「ねぇ、知ってる?もう使われていない第二音楽室の話。」
「知ってるよ。桜介先輩でしょ。」
「裏切られた友人への恨みを募らせて、代わりの友達を探すためにピアノを弾いてるんだっけ。確か、そのピアノを弾いている姿を見たものは、一緒にあの世まで連れて行かれちゃうだよね。」
噂話をしている女子生徒達がちょうど第二音楽室の前を通ると、低い、不気味なピアノの音色が聞こえてきた。キャーと叫び声を上げるのと同時、教室のドアが開く。
「なんだ、楓先生じゃん」
「体育の先生なのに、なんでこんな所にいんの」
「ピアノの音が聞こえたから来てみたんだが、誰もいないみたいで困ってるんだよ。ここに来るまでに誰か会わなかったか」
そう聞かれると、女子生徒達は顔を真っ青にして走って逃げて行った。
*
夜の学校へ忍び込むために、ユウちゃんが考えた案はこうだった。
先生たちが帰るまで神社で待機し、幽霊になって学校へ侵入。ベートーヴェンの絵を確認して、またすぐ神社に帰る。という単純なものだった。
神社というのは高校の向かい側にある小さな神社のことで、昔からユウちゃんと一緒に来ていた。ちょうど鳥居を境に結界が張られているらしく、悪霊は入って来られない。ユウちゃんはよく「オレじゃ勝てない時は、神社に逃げて」と何度も言っていた。夜でも神社に居れば安心だから、家には帰らず神社を拠点にするという事らしい。今日もここで二人で過ごすと思っていたんだけれど……。
「オレ、用があるから紬凪はここで待ってて!夜になったら鳥居の前に集合ね!あっでも、オレが来るまで絶対に神社から出ちゃダメだよ」
僕を神社の前まで送り届けたユウちゃんは、そう言って一気に空へ飛んで行った。
「えぇー!?」
用事ってなんだろう。ユウちゃんが隣にいないなんて、出会ってからほとんどなかったのに。空を眺めながら考えていると後ろから声を掛けられた。
「おや、いらっしゃい」
そこには優しい顔をした神社のおじさんがいた。今日は作業服を着て箒を持っているから、掃除をしていたようだ。
「今日はあの坊やは一緒じゃないのかい?」
「はい、用事があるとかで」
「そうかい」
箒で落ち葉を集めると「ゆっくりしておいき」と言って神社の中へ入っていった。あの人は僕と同じように幽霊が見えるらしい。初めて会った時もユウちゃんの事をしっかり見えていて、さっきみたいなたわいのない話をした。僕たちを追い出しはしないけれど、必要以上には関わってこない。何度も顔を合わせているけれど話すことは挨拶くらいだった。
日がすっかりと沈み月が綺麗に見えるようになると、さすがに先生達も帰っただろうと神社の階段を下りて行く。鳥居まで来ると、ユウちゃんは外で待っていた。
「遅い!」
「待たせてごめんね、というかユウちゃんも神社の中で待てばよかったでしょ」
「今来たんだもん」
「じゃお互い様でしょー」
言い合いながら話しているけれど、さっきまでの緊張が和らいでいく。本当は一人で待っている時は不安で心細かった。
「じゃ幽霊にするからね」
ユウちゃんが僕に向かって指をパチンと弾くと体が透けて行き、幽霊の姿になる。
「いい?ここからは立ち止まっちゃダメだからね。とにかく上に、上に逃げるんだよ」
「うん。ありがとうユウちゃん」
「大丈夫、ヒーローが守るからね」
ユウちゃんが自分の胸をドンっと叩きながら言ってくれると頼もしさでいっぱいになる。鳥居の外へ出た瞬間、ユウちゃんがすぐに僕の腕を引っ張って上へ高く飛び上がった。どんどん早く、スピードを上げて飛んでいく。その直後、地面から次々に悪霊がまるで植物が急成長していくかのように次々と出てきた。
「後ろを見ちゃダメだよ。学校に入ったらもっと気を付けて。とにかく、早く音楽室へ行って、すぐに出るよ!」
僕らはすぐに学校へ着くと、壁をすり抜けて中へ入っていった。
夜の学校というのは静かで、小さな音ですら怖いんだと思っていた。実際は……通り過ぎた後から、床や壁、至る所からドロドロした悪霊達が呻き声をあげて出てくる。数が多いせいか一体となって、まるで大きな地鳴りのように頭にガンガンと響いて聞こえて来る。
「んもお、うるさいなあ!てか、音楽室どこ!」
「音楽室は第二校舎の!四階の一番端!」
「なんで!そんなに遠いの!?」
悪霊に負けないように大きな声で会話をしながら、全速力で走るように速度をどんどん上げて校舎の中を走り回る。ふと、まるでカエルように長い足をした悪霊が、僕らとすぐ横にいることに気付いた。しまった、これはヤバいかも……。ユウちゃんは僕の手を握る力を強めた。
「今は何も気にしちゃダメ!とにかく!走って!」
「そうだユウちゃん、上に行こう!高く!」
何度も言われた言葉を叫ぶと、一気に方向転換をして上に飛び上がった。ちょうどさっきまでいた場所に悪霊が飛び掛かっていて、間一髪のところで避けられたようだった。音楽室がある四階に着くと、勢いあまって二人して転んでしまう。その拍子に手も離れて、バラバラになってしまった。
「紬凪!」
ユウちゃんが必死に手を伸ばしてくれるのが見える。僕も必死に手を伸ばそうとするが、辺りが急に暗闇に包まれて何も見えなくなってしまった。
「ユウちゃん!ユウちゃん!どこ?」
辺りを見渡すけれど、真っ暗で何も見えない。前も、後ろも、音楽室がどこにあるのかも、あれだけうるさかった悪霊の声すらも聞こえなくなった。
「ユウちゃん……」
その時、ターン、タン、ターン、ターン、と聞いた事があるような曲が聞こえて来た。ピアノの音だ。次第に音は多彩になって行く。もしかしたら音楽室があるかもしれない。その音を頼りに真っ暗な空間を歩いて行くと、扉が見えたから迷わず開けた。
光が差し込んで中の様子が分かると、そこにはピアノを弾いている一人の男子学生がいた。彼はしばらくピアノを弾き続けていたが、僕に気がつくと不思議そうな顔をして手を止める。
「どうしたの?青いネクタイ……一年生だね。迷子?それとも、もしかして入部希望者かな」
赤いネクタイを付けたその人は、おかっぱ頭のサラサラとした髪を耳に掛けながら、ニコッと笑って僕を見る。彼の後ろに見える窓を見ると、満開の桜が揺れていた。
「迷子、……です。その、先輩は、」
「迷子かぁー残念。僕は桜介。桜介先輩とでも呼んでよ」
「桜介、先輩」
うちの学校は、学年毎にネクタイの色が異なっている。一年生は黄色、二年生は青、三年生は赤。今の色と、この人が言った色はズレている。きっとこの人の時間は止まってしまったのだ。ずっと、桜の花が咲く時期を過ごしている。幽霊は、さっきまで追いかけられていたような恐ろしいものだけじゃない。こんな風に生前とほぼ変わらない姿で、……自分が死んでしまったことに気付かずに、この世に留まっている人も多い。そんな人達はある日、何か重荷が取れたように急に成仏する事もあれば、自覚して未練をやり遂げてから成仏する人もいるらしい。そして、未練を残し成仏できないままでいると悪霊に変わってしまって、この世に留まり続けるそうだ。全部、ユウちゃんが教えてくれたことだった。きっと彼も何か心残りがあってここに居続けている。
「ここは、何部なんですか?」
「んー?音楽たのしもう同好会とかかな」
「先輩が作ったんですか」
「……まあ、そうだね、先生に勧められたんだ」
音楽を楽しく出来たら、先輩は満足して悪霊になる前に成仏することが出来るのだろうか。
「迷子って言ってたよね、君はどこに行くつもりだったの」
「僕は、ベートーヴェンの絵が動くのかどうか見たくて、」
「アハハ、こんな真昼間から肝試しをしてるの?残念、ほらベートーヴェンも他の肖像画も動かないよ」
「本当だ」
先輩は肖像画を指さしながら言う。動かないとだろうと思っていても、本当は怖かったから安心した。ホッとして息を吐くと、桜介先輩は心配そうに顔を覗いてきた。
「クラスで馴染めてないのかな?」
「え!?」
どうして見抜けるの。馴染めていないどころか、クラスで友達が出来た経験もない。ユウちゃんだけ。
「意地悪な子に言われたん来たんじゃないの。ここ幽霊出るって噂あるし」
「ゆ、幽霊、出るんですか?」
「僕なんだけどね」
「えぇ!?」
まさか自覚があるとは思わなかった。彼はまた大きな声で笑うと「違うよ」と言った。
「僕いつもここで、ピアノ弾いてるんだ。そのせいで勘違いされちゃっているみたいでさ」
彼はピアノの前に座ると、もう一度、さっき聞こえて来たメロディを弾く。
「知ってる?ベートーヴェン、ピアノ・ソナタ、第八番、悲壮」
先輩が弾くピアノの音に目を閉じて耳を傾ける。ゆったりとしたメロディが耳に入っていくる。
「多分、昔のドラマで聴いたことがある気がします。何だか、切ない気持ちになりますね」
彼は返事をする代わりに口角だけをあげると、大きく腕を動かしてその曲を弾き続けた。
「ベートーヴェンは音楽家なのに、耳が聴こえなくなっていったらしいよ、……怖かっただろうな」
「怖い、ですか」
「うん。大切な物を失うのは怖いでしょう?ベートーヴェンにとって音楽は人生の全てだったと思うし」
――ダンっ!
突然、先輩が勢いよく鍵盤を叩きつけた。
「怖い、嫌だ、嫌だ、失いたくない!」
「桜介先輩?」
「……でも、君は要らないよね、だって、嫌なものばかりだもん」
「何を言って、」
「その目のせいで孤独だ。嫌なモノばかり見えて、この世ではヒトリ。カワイソウ。ハヤク、アノヒトノのところニ、カエサナいト」
先輩は立ち上がると、ゆっくりと近寄って来てた。僕の方へ向いている手が、ドロドロと溶けていって形が分からなくなっていく。先輩から目を離さないように、後ろへ下がるが足がもつれて転んでしまった。先輩はどんどん体も溶けていって、ついにさっきまで僕達を追っていたような悪霊の姿に変わってしまった。
「カワイソウ、ハヤク、ツレテイカナイト、アノヒト、マッテル!」
その言葉と同時に、一気に僕の元へ飛びかかって来た。ユウちゃんがいない時に、こんなことするのは怖いけど……!天井まで飛び上がると、そのまま壁を目指して勢いよく飛んでいく。お願いどうか、通り抜けて!目をつぶって思いっきり壁へぶつかって行く。
「うわぁ!」
無事に通り抜ける事ができたようで、隣の教室まで逃げる事ができた。でも誰か人がいて、避けきれずにぶつかってしまう。
「いってぇーな!」
「夕陽くん!?」
僕がびっくりして目を丸くしていると、夕陽くんは罰の悪そうに「違う、ただ、その、」と言うが、どうやら話している余裕はないらしい。またあの地鳴りのような悪霊達の声が聞こえて来た。
「ごめん、後で!今は逃げないと!」
「はあ?」
教室の壁から次々に悪霊達が現れてくる。囲まれた。さっきよりもピンチな状況になってしまった。
「ど、どうしよう!とりあえず!上に逃げよう!」
「はあ?何が見えてんの、てか何でそんな大声なの、ユウちゃんはどうした、上ってなに?俺は幽霊じゃな、あぁ!クソっ!」
夕陽くんはポケット中から、和紙に包まれた塩を取り出すと適当に撒いていく。
「くらえっ!効果あるか知らねぇけど、神社で買ったお清めの塩!どうだ!」
「すごい、目に入って痛そうにしてるよ!」
「お清めの効果か、普通の塩なのか分かんねーな!」
効果は本当にあるようで、何体かは溶けて消えて行った。でも、これ以上彼を危険な目に遭わせるわけにはいかない。
「僕のせいで!この教室に悪霊が!いっぱい!だから、夕陽くん、逃げて!」
「ふざけんな!逃げるわけないだろ!」
「でも」
その時、夕陽くんの後ろに、悪霊が飛びかかろうとしているのが見えた。どうしよう、でも、僕じゃ間に合わない……!
「ユーーウちゃーーん!助けてぇ!」
「はあーい!」
音楽室とは反対側の壁からユウちゃんは現れた。猛スピードで腕を突き出した格好のまま、彼の後ろにいた悪霊を攻撃をすると、こっちも溶けて消えていった。
「ユウちゃん!ありがとう!」
「へへん、オレはヒーローだからね。どんなもんだい!」
ずっと探してくれていたのだろう。いつもの白い布は、少し汚れていた。
「ユウちゃん、ありがとう」
僕はもう一度、お礼を言った。
「おい、ユウちゃんもそこにいんのか!」
「今、合流したよ!」
「よし、もう良いから、帰るぞ」
「ダメ!」
二人とも僕の方を見ながら「なんで」「ダメ」と見えていないはずなのにテンポ良く言う。
「桜介先輩を放っておけない」
「もう、桜介先輩って誰!?」
「……うちの学校の怪談話か」
「怪談話?」
息を切らしながら夕陽くんは続ける。
「音楽室の桜介先輩。これは楓先生から聞いた話なんだが、ほらよくある誰もいない音楽室でピアノが聴こえてくるってやつあるじゃん。あれの派生版で、桜介 先輩っていうおかっぱ頭の美少年が、裏切った友人への恨みを募らせながら、ピアノを弾いてるって」
さっき話した桜介先輩を思い出してみるけれど、なんだか違う気がする。それに友達へ恨みを募らせながら、ピアノを弾くってどういうことだろう。
「それで、新しい友達を探しているらしいぞ。あの世まで一緒に連れて行こうとしてんだとよ」
どうして恨んでいて、別の子を探しているんだろう。その子を捕まえて地獄に落とす方がしっくりくる。
――バンっ!
その時、音楽室がある方の壁から、大きな叩くような音が聞こえてきた。何度も、何度も、手のひらで叩くように、バンバンと音が続いていくと、教室の端から徐々にさっきのような暗闇に包まれていく。ユウちゃんはすぐ僕にピッタリとくっついた。僕に抱きついているようになっているが、守ってくれているのが分かる。僕も彼を守りたくて抱きしめ返した。
「なん、だよこれ、急に暗く、」
僕達を庇うように夕陽くんが前へ出る。
「夕陽くん、見えてるの?」
「わかんねぇ、でも暗くなってんのと、バンバンって何か叩く音は聞こえてくる」
「普通の人にも分かるくらい、強い霊って事だよ。――来る!」
ドンっと大きな音が教室中に響いたのと同時に、壁がボロボロと崩れて落ちていった。その間から大きな泥のような塊が見える。背中から何本もの手が生えている霊――桜介先輩だ。その手はずっと、まるでピアノを弾いているように動いている。
「桜介先輩!」
「カワイソウ、ソノメ、イラナイ」
ピアノを弾いている一番大きな手が僕を目掛けて、まるで上から叩きつけるように振り下ろされてきた。やばい、あんなのが当たったら、もう一発で終わりだ。
「夕陽くん!上から攻撃される、逃げて!」
ユウちゃんは僕を押して、滑り込むように僕ごと横へ避けた。
「無理だって!」
逃げ遅れた夕陽くんが上に向かって塩を撒くと、迫って来ていた手に当たった。一瞬だけ動きが止まってその隙に横へ逃げたが、他の悪霊達とは違ってそう簡単にはいかないらしい。どうしよう、考えないと。どうして桜介先輩はピアノを弾いているの?どうして、友達を恨んでいるの?どうして、新しい友達を探している?
――大切なモノを失うのは怖いでしょう?
僕と桜介先輩の大切なモノは違うかもしれない。でも……!
「桜介先輩ぃ!僕、好きな人がいるんです!」
桜介先輩の前へ行き、そう叫んだ。何か分かった訳じゃないけれど、分からない時は話し合うべきだと思ったから。
「はあ?」「え?」
「あそこにいる、カッコいい人が、僕の好きな人です!」
「はああ?」「えぇぇ?」
二人の気が抜けたような声が聞こえるが、構わず僕は続ける。
「一目惚れしたんです。僕に笑って話しかけてきてくれた人も、手を差し伸べてくれた人も、他にはいなかった。そんなことをしてくれた人が、こんなにカッコいい人だったんですよ!好きにならない方がおかしいです!ずっと心臓がバクバクで止まらなって、話すようになってから、もっと素敵な部分を知って、もっと好きになって、僕いまもう苦しくって、嬉しくて、おかしくなっちゃいそうなんです!」
桜介先輩は動くのをピタリと止めた。僕の話を聞いてくれているみたいだ。
「先輩の言う通り、この目のせいで僕は嫌な思いをしてきたし、両親にだって辛い思いをさせてしまって、そんな自分が嫌でした。でも、この目があったからこそ、かけがえのない友達に会えて、好きな人にも出会えました。悪いことばかりじゃないんです。だから、僕は大丈夫です」
さっき音楽室で会った時のことを思い出す。
「先輩は優しい人ですよね、僕のことを最初から心配してくれました。……僕は大丈夫。次は、先輩の話を聞かせてください。辛いこと、悲しいこと、怒っていること、何でも教えてください」
その瞬間、パアアアと教室中が光に包み込まれて、桜介先輩は元の姿を取り戻していく。窓の外には、桜の花が風に揺れていた。
「すごいな、君は。……好きな人のこと、好きって言えて、すごいなあ……」
人間の姿に戻った桜介先輩は、涙を堪えるように笑っていた。
音楽室に移動してきた僕らは、ピアノの周りに集まった。ユウちゃんは、相変わらず僕に抱きついていて、横には夕陽くんが肩が触れ合うくらいの距離にいる。桜介先輩は窓の外を見て、ふっと息を吐いた後に口をゆっくりと開いた。
「じゃぁ、僕も恋バナをしようかな。僕の好きな人もね、君と同じように男の人だったんだ」
――彼と初めて会ったのは、幼稚園生の頃。
僕と彼は同じピアノの教室に通っていたんだ。僕たちが仲良くなるのには、そう時間が掛からなかった。難しい曲が弾けるようになると、二人で弾ける連弾の楽譜を探しては、ピアノの教室がない時でも一緒に遊んで弾いていた。小、中と違う学校に通っていた僕らは、高校は一緒のところに行こうと約束していたんだ。見事に二人で同じ学校に合格して、ずっと一緒にいられると思っていた。でも、……実際の高校生活は思い描いていたものとは違ったものだった。
入学してしばらく経った頃かな、僕たちのことを気持ち悪いって言う子が出てきたんだ。気持ち悪い、男同士で付き合っているって、あることないこと色んな噂が出回った。彼はちゃんと否定して、からかってくる子に怒ることが出来たけれど、僕はそうじゃなかった。元々、そういうことが苦手だったっていうのもあったけれど、僕の気持ちは、本当だったから。いつ好きになったか分からないくらい、自然と彼のことを好きになっていた。初めての気持ちにこれがなんなのか分からなくて気付くのが遅くなったけれど、初恋だった。一緒にピアノを弾く時間が、楽しくて、何よりも幸せだった。
……でも、こんな気持ち、持っちゃいけなかったんだ。気持ち悪いものなんだって、彼に、迷惑かけちゃうんだって、思い知ったんだ。彼は変わらず話しかけてくれようとしたけれど、僕は彼を避けた。そうするのが正しいと思ったから。友達でいられないのに、一緒にいることも出来なかった。
教室にも行けなくなって来た頃、噂のことを気にした先生が音楽室の鍵を貸してくれたんだ。「気にすんな」「嘘ばっかり広まって辛いよな」「無理しなくて良いから」「なんでも相談して欲しい」先生はそんな優しい言葉をかけてくれたけれど、全部、本当のことだったから、申し訳なかった。
ピアノだけ。ここでピアノを弾いている時が一番、安心した。なのに、ある日片方の耳が聞こえなくなった。怖かった。片方聞こえなくなるだけで、音が全然違う。ピアノまで失ってしまえば、僕はどう生きていったら良いのか分からない!
そんな時だった。楽譜を持った彼が、音楽室に来たのは。
表紙がボロボロになった、ベートーヴェン、ピアノ・ソナタ、第八番、悲壮の楽譜を持っていた。悲壮は僕らが初めて一緒に弾いた曲だった。当時見ていたドラマの挿入歌に使われていて、僕らは少し背伸びをして、一緒に練習をしたんだ。あの時間はきっと彼にとっても楽しい想い出として輝いていたんだろう。
「これ一緒に弾こ?」
いつものように僕の大好きな笑顔でそう言ってくれた。嬉しかった。今すぐにでも、うんって言っていつものように並んで、初めて弾いた時と同じようにピアノを弾きたかった。僕の気持ちが変わってしまった。それに片方の耳が聞こえない僕は、怖かった。彼に合わせて上手く弾けないだろうということも、彼の隣にいて胸がどれだけ高鳴るのか、きちんと知れないことも、この気持ちが彼に気付かれてしまうことも、怖かった。彼を押し退けて音楽室から出ると、僕は走った。どこへまでも逃げるように、走った。
学校の裏門から、先生達の目を盗んで、走って、走って、……片方の耳が聞こえないせいで、気付くのが遅れてしまった。
気付いた時には、目の前に車が迫っていた。
「そっか、僕はもう、死んでしまったんだね」
桜介先輩はボロボロと涙を流しながらそう言った。
「後悔ばかりだ、どうせ死んじゃうなら、下手くそでも、ピアノ、一緒に弾けば良かった……!好きって、言えば良かった……!」
僕は嗚咽混じりに泣いている桜介先輩の背中を撫でた。
「今からでも、遅くないんじゃねぇの、幽霊でも、紙に書いて「好きです」って渡せばいいじゃん」
何でそんなことも思いつかねぇの?という感じに腕を組んで夕陽くんは言った。
「ユウちゃんは、やってたけど」
「え、ユウちゃん?」
「今日俺ん家来て「ありがとう」って手紙くれた」
夕陽くんは、ポケットからくしゃくしゃの紙を取り出すと、そこには確かにユウちゃんの汚い字が書かれていた。
「えっ、ユウちゃん夕陽くんの家に行ってたの!?」
「そうだよ、女は逃げるし最悪だわ。しかも、なんだよ「ありがとう」って、……俺が悪者みてぇじゃん」
「オレのことはいーでしょ!」
桜介先輩の方を見ると、キョトンとした顔で僕らの方を見ていた。夕陽くんが、自分のカバンの中からペンケースを取り出すと桜介先輩に渡す。
「紙は……あ、ちょうど授業の残りがあるじゃん」
一番前の机に置かれていた、何も書かれていない楽譜のプリントを桜介先輩に渡すと、彼はおずおずとそれを受け取った。
「……でも、」
「今更、何ためらってんだよ、コイツなんか俺のこと好きって叫んでたぞ、しかも俺の前で、それに比べたらラブレターくらいなんてことないって」
「そうだよね、僕がんばってみるよ」
それから桜介先輩は悩みに悩んで、ラブレターを書き上げた。
「たった二文字を伝えるだけなのに、こんなに悩むなんて思いもしなかったなあ。ふふ、でも、書いて良かった」
「しかし、なんか意外だったな。不気味な曲って言ってたから、もっと悪い幽霊だと思ってたわ」
「不気味な曲?」
桜介先輩は不思議そうに聞く。僕も不思議だった。だって桜介先輩が弾いていた曲は、普通のクラシックの曲だった。
「なんか低くい曲だってよ」
桜介先輩は何か考える素振りをした後に、ピアノに手を置いた。
「それって、こんなの?」
タンタンタンタ、タンタンタンタと、同じようなリズムが繰り返されたり、ダーン、と短く切りような音が聞こえてきたりする。確かに曲にしては変だ。
「確かそんな感じ」
「セコンドだ」
「セコンド?」
「上のパートのことをプリモ、下のパートのことをセコンドって言うんだ。合唱の方が授業でやるしイメージつきやすいかな、ソプラノとアルトみたいな感じで、曲によるけど主に主旋律を弾くパートと、土台のような役割を持つパートで分かれるんだ。きっと皆んなが聞いたのは、セコンドじゃないのかな」
っていうことは、つまり……
「音楽室の桜介先輩は二人いた」
桜介先輩も、夕陽くんも、目を丸くして僕の方を見てきた。ユウちゃんだけは、途中で寝ちゃったらしく僕に寄りかかるように、スウスウと寝息を立てていた。
「え?僕は一人だよ」
「そう、ですよね。……でも、僕が聴かせてもらったピアノと全然違うし、それに変なんです」
「変?」
「裏切った友達に恨みを募らせながら、新しい友達を探しているって、変じゃないですか」
「僕、彼のこと恨んでないよ、友達だって、先生に言われるまま適当な部活は作ったけれど、新しい友達が欲しいわけじゃなかった」
「ほら!この噂、先輩の想いが全くないんです」
「怪談話なんて、そうじゃないか」
「そうなのかもしれない。でも、なんていうか、やたらと容姿が詳しいというか、桜介先輩を知っている人が作った話な気がするんだ」
んーと三人で首を捻りながら、悩み続ける。
「あーくそ!こんなことなら楓先生にもっと詳しく聞いとくんだった!」
「……え?今、なんて」
「楓先生にもっと、詳しく?」
先輩は、また目に涙を溜めて「そっか」と呟いた。もう一度「そっかあ」と呟くと、散々悩んで書いたラブレターをくしゃりとつぶして、新しく一枚、取った。
「ねぇ、二人とも、僕の最期のお願い聞いてくれる?」
僕らが頷くと窓の外から光が差し込み、教室の中がいつもの姿に戻った。
*
寝不足の体で体育はかなりキツく、少し走っただけでもヘトヘトになってしまう。そんな様子に気付いた楓先生がすぐに「休んでて良いぞ」と声を掛けてくれたので僕は遠慮なく、体育館の端に座って見学していた。僕の代わりにユウちゃんがバスケに参加している。ユウちゃんは元気よくボールを追いかけてコートを走り回っていた。羨ましい。ビィーとブザーが鳴ると、楓先生が「ちょっと早いけど、おわるぞー」と大きな声で言うと授業が終わる。皆んながおしゃべりをしながら帰っていく中、僕は逆方向へ歩いて行く。
「先生、放課後、第二音楽室に来てくれませんか」
四つ折りの五線譜が透けて見える紙を先生に渡すと、何かを察したように頭の後ろをポリポリと掻いている。
「悪いんだけど、生徒からこういうのは受け取れない」
「僕からじゃないです。……ここの生徒だけど、今在学している人ではないです」
「どういうことだ?」
「かえちゃん、僕の最期に時間をください。桜介先輩からの伝言です」
ちょうどそのとき、授業が終わるチャイムが鳴り響いた。僕はお辞儀をして先生の元から去って行った。
あの手紙になんて書いてあったかは分からない。短く「好き」と長く悩んで書いた手紙をぐしゃぐしゃに丸めて、新しくどんな言葉を書き直したんだろうか。最期に、僕らがお願いされたのは一つ。
放課後。先生はきちんと、音楽室まで来てくれた。僕の隣に、夕陽くんもいることに驚いた顔をしてみせたが、すぐにキョロキョロと顔を動かすと、僕に向かって「桜介はいるのか」と聞いた。桜介先輩はピアノの前に座っている。彼は切なそうに笑うと「かえちゃん、大人になってる」と言った。
「はい。桜介先輩はピアノの前に座っています」
夕陽くんが用意してくれた二人分の椅子。先生は見えなくても桜介先輩がどっちに座っているのか分かるようで、すぐに隣に座ると「桜介」と「桜介、ごめん」と何度も名前を呼びながら謝っていた。
「音楽室の桜介先輩の話、作ったのは先生ですね。そして貴方がここでピアノを弾いていた」
「……あぁ」
「桜介先輩は、どうしても分からないって言ってました。裏切ったというのは、どういうことか教えてくれませんか」
「ずっと一緒にいるって約束したんだ。ずっと、何があっても、守るって……なのに、守れなかった。俺といるせいで変な噂が流れて、アイツを苦しめた」
桜介先輩は下を向いて俯いたあと、顔をあげて無理に作った笑顔で「バカだなあ」と呟いた。
「そんなことないよ。僕はかえちゃんと一緒にいて楽しかった。あとは手紙に書いた通り、僕のことはもう気にしないで、生きて欲しい」
「先生、桜介先輩は、そんなことないって、先生と一緒にいて楽しかったって言っています。あとは手紙に書いた通り……「できるわけないだろ!桜介を忘れて生きるなんて出来るわけない。ずっと、ずっと一緒に生きてきたかった。大人になって、酒とか飲んだりして、そうやってずっと、一緒にいたかった。なのにあの日それが全部奪われた。俺が音楽室に行ったから。桜介の居場所を奪ったんだ。ごめん桜介。でも忘れたくないんだ。俺の大切な……友達、だから」
「かえちゃんのせいじゃないよ。奪われてなんかもない。僕もずっと一緒にいたかった。でも、僕はどうしたって、……もう、一緒にはいられないから」
涙交じりに届かない言葉を伝え合う。そんな切ない空気を裂くように、ユウちゃんはピアノの上に乗って二人の前に立った。
「変なの!二人とも、へーんなの!自分のことは忘れて欲しいのに、自分は忘れるの嫌だって」
「自分のことは忘れて欲しいのに、自分は忘れるのが嫌?どういうこと?」
桜介先輩も、先生も二人してキョトンとした顔で僕を見ている。
「だって、怪談話では「新しい友達を探している」ってあったでしょ、自分じゃなくて新しい友達を作ってもらおうとしている。桜介先輩も、かえちゃんは何も悪くないから僕のことは忘れて生きて欲しいって書いてたけど、手紙の最後に、僕は君のことをずっと忘れないって書いてた」
「ユウちゃん、桜介先輩の手紙読んだの!?」
「ユウちゃん?」
先生が不思議そうに聞き返すと、ずっと黙って見ていた夕陽くんが、面倒くさそうに、はあと溜息を吐いた。
「えぇと、ユウちゃんっていうのは……「あぁ、日色に憑いてるとかいう女の生き霊か」「なんでだよ」
女子達が噂をしていたと先生は言っていた。
「桜介先輩にはユウちゃんの聞こえるけど、二人にはサッパリだよね」
僕はユウちゃんが話したことを話すと、先生は気まずそうにしていた。桜介先輩も同じように俯いている。
「俺じゃダメだと思ったから」
「僕じゃ苦しめるから」
二人は同時に言った。
「もう面倒くさいなあ!素直になっちゃば良いのに!」
「ユウちゃんが、素直になっちゃえば良いのにって言ってます」
「素直……」
桜介先輩は手の平を力を込めて握りしめると、意を決したように楓先生の方を向いて言った。
「かえちゃん……!僕のこと忘れないで、ずっとじゃなくていい、たまに思い出してくれるだけでいいんだ。でも、一つだけ独り占めさせて。ベートーヴェン、ピアノソナタ、第八番、悲壮、かえちゃんがこの曲を聴いた時、思い浮かべるのは僕とのあの想い出がいい。一番にそれを想い出して欲しい」
「桜介、すまない。忘れたくない、ずっと覚えていたいんだ。例えもう会う事が出来なくても、なによりも大切だから、ずっと覚えておきたい。ベートーヴェン、ピアノソナタ、第八番、悲壮。この曲を聴くと、一番最初に一緒にピアノを弾いたことを思い出す。大切な思い出を、ずっと大切にさせて欲しい」
楓先生に桜介先輩の言葉を伝え終わると、二人は顔を見合わせて笑い合った。僕の目にはそう見えているのに、先生には桜介先輩が見えていないのがもどかしい。
「楓先生、桜介先輩の最期のお願いは、悲壮を二人で弾くことだそうです、最期のお願い、聞いてくれますか」
「待ってその前に、かえちゃんに聞きたいことがあるんたけど……どうして体育の先生になったの?」
僕が楓先生にその質問をすると、言い辛そうに「俺、本当はピアノより体動かしてる方が合ってんだよ。親もピアノを習わせると文武両道になるとか言われて習わせていたらしい。ピアノじゃなくて桜介に会いに行ってたんだ」と言った。それを聞いた桜介先輩はクスクスと笑っていた。
そして最期の時間がやってくる。最初に、桜介先輩がピアノを弾いていくと、後から楓先生が合わせて入る。二人が一緒に弾くと音が多彩に聞こえて、ゆったりとした切なさを感じた曲なのに、不思議と楽しそうな音に聞こえてきた。楓先生には見えていないはずなのに、二人は顔を見合わせて笑っているように見える。最後の音が余韻を残している中、桜介先輩が光に包まれた。
「かえちゃん、ありがとう」
そう笑うと光の粒と共に、桜介先輩は空に向かって消えて行った。
「桜介は行ってしまったんだな」
「はい」
「そうか、そうか……、」
先生は俯きながら鍵盤に涙を落とす。その様子に、夕陽くんが「一人にしてやれ」と僕らを連れて教室の外へ出た。
「本当の悪霊になる前に、一緒にピアノが弾けてよかったね」
「あんなに強いんだもん、無事成仏してくれて良かったー」
「……なあ、死んだ人と、生きてる奴は繋がっていられるのか。……まだ、大切にしていいのか」
夕陽くんが立ち止まって小さな声で何かを呟いた。聞き返そうとすると、ユウちゃんが大きな声で「お腹すいたー!」と言った。どうやら彼の声は全く聞こえてなかったらしい。
「お昼いっぱい食べたのに?」
「ユウちゃん、お腹空いたって?」
「うん、そうみたい」
「この後俺ん家来いよ、ついでに、なんか買って帰ろうぜ。あっでも、勝手に帰ったら許さねぇからな」
「ちょっと、待ってよ」
先に行ってしまう二人を急いで追いかけるが、途中で人にぶつかってしまった。水道で筆を洗っていた美術部の子で、ぶつかった拍子に筆が散らばってしまい謝りながら拾う。その間に、二人はどんどん先に行ってしまった。
「ユウちゃん、そこにいんの」
「……」
「ねぇ、ユウちゃんは何でアイツを幽霊にすんの」
「……」
「ユウちゃんは、何がしたいの……まあ、答えてくれても分かんねぇんだけどな」
「……オレはただ、紬凪のヒーローでいたいだけだよ」
その声は誰にも聞こえることなく、消えて行った。
「知ってるよ。桜介先輩でしょ。」
「裏切られた友人への恨みを募らせて、代わりの友達を探すためにピアノを弾いてるんだっけ。確か、そのピアノを弾いている姿を見たものは、一緒にあの世まで連れて行かれちゃうだよね。」
噂話をしている女子生徒達がちょうど第二音楽室の前を通ると、低い、不気味なピアノの音色が聞こえてきた。キャーと叫び声を上げるのと同時、教室のドアが開く。
「なんだ、楓先生じゃん」
「体育の先生なのに、なんでこんな所にいんの」
「ピアノの音が聞こえたから来てみたんだが、誰もいないみたいで困ってるんだよ。ここに来るまでに誰か会わなかったか」
そう聞かれると、女子生徒達は顔を真っ青にして走って逃げて行った。
*
夜の学校へ忍び込むために、ユウちゃんが考えた案はこうだった。
先生たちが帰るまで神社で待機し、幽霊になって学校へ侵入。ベートーヴェンの絵を確認して、またすぐ神社に帰る。という単純なものだった。
神社というのは高校の向かい側にある小さな神社のことで、昔からユウちゃんと一緒に来ていた。ちょうど鳥居を境に結界が張られているらしく、悪霊は入って来られない。ユウちゃんはよく「オレじゃ勝てない時は、神社に逃げて」と何度も言っていた。夜でも神社に居れば安心だから、家には帰らず神社を拠点にするという事らしい。今日もここで二人で過ごすと思っていたんだけれど……。
「オレ、用があるから紬凪はここで待ってて!夜になったら鳥居の前に集合ね!あっでも、オレが来るまで絶対に神社から出ちゃダメだよ」
僕を神社の前まで送り届けたユウちゃんは、そう言って一気に空へ飛んで行った。
「えぇー!?」
用事ってなんだろう。ユウちゃんが隣にいないなんて、出会ってからほとんどなかったのに。空を眺めながら考えていると後ろから声を掛けられた。
「おや、いらっしゃい」
そこには優しい顔をした神社のおじさんがいた。今日は作業服を着て箒を持っているから、掃除をしていたようだ。
「今日はあの坊やは一緒じゃないのかい?」
「はい、用事があるとかで」
「そうかい」
箒で落ち葉を集めると「ゆっくりしておいき」と言って神社の中へ入っていった。あの人は僕と同じように幽霊が見えるらしい。初めて会った時もユウちゃんの事をしっかり見えていて、さっきみたいなたわいのない話をした。僕たちを追い出しはしないけれど、必要以上には関わってこない。何度も顔を合わせているけれど話すことは挨拶くらいだった。
日がすっかりと沈み月が綺麗に見えるようになると、さすがに先生達も帰っただろうと神社の階段を下りて行く。鳥居まで来ると、ユウちゃんは外で待っていた。
「遅い!」
「待たせてごめんね、というかユウちゃんも神社の中で待てばよかったでしょ」
「今来たんだもん」
「じゃお互い様でしょー」
言い合いながら話しているけれど、さっきまでの緊張が和らいでいく。本当は一人で待っている時は不安で心細かった。
「じゃ幽霊にするからね」
ユウちゃんが僕に向かって指をパチンと弾くと体が透けて行き、幽霊の姿になる。
「いい?ここからは立ち止まっちゃダメだからね。とにかく上に、上に逃げるんだよ」
「うん。ありがとうユウちゃん」
「大丈夫、ヒーローが守るからね」
ユウちゃんが自分の胸をドンっと叩きながら言ってくれると頼もしさでいっぱいになる。鳥居の外へ出た瞬間、ユウちゃんがすぐに僕の腕を引っ張って上へ高く飛び上がった。どんどん早く、スピードを上げて飛んでいく。その直後、地面から次々に悪霊がまるで植物が急成長していくかのように次々と出てきた。
「後ろを見ちゃダメだよ。学校に入ったらもっと気を付けて。とにかく、早く音楽室へ行って、すぐに出るよ!」
僕らはすぐに学校へ着くと、壁をすり抜けて中へ入っていった。
夜の学校というのは静かで、小さな音ですら怖いんだと思っていた。実際は……通り過ぎた後から、床や壁、至る所からドロドロした悪霊達が呻き声をあげて出てくる。数が多いせいか一体となって、まるで大きな地鳴りのように頭にガンガンと響いて聞こえて来る。
「んもお、うるさいなあ!てか、音楽室どこ!」
「音楽室は第二校舎の!四階の一番端!」
「なんで!そんなに遠いの!?」
悪霊に負けないように大きな声で会話をしながら、全速力で走るように速度をどんどん上げて校舎の中を走り回る。ふと、まるでカエルように長い足をした悪霊が、僕らとすぐ横にいることに気付いた。しまった、これはヤバいかも……。ユウちゃんは僕の手を握る力を強めた。
「今は何も気にしちゃダメ!とにかく!走って!」
「そうだユウちゃん、上に行こう!高く!」
何度も言われた言葉を叫ぶと、一気に方向転換をして上に飛び上がった。ちょうどさっきまでいた場所に悪霊が飛び掛かっていて、間一髪のところで避けられたようだった。音楽室がある四階に着くと、勢いあまって二人して転んでしまう。その拍子に手も離れて、バラバラになってしまった。
「紬凪!」
ユウちゃんが必死に手を伸ばしてくれるのが見える。僕も必死に手を伸ばそうとするが、辺りが急に暗闇に包まれて何も見えなくなってしまった。
「ユウちゃん!ユウちゃん!どこ?」
辺りを見渡すけれど、真っ暗で何も見えない。前も、後ろも、音楽室がどこにあるのかも、あれだけうるさかった悪霊の声すらも聞こえなくなった。
「ユウちゃん……」
その時、ターン、タン、ターン、ターン、と聞いた事があるような曲が聞こえて来た。ピアノの音だ。次第に音は多彩になって行く。もしかしたら音楽室があるかもしれない。その音を頼りに真っ暗な空間を歩いて行くと、扉が見えたから迷わず開けた。
光が差し込んで中の様子が分かると、そこにはピアノを弾いている一人の男子学生がいた。彼はしばらくピアノを弾き続けていたが、僕に気がつくと不思議そうな顔をして手を止める。
「どうしたの?青いネクタイ……一年生だね。迷子?それとも、もしかして入部希望者かな」
赤いネクタイを付けたその人は、おかっぱ頭のサラサラとした髪を耳に掛けながら、ニコッと笑って僕を見る。彼の後ろに見える窓を見ると、満開の桜が揺れていた。
「迷子、……です。その、先輩は、」
「迷子かぁー残念。僕は桜介。桜介先輩とでも呼んでよ」
「桜介、先輩」
うちの学校は、学年毎にネクタイの色が異なっている。一年生は黄色、二年生は青、三年生は赤。今の色と、この人が言った色はズレている。きっとこの人の時間は止まってしまったのだ。ずっと、桜の花が咲く時期を過ごしている。幽霊は、さっきまで追いかけられていたような恐ろしいものだけじゃない。こんな風に生前とほぼ変わらない姿で、……自分が死んでしまったことに気付かずに、この世に留まっている人も多い。そんな人達はある日、何か重荷が取れたように急に成仏する事もあれば、自覚して未練をやり遂げてから成仏する人もいるらしい。そして、未練を残し成仏できないままでいると悪霊に変わってしまって、この世に留まり続けるそうだ。全部、ユウちゃんが教えてくれたことだった。きっと彼も何か心残りがあってここに居続けている。
「ここは、何部なんですか?」
「んー?音楽たのしもう同好会とかかな」
「先輩が作ったんですか」
「……まあ、そうだね、先生に勧められたんだ」
音楽を楽しく出来たら、先輩は満足して悪霊になる前に成仏することが出来るのだろうか。
「迷子って言ってたよね、君はどこに行くつもりだったの」
「僕は、ベートーヴェンの絵が動くのかどうか見たくて、」
「アハハ、こんな真昼間から肝試しをしてるの?残念、ほらベートーヴェンも他の肖像画も動かないよ」
「本当だ」
先輩は肖像画を指さしながら言う。動かないとだろうと思っていても、本当は怖かったから安心した。ホッとして息を吐くと、桜介先輩は心配そうに顔を覗いてきた。
「クラスで馴染めてないのかな?」
「え!?」
どうして見抜けるの。馴染めていないどころか、クラスで友達が出来た経験もない。ユウちゃんだけ。
「意地悪な子に言われたん来たんじゃないの。ここ幽霊出るって噂あるし」
「ゆ、幽霊、出るんですか?」
「僕なんだけどね」
「えぇ!?」
まさか自覚があるとは思わなかった。彼はまた大きな声で笑うと「違うよ」と言った。
「僕いつもここで、ピアノ弾いてるんだ。そのせいで勘違いされちゃっているみたいでさ」
彼はピアノの前に座ると、もう一度、さっき聞こえて来たメロディを弾く。
「知ってる?ベートーヴェン、ピアノ・ソナタ、第八番、悲壮」
先輩が弾くピアノの音に目を閉じて耳を傾ける。ゆったりとしたメロディが耳に入っていくる。
「多分、昔のドラマで聴いたことがある気がします。何だか、切ない気持ちになりますね」
彼は返事をする代わりに口角だけをあげると、大きく腕を動かしてその曲を弾き続けた。
「ベートーヴェンは音楽家なのに、耳が聴こえなくなっていったらしいよ、……怖かっただろうな」
「怖い、ですか」
「うん。大切な物を失うのは怖いでしょう?ベートーヴェンにとって音楽は人生の全てだったと思うし」
――ダンっ!
突然、先輩が勢いよく鍵盤を叩きつけた。
「怖い、嫌だ、嫌だ、失いたくない!」
「桜介先輩?」
「……でも、君は要らないよね、だって、嫌なものばかりだもん」
「何を言って、」
「その目のせいで孤独だ。嫌なモノばかり見えて、この世ではヒトリ。カワイソウ。ハヤク、アノヒトノのところニ、カエサナいト」
先輩は立ち上がると、ゆっくりと近寄って来てた。僕の方へ向いている手が、ドロドロと溶けていって形が分からなくなっていく。先輩から目を離さないように、後ろへ下がるが足がもつれて転んでしまった。先輩はどんどん体も溶けていって、ついにさっきまで僕達を追っていたような悪霊の姿に変わってしまった。
「カワイソウ、ハヤク、ツレテイカナイト、アノヒト、マッテル!」
その言葉と同時に、一気に僕の元へ飛びかかって来た。ユウちゃんがいない時に、こんなことするのは怖いけど……!天井まで飛び上がると、そのまま壁を目指して勢いよく飛んでいく。お願いどうか、通り抜けて!目をつぶって思いっきり壁へぶつかって行く。
「うわぁ!」
無事に通り抜ける事ができたようで、隣の教室まで逃げる事ができた。でも誰か人がいて、避けきれずにぶつかってしまう。
「いってぇーな!」
「夕陽くん!?」
僕がびっくりして目を丸くしていると、夕陽くんは罰の悪そうに「違う、ただ、その、」と言うが、どうやら話している余裕はないらしい。またあの地鳴りのような悪霊達の声が聞こえて来た。
「ごめん、後で!今は逃げないと!」
「はあ?」
教室の壁から次々に悪霊達が現れてくる。囲まれた。さっきよりもピンチな状況になってしまった。
「ど、どうしよう!とりあえず!上に逃げよう!」
「はあ?何が見えてんの、てか何でそんな大声なの、ユウちゃんはどうした、上ってなに?俺は幽霊じゃな、あぁ!クソっ!」
夕陽くんはポケット中から、和紙に包まれた塩を取り出すと適当に撒いていく。
「くらえっ!効果あるか知らねぇけど、神社で買ったお清めの塩!どうだ!」
「すごい、目に入って痛そうにしてるよ!」
「お清めの効果か、普通の塩なのか分かんねーな!」
効果は本当にあるようで、何体かは溶けて消えて行った。でも、これ以上彼を危険な目に遭わせるわけにはいかない。
「僕のせいで!この教室に悪霊が!いっぱい!だから、夕陽くん、逃げて!」
「ふざけんな!逃げるわけないだろ!」
「でも」
その時、夕陽くんの後ろに、悪霊が飛びかかろうとしているのが見えた。どうしよう、でも、僕じゃ間に合わない……!
「ユーーウちゃーーん!助けてぇ!」
「はあーい!」
音楽室とは反対側の壁からユウちゃんは現れた。猛スピードで腕を突き出した格好のまま、彼の後ろにいた悪霊を攻撃をすると、こっちも溶けて消えていった。
「ユウちゃん!ありがとう!」
「へへん、オレはヒーローだからね。どんなもんだい!」
ずっと探してくれていたのだろう。いつもの白い布は、少し汚れていた。
「ユウちゃん、ありがとう」
僕はもう一度、お礼を言った。
「おい、ユウちゃんもそこにいんのか!」
「今、合流したよ!」
「よし、もう良いから、帰るぞ」
「ダメ!」
二人とも僕の方を見ながら「なんで」「ダメ」と見えていないはずなのにテンポ良く言う。
「桜介先輩を放っておけない」
「もう、桜介先輩って誰!?」
「……うちの学校の怪談話か」
「怪談話?」
息を切らしながら夕陽くんは続ける。
「音楽室の桜介先輩。これは楓先生から聞いた話なんだが、ほらよくある誰もいない音楽室でピアノが聴こえてくるってやつあるじゃん。あれの派生版で、桜介 先輩っていうおかっぱ頭の美少年が、裏切った友人への恨みを募らせながら、ピアノを弾いてるって」
さっき話した桜介先輩を思い出してみるけれど、なんだか違う気がする。それに友達へ恨みを募らせながら、ピアノを弾くってどういうことだろう。
「それで、新しい友達を探しているらしいぞ。あの世まで一緒に連れて行こうとしてんだとよ」
どうして恨んでいて、別の子を探しているんだろう。その子を捕まえて地獄に落とす方がしっくりくる。
――バンっ!
その時、音楽室がある方の壁から、大きな叩くような音が聞こえてきた。何度も、何度も、手のひらで叩くように、バンバンと音が続いていくと、教室の端から徐々にさっきのような暗闇に包まれていく。ユウちゃんはすぐ僕にピッタリとくっついた。僕に抱きついているようになっているが、守ってくれているのが分かる。僕も彼を守りたくて抱きしめ返した。
「なん、だよこれ、急に暗く、」
僕達を庇うように夕陽くんが前へ出る。
「夕陽くん、見えてるの?」
「わかんねぇ、でも暗くなってんのと、バンバンって何か叩く音は聞こえてくる」
「普通の人にも分かるくらい、強い霊って事だよ。――来る!」
ドンっと大きな音が教室中に響いたのと同時に、壁がボロボロと崩れて落ちていった。その間から大きな泥のような塊が見える。背中から何本もの手が生えている霊――桜介先輩だ。その手はずっと、まるでピアノを弾いているように動いている。
「桜介先輩!」
「カワイソウ、ソノメ、イラナイ」
ピアノを弾いている一番大きな手が僕を目掛けて、まるで上から叩きつけるように振り下ろされてきた。やばい、あんなのが当たったら、もう一発で終わりだ。
「夕陽くん!上から攻撃される、逃げて!」
ユウちゃんは僕を押して、滑り込むように僕ごと横へ避けた。
「無理だって!」
逃げ遅れた夕陽くんが上に向かって塩を撒くと、迫って来ていた手に当たった。一瞬だけ動きが止まってその隙に横へ逃げたが、他の悪霊達とは違ってそう簡単にはいかないらしい。どうしよう、考えないと。どうして桜介先輩はピアノを弾いているの?どうして、友達を恨んでいるの?どうして、新しい友達を探している?
――大切なモノを失うのは怖いでしょう?
僕と桜介先輩の大切なモノは違うかもしれない。でも……!
「桜介先輩ぃ!僕、好きな人がいるんです!」
桜介先輩の前へ行き、そう叫んだ。何か分かった訳じゃないけれど、分からない時は話し合うべきだと思ったから。
「はあ?」「え?」
「あそこにいる、カッコいい人が、僕の好きな人です!」
「はああ?」「えぇぇ?」
二人の気が抜けたような声が聞こえるが、構わず僕は続ける。
「一目惚れしたんです。僕に笑って話しかけてきてくれた人も、手を差し伸べてくれた人も、他にはいなかった。そんなことをしてくれた人が、こんなにカッコいい人だったんですよ!好きにならない方がおかしいです!ずっと心臓がバクバクで止まらなって、話すようになってから、もっと素敵な部分を知って、もっと好きになって、僕いまもう苦しくって、嬉しくて、おかしくなっちゃいそうなんです!」
桜介先輩は動くのをピタリと止めた。僕の話を聞いてくれているみたいだ。
「先輩の言う通り、この目のせいで僕は嫌な思いをしてきたし、両親にだって辛い思いをさせてしまって、そんな自分が嫌でした。でも、この目があったからこそ、かけがえのない友達に会えて、好きな人にも出会えました。悪いことばかりじゃないんです。だから、僕は大丈夫です」
さっき音楽室で会った時のことを思い出す。
「先輩は優しい人ですよね、僕のことを最初から心配してくれました。……僕は大丈夫。次は、先輩の話を聞かせてください。辛いこと、悲しいこと、怒っていること、何でも教えてください」
その瞬間、パアアアと教室中が光に包み込まれて、桜介先輩は元の姿を取り戻していく。窓の外には、桜の花が風に揺れていた。
「すごいな、君は。……好きな人のこと、好きって言えて、すごいなあ……」
人間の姿に戻った桜介先輩は、涙を堪えるように笑っていた。
音楽室に移動してきた僕らは、ピアノの周りに集まった。ユウちゃんは、相変わらず僕に抱きついていて、横には夕陽くんが肩が触れ合うくらいの距離にいる。桜介先輩は窓の外を見て、ふっと息を吐いた後に口をゆっくりと開いた。
「じゃぁ、僕も恋バナをしようかな。僕の好きな人もね、君と同じように男の人だったんだ」
――彼と初めて会ったのは、幼稚園生の頃。
僕と彼は同じピアノの教室に通っていたんだ。僕たちが仲良くなるのには、そう時間が掛からなかった。難しい曲が弾けるようになると、二人で弾ける連弾の楽譜を探しては、ピアノの教室がない時でも一緒に遊んで弾いていた。小、中と違う学校に通っていた僕らは、高校は一緒のところに行こうと約束していたんだ。見事に二人で同じ学校に合格して、ずっと一緒にいられると思っていた。でも、……実際の高校生活は思い描いていたものとは違ったものだった。
入学してしばらく経った頃かな、僕たちのことを気持ち悪いって言う子が出てきたんだ。気持ち悪い、男同士で付き合っているって、あることないこと色んな噂が出回った。彼はちゃんと否定して、からかってくる子に怒ることが出来たけれど、僕はそうじゃなかった。元々、そういうことが苦手だったっていうのもあったけれど、僕の気持ちは、本当だったから。いつ好きになったか分からないくらい、自然と彼のことを好きになっていた。初めての気持ちにこれがなんなのか分からなくて気付くのが遅くなったけれど、初恋だった。一緒にピアノを弾く時間が、楽しくて、何よりも幸せだった。
……でも、こんな気持ち、持っちゃいけなかったんだ。気持ち悪いものなんだって、彼に、迷惑かけちゃうんだって、思い知ったんだ。彼は変わらず話しかけてくれようとしたけれど、僕は彼を避けた。そうするのが正しいと思ったから。友達でいられないのに、一緒にいることも出来なかった。
教室にも行けなくなって来た頃、噂のことを気にした先生が音楽室の鍵を貸してくれたんだ。「気にすんな」「嘘ばっかり広まって辛いよな」「無理しなくて良いから」「なんでも相談して欲しい」先生はそんな優しい言葉をかけてくれたけれど、全部、本当のことだったから、申し訳なかった。
ピアノだけ。ここでピアノを弾いている時が一番、安心した。なのに、ある日片方の耳が聞こえなくなった。怖かった。片方聞こえなくなるだけで、音が全然違う。ピアノまで失ってしまえば、僕はどう生きていったら良いのか分からない!
そんな時だった。楽譜を持った彼が、音楽室に来たのは。
表紙がボロボロになった、ベートーヴェン、ピアノ・ソナタ、第八番、悲壮の楽譜を持っていた。悲壮は僕らが初めて一緒に弾いた曲だった。当時見ていたドラマの挿入歌に使われていて、僕らは少し背伸びをして、一緒に練習をしたんだ。あの時間はきっと彼にとっても楽しい想い出として輝いていたんだろう。
「これ一緒に弾こ?」
いつものように僕の大好きな笑顔でそう言ってくれた。嬉しかった。今すぐにでも、うんって言っていつものように並んで、初めて弾いた時と同じようにピアノを弾きたかった。僕の気持ちが変わってしまった。それに片方の耳が聞こえない僕は、怖かった。彼に合わせて上手く弾けないだろうということも、彼の隣にいて胸がどれだけ高鳴るのか、きちんと知れないことも、この気持ちが彼に気付かれてしまうことも、怖かった。彼を押し退けて音楽室から出ると、僕は走った。どこへまでも逃げるように、走った。
学校の裏門から、先生達の目を盗んで、走って、走って、……片方の耳が聞こえないせいで、気付くのが遅れてしまった。
気付いた時には、目の前に車が迫っていた。
「そっか、僕はもう、死んでしまったんだね」
桜介先輩はボロボロと涙を流しながらそう言った。
「後悔ばかりだ、どうせ死んじゃうなら、下手くそでも、ピアノ、一緒に弾けば良かった……!好きって、言えば良かった……!」
僕は嗚咽混じりに泣いている桜介先輩の背中を撫でた。
「今からでも、遅くないんじゃねぇの、幽霊でも、紙に書いて「好きです」って渡せばいいじゃん」
何でそんなことも思いつかねぇの?という感じに腕を組んで夕陽くんは言った。
「ユウちゃんは、やってたけど」
「え、ユウちゃん?」
「今日俺ん家来て「ありがとう」って手紙くれた」
夕陽くんは、ポケットからくしゃくしゃの紙を取り出すと、そこには確かにユウちゃんの汚い字が書かれていた。
「えっ、ユウちゃん夕陽くんの家に行ってたの!?」
「そうだよ、女は逃げるし最悪だわ。しかも、なんだよ「ありがとう」って、……俺が悪者みてぇじゃん」
「オレのことはいーでしょ!」
桜介先輩の方を見ると、キョトンとした顔で僕らの方を見ていた。夕陽くんが、自分のカバンの中からペンケースを取り出すと桜介先輩に渡す。
「紙は……あ、ちょうど授業の残りがあるじゃん」
一番前の机に置かれていた、何も書かれていない楽譜のプリントを桜介先輩に渡すと、彼はおずおずとそれを受け取った。
「……でも、」
「今更、何ためらってんだよ、コイツなんか俺のこと好きって叫んでたぞ、しかも俺の前で、それに比べたらラブレターくらいなんてことないって」
「そうだよね、僕がんばってみるよ」
それから桜介先輩は悩みに悩んで、ラブレターを書き上げた。
「たった二文字を伝えるだけなのに、こんなに悩むなんて思いもしなかったなあ。ふふ、でも、書いて良かった」
「しかし、なんか意外だったな。不気味な曲って言ってたから、もっと悪い幽霊だと思ってたわ」
「不気味な曲?」
桜介先輩は不思議そうに聞く。僕も不思議だった。だって桜介先輩が弾いていた曲は、普通のクラシックの曲だった。
「なんか低くい曲だってよ」
桜介先輩は何か考える素振りをした後に、ピアノに手を置いた。
「それって、こんなの?」
タンタンタンタ、タンタンタンタと、同じようなリズムが繰り返されたり、ダーン、と短く切りような音が聞こえてきたりする。確かに曲にしては変だ。
「確かそんな感じ」
「セコンドだ」
「セコンド?」
「上のパートのことをプリモ、下のパートのことをセコンドって言うんだ。合唱の方が授業でやるしイメージつきやすいかな、ソプラノとアルトみたいな感じで、曲によるけど主に主旋律を弾くパートと、土台のような役割を持つパートで分かれるんだ。きっと皆んなが聞いたのは、セコンドじゃないのかな」
っていうことは、つまり……
「音楽室の桜介先輩は二人いた」
桜介先輩も、夕陽くんも、目を丸くして僕の方を見てきた。ユウちゃんだけは、途中で寝ちゃったらしく僕に寄りかかるように、スウスウと寝息を立てていた。
「え?僕は一人だよ」
「そう、ですよね。……でも、僕が聴かせてもらったピアノと全然違うし、それに変なんです」
「変?」
「裏切った友達に恨みを募らせながら、新しい友達を探しているって、変じゃないですか」
「僕、彼のこと恨んでないよ、友達だって、先生に言われるまま適当な部活は作ったけれど、新しい友達が欲しいわけじゃなかった」
「ほら!この噂、先輩の想いが全くないんです」
「怪談話なんて、そうじゃないか」
「そうなのかもしれない。でも、なんていうか、やたらと容姿が詳しいというか、桜介先輩を知っている人が作った話な気がするんだ」
んーと三人で首を捻りながら、悩み続ける。
「あーくそ!こんなことなら楓先生にもっと詳しく聞いとくんだった!」
「……え?今、なんて」
「楓先生にもっと、詳しく?」
先輩は、また目に涙を溜めて「そっか」と呟いた。もう一度「そっかあ」と呟くと、散々悩んで書いたラブレターをくしゃりとつぶして、新しく一枚、取った。
「ねぇ、二人とも、僕の最期のお願い聞いてくれる?」
僕らが頷くと窓の外から光が差し込み、教室の中がいつもの姿に戻った。
*
寝不足の体で体育はかなりキツく、少し走っただけでもヘトヘトになってしまう。そんな様子に気付いた楓先生がすぐに「休んでて良いぞ」と声を掛けてくれたので僕は遠慮なく、体育館の端に座って見学していた。僕の代わりにユウちゃんがバスケに参加している。ユウちゃんは元気よくボールを追いかけてコートを走り回っていた。羨ましい。ビィーとブザーが鳴ると、楓先生が「ちょっと早いけど、おわるぞー」と大きな声で言うと授業が終わる。皆んながおしゃべりをしながら帰っていく中、僕は逆方向へ歩いて行く。
「先生、放課後、第二音楽室に来てくれませんか」
四つ折りの五線譜が透けて見える紙を先生に渡すと、何かを察したように頭の後ろをポリポリと掻いている。
「悪いんだけど、生徒からこういうのは受け取れない」
「僕からじゃないです。……ここの生徒だけど、今在学している人ではないです」
「どういうことだ?」
「かえちゃん、僕の最期に時間をください。桜介先輩からの伝言です」
ちょうどそのとき、授業が終わるチャイムが鳴り響いた。僕はお辞儀をして先生の元から去って行った。
あの手紙になんて書いてあったかは分からない。短く「好き」と長く悩んで書いた手紙をぐしゃぐしゃに丸めて、新しくどんな言葉を書き直したんだろうか。最期に、僕らがお願いされたのは一つ。
放課後。先生はきちんと、音楽室まで来てくれた。僕の隣に、夕陽くんもいることに驚いた顔をしてみせたが、すぐにキョロキョロと顔を動かすと、僕に向かって「桜介はいるのか」と聞いた。桜介先輩はピアノの前に座っている。彼は切なそうに笑うと「かえちゃん、大人になってる」と言った。
「はい。桜介先輩はピアノの前に座っています」
夕陽くんが用意してくれた二人分の椅子。先生は見えなくても桜介先輩がどっちに座っているのか分かるようで、すぐに隣に座ると「桜介」と「桜介、ごめん」と何度も名前を呼びながら謝っていた。
「音楽室の桜介先輩の話、作ったのは先生ですね。そして貴方がここでピアノを弾いていた」
「……あぁ」
「桜介先輩は、どうしても分からないって言ってました。裏切ったというのは、どういうことか教えてくれませんか」
「ずっと一緒にいるって約束したんだ。ずっと、何があっても、守るって……なのに、守れなかった。俺といるせいで変な噂が流れて、アイツを苦しめた」
桜介先輩は下を向いて俯いたあと、顔をあげて無理に作った笑顔で「バカだなあ」と呟いた。
「そんなことないよ。僕はかえちゃんと一緒にいて楽しかった。あとは手紙に書いた通り、僕のことはもう気にしないで、生きて欲しい」
「先生、桜介先輩は、そんなことないって、先生と一緒にいて楽しかったって言っています。あとは手紙に書いた通り……「できるわけないだろ!桜介を忘れて生きるなんて出来るわけない。ずっと、ずっと一緒に生きてきたかった。大人になって、酒とか飲んだりして、そうやってずっと、一緒にいたかった。なのにあの日それが全部奪われた。俺が音楽室に行ったから。桜介の居場所を奪ったんだ。ごめん桜介。でも忘れたくないんだ。俺の大切な……友達、だから」
「かえちゃんのせいじゃないよ。奪われてなんかもない。僕もずっと一緒にいたかった。でも、僕はどうしたって、……もう、一緒にはいられないから」
涙交じりに届かない言葉を伝え合う。そんな切ない空気を裂くように、ユウちゃんはピアノの上に乗って二人の前に立った。
「変なの!二人とも、へーんなの!自分のことは忘れて欲しいのに、自分は忘れるの嫌だって」
「自分のことは忘れて欲しいのに、自分は忘れるのが嫌?どういうこと?」
桜介先輩も、先生も二人してキョトンとした顔で僕を見ている。
「だって、怪談話では「新しい友達を探している」ってあったでしょ、自分じゃなくて新しい友達を作ってもらおうとしている。桜介先輩も、かえちゃんは何も悪くないから僕のことは忘れて生きて欲しいって書いてたけど、手紙の最後に、僕は君のことをずっと忘れないって書いてた」
「ユウちゃん、桜介先輩の手紙読んだの!?」
「ユウちゃん?」
先生が不思議そうに聞き返すと、ずっと黙って見ていた夕陽くんが、面倒くさそうに、はあと溜息を吐いた。
「えぇと、ユウちゃんっていうのは……「あぁ、日色に憑いてるとかいう女の生き霊か」「なんでだよ」
女子達が噂をしていたと先生は言っていた。
「桜介先輩にはユウちゃんの聞こえるけど、二人にはサッパリだよね」
僕はユウちゃんが話したことを話すと、先生は気まずそうにしていた。桜介先輩も同じように俯いている。
「俺じゃダメだと思ったから」
「僕じゃ苦しめるから」
二人は同時に言った。
「もう面倒くさいなあ!素直になっちゃば良いのに!」
「ユウちゃんが、素直になっちゃえば良いのにって言ってます」
「素直……」
桜介先輩は手の平を力を込めて握りしめると、意を決したように楓先生の方を向いて言った。
「かえちゃん……!僕のこと忘れないで、ずっとじゃなくていい、たまに思い出してくれるだけでいいんだ。でも、一つだけ独り占めさせて。ベートーヴェン、ピアノソナタ、第八番、悲壮、かえちゃんがこの曲を聴いた時、思い浮かべるのは僕とのあの想い出がいい。一番にそれを想い出して欲しい」
「桜介、すまない。忘れたくない、ずっと覚えていたいんだ。例えもう会う事が出来なくても、なによりも大切だから、ずっと覚えておきたい。ベートーヴェン、ピアノソナタ、第八番、悲壮。この曲を聴くと、一番最初に一緒にピアノを弾いたことを思い出す。大切な思い出を、ずっと大切にさせて欲しい」
楓先生に桜介先輩の言葉を伝え終わると、二人は顔を見合わせて笑い合った。僕の目にはそう見えているのに、先生には桜介先輩が見えていないのがもどかしい。
「楓先生、桜介先輩の最期のお願いは、悲壮を二人で弾くことだそうです、最期のお願い、聞いてくれますか」
「待ってその前に、かえちゃんに聞きたいことがあるんたけど……どうして体育の先生になったの?」
僕が楓先生にその質問をすると、言い辛そうに「俺、本当はピアノより体動かしてる方が合ってんだよ。親もピアノを習わせると文武両道になるとか言われて習わせていたらしい。ピアノじゃなくて桜介に会いに行ってたんだ」と言った。それを聞いた桜介先輩はクスクスと笑っていた。
そして最期の時間がやってくる。最初に、桜介先輩がピアノを弾いていくと、後から楓先生が合わせて入る。二人が一緒に弾くと音が多彩に聞こえて、ゆったりとした切なさを感じた曲なのに、不思議と楽しそうな音に聞こえてきた。楓先生には見えていないはずなのに、二人は顔を見合わせて笑っているように見える。最後の音が余韻を残している中、桜介先輩が光に包まれた。
「かえちゃん、ありがとう」
そう笑うと光の粒と共に、桜介先輩は空に向かって消えて行った。
「桜介は行ってしまったんだな」
「はい」
「そうか、そうか……、」
先生は俯きながら鍵盤に涙を落とす。その様子に、夕陽くんが「一人にしてやれ」と僕らを連れて教室の外へ出た。
「本当の悪霊になる前に、一緒にピアノが弾けてよかったね」
「あんなに強いんだもん、無事成仏してくれて良かったー」
「……なあ、死んだ人と、生きてる奴は繋がっていられるのか。……まだ、大切にしていいのか」
夕陽くんが立ち止まって小さな声で何かを呟いた。聞き返そうとすると、ユウちゃんが大きな声で「お腹すいたー!」と言った。どうやら彼の声は全く聞こえてなかったらしい。
「お昼いっぱい食べたのに?」
「ユウちゃん、お腹空いたって?」
「うん、そうみたい」
「この後俺ん家来いよ、ついでに、なんか買って帰ろうぜ。あっでも、勝手に帰ったら許さねぇからな」
「ちょっと、待ってよ」
先に行ってしまう二人を急いで追いかけるが、途中で人にぶつかってしまった。水道で筆を洗っていた美術部の子で、ぶつかった拍子に筆が散らばってしまい謝りながら拾う。その間に、二人はどんどん先に行ってしまった。
「ユウちゃん、そこにいんの」
「……」
「ねぇ、ユウちゃんは何でアイツを幽霊にすんの」
「……」
「ユウちゃんは、何がしたいの……まあ、答えてくれても分かんねぇんだけどな」
「……オレはただ、紬凪のヒーローでいたいだけだよ」
その声は誰にも聞こえることなく、消えて行った。
