いた。日永が僕に目を向ける。僕は春川に向き直った。
「なるべく早く連絡します。少しだけ待っていてください」
「……ありがとう」
震える声でそう言って、春川は頭を下げた。僕も深く頭を下げる。そして、日永とともに、静かに部屋を後にした。