「では、失礼します」
ある日の昼休み。
コノメは一礼すると、学園の職員室を後にした。
教師の手伝いをしていたようだ。
教師からすればありがたい一方で、コノメの気分は晴れない。
(タスクが埋まらない……)
賢者からの命で、今週は使者の仕事が一切回ってこない。
その激務の代わりとなる予定を学園内で作ろうとするも、さすがに限界があった。
予習復習はとっくに済ませた。
教師の手伝いも自ら申し出た。
それでもなお、時間が余る。
コノメにとってそれは、ひどく居心地の悪いことだった。
「ん」
そんな時、廊下の窓辺で、コノメはふと足を止める。
下の裏庭から、何やら騒がしい声が聞こえてきたからだ。
「なぜこのスポットにまで!」
裏庭の大きな木の下。
芝生へ横たわっていたアスラが、まんまと発見されていた。
秘密の昼寝スポットを特定されたらしい。
詰め寄っているのは、二人の少女。
「最近、全然付き合ってくれない……」
「ちょっと、わたしを避けてるんじゃないでしょうね!」
ジト目を浮かべるリーゼルと、腰に両手を当てるセレスだ。
どちらも名の知れた才女である。
その評判に違わず、入学後も優秀な成績を叩き出していた。
コノメは窓枠へ手を置きながら、目を細める。
(“剣鬼姫”リーゼルに、名門エーデルン家のセレス。なぜ二人があの男に……)
信じがたい光景だった。
使者であるコノメにとっても、二人は注視すべき存在だ。
剣と魔法、それぞれの分野で頭角を現す者たちが、なぜか共通してアスラへ絡んでいる。
しかも、嫌々ではない。
(理解ができませんね。あれほどの者たちが)
寄り道は非効率、昼寝など論外。
そう切り捨ててきたコノメには、あの輪の価値が分からない。
リーゼル達のような、名のある者だからこそ余計に。
ただ、一つだけ気になることがあった。
(あの二人は、あのような感じだったでしょうか)
一見、リーゼルは拗ね、セレスは怒っている。
だが、一帯の空気にはどこか柔らかさがあった。
コノメは入学前に全生徒の情報を頭へ入れている。
そのデータにある二人とは、少しだけ雰囲気が違って見えた。
変化の要因があるとすれば──アスラだ。
(彼のどこに、そんな魅力が……)
そこまで考えて、昨日の出来事が蘇る。
オレンジ色に変わったポーション、ジャムの塗られたパン。
気づけば帰り道に頬張っていた甘い味だ。
(あれは確かに美味しかったですが──って、違う!)
コノメはぶんぶんと首を振る。
思考をリセットすると、もう一つ疑問が浮かぶ。
セレス達以上に気になる者がいたのだ。
(そして何より、レーニャ)
アスラの隣で、あくびをしている茶髪のメイド。
生徒の多くは、ただの美人メイドだとしか思っていないだろうが、使者であるコノメは知っていた。
ある界隈で、かつて彼女がどう呼ばれていたかを。
(“冥土の案内人”レーニャ。なぜ、裏世界の住人が……)
全容は包み隠されているが、呼び名だけは耳にしたことがある。
アングラに身を置いていた少女が、どうしてアスラの傍にいるのか。
メイドになった経緯も、アスラにくっつく理由も、全てが謎だ。
(分からない)
コノメは視線を外す。
理解できないものから距離を取るよう、再び廊下を歩き出した。
そんな中、アスラの最後の一言だけが妙に耳に残る。
「君たち、屋上のスポットだけは来るんじゃないぞ!」
すると、コノメは数歩先でぼそっとつぶやいた。
「……そんなに良い場所なのかな」
◆
放課後。
「…………」
コノメは一人、屋上の隅に座っていた。
視界は開けていて、夕焼けもよく見える。
壁へ背を預けるだけで、肩の力がふっと抜けるような場所だ。
──本来なら。
(今日は散々です)
コノメにとって、手持ち無沙汰は苦痛だった。
そんな彼女の頭を巡るのは、昼休みのアスラたちの光景だ。
普段なら流せるはずのただの一幕が、どうしても頭から離れない。
(どうして? いえ)
コノメは賢い。
冷静な自己分析は、卑屈な自分を客観的に鑑みた。
(わたくしは、羨ましかったのでしょうね)
コノメがずっと奥へ閉じ込めていた記憶が、不意に浮かび上がる。
────
幼い頃。
「いいなあ……」
屋敷の外で遊ぶ子どもたちを、コノメは遠くから眺めていた。
追いかけっこをして、転んで、泣いて、また笑う。
そんな彼らがとても眩しく見えた。
すると、通りかかった母へ、コノメはてってっと駆け寄る。
「お母様、わたしも遊びに行きたい!」
「ダメよ」
「えー、お勉強もしっかりするから!」
「……コノメ、いい?」
母はその場にしゃがみ、コノメと視線を合わせる。
「あなたは賢者様にお仕えする存在。他の子とは違うの」
「でも、ちょっとぐらい──」
「それだけじゃない。あなたにとって、それが唯一にして至上の幸せなのよ」
「……そうなんだ」
何度も繰り返されたやり取りだった。
無理やり納得させられる内に、幼いコノメの心にはそう刻み込まれてしまった。
ただし、母が悪いわけではない。
この母もまた、賢者に仕える一族として同じ運命を辿ってきたのだから。
だからコノメは、普通の感情に蓋をした。
遊びたい。
寄り道したい。
誰かと笑いたい。
そんなものは、自分には不要だと──。
────
記憶が蘇り、コノメは額へ手を当てる。
(今になって思い出しますか……)
忘れていた、いや、忘れさせられていた記憶だ。
あの時からコノメは、普通の感情を遠ざけて生きてきた。
──ひとりの尊敬する人物へ会うまでは。
『お、使者さんか。よろしくー』
『俺の代では気負わずやっていいから』
『自分の好きに忠実に生きな』
脳裏に響く“ご進言”は、背後から聞こえた声と重なる。
「マジか、先客かよ」
「……!」
コノメの肩がぴくりと跳ねる。
振り返ると、そこにはアスラが立っていた。
(今の、感じは……)
だが、コノメは左右に首を振る。
一瞬浮かんだ連想を、失礼だと打ち消すように。
コノメは視線を逸らすと、そのまま立ち上がろうとする。
「わたくしはこれで」
「まあまあ、そんな慌てなくてもいいじゃん。気持ち良いでしょ、ここ」
「……」
ちょうど吹き抜けた風が、コノメを煽る。
さっきは何も感じなかったはずの澄んだ空気は、なぜか気持ち良く感じた。
違いがあるとすれば、アスラがいることだけ。
アスラはその辺に腰を下ろすと、背伸びしながら口を開く。
「君は頑張りすぎ。学園で真面目すぎると疲れない?」
「……わたくしにはこれが合ってますので。あなたのように寄り道はしません」
「案外、寄り道だと切り捨ててることも、本人にとっては重要な過程かもよ?」
「!」
すると、不思議とコノメは思い返す。
たしかに賢者は学園へ行くよう勧めた。
だが、優秀な成績を残せなど一言も言わなかった。
むしろ送り出してくれた時は、仮面の下の笑顔でこう言ったはずだ。
『楽しんできな』
「……っ!」
今代の賢者は、ずっと自由を促してくれていた。
楽しむことを知らないコノメへ、鳥かごの戸を開いてくれていた。
なのに、コノメ自身が飛び立つ方法を知らなかっただけだ。
すると、コノメは言葉がこぼれる。
「でも、今更やりたいことなど、目的など……分かりません」
普段は決して口にしない本音が、なぜか出てしまった。
どこか賢者に似た雰囲気をアスラに感じ取ったのかもしれない。
対して、少し考えたアスラはカバンを探った。
「じゃあ、これとかどう?」
「?」
アスラが差し出したのは、小さな種。
コノメが首を傾げると、アスラはふっと笑う。
「探索の時、君はどれだけ足を早めても、花だけは踏まなかった」
「!」
「もしかして好きなのかなって」
この種からは花が咲くようだ。
アスラは種を手渡すと、一つ提案をする。
「これを植えて、明日から毎日水やりに来る。それだけでも、目的にはなるんじゃない?」
「……」
本当に小さな目的だが、今のコノメにはちょうどいい。
そういえば自分は花が好きだったかもしれない。
なんて思い出しながら、コノメは種を深く覗く。
(え?)
しかし、その目はすぐに見開かれた。
(この種って──!)
ある日の昼休み。
コノメは一礼すると、学園の職員室を後にした。
教師の手伝いをしていたようだ。
教師からすればありがたい一方で、コノメの気分は晴れない。
(タスクが埋まらない……)
賢者からの命で、今週は使者の仕事が一切回ってこない。
その激務の代わりとなる予定を学園内で作ろうとするも、さすがに限界があった。
予習復習はとっくに済ませた。
教師の手伝いも自ら申し出た。
それでもなお、時間が余る。
コノメにとってそれは、ひどく居心地の悪いことだった。
「ん」
そんな時、廊下の窓辺で、コノメはふと足を止める。
下の裏庭から、何やら騒がしい声が聞こえてきたからだ。
「なぜこのスポットにまで!」
裏庭の大きな木の下。
芝生へ横たわっていたアスラが、まんまと発見されていた。
秘密の昼寝スポットを特定されたらしい。
詰め寄っているのは、二人の少女。
「最近、全然付き合ってくれない……」
「ちょっと、わたしを避けてるんじゃないでしょうね!」
ジト目を浮かべるリーゼルと、腰に両手を当てるセレスだ。
どちらも名の知れた才女である。
その評判に違わず、入学後も優秀な成績を叩き出していた。
コノメは窓枠へ手を置きながら、目を細める。
(“剣鬼姫”リーゼルに、名門エーデルン家のセレス。なぜ二人があの男に……)
信じがたい光景だった。
使者であるコノメにとっても、二人は注視すべき存在だ。
剣と魔法、それぞれの分野で頭角を現す者たちが、なぜか共通してアスラへ絡んでいる。
しかも、嫌々ではない。
(理解ができませんね。あれほどの者たちが)
寄り道は非効率、昼寝など論外。
そう切り捨ててきたコノメには、あの輪の価値が分からない。
リーゼル達のような、名のある者だからこそ余計に。
ただ、一つだけ気になることがあった。
(あの二人は、あのような感じだったでしょうか)
一見、リーゼルは拗ね、セレスは怒っている。
だが、一帯の空気にはどこか柔らかさがあった。
コノメは入学前に全生徒の情報を頭へ入れている。
そのデータにある二人とは、少しだけ雰囲気が違って見えた。
変化の要因があるとすれば──アスラだ。
(彼のどこに、そんな魅力が……)
そこまで考えて、昨日の出来事が蘇る。
オレンジ色に変わったポーション、ジャムの塗られたパン。
気づけば帰り道に頬張っていた甘い味だ。
(あれは確かに美味しかったですが──って、違う!)
コノメはぶんぶんと首を振る。
思考をリセットすると、もう一つ疑問が浮かぶ。
セレス達以上に気になる者がいたのだ。
(そして何より、レーニャ)
アスラの隣で、あくびをしている茶髪のメイド。
生徒の多くは、ただの美人メイドだとしか思っていないだろうが、使者であるコノメは知っていた。
ある界隈で、かつて彼女がどう呼ばれていたかを。
(“冥土の案内人”レーニャ。なぜ、裏世界の住人が……)
全容は包み隠されているが、呼び名だけは耳にしたことがある。
アングラに身を置いていた少女が、どうしてアスラの傍にいるのか。
メイドになった経緯も、アスラにくっつく理由も、全てが謎だ。
(分からない)
コノメは視線を外す。
理解できないものから距離を取るよう、再び廊下を歩き出した。
そんな中、アスラの最後の一言だけが妙に耳に残る。
「君たち、屋上のスポットだけは来るんじゃないぞ!」
すると、コノメは数歩先でぼそっとつぶやいた。
「……そんなに良い場所なのかな」
◆
放課後。
「…………」
コノメは一人、屋上の隅に座っていた。
視界は開けていて、夕焼けもよく見える。
壁へ背を預けるだけで、肩の力がふっと抜けるような場所だ。
──本来なら。
(今日は散々です)
コノメにとって、手持ち無沙汰は苦痛だった。
そんな彼女の頭を巡るのは、昼休みのアスラたちの光景だ。
普段なら流せるはずのただの一幕が、どうしても頭から離れない。
(どうして? いえ)
コノメは賢い。
冷静な自己分析は、卑屈な自分を客観的に鑑みた。
(わたくしは、羨ましかったのでしょうね)
コノメがずっと奥へ閉じ込めていた記憶が、不意に浮かび上がる。
────
幼い頃。
「いいなあ……」
屋敷の外で遊ぶ子どもたちを、コノメは遠くから眺めていた。
追いかけっこをして、転んで、泣いて、また笑う。
そんな彼らがとても眩しく見えた。
すると、通りかかった母へ、コノメはてってっと駆け寄る。
「お母様、わたしも遊びに行きたい!」
「ダメよ」
「えー、お勉強もしっかりするから!」
「……コノメ、いい?」
母はその場にしゃがみ、コノメと視線を合わせる。
「あなたは賢者様にお仕えする存在。他の子とは違うの」
「でも、ちょっとぐらい──」
「それだけじゃない。あなたにとって、それが唯一にして至上の幸せなのよ」
「……そうなんだ」
何度も繰り返されたやり取りだった。
無理やり納得させられる内に、幼いコノメの心にはそう刻み込まれてしまった。
ただし、母が悪いわけではない。
この母もまた、賢者に仕える一族として同じ運命を辿ってきたのだから。
だからコノメは、普通の感情に蓋をした。
遊びたい。
寄り道したい。
誰かと笑いたい。
そんなものは、自分には不要だと──。
────
記憶が蘇り、コノメは額へ手を当てる。
(今になって思い出しますか……)
忘れていた、いや、忘れさせられていた記憶だ。
あの時からコノメは、普通の感情を遠ざけて生きてきた。
──ひとりの尊敬する人物へ会うまでは。
『お、使者さんか。よろしくー』
『俺の代では気負わずやっていいから』
『自分の好きに忠実に生きな』
脳裏に響く“ご進言”は、背後から聞こえた声と重なる。
「マジか、先客かよ」
「……!」
コノメの肩がぴくりと跳ねる。
振り返ると、そこにはアスラが立っていた。
(今の、感じは……)
だが、コノメは左右に首を振る。
一瞬浮かんだ連想を、失礼だと打ち消すように。
コノメは視線を逸らすと、そのまま立ち上がろうとする。
「わたくしはこれで」
「まあまあ、そんな慌てなくてもいいじゃん。気持ち良いでしょ、ここ」
「……」
ちょうど吹き抜けた風が、コノメを煽る。
さっきは何も感じなかったはずの澄んだ空気は、なぜか気持ち良く感じた。
違いがあるとすれば、アスラがいることだけ。
アスラはその辺に腰を下ろすと、背伸びしながら口を開く。
「君は頑張りすぎ。学園で真面目すぎると疲れない?」
「……わたくしにはこれが合ってますので。あなたのように寄り道はしません」
「案外、寄り道だと切り捨ててることも、本人にとっては重要な過程かもよ?」
「!」
すると、不思議とコノメは思い返す。
たしかに賢者は学園へ行くよう勧めた。
だが、優秀な成績を残せなど一言も言わなかった。
むしろ送り出してくれた時は、仮面の下の笑顔でこう言ったはずだ。
『楽しんできな』
「……っ!」
今代の賢者は、ずっと自由を促してくれていた。
楽しむことを知らないコノメへ、鳥かごの戸を開いてくれていた。
なのに、コノメ自身が飛び立つ方法を知らなかっただけだ。
すると、コノメは言葉がこぼれる。
「でも、今更やりたいことなど、目的など……分かりません」
普段は決して口にしない本音が、なぜか出てしまった。
どこか賢者に似た雰囲気をアスラに感じ取ったのかもしれない。
対して、少し考えたアスラはカバンを探った。
「じゃあ、これとかどう?」
「?」
アスラが差し出したのは、小さな種。
コノメが首を傾げると、アスラはふっと笑う。
「探索の時、君はどれだけ足を早めても、花だけは踏まなかった」
「!」
「もしかして好きなのかなって」
この種からは花が咲くようだ。
アスラは種を手渡すと、一つ提案をする。
「これを植えて、明日から毎日水やりに来る。それだけでも、目的にはなるんじゃない?」
「……」
本当に小さな目的だが、今のコノメにはちょうどいい。
そういえば自分は花が好きだったかもしれない。
なんて思い出しながら、コノメは種を深く覗く。
(え?)
しかし、その目はすぐに見開かれた。
(この種って──!)


