遺響綴録:銀幕に巣食うもの

再生ボタンを押す前から、なぜだか、嫌な予感がした。人差し指がどうしても動かない。
「これもう見たかんじ?」
綾木がスマホを僕の方にさらに傾け、好奇心に満ちた声で尋ねてきた。黒の背景に見慣れた映画制作会社のロゴ。左隅に書いてあるタイトルは、映画『幼虫』予告編。
「いや…」
もごもご口の中で呟いたところで、綾木がじゃあ見てみてと僕の指を上からポンと押した。声が出そうになったが、なんとか飲み込む。
重厚なクラシックが大音量で流れ始めた。「人気サスペンス小説実写化、映像化不可能と言われた…」と、ナレーションが入る。泣いたり叫んだりするシーンをツギハギした、よくある予告動画だ。シークバーを見るとあと10秒ほど。
少しだけ心が落ち着く。ふっと肩の力が抜けた瞬間、画面がパッと切り替わった。
メインキャラが人混みにもみくちゃにされ、もがきながら宙に向かって必死に手を伸ばして叫んでいるシーンだった。
しかし、僕の目は群衆の一点に縫いとめられていた。ほんの一、二秒。なのに、はっきり、見えた。
サッと血の気が引いた。全身にじっとりと嫌な汗がにじみ、手足の感覚が鈍くなる。
一体なんで。映るはずがない。だって——
「もしや一発で分かった⁉流石だなー」
綾木は感心したように言った。
「これ、切り抜き動画がXでちょいバズっててさ。でも俺映ってるって騒がれてる女優、全然知らなくて。調べたらツクシーが子どもの頃共演した人じゃん!それで——」
僕は椅子から立ち上がった。椅子が後ろの机にガンッとぶつかり、教室中に響いた。綾木が強張った顔で僕を見上げる。
「ツ、ツクシー?」
僕は意識してゆっくり息を吸った。
「ごめん、ちょっと体調悪いから今日は帰るわ。先生に言っといて」
申し訳なさそうな表情をつくって、顔の前で手を合わせた。
「お、おう。言っとくわ。無理すんなよ」
綾木は戸惑いを顔に浮かべつつも、こくこくと頷いた。

駅に向かって早足で歩きながら、××郡〇〇村と地図アプリに打ち込んだ。ここから4時間以上かかる。現在時刻は8時25分。手持ちのお金がない。一旦家に戻らないと。
駅のホームで立ち止まり、ふと思いついて、地図アプリに「御機神社」と入力してみた。予測にも出てこない。候補はゼロ。表記を変えても同じだった。やはり、地図上には存在していない。電車が滑り込んでくる。僕は削除キーを連打しながら、乗り込んだ。

「××郡〇〇村にあった介護施設の□□園っていうところに行きたいんですけど…」
タクシーの運転手にスマホの地図を見せながら、説明する。なんとか伝わったようで、一安心して背もたれに体を預けた。
「何しに行かれるんですか?」
運転手とバックミラー越しに目が合う。
「写真を撮るのが趣味なんです。廃墟とか」
咄嗟に嘘をついた。どこから来たのか、大学生か、などずっと話しかけてくる。適当に話を合わせながら、窓の外に目をやった。国道沿いにチェーン店が並んでいる。ぼーっとそれらを眺めていると、それから10分も走らないうちに田んぼに囲まれた。駅からここまであまり人を見かけない。ほんの数時間前まで人でごった返した東京にいたことを思うと、なんだか同じ国とは思えない。
車は山道へ入った。カーブを曲がるたび、内臓が揺れる。それから1時間強でいくつもの山を越えると、見覚えのある景色になった。
「え〜っと?この山の中にあるのね?」
運転手がカーナビを見ながら呟いた。これ以上揺られたら吐きそうだ。
「この辺で、大丈夫です」
「えっ?ここでいいの?もう少し先だよね」
「ちょっと歩いてみたいので」
「そう?はいはい」
「ありがとうございました」と頭を下げながら、ドアを開けた。
湿った風が頬を撫でる。土の匂いがした。
タクシーが走り去ると、静かになった。鳥の声だけが、遠くで途切れ途切れに響いている。目の前には山。背後には、田んぼが広がっており、ポツン、ポツンと瓦葺の民家が見える。人影はない。まるで、世界に一人だけという感じがした。

体と草が擦れ合う音と、ハァハァという息遣いだけが響く。何でこんなに必死になって一人で獣道を歩いているんだろう。
今ごろ5限の最中だろうか。今日は金曜日だから、現国か。間違いなく綾木は寝こけているだろう。そこまで考えが及んだとき、ピタリと足が止まった。そうだ、アイツも、今は学校にいるはずだ。
なんでこんな当たり前のことに気づかなかったんだ?
アイツに会わなくてはという思い、というか衝動だけで、ここまで突っ走ってきてしまった。どうする。戻るか。下まで降りて、民泊かどこかで時間を潰して、明日出直すか。
「……いや、行こう」
呟いて、立ち上がる。重いはずの足が、動き出すと止まらなかった。歩調はいつの間にか速くなり、やがて駆け足に変わる。
根元がねじれた大木が見えた。変わらない。あのときと同じ姿で聳え立っている。ゴツゴツとした幹に触れ、そのまま、左を見上げる。
あった。
石の鳥居。道はない。枝を掴み、足場を探しながら、斜面をよじ登る。滑りかけては踏みとどまる。息が切れる。鳥居に着いた頃には、口の中がカラカラに乾いていた。しかし、水を飲むより先に、視線を周囲の木立へ向ける。
いない。
僕はため息をついて鳥居の下に腰を下ろした。水を一気に飲み干したが、勢いあまって、変なところに入ってしまい、ゴホゴホと咳き込んだ。
何をしているんだ、本当に。
涙目になりながら、呆れた笑いが込み上げてきたその時。シャラシャラと葉が擦れる音がした。反射的に立ち上がり、耳をすませる。すぐに、音の方へ駆け出す。枝が、まだ揺れている。あの木だ。根元まで走り寄り、顔を上げる。

アイツが、枝の上に座って、僕を見下ろしていた。