木曜日は、少し憂鬱だ。五、六時間目は苦手な体育だし、僕が後片付けもしなきゃいけない。
「道ノ世、いつも悪いな。終わったら倉庫の鍵、よろしくな」
先生に鍵を渡されると小さく頷く。今日みたいに校庭で授業の日だと、先生は先に職員室へ帰るから一人で片付けなきゃいけない。皆が友達と話しながら教室へ帰っていく中、僕は逆方向を歩いて、ボールがたくさん入ったカゴを体育倉庫まで運ぶ。
――嘘。
本当は一人じゃない。皆には見えないけれど、僕も友達と一緒にいる。
「楓せんせ、いっつも紬凪に頼んでる」
「仕方ないよ、体育委員なんだから」
「休んでる間に、勝手に決められた」
「ユウちゃんは体育好きでしょ。だから良いんだよ」
僕のたった一人の友達、ユウちゃん。彼はオバケだ。よくイラストで描かれるような、目のところが開いている白い布を被ったオバケの姿をしていて、少しそれと違うのは頭に猫の耳みたいな突起が付いている事と、ほっぺにヒゲみたいなのがある事。可愛らしい姿をしたオバケのユウちゃんは、僕の大切な友達だ。
「ねぇ、紬凪。あれはもう良いの?」
「あれって」
「高校生になったら、友達を作って、いろんな行事に参加して、高校生活を満喫するんでしょ。二年生になっても友達いないじゃん」
「去年、全部ユウちゃんとやったから、いいの~」
ユウちゃんは最近ずっとこの話をしている。二年生になってからずっとだ。もう桜も散って葉っぱになっているのに、毎日のように言われ続けて僕はうんざりしている。
「好きな人は?高校生になったら、恋するんでしょ」
「それも、もういいかな」
「もう、紬凪!」
そんな風に言われたって、僕には無理なんだよ。ボールを倉庫の奥にしまうと、すぐに出て鍵を閉める。体育倉庫みたいに暗くて風通りが悪い所には、アレが出て来やすいから気を付けないといけないんだ。
「ユウちゃん、そんなことより今日はアイス買って帰――「紬凪、逃げて」
僕がユウちゃんの方を振り向いた瞬間、地面からドロッとした大きな塊が飛び上がってきた。ソイツは一つだけある大きな目を、ギョッロと動かして僕を見つけると不気味に笑う。しまった、倉庫じゃないからって油断した!僕は転びそうになりながら、必死で足を動かして逃げていく。ただでさえ運動が苦手なのに!体育の後なのに!もう止めてよ!
昔から幽霊といった類の、人ならざるモノが見えた。皆には見えないソレが見える僕には、友達なんて出来たこともない。不気味とか、気持ち悪いとか、たくさん嫌われてきた。そして僕は人だけじゃなくて、どうやら悪霊と呼ばれるモノにも嫌われているらしい。こうやってほぼ毎日のように襲われそうになっている。
「ユウちゃん、きーっく!」
すぐ後ろで、ユウちゃんが悪霊に攻撃する音が聞こえた。僕に追いつきそうだった所を助けてくれたみたいだ。
「ありがとう、ユウちゃん!」
僕はユウちゃんがいなかったら、とっくに悪霊に襲われてダメになっていたかもしれない。初めて会った日から、ユウちゃんはこうやって僕を助けてくれる。友達であり、大切なヒーローでもあった。
足を止めることなく、ひたすら逃げ回る。悪霊と目が合うのが怖くて小さな頃からずっと、目を隠すように伸ばしている前髪も汗でへばりついて邪魔だから耳に掛けた。走る。ひたすら走る。走るんだけど、もう、さすがに、もう限界……。
「あっ」
足がもつれて、地面に倒れ込んでしまった。後ろを振り返ると悪霊が今にも飛びついて来ているが見える。
これはもう、本当にダメかも――
「大丈夫、転んじゃったの?」
低く優しい声が聞こえた。ギュッとつぶっていた目を開けて前を向くと、キリっとしたツリ目のカッコいい人がいた。風で靡いている黒い髪を耳に掛けながら僕に手を伸ばしてくれたので、思わずその手を取ると引っ張り上げられた。ふらついて彼の胸に飛び込んでしまうと、体がピッタリとくっついて、ドク、ドク、と心臓の音が聞こえてくる。これは、僕と、彼、どっちの音だろう。
「トドメの、ユウちゃんちょーっぷ!」
振り向くと、目をバッテンにして情けない声を出している悪霊がいた。どうやらユウちゃんがトドメをさしてくれたみたいで、しばらくすると地面へ溶けていった。ホッとして肩をなで下すが、すぐに彼のことを思い出して慌ててお礼を伝える。
「あ、ありがとうございました」
「足ケガしてるね、絆創膏あるよ」
「す、すみません」
彼は僕に絆創膏を渡してくれた。
「なんで敬語?青のジャージだから二年だよね。俺もだから敬語使わないで良いよ」
ニコッと僕に笑顔をみせて笑ってくれた。その笑顔に見惚れてしまう。思い返せば、こうやって人に笑いかけられたのも、助けてもらったのも、初めてかもしれない。ふいに、彼の手が僕の頬に添えられた。え、えぇ!?なんで。
「やっぱり、可愛い顔してるね。何組の子?名前は?」
「か、かわ!?し、しし、失礼します」
僕は頭を下げて、もうクタクタなのに走って教室まで向かう。可愛いって言われた……!とっくに高鳴るこの鼓動が、走っているせいじゃないって事にも気付いていた。僕は彼に一目惚れをしたんだ。
後ろからユウちゃんが追いかけて、見透かしたように言う。
「紬凪、好きな人ができたんだね」
「ユ、ユウちゃん」
「だいじょーぶ!俺に任せて、あのね」
ユウちゃんは、良いことをひらめいたと人差し指を立てて笑った。
「紬凪も、幽霊になっちゃえばいいんだよ!」
「えぇ!?」
それから数日経った日、僕らは住宅街にいた。初夏と呼ぶのにふさわしい日差しで半袖の人も歩いているのに、制服のジャケットまで着込んだ僕を、誰も気に留めることなく横を過ぎ去っていく。本当に幽霊になっているみたいだ。
「いい?上に、ビューンだよ」
どうして僕はこんな事をしているんだろう。恋とは恐ろしい。いつもなら断っていたかもしれないユウちゃんの提案も、僕はすんなり受け入れて、幽霊にまでなってしまった。
「いい、上に、ビューン、だからね。大丈夫、紬凪なら出来るよ!」
まるで子供が親に言い聞かせるように、言葉ひとつひとつに念を押しながらユウちゃんはもう一度言った。指は上を指している。
いいや、ユウちゃんがここまでしてくれたんだ。頑張らないと。今日まで「ユウちゃんは恋のキューピット」と言いながら、僕のために彼の事を調べてくれたのだ。彼の名前は日色夕陽くん。同じ二年生で五組の子らしい。なんとユウちゃんは彼の家まで調べて、こうして会いにやって来たのだ。逃げずに覚悟を決めて頑張ろう。「よし」と小さな声で気合を入れて、思いっきり地面を蹴って上に飛ぼうとしたけれど、足がない事を思い出した。
「大丈夫!思いっきり行けぇ~!」
その声に合わせて、思いっきり上に高く飛び上がるイメージをした。大丈夫、大丈夫、行ける!次の瞬間、僕は高く飛び上がり二階にあるらしい彼の部屋がある所まで飛んで行った。窓から部屋の中に人影が見える。彼だ!僕は息を吸い込んで思いっきり叫ぶ。
「あ、あ、ああああの!あの時はありがとうございました。そそ、その、恩返しに来まひた」
か、噛んじゃった。恥ずかしくって、顔を真っ赤にさせて目をギュッとつぶる。ところが、なかなか返事は来なくシーンとした空気が流れていた。
「……あのさ、今の状況分かってる?」
「へ?」
ゆっくりと目を開けると、そこには夕陽くんがベッドに女の子を押し倒していて、服に手をかけようとしていた。これって、その、あれだ。だんだん理解していくにつれて、僕の顔はますます赤くなっていく。
「紬凪ぃ、ちゃんと言えた~?」
「だ、だめ!ユウちゃんには、まだ早いです!」
遅れて追いかけて来たユウちゃんの目を隠しながら、今度は僕が子供に言い聞かせるように言った。「オレは子供じゃな~い~!」と手を振り払おうとしているユウちゃんを抑えながら、ダラダラと冷や汗をかいていた。まさか、こんなことになるなんて。早く帰らないと、いや、その前にちゃんと謝って、あぁでも、またいきなり来るとこうなるかも知れないから約束とかして……そんなことをグルグルと頭の中で考えていると、もう一度夕陽くんから声を掛けられた。
「さっきから、一人でなにしてんの」
「一人?ユウちゃんは見えてないの」
「ユウちゃん?」
どうやら彼は、僕のことは見えているのにユウちゃんは見えていないらしい。
「ユウちゃんは……「はぁ、ユウ?誰だよその女」
僕の言葉を遮るように彼女が苛立ったように言うと、夕陽くんは笑顔で「違う、違う」と言い訳をするように言葉を続ける。
「ほら、あそこにいる奴。アイツが恩返しに来たとか、ユウちゃんとか、訳の分かんねぇこと言ってんだよ。青いネクタイだから同じ学年だと思うんだけど、知んない?」
「……誰もいないけど、てかアタシ学年違うし」
そうだっけ?と彼はヘラヘラ笑いながら言うと、もう一度、僕を上から下へじっくりと観察するように見た。
「足、ねぇわ。オバケぽいけど、……なんかモサイし平気っしょ。とりあえずヤろおうぜ」
そう言うと、また彼女の服にまた手をかけ始めたので、僕は慌ててユウちゃんを抱えて帰ろうとした。その時、
――バシッ!
痛そうな音がして振り返ると、どうやら彼女さんが平手打ちをしたみたいで、彼は左頬を真っ赤にして押さえていた。
「いってぇな!」
「ふざけんなよ、マジで。オバケとか無理なんだけど」
「はぁ?知らねえし、てか、叩く必要なくね」
「お前が進めようとするからだろ!」
目の前で繰り広げられるケンカに僕はどうすれば良いのか分からず、あの、落ち着いて、ごめんなさい、とか言いながら、慌てふためく事しかできなかった。どうしよう。僕のせいで二人の仲が険悪になっている。
「だいたい、そのユウって奴もお前が捨てた女の生霊とかじゃねぇの」
「はぁ?だからユウは見えねぇって言ってんだろ、いんのはモサイ男のオバケだって」
「男?男にも手出してんのかよ見境ねぇな」
「まだ出してねぇよ!ユウって女も知らねぇって、……多分」
「多分ってなんだよ、てか、ちょっと待って、手出した女の名前も覚えないわけ。あんた私の名前言える?」
「……」
黙り込む夕陽くんに、彼女さんは顔を引きつらせると「最悪」とだけ小さく呟くと、荷物をまとめ出した。
「はぁ?ダリィ帰んのかよ。じゃ誘ってくんなよな、今から別の奴探すのダリィんだけど」
どうやら新しい相手というのを探しているらしく、スマホをタップし始めた。彼女さんはカバンを肩に掛けると、彼を睨みつけながらもう一度近寄って、思いっきり頬をバシンッ!と叩いた。同じ場所を。二回目だ。
「このクズ男、地獄に落ちろ!」
彼女は部屋のドアを乱暴に閉めて出て行く。彼の頬には見事に赤い手形が付いていた。
「あ、あの、僕のせいでごめんなさい、大丈夫ですか」
「んな訳ねぇだろ!」
その声にビックリして肩を跳ね上がらせる。隣でユウちゃんが「なんで」と不思議そうに夕陽くんを見ていた。ユウちゃん、これは怒って当然だと思う。とにかく彼の手当てをしないと。
「なにか冷えるもの、あっ、僕いまオバケだから冷たいかも」
網戸からすり抜けさせて彼の頬に手を置いた。ユウちゃんの手はいつも冷たいから、幽霊の僕もきっと冷やす事ができるはず。
「冷たい、ですか?」
彼は体をビクッと動かした後、僕の手を振り払った。それから視線をさまよわせたが、ハッと何かに気が付いたようで僕の目に掛かっている前髪をかき分けると、驚いたように目を丸くした。
「お前、あの時の校庭で走って転んでたやつか、……幽霊、だったのか、……というか、男だったのか」
なんだか落胆したように言われたが、覚えてくれたことが嬉しくて思わず笑顔がこぼれる。
「はい。あのときは、ありがとう……うわっ」
そのまま腕を引っ張られると、僕はなぜかベッドに押し倒されていた。
「恩返しに来たって言ったな。じゃぁ今日の相手、オマエがしてよ」
「……え?」
言われたことが飲み込めずに目をパチパチと何度も瞬かせる。
「別の奴探すのめんどうだし、顔は女ぽいし、割と好みだし、イケるわ」
「は、」
「これが恩返しってことで」
彼の手がそのまま僕の顔から首まで滑らすように触れて行く。な、な、なにこれ、どうして、こんなことになってんの、てか、え、ど、どうしよう。彼の手が服の上から体の線をなぞるように、下へ降りて行くと、ふと何かに気付いたように、ぴたりと止まった。
「てかオバケとって、どうヤ」――ペチン!
今度は僕が、彼の左頬に向かって叩いた。さっきの彼女よりも弱々しい音だった。
「ダ、ダメ、ユウちゃんが見てるでしょ!」
「だから、誰だよユウちゃん」
痛くもなかったのか、なんともなさそうな冷静な声で夕陽くんは言ってのけた。
「紬凪、時間切れみたい」
のんきな声でユウちゃんが言うと、僕の体はポンッと煙に包まれて人間の姿に戻って行った。何が起こったのか状況が読み込めないのだろう。目を大きく見開いて僕を見ている夕陽くんに、貴方にお礼がしたくて、幽霊になって会いに来ました。なんて言ったら、信じてもらえるだろうか。
ベッドの上に座る夕陽くん。その前に正座をして座る僕。部屋の真ん中に置かれている折り畳みテーブルには、三人分の麦茶が置かれている。コップに溶けた氷がぶつかってカランと小さく音を立てた。
「で、なに」
「急に来てごめんなさい。僕は二年二組の道ノ世紬凪と言います。出席番号は二十二番で、席は窓際の一番後ろの席で、体育委員で、えっと、それから」
「生きてんの」
夕陽くんは僕の話には興味がなさそうに、それだけを質問してきた。
「生きてます!」
とはいえ、さっきまでオバケだったから信じてもらうのは難しいかもしれない。どうしよう。何か証明できることがあればいいんだけれど……。あっ、そうだ。僕は彼の手をとって、自分の左胸まで手を持っていった。ドクッ、ドクッ、と規則正しく動く心臓の音を聴いてもらうと、彼は小さく「本当だ」とホッとしたように言った。
「じゃあ、さっきのは何。なんで幽霊になってたの、ユウちゃんってなに?」
「幽霊になっていたのは……」
チラりとユウちゃんを見る。これはユウちゃんの不思議な力のおかげで、僕も良く分かっていないのだ。ユウちゃんはすぐに答えてくれずに、代わりにニヤリと笑った。こういう顔をするときは、ろくなことを言わない。
「オレは恋のキューピットだからね。ふふん、オバケになって、好きな人の願い叶えれば、はぴぃーらぶチャーンス到来!二人は幸せになりましたとさ、めでたし、めでたし」
「そ、そんなこと言えるわけないでしょ。だいたい、ユウちゃんはヒーローなのに、急に転職しないでよ」
胸の前で両手でハートの形を作っているユウちゃんに、僕は恥ずかしさで顔を真っ赤にして言い返した。
「ヒーロー?なに、ユウちゃんは何て言ったの」
「え、えぇと……」
「紬凪が幽霊になる仕組みは、オバケの秘密なので言えませんって伝えて」
さっきまでのふざけた様子から一転して、急に真面目なトーンで言う。夕陽くんにユウちゃんが言ったことを伝えると、それ以上興味がないのか深堀せずに「あっそう」とだけ答えた。
「それで、ユウちゃんは僕の友達でオバケなんです。この紙とペン借りても良いですか」
「勝手にすれば」
そばにあった紙の上に、僕はユウちゃんの絵を描いていく。可愛いらしいユウちゃんは、言葉で説明するよりも描いた方が簡単に伝えられる。完成した絵を見ると、彼は絵をまじまじと見つめた。
「ユーニャじゃん」
「ユーニャ?」
ちょっと待ってろ、と言うと彼は違う部屋に行き何冊か漫画を持って戻ってきた。その漫画の表紙には、ユーニャ!と書かれたゴシック調のフォントに、真ん中にはユウちゃんと同じ姿をした猫耳のあるオバケがいて、こぶしを突き出したような姿が描かれていた。どうやら古い少年漫画のようで、敵をオバケのユーニャという主人公が倒すという王道の物語のようだ。隣で目をキラキラと輝かせながら「貸して!」というユウちゃんが言って漫画を読み始めた。もしかして、ユウちゃんの姿って、この子から来てるの!?夢中になっては、嬉しそうにページをめくっている。
「読んでんな」
夕陽くんは僕の隣を見つめている。きっと彼には漫画だけが浮いて見えるのだろう。
「ここまで話してなんだけど、どうしてユウちゃんを、僕の話を、信じてくれるの」
「そりゃ、オバケから人間になる姿を見てるしな。てかまあ、どうでも良いんだよ。俺、他人に興味ないし、相手が話してることが本当でも嘘でも何でもいい。オバケがそこにいるって言われたらいるんだろうし、自分は幽霊ですって言われたら幽霊なんだよ。今、俺の前で話している奴がいるってことだけが真実なんだから、それ以外はどうでもいい、てか考えるの面倒」
その言葉がゆっくりと僕の中に入っていくと、今度は僕が目を輝かせてる番だった。……好き、やっぱり好きだ。唇を噛み締めて言葉が出そうになるのを我慢する。
昔から幽霊が見えるせいで、嫌な思いをしてきた。怖い思いをしているのに、不気味だとか、嘘つきとか、頭がおかしいとか、たくさん色々な事を言われてきた。噂が広がっていくように、次から次へと、会ったことのない子にまで悪口を言われたこともある。友達が欲しいと言いながら、本当は諦めていた。幽霊が見える限り、僕には人間の友達は出来ない。ユウちゃんさえいればいい。
でも、彼は違う。自分の前で起こっていることだけが真実と言ってくれた。僕の話も信じてくれた。きっと彼は噂だけで判断するような人じゃない。優しいところ、手を差し伸べてくれたところ、全部、素敵だ。彼と恋人に成りたいなんて考えていない。高嶺の花すぎる。こんなに協力してくれたユウちゃんには悪いけれど、彼のために何か少しでも役に立てたら僕はそれだけで幸せなんだ。この想いは彼には告げず、心の奥にしまっておこう――
「なに、お前、俺のこと好きなの」
「ひょえぇ!?」
変な声が出た。なっ、なんで、バレたの。
「普通に、見てれば分かるし。なんで、顔?」
「は、はい」
しまった、咄嗟に短く返事をしてしまったけれどバレてしまったなら顔以外も好きですって、ちゃんと好きなところ全部伝えたい。口を開こうとした瞬間「アハハハ!」と夕陽くんが声を出して笑った。
「俺と付き合いたいとか、抱かれたいだけの子の方がもっと適当なこと言ってくんのに、正直すぎんだろ」
「あっ、いや」
「あーウケる。めっちゃ笑ったわ。いいよ。俺もお前の顔好きだし」
「えっ!?」
す、好きって言われた……!声から喜んでいることが伝わったのか、僕を咎めるように「紬凪、よくないよ。これ、ダメ」とユウちゃんは言っているけれど、僕はもう浮かれてしまって全然耳に入らない。
「誰かと付き合うとか面倒だから無理だけど、女が捕まんない時なら一緒にいてやるよ」
「い、いいの!?」
「よ・く・な・い!」
ユウちゃんは漫画を持って夕陽くんの近くまで飛んでいくと、バシバシと何度も彼の頭を叩いた。
「え、なに?ユウちゃん何て言ってんの」
「ユウちゃん、やめなって」
「……、それ続きが読みたいの?」
「いや、違うみたいで……」
「アニメもあるよ」
今度は僕とユウちゃん、二人で驚く。
「ビデオだから画質悪いけど、ちょっと待ってて」
彼はもう一度違う部屋へ行き、古いビデオデッキと「ユーニャ!一話~三話」と書かれたビデオテープを持ってきた。ビデオを入れると、ほぼ真四角の画面に、古い音楽と手書きのタイトルが流れてくる。ユウちゃんはさっきまでの様子はどこへやら、また目を輝かせるとアニメに夢中になった。
「もう、ユウちゃんってば」
呆れたように言ってみせたけれど、僕はユウちゃんが楽しそうな姿を見るのが好きだった。
「ユウちゃん、みてんの」
「うん、ありがとう。すごく嬉しそうだよ」
「……そ。じゃ、アンタはこっち」
腕を引っ張られて、またベッドの上に押し倒された。目の前には真剣な顔をした夕陽くんの顔がある。しばらく僕を見つめた後に、ニヤリと意地悪な顔をした。これって、その、あれだよね。また、そういう展開に!?
「だ、だめ、ユウちゃんが」
「ユウちゃん子供なんだろ?さすがにヤんねぇよ、ただ」
「ただ?」
「もう一回、心臓の音聞かせて」
夕陽くんは、そう言うと僕の心臓にピッタリと耳をくっつけて横になった。あまりの近さに、ドッ、ドッ、ドッと心臓の鼓動が早くなる。うるさいんじゃないかって思っていたのに、しばらく経つと寝息が聞こえてきて、どうやら寝てしまったらしい。なんで寝ちゃうの。僕はどうすればいいの。
「ユ、ユウちゃん……」
起こさないように小さく出した声はアニメに夢中な友人に届くことなく、僕は顔を真っ赤にして固まるばかりだった。
「紬凪、起きて」
目が覚めると窓から漏れている光はオレンジ色に変わっていて、すっかり陽が落ちようとしていた。あんなに緊張してドキドキしていたのに、僕もつられて眠ってしまったらしい。
「どうしよう、ユウちゃん」
陽が落ちて夜が来ると、悪霊は活発になる。いつも守ってくれるユウちゃんでも太刀打ちできない程の力を持った奴らがうじゃうじゃと現れるようになるから、「夜は絶対に出歩かないこと」と彼に口酸っぱく言われているのだった。
「大丈夫、でもすぐに帰ろ。じゃ、紬凪、もっかい幽霊になるよ」
「幽霊に?なんで」
夕陽くんに恩返しするために成ったのに、どうしてもう一度、幽霊になる必要があるんだろう。ユウちゃんは大丈夫と言いながら焦っているようで、返事をする前に、中指と親指をこすってパチンと音を鳴らすと僕をまた幽霊にした。
「飛んだら早く帰れるでしょ。じゃあ行くよ」
「待って、夕陽くんにせめて手紙とか」
彼はすっかり熟睡しているのか、僕を抱きしめる力を緩めてすぅすぅと眠っていた。
「だめ、時間がない。明日学校で会ったときに話そ。オレもそのときにお礼言うから」
ユウちゃんは僕の手を引っ張ると、勢いよく飛んでいく。そのまま窓をすり抜けて、あっという間に空高くへ飛んでいった。夕陽くん、また明日。心の中でそうつぶやくと、僕も前を向いてユウちゃんと一緒に飛んでいく。
「いい、高く、高く、上に、だよ」
ユウちゃんは帰り道、何度も念を押すように言った。
***
夕陽が目を覚ましたのは紬凪とユウちゃんが帰った後の、すっかり陽が沈んだ頃だった。半分眠っている頭に、ザーザーとテレビの音が聞こえてくる。
陽太、またテレビつけっぱなしにしてる。
――違う、陽太なはずがない。
確か子供の幽霊がいた。ユーニャの形をしているとか、アイツが言っていた。そうだ、アイツは?寝ぼけたまま、ベッドの上にいるはずの温かなぬくもりを探す。
――いない。
一気に起き上がると、テーブルの上に置いてあったリモコンを手にとり部屋の明かりをつけた。いない、いない、いない!俺の頬に触れた時、アイツはゾッとするほど冷たかった。まるで、あの時のように。
ザーザーと雨の音が聞こえてくる。違う!ちゃんと今日は晴れていた。
震えている両手を見ると、あの冷たさが、あの時の感触が、蘇ってくる。もう、忘れた。はずなのに。
はぁ、はぁ、と息があがっていくと、体中から嫌な汗が毛穴という毛穴から噴き出していく。テーブルの上にはすっかり氷が溶けた飲みかけの麦茶が二つあった。もう一つは全く減っていない。部屋には漫画とザァザァと砂嵐のように流れているテレビ画面。まるで昔のようだった。
アイツは本当にいたのだろうか。それとも本当に幽霊で、もうこの世にはいない奴だったのだろうか。
嫌だ。もう忘れたんだ。ダメだ。考えるな。あの時のことを考えるな。
そうだ帰ったんだろ。きっと、家に、帰ったんだ。大丈夫、アイツはちゃんと生きてる人間だった。自分の部屋を飛び出して、階段を下りて行く。玄関の鍵がきっと掛かっていないはずだ。勝手に帰ったんだから鍵を閉めないといけない。
――鍵はかかったままだった。
ここから出ないと、家に帰れないはずだ。なのに、鍵はかかったままだった。心臓が嫌な音を立てる。どんどん体から血の気が引いてきて、手が震える。そんなことあるはずない。
もう一度、手を見ると真っ赤に染まっていった。 あの日の血が取れない。
陽太、陽太。ごめん。
その時、ガチャッと鍵が開く音が聞こえた。震える手を後ろに隠しながら、玄関の扉が開くのを待つ。
「あれ、夕陽どうしたの」
「……叔父さん、お帰りなさい」
板についた作り笑いで、そう言った。
***
翌朝、僕はいつも通りユウちゃんと登校した。好きな人と話せる口実があるから、僕は少し浮かれていたみたいで「紬凪ぃ~ちゃんと歩かないと危ないよ」なんてジト目で見られながら注意されてしまった。教室に入ると、僕の席に誰か座っている。一気に気分が落ちて溜息をこぼす。こういうの苦手なんだよな。おはよう、そこ座っても良いかな?それとも、そこ僕の席なんだけど、座っても良いかな?かな。あぁ、もうなんて言えば良いんだろう。
「あ、あの、そこ、僕の、……夕陽くん?」
座っていたのは夕陽くんだった。思わず笑顔がこぼれる僕に対して、彼は冷たい目をしていた。何も言わないまま僕の手首を力強く掴むと、何かを確認するように耳を近づける。暫くそうした後そのまま僕を教室の外まで連れて行った。
わざわざ、うんと離れた第二校舎まで連れて行かれるとトイレの個室に押し込められる。僕がうっかり返事をしないように、周りに人がいる時には声を掛けてこないユウちゃんが珍しく「乱暴にしないで」と怒っていたが聞こえるはずもなく、彼は僕のネクタイを掴んで引っ張った。
「生きてんの?」
「え?」
「生きてんの?って聞いてんの」
「……生きて、ます」
どうしてそんなことを聞くのか分からなかったけれど、その声の低さと冷たさから怒っていることは確実に分かった。とりあえず昨日と同じことをして分かってもらおうと思って、彼の手を取り心臓のあたりまで持っていく。シャツの上から感じる彼の温かさを感じながら、ドク、ドクと自分の心臓が動く音に耳を澄ませた。
「昨日は急にお邪魔してごめんなさい」
「なんで勝手に帰ったの」
「ご、ごめんなさい。本当は手紙とか書こうと思ったんだけど、時間がなくて、僕、昔から悪霊に襲われやすくて、陽が落ちる前に帰らないと危ないんだ。だから……「うちに泊まれば良かったじゃん。起こして、ちゃんと俺に言えよ。てかなに、ダルイ。幽霊ってなんなの、お前は生きてんの、死んでんの、なぁ、どっちなんだよ!」
昨日は興味なさそうにしていたから何も心配はしていなかったんだけれど、今日は様子が変わっている。
「死んでないよ。大丈夫だって伝えてあげて」
「ユウちゃんが、死んでないって」
「幽霊になるとか、変なモノに好かれるとか、もういいよ、なんなの。俺のために何かしたいとか言いながらなんもしねぇじゃん、……嫌なことばかり思い出させやがって」
震えているように見えたから、思わず彼の手を握ってしまった。
「嫌な思いさせて、ごめんなさい。でも、夕陽くんのために何かしたいって気持ちは噓偽りないよ。何かして欲しいことがあれば、何でも言って欲しい。僕、全力で叶えるよ」
「……陽が落ちたら危ねぇんだよな、……そうだ、俺のために何かしたいなら幽霊にでもなんでもなって、夜中の学校にでも忍び込めば」
「ダメ。ただでさえ夜は危険なのに、学校なんて行かせられない。学校は他の場所よりも自然と霊も集まりやすい。絶対にダメだよ。断って」
僕が返事をするよりも早くユウちゃんは答えたけれど、夕陽くんには届くことない。
「でも、ユウちゃん……」
「ユウちゃんは、「ダメ」って言ってんだろ」
ユウちゃんが話している内容は分からないはずなのに、見透かしたように鼻で笑いながら彼は言った。
「やりたくねぇなら、それでいい。その代わり、もう俺にも関わんな。……もう二度と幽霊になるな」
「やるよ、僕、やる!まだ夕陽くんに何も出来ないのに、このまま終われない!」
彼はキョロキョロと誰かを探すように目線を動かした。きっとユウちゃんを探している。
「二度と幽霊にすんなよ」
「いじわる」
彼は僕の胸を押して、トイレから出て行こうとした。
「ま、待って!」
「なんだよ」
「夜中に学校へ行って、どうすれば良いの」
「……じゃあ、ベートーヴェンの絵が本当に動くか確かめて来て」
彼は投げやりにそう言って出て行った。二人きりになるとユウちゃんに向かって話す。
「ユウちゃん」
「ダメ」
「ユウちゃん、お願い」
「ダメだって」
「ユウちゃん、お願い。僕、彼のことが好きなんだ」
ユウちゃんは暫く黙り込むと、はぁと大きな溜息を吐いて「仕方ないなぁー」と言った。
「道ノ世、いつも悪いな。終わったら倉庫の鍵、よろしくな」
先生に鍵を渡されると小さく頷く。今日みたいに校庭で授業の日だと、先生は先に職員室へ帰るから一人で片付けなきゃいけない。皆が友達と話しながら教室へ帰っていく中、僕は逆方向を歩いて、ボールがたくさん入ったカゴを体育倉庫まで運ぶ。
――嘘。
本当は一人じゃない。皆には見えないけれど、僕も友達と一緒にいる。
「楓せんせ、いっつも紬凪に頼んでる」
「仕方ないよ、体育委員なんだから」
「休んでる間に、勝手に決められた」
「ユウちゃんは体育好きでしょ。だから良いんだよ」
僕のたった一人の友達、ユウちゃん。彼はオバケだ。よくイラストで描かれるような、目のところが開いている白い布を被ったオバケの姿をしていて、少しそれと違うのは頭に猫の耳みたいな突起が付いている事と、ほっぺにヒゲみたいなのがある事。可愛らしい姿をしたオバケのユウちゃんは、僕の大切な友達だ。
「ねぇ、紬凪。あれはもう良いの?」
「あれって」
「高校生になったら、友達を作って、いろんな行事に参加して、高校生活を満喫するんでしょ。二年生になっても友達いないじゃん」
「去年、全部ユウちゃんとやったから、いいの~」
ユウちゃんは最近ずっとこの話をしている。二年生になってからずっとだ。もう桜も散って葉っぱになっているのに、毎日のように言われ続けて僕はうんざりしている。
「好きな人は?高校生になったら、恋するんでしょ」
「それも、もういいかな」
「もう、紬凪!」
そんな風に言われたって、僕には無理なんだよ。ボールを倉庫の奥にしまうと、すぐに出て鍵を閉める。体育倉庫みたいに暗くて風通りが悪い所には、アレが出て来やすいから気を付けないといけないんだ。
「ユウちゃん、そんなことより今日はアイス買って帰――「紬凪、逃げて」
僕がユウちゃんの方を振り向いた瞬間、地面からドロッとした大きな塊が飛び上がってきた。ソイツは一つだけある大きな目を、ギョッロと動かして僕を見つけると不気味に笑う。しまった、倉庫じゃないからって油断した!僕は転びそうになりながら、必死で足を動かして逃げていく。ただでさえ運動が苦手なのに!体育の後なのに!もう止めてよ!
昔から幽霊といった類の、人ならざるモノが見えた。皆には見えないソレが見える僕には、友達なんて出来たこともない。不気味とか、気持ち悪いとか、たくさん嫌われてきた。そして僕は人だけじゃなくて、どうやら悪霊と呼ばれるモノにも嫌われているらしい。こうやってほぼ毎日のように襲われそうになっている。
「ユウちゃん、きーっく!」
すぐ後ろで、ユウちゃんが悪霊に攻撃する音が聞こえた。僕に追いつきそうだった所を助けてくれたみたいだ。
「ありがとう、ユウちゃん!」
僕はユウちゃんがいなかったら、とっくに悪霊に襲われてダメになっていたかもしれない。初めて会った日から、ユウちゃんはこうやって僕を助けてくれる。友達であり、大切なヒーローでもあった。
足を止めることなく、ひたすら逃げ回る。悪霊と目が合うのが怖くて小さな頃からずっと、目を隠すように伸ばしている前髪も汗でへばりついて邪魔だから耳に掛けた。走る。ひたすら走る。走るんだけど、もう、さすがに、もう限界……。
「あっ」
足がもつれて、地面に倒れ込んでしまった。後ろを振り返ると悪霊が今にも飛びついて来ているが見える。
これはもう、本当にダメかも――
「大丈夫、転んじゃったの?」
低く優しい声が聞こえた。ギュッとつぶっていた目を開けて前を向くと、キリっとしたツリ目のカッコいい人がいた。風で靡いている黒い髪を耳に掛けながら僕に手を伸ばしてくれたので、思わずその手を取ると引っ張り上げられた。ふらついて彼の胸に飛び込んでしまうと、体がピッタリとくっついて、ドク、ドク、と心臓の音が聞こえてくる。これは、僕と、彼、どっちの音だろう。
「トドメの、ユウちゃんちょーっぷ!」
振り向くと、目をバッテンにして情けない声を出している悪霊がいた。どうやらユウちゃんがトドメをさしてくれたみたいで、しばらくすると地面へ溶けていった。ホッとして肩をなで下すが、すぐに彼のことを思い出して慌ててお礼を伝える。
「あ、ありがとうございました」
「足ケガしてるね、絆創膏あるよ」
「す、すみません」
彼は僕に絆創膏を渡してくれた。
「なんで敬語?青のジャージだから二年だよね。俺もだから敬語使わないで良いよ」
ニコッと僕に笑顔をみせて笑ってくれた。その笑顔に見惚れてしまう。思い返せば、こうやって人に笑いかけられたのも、助けてもらったのも、初めてかもしれない。ふいに、彼の手が僕の頬に添えられた。え、えぇ!?なんで。
「やっぱり、可愛い顔してるね。何組の子?名前は?」
「か、かわ!?し、しし、失礼します」
僕は頭を下げて、もうクタクタなのに走って教室まで向かう。可愛いって言われた……!とっくに高鳴るこの鼓動が、走っているせいじゃないって事にも気付いていた。僕は彼に一目惚れをしたんだ。
後ろからユウちゃんが追いかけて、見透かしたように言う。
「紬凪、好きな人ができたんだね」
「ユ、ユウちゃん」
「だいじょーぶ!俺に任せて、あのね」
ユウちゃんは、良いことをひらめいたと人差し指を立てて笑った。
「紬凪も、幽霊になっちゃえばいいんだよ!」
「えぇ!?」
それから数日経った日、僕らは住宅街にいた。初夏と呼ぶのにふさわしい日差しで半袖の人も歩いているのに、制服のジャケットまで着込んだ僕を、誰も気に留めることなく横を過ぎ去っていく。本当に幽霊になっているみたいだ。
「いい?上に、ビューンだよ」
どうして僕はこんな事をしているんだろう。恋とは恐ろしい。いつもなら断っていたかもしれないユウちゃんの提案も、僕はすんなり受け入れて、幽霊にまでなってしまった。
「いい、上に、ビューン、だからね。大丈夫、紬凪なら出来るよ!」
まるで子供が親に言い聞かせるように、言葉ひとつひとつに念を押しながらユウちゃんはもう一度言った。指は上を指している。
いいや、ユウちゃんがここまでしてくれたんだ。頑張らないと。今日まで「ユウちゃんは恋のキューピット」と言いながら、僕のために彼の事を調べてくれたのだ。彼の名前は日色夕陽くん。同じ二年生で五組の子らしい。なんとユウちゃんは彼の家まで調べて、こうして会いにやって来たのだ。逃げずに覚悟を決めて頑張ろう。「よし」と小さな声で気合を入れて、思いっきり地面を蹴って上に飛ぼうとしたけれど、足がない事を思い出した。
「大丈夫!思いっきり行けぇ~!」
その声に合わせて、思いっきり上に高く飛び上がるイメージをした。大丈夫、大丈夫、行ける!次の瞬間、僕は高く飛び上がり二階にあるらしい彼の部屋がある所まで飛んで行った。窓から部屋の中に人影が見える。彼だ!僕は息を吸い込んで思いっきり叫ぶ。
「あ、あ、ああああの!あの時はありがとうございました。そそ、その、恩返しに来まひた」
か、噛んじゃった。恥ずかしくって、顔を真っ赤にさせて目をギュッとつぶる。ところが、なかなか返事は来なくシーンとした空気が流れていた。
「……あのさ、今の状況分かってる?」
「へ?」
ゆっくりと目を開けると、そこには夕陽くんがベッドに女の子を押し倒していて、服に手をかけようとしていた。これって、その、あれだ。だんだん理解していくにつれて、僕の顔はますます赤くなっていく。
「紬凪ぃ、ちゃんと言えた~?」
「だ、だめ!ユウちゃんには、まだ早いです!」
遅れて追いかけて来たユウちゃんの目を隠しながら、今度は僕が子供に言い聞かせるように言った。「オレは子供じゃな~い~!」と手を振り払おうとしているユウちゃんを抑えながら、ダラダラと冷や汗をかいていた。まさか、こんなことになるなんて。早く帰らないと、いや、その前にちゃんと謝って、あぁでも、またいきなり来るとこうなるかも知れないから約束とかして……そんなことをグルグルと頭の中で考えていると、もう一度夕陽くんから声を掛けられた。
「さっきから、一人でなにしてんの」
「一人?ユウちゃんは見えてないの」
「ユウちゃん?」
どうやら彼は、僕のことは見えているのにユウちゃんは見えていないらしい。
「ユウちゃんは……「はぁ、ユウ?誰だよその女」
僕の言葉を遮るように彼女が苛立ったように言うと、夕陽くんは笑顔で「違う、違う」と言い訳をするように言葉を続ける。
「ほら、あそこにいる奴。アイツが恩返しに来たとか、ユウちゃんとか、訳の分かんねぇこと言ってんだよ。青いネクタイだから同じ学年だと思うんだけど、知んない?」
「……誰もいないけど、てかアタシ学年違うし」
そうだっけ?と彼はヘラヘラ笑いながら言うと、もう一度、僕を上から下へじっくりと観察するように見た。
「足、ねぇわ。オバケぽいけど、……なんかモサイし平気っしょ。とりあえずヤろおうぜ」
そう言うと、また彼女の服にまた手をかけ始めたので、僕は慌ててユウちゃんを抱えて帰ろうとした。その時、
――バシッ!
痛そうな音がして振り返ると、どうやら彼女さんが平手打ちをしたみたいで、彼は左頬を真っ赤にして押さえていた。
「いってぇな!」
「ふざけんなよ、マジで。オバケとか無理なんだけど」
「はぁ?知らねえし、てか、叩く必要なくね」
「お前が進めようとするからだろ!」
目の前で繰り広げられるケンカに僕はどうすれば良いのか分からず、あの、落ち着いて、ごめんなさい、とか言いながら、慌てふためく事しかできなかった。どうしよう。僕のせいで二人の仲が険悪になっている。
「だいたい、そのユウって奴もお前が捨てた女の生霊とかじゃねぇの」
「はぁ?だからユウは見えねぇって言ってんだろ、いんのはモサイ男のオバケだって」
「男?男にも手出してんのかよ見境ねぇな」
「まだ出してねぇよ!ユウって女も知らねぇって、……多分」
「多分ってなんだよ、てか、ちょっと待って、手出した女の名前も覚えないわけ。あんた私の名前言える?」
「……」
黙り込む夕陽くんに、彼女さんは顔を引きつらせると「最悪」とだけ小さく呟くと、荷物をまとめ出した。
「はぁ?ダリィ帰んのかよ。じゃ誘ってくんなよな、今から別の奴探すのダリィんだけど」
どうやら新しい相手というのを探しているらしく、スマホをタップし始めた。彼女さんはカバンを肩に掛けると、彼を睨みつけながらもう一度近寄って、思いっきり頬をバシンッ!と叩いた。同じ場所を。二回目だ。
「このクズ男、地獄に落ちろ!」
彼女は部屋のドアを乱暴に閉めて出て行く。彼の頬には見事に赤い手形が付いていた。
「あ、あの、僕のせいでごめんなさい、大丈夫ですか」
「んな訳ねぇだろ!」
その声にビックリして肩を跳ね上がらせる。隣でユウちゃんが「なんで」と不思議そうに夕陽くんを見ていた。ユウちゃん、これは怒って当然だと思う。とにかく彼の手当てをしないと。
「なにか冷えるもの、あっ、僕いまオバケだから冷たいかも」
網戸からすり抜けさせて彼の頬に手を置いた。ユウちゃんの手はいつも冷たいから、幽霊の僕もきっと冷やす事ができるはず。
「冷たい、ですか?」
彼は体をビクッと動かした後、僕の手を振り払った。それから視線をさまよわせたが、ハッと何かに気が付いたようで僕の目に掛かっている前髪をかき分けると、驚いたように目を丸くした。
「お前、あの時の校庭で走って転んでたやつか、……幽霊、だったのか、……というか、男だったのか」
なんだか落胆したように言われたが、覚えてくれたことが嬉しくて思わず笑顔がこぼれる。
「はい。あのときは、ありがとう……うわっ」
そのまま腕を引っ張られると、僕はなぜかベッドに押し倒されていた。
「恩返しに来たって言ったな。じゃぁ今日の相手、オマエがしてよ」
「……え?」
言われたことが飲み込めずに目をパチパチと何度も瞬かせる。
「別の奴探すのめんどうだし、顔は女ぽいし、割と好みだし、イケるわ」
「は、」
「これが恩返しってことで」
彼の手がそのまま僕の顔から首まで滑らすように触れて行く。な、な、なにこれ、どうして、こんなことになってんの、てか、え、ど、どうしよう。彼の手が服の上から体の線をなぞるように、下へ降りて行くと、ふと何かに気付いたように、ぴたりと止まった。
「てかオバケとって、どうヤ」――ペチン!
今度は僕が、彼の左頬に向かって叩いた。さっきの彼女よりも弱々しい音だった。
「ダ、ダメ、ユウちゃんが見てるでしょ!」
「だから、誰だよユウちゃん」
痛くもなかったのか、なんともなさそうな冷静な声で夕陽くんは言ってのけた。
「紬凪、時間切れみたい」
のんきな声でユウちゃんが言うと、僕の体はポンッと煙に包まれて人間の姿に戻って行った。何が起こったのか状況が読み込めないのだろう。目を大きく見開いて僕を見ている夕陽くんに、貴方にお礼がしたくて、幽霊になって会いに来ました。なんて言ったら、信じてもらえるだろうか。
ベッドの上に座る夕陽くん。その前に正座をして座る僕。部屋の真ん中に置かれている折り畳みテーブルには、三人分の麦茶が置かれている。コップに溶けた氷がぶつかってカランと小さく音を立てた。
「で、なに」
「急に来てごめんなさい。僕は二年二組の道ノ世紬凪と言います。出席番号は二十二番で、席は窓際の一番後ろの席で、体育委員で、えっと、それから」
「生きてんの」
夕陽くんは僕の話には興味がなさそうに、それだけを質問してきた。
「生きてます!」
とはいえ、さっきまでオバケだったから信じてもらうのは難しいかもしれない。どうしよう。何か証明できることがあればいいんだけれど……。あっ、そうだ。僕は彼の手をとって、自分の左胸まで手を持っていった。ドクッ、ドクッ、と規則正しく動く心臓の音を聴いてもらうと、彼は小さく「本当だ」とホッとしたように言った。
「じゃあ、さっきのは何。なんで幽霊になってたの、ユウちゃんってなに?」
「幽霊になっていたのは……」
チラりとユウちゃんを見る。これはユウちゃんの不思議な力のおかげで、僕も良く分かっていないのだ。ユウちゃんはすぐに答えてくれずに、代わりにニヤリと笑った。こういう顔をするときは、ろくなことを言わない。
「オレは恋のキューピットだからね。ふふん、オバケになって、好きな人の願い叶えれば、はぴぃーらぶチャーンス到来!二人は幸せになりましたとさ、めでたし、めでたし」
「そ、そんなこと言えるわけないでしょ。だいたい、ユウちゃんはヒーローなのに、急に転職しないでよ」
胸の前で両手でハートの形を作っているユウちゃんに、僕は恥ずかしさで顔を真っ赤にして言い返した。
「ヒーロー?なに、ユウちゃんは何て言ったの」
「え、えぇと……」
「紬凪が幽霊になる仕組みは、オバケの秘密なので言えませんって伝えて」
さっきまでのふざけた様子から一転して、急に真面目なトーンで言う。夕陽くんにユウちゃんが言ったことを伝えると、それ以上興味がないのか深堀せずに「あっそう」とだけ答えた。
「それで、ユウちゃんは僕の友達でオバケなんです。この紙とペン借りても良いですか」
「勝手にすれば」
そばにあった紙の上に、僕はユウちゃんの絵を描いていく。可愛いらしいユウちゃんは、言葉で説明するよりも描いた方が簡単に伝えられる。完成した絵を見ると、彼は絵をまじまじと見つめた。
「ユーニャじゃん」
「ユーニャ?」
ちょっと待ってろ、と言うと彼は違う部屋に行き何冊か漫画を持って戻ってきた。その漫画の表紙には、ユーニャ!と書かれたゴシック調のフォントに、真ん中にはユウちゃんと同じ姿をした猫耳のあるオバケがいて、こぶしを突き出したような姿が描かれていた。どうやら古い少年漫画のようで、敵をオバケのユーニャという主人公が倒すという王道の物語のようだ。隣で目をキラキラと輝かせながら「貸して!」というユウちゃんが言って漫画を読み始めた。もしかして、ユウちゃんの姿って、この子から来てるの!?夢中になっては、嬉しそうにページをめくっている。
「読んでんな」
夕陽くんは僕の隣を見つめている。きっと彼には漫画だけが浮いて見えるのだろう。
「ここまで話してなんだけど、どうしてユウちゃんを、僕の話を、信じてくれるの」
「そりゃ、オバケから人間になる姿を見てるしな。てかまあ、どうでも良いんだよ。俺、他人に興味ないし、相手が話してることが本当でも嘘でも何でもいい。オバケがそこにいるって言われたらいるんだろうし、自分は幽霊ですって言われたら幽霊なんだよ。今、俺の前で話している奴がいるってことだけが真実なんだから、それ以外はどうでもいい、てか考えるの面倒」
その言葉がゆっくりと僕の中に入っていくと、今度は僕が目を輝かせてる番だった。……好き、やっぱり好きだ。唇を噛み締めて言葉が出そうになるのを我慢する。
昔から幽霊が見えるせいで、嫌な思いをしてきた。怖い思いをしているのに、不気味だとか、嘘つきとか、頭がおかしいとか、たくさん色々な事を言われてきた。噂が広がっていくように、次から次へと、会ったことのない子にまで悪口を言われたこともある。友達が欲しいと言いながら、本当は諦めていた。幽霊が見える限り、僕には人間の友達は出来ない。ユウちゃんさえいればいい。
でも、彼は違う。自分の前で起こっていることだけが真実と言ってくれた。僕の話も信じてくれた。きっと彼は噂だけで判断するような人じゃない。優しいところ、手を差し伸べてくれたところ、全部、素敵だ。彼と恋人に成りたいなんて考えていない。高嶺の花すぎる。こんなに協力してくれたユウちゃんには悪いけれど、彼のために何か少しでも役に立てたら僕はそれだけで幸せなんだ。この想いは彼には告げず、心の奥にしまっておこう――
「なに、お前、俺のこと好きなの」
「ひょえぇ!?」
変な声が出た。なっ、なんで、バレたの。
「普通に、見てれば分かるし。なんで、顔?」
「は、はい」
しまった、咄嗟に短く返事をしてしまったけれどバレてしまったなら顔以外も好きですって、ちゃんと好きなところ全部伝えたい。口を開こうとした瞬間「アハハハ!」と夕陽くんが声を出して笑った。
「俺と付き合いたいとか、抱かれたいだけの子の方がもっと適当なこと言ってくんのに、正直すぎんだろ」
「あっ、いや」
「あーウケる。めっちゃ笑ったわ。いいよ。俺もお前の顔好きだし」
「えっ!?」
す、好きって言われた……!声から喜んでいることが伝わったのか、僕を咎めるように「紬凪、よくないよ。これ、ダメ」とユウちゃんは言っているけれど、僕はもう浮かれてしまって全然耳に入らない。
「誰かと付き合うとか面倒だから無理だけど、女が捕まんない時なら一緒にいてやるよ」
「い、いいの!?」
「よ・く・な・い!」
ユウちゃんは漫画を持って夕陽くんの近くまで飛んでいくと、バシバシと何度も彼の頭を叩いた。
「え、なに?ユウちゃん何て言ってんの」
「ユウちゃん、やめなって」
「……、それ続きが読みたいの?」
「いや、違うみたいで……」
「アニメもあるよ」
今度は僕とユウちゃん、二人で驚く。
「ビデオだから画質悪いけど、ちょっと待ってて」
彼はもう一度違う部屋へ行き、古いビデオデッキと「ユーニャ!一話~三話」と書かれたビデオテープを持ってきた。ビデオを入れると、ほぼ真四角の画面に、古い音楽と手書きのタイトルが流れてくる。ユウちゃんはさっきまでの様子はどこへやら、また目を輝かせるとアニメに夢中になった。
「もう、ユウちゃんってば」
呆れたように言ってみせたけれど、僕はユウちゃんが楽しそうな姿を見るのが好きだった。
「ユウちゃん、みてんの」
「うん、ありがとう。すごく嬉しそうだよ」
「……そ。じゃ、アンタはこっち」
腕を引っ張られて、またベッドの上に押し倒された。目の前には真剣な顔をした夕陽くんの顔がある。しばらく僕を見つめた後に、ニヤリと意地悪な顔をした。これって、その、あれだよね。また、そういう展開に!?
「だ、だめ、ユウちゃんが」
「ユウちゃん子供なんだろ?さすがにヤんねぇよ、ただ」
「ただ?」
「もう一回、心臓の音聞かせて」
夕陽くんは、そう言うと僕の心臓にピッタリと耳をくっつけて横になった。あまりの近さに、ドッ、ドッ、ドッと心臓の鼓動が早くなる。うるさいんじゃないかって思っていたのに、しばらく経つと寝息が聞こえてきて、どうやら寝てしまったらしい。なんで寝ちゃうの。僕はどうすればいいの。
「ユ、ユウちゃん……」
起こさないように小さく出した声はアニメに夢中な友人に届くことなく、僕は顔を真っ赤にして固まるばかりだった。
「紬凪、起きて」
目が覚めると窓から漏れている光はオレンジ色に変わっていて、すっかり陽が落ちようとしていた。あんなに緊張してドキドキしていたのに、僕もつられて眠ってしまったらしい。
「どうしよう、ユウちゃん」
陽が落ちて夜が来ると、悪霊は活発になる。いつも守ってくれるユウちゃんでも太刀打ちできない程の力を持った奴らがうじゃうじゃと現れるようになるから、「夜は絶対に出歩かないこと」と彼に口酸っぱく言われているのだった。
「大丈夫、でもすぐに帰ろ。じゃ、紬凪、もっかい幽霊になるよ」
「幽霊に?なんで」
夕陽くんに恩返しするために成ったのに、どうしてもう一度、幽霊になる必要があるんだろう。ユウちゃんは大丈夫と言いながら焦っているようで、返事をする前に、中指と親指をこすってパチンと音を鳴らすと僕をまた幽霊にした。
「飛んだら早く帰れるでしょ。じゃあ行くよ」
「待って、夕陽くんにせめて手紙とか」
彼はすっかり熟睡しているのか、僕を抱きしめる力を緩めてすぅすぅと眠っていた。
「だめ、時間がない。明日学校で会ったときに話そ。オレもそのときにお礼言うから」
ユウちゃんは僕の手を引っ張ると、勢いよく飛んでいく。そのまま窓をすり抜けて、あっという間に空高くへ飛んでいった。夕陽くん、また明日。心の中でそうつぶやくと、僕も前を向いてユウちゃんと一緒に飛んでいく。
「いい、高く、高く、上に、だよ」
ユウちゃんは帰り道、何度も念を押すように言った。
***
夕陽が目を覚ましたのは紬凪とユウちゃんが帰った後の、すっかり陽が沈んだ頃だった。半分眠っている頭に、ザーザーとテレビの音が聞こえてくる。
陽太、またテレビつけっぱなしにしてる。
――違う、陽太なはずがない。
確か子供の幽霊がいた。ユーニャの形をしているとか、アイツが言っていた。そうだ、アイツは?寝ぼけたまま、ベッドの上にいるはずの温かなぬくもりを探す。
――いない。
一気に起き上がると、テーブルの上に置いてあったリモコンを手にとり部屋の明かりをつけた。いない、いない、いない!俺の頬に触れた時、アイツはゾッとするほど冷たかった。まるで、あの時のように。
ザーザーと雨の音が聞こえてくる。違う!ちゃんと今日は晴れていた。
震えている両手を見ると、あの冷たさが、あの時の感触が、蘇ってくる。もう、忘れた。はずなのに。
はぁ、はぁ、と息があがっていくと、体中から嫌な汗が毛穴という毛穴から噴き出していく。テーブルの上にはすっかり氷が溶けた飲みかけの麦茶が二つあった。もう一つは全く減っていない。部屋には漫画とザァザァと砂嵐のように流れているテレビ画面。まるで昔のようだった。
アイツは本当にいたのだろうか。それとも本当に幽霊で、もうこの世にはいない奴だったのだろうか。
嫌だ。もう忘れたんだ。ダメだ。考えるな。あの時のことを考えるな。
そうだ帰ったんだろ。きっと、家に、帰ったんだ。大丈夫、アイツはちゃんと生きてる人間だった。自分の部屋を飛び出して、階段を下りて行く。玄関の鍵がきっと掛かっていないはずだ。勝手に帰ったんだから鍵を閉めないといけない。
――鍵はかかったままだった。
ここから出ないと、家に帰れないはずだ。なのに、鍵はかかったままだった。心臓が嫌な音を立てる。どんどん体から血の気が引いてきて、手が震える。そんなことあるはずない。
もう一度、手を見ると真っ赤に染まっていった。 あの日の血が取れない。
陽太、陽太。ごめん。
その時、ガチャッと鍵が開く音が聞こえた。震える手を後ろに隠しながら、玄関の扉が開くのを待つ。
「あれ、夕陽どうしたの」
「……叔父さん、お帰りなさい」
板についた作り笑いで、そう言った。
***
翌朝、僕はいつも通りユウちゃんと登校した。好きな人と話せる口実があるから、僕は少し浮かれていたみたいで「紬凪ぃ~ちゃんと歩かないと危ないよ」なんてジト目で見られながら注意されてしまった。教室に入ると、僕の席に誰か座っている。一気に気分が落ちて溜息をこぼす。こういうの苦手なんだよな。おはよう、そこ座っても良いかな?それとも、そこ僕の席なんだけど、座っても良いかな?かな。あぁ、もうなんて言えば良いんだろう。
「あ、あの、そこ、僕の、……夕陽くん?」
座っていたのは夕陽くんだった。思わず笑顔がこぼれる僕に対して、彼は冷たい目をしていた。何も言わないまま僕の手首を力強く掴むと、何かを確認するように耳を近づける。暫くそうした後そのまま僕を教室の外まで連れて行った。
わざわざ、うんと離れた第二校舎まで連れて行かれるとトイレの個室に押し込められる。僕がうっかり返事をしないように、周りに人がいる時には声を掛けてこないユウちゃんが珍しく「乱暴にしないで」と怒っていたが聞こえるはずもなく、彼は僕のネクタイを掴んで引っ張った。
「生きてんの?」
「え?」
「生きてんの?って聞いてんの」
「……生きて、ます」
どうしてそんなことを聞くのか分からなかったけれど、その声の低さと冷たさから怒っていることは確実に分かった。とりあえず昨日と同じことをして分かってもらおうと思って、彼の手を取り心臓のあたりまで持っていく。シャツの上から感じる彼の温かさを感じながら、ドク、ドクと自分の心臓が動く音に耳を澄ませた。
「昨日は急にお邪魔してごめんなさい」
「なんで勝手に帰ったの」
「ご、ごめんなさい。本当は手紙とか書こうと思ったんだけど、時間がなくて、僕、昔から悪霊に襲われやすくて、陽が落ちる前に帰らないと危ないんだ。だから……「うちに泊まれば良かったじゃん。起こして、ちゃんと俺に言えよ。てかなに、ダルイ。幽霊ってなんなの、お前は生きてんの、死んでんの、なぁ、どっちなんだよ!」
昨日は興味なさそうにしていたから何も心配はしていなかったんだけれど、今日は様子が変わっている。
「死んでないよ。大丈夫だって伝えてあげて」
「ユウちゃんが、死んでないって」
「幽霊になるとか、変なモノに好かれるとか、もういいよ、なんなの。俺のために何かしたいとか言いながらなんもしねぇじゃん、……嫌なことばかり思い出させやがって」
震えているように見えたから、思わず彼の手を握ってしまった。
「嫌な思いさせて、ごめんなさい。でも、夕陽くんのために何かしたいって気持ちは噓偽りないよ。何かして欲しいことがあれば、何でも言って欲しい。僕、全力で叶えるよ」
「……陽が落ちたら危ねぇんだよな、……そうだ、俺のために何かしたいなら幽霊にでもなんでもなって、夜中の学校にでも忍び込めば」
「ダメ。ただでさえ夜は危険なのに、学校なんて行かせられない。学校は他の場所よりも自然と霊も集まりやすい。絶対にダメだよ。断って」
僕が返事をするよりも早くユウちゃんは答えたけれど、夕陽くんには届くことない。
「でも、ユウちゃん……」
「ユウちゃんは、「ダメ」って言ってんだろ」
ユウちゃんが話している内容は分からないはずなのに、見透かしたように鼻で笑いながら彼は言った。
「やりたくねぇなら、それでいい。その代わり、もう俺にも関わんな。……もう二度と幽霊になるな」
「やるよ、僕、やる!まだ夕陽くんに何も出来ないのに、このまま終われない!」
彼はキョロキョロと誰かを探すように目線を動かした。きっとユウちゃんを探している。
「二度と幽霊にすんなよ」
「いじわる」
彼は僕の胸を押して、トイレから出て行こうとした。
「ま、待って!」
「なんだよ」
「夜中に学校へ行って、どうすれば良いの」
「……じゃあ、ベートーヴェンの絵が本当に動くか確かめて来て」
彼は投げやりにそう言って出て行った。二人きりになるとユウちゃんに向かって話す。
「ユウちゃん」
「ダメ」
「ユウちゃん、お願い」
「ダメだって」
「ユウちゃん、お願い。僕、彼のことが好きなんだ」
ユウちゃんは暫く黙り込むと、はぁと大きな溜息を吐いて「仕方ないなぁー」と言った。
