✻ ✻ ✻
社務所の控室でまんじりともせず夜を明かした田中は、翌日の昼になって「会社を見に行きたい」と申し出た。
「抱えていたプロジェクトもあるし……どうなったかと」
「わりと真面目な方なのですねえ」
たぬきがシレッと失礼なことを言う。でも田中は気にしなかった。そんなことより会社に行きたい。そして確かめたい。
「俺が現世に出ることって、できるんですかね」
「できますです、はいー」
たぬきの返事にホッとした田中へ、麻美子は釘を差す。
「でも幽霊なんだから、そこに行くだけ、ながめるだけね。何もできないのは承知しておいて」
「そう……なんだ」
「物にはさわれないし誰とも話せない。幽霊になったおかげでできるようになるのは……ドアのすり抜けぐらいかしら」
「は? すり抜け?」
「だってさわれないんだもの」
幽霊は現実の物体に干渉できない。だからドアを開けることもできないのだった。
麻実子も含め幽霊は、地面に立ち階段を昇り降りする。だがそれは生きていた頃の習慣としてそう動いてしまうだけ。やろうと思えば地面に沈むことも……たぶんできるはずだ。絵面がホラーすぎてやりたくないが。
「ねえ、あたしそれも説明されてないってば!」
亜奈から抗議の声が上がった。そうか、亜奈はひとりにしなかったので言う必要がなかった。
「だって密室に入る必要なかったし……あまり気持ちいいことじゃないから、やらなくていいのよ」
「え、それ痛かったりするのか」
田中の懸念ももっともだ。麻美子は首を横に振る。
「大丈夫。ただ、自分の体がドアや壁にめり込んでいるのは見たくない、てこと」
「……まあそうだな」
「なので生きている人の動きに乗じて通るのが無難でしょうね。すぐそばにくっついてもたいていバレないから。もちろん霊感の強い人には見られちゃうこともあるけど」
麻美子の説明で田中はうつむいた。会いたいあの人は……特に霊感などないと思う。ということはそばに行っても気づいてもらえないのか。
「それでもよろしいですー?」
たぬきに念を押され、仕方なく田中はうなずいた。ここでくすぶっていてもどうにもならない。
麻美子は御朱印の用意をした。
紙に筆を走らせ「狸穴神社」の字を記す。
たぬきは朱肉で、肉球をポンッ。
「これをお持ちになれば、お出かけ可能でございますー」
「お、おう……」
いったいどういうシステムなんだろう。渡された御朱印を受け取った田中は、まじまじと文字を見つめた。
「……ここ、〈ぽんぽこ神社〉じゃなかったっけ。最初そう言ってた気が……まみあな?」
「この御朱印そう読むの? 田中さんすっごいじゃん!」
亜奈は自分の御朱印を広げて感心している。
「あたしコレ、どういう意味かわかんなかったんだよね。ここの名前なんだ?」
「亜奈さん……かわいい御朱印だと褒めてましたのにー!」
「あはは。それはたぬきゅんの肉球のことだってば」
読めずにスルーしていただけと判明し、たぬきはしょんぼりする。亜奈らしいかも、と麻美子は苦笑いだった。
「ぽんぽこ神社は愛称として付けてみたのよね。親しみやすいでしょ?」
麻実子はニッコリ開き直るが、田中は眉をひそめる。たぬきと麻実子のセンスに納得できなかったのだ。こんな場所が親しみやすくある必要はないだろう、と大声で主張したくなった。
✻
御朱印をカバンにしまった田中は、おそるおそる鳥居の外に出た。そこは普通に、町。
振り向けばビルとビルの隙間の空間が歪み、ぽんぽこ神社の鳥居がそこにギュッと収まっている。
「……え。こわ」
なんとなくホラーみがある見た目。だがそれ以外、町はいつもと変わらなかった。
たくさんの人が行き交う通りは、田中が勤める会社の近くだ。いきなり何故。死んだのは駅……いや、病院なのか? とにかくここじゃない。
「ご都合主義だなッ……!」
小さく叫んだが、その声は誰にも聞こえないらしい。振り向く人はいなかった。
今の田中はいわゆる幽霊であり、こんな真っ昼間に現れると思われていない存在だ。
予想外のものは認知されにくい。だからよほど霊感の強い者でもなければ田中を知覚しないだろう、と言われていた。たぬきから。
「たぬき、てのがなあ……」
どこまで信じていいものやら。なんだか化かされている気がして仕方なかった。
――そのたぬき、ちょっと離れた後ろから田中を尾行している。麻実子と亜奈も一緒だ。
「……どうしてついてくるの、亜奈ちゃん」
「だっておもしろそうだもん」
「他人事だと思って……」
お気楽に初めての町を歩いていく亜奈。麻美子はそっとため息をついた。少しだけ田中がかわいそうになる。
まだ若く、人生も仕事もこれからという時だろうに。転落事故に巻き込まれて死んでみれば、同じ幽霊から未練の成り行きを観察されるとは。とても不憫だ。
「……田中さん、いちばん気になるのが会社って。今そういうの、なんて言うんだっけ」
「社畜でしょ。ブラックな会社とかだったら笑うー」
「ちょっと亜奈ちゃん、どうして笑うのよ」
「なんとなく? あ、でも馬鹿にしてるんじゃないからね?」
言葉の使われ方はどんどんうつろう。麻美子と亜奈の日本語感覚のギャップはなかなか埋まらないのだった。
田中が入ったビルへ、皆でついていく。すると田中はエレベーターに消えるところだった。麻実子は周囲を確認した。
「うん。階段で行きましょ」
「えええー、なのですー!」
田中が何階に行ったのかわからないのだから仕方ない。たぬきたちが各階止まりにしてエレベーターを使うと、一見誰も乗っていないのにドアが開閉するホラーエレベーターが爆誕してしまうのだ。
たぬきの抗議の声を聞かないふりで、麻実子はさっさと階段を上り始めた。でも三階ほどで早々にたぬきの息があがる。
「たぬきは……たぬきはもうおしまいです……」
「情けないなあ」
だが幸いなことに田中は五階にいた。たぬきもヨロヨロたどりつく。田中が持つ御朱印にこめられた神気はたぬきとつながっているので、見失うことはないのだった。
田中はぼう然と立ち尽くしていた。
いつものオフィス。なのに同僚が誰も自分を見ない。挨拶もされない。
聞こえてくる話題は田中の突然の訃報についてが多かった。仕事の引き継ぎ、リスケ、まだ決まらない葬儀もろもろのことなど。
「俺……本当に死んだんだ」
絞り出した声は震えていた。
たぬきたちは離れたところで見守る。これは本人が受容しなければならないことだ。
オフィスに電話が入ったのはそんな時だった。取ったのは、田中の後輩の間中という女性。少し言葉を交わして上司に回す。
「田中さんの、お兄さまという方です」
「ああん?」
渋々電話を受けた上司はいちおう沈痛な声を出した。
「お電話替わりました。このたびは大変なことになりまして、お悔みを申し上げます……はあ、はい」
兄。電話の向こうにいる人のことを考えて田中の鼻の奥がツンとした。
実家も大慌てだろう。昨夜遅くに連絡がいったのか、今朝になってからか。わからないが両親は悲しんでいると思う。驚いて倒れてないといいのだが。
しばらく何事かを話して電話を切った上司は、大きくため息をついた。間中が心配そうにする。
「どんなお話でしたか」
「まあ普通に葬儀をこっちでやるので手伝ってくれと。あと労災の申請を頼むとか」
通勤中の事故死ということになるので遺族補償給付や葬祭料が請求できる。でも上司は不満そうにつぶやいた。
「めんどくせえなあ。ただでさえ人手が足りないってのに、階段から落ちて死ぬなんて」
「そんな」
聞きつけた間中の表情が曇る。悲しげに瞳が揺れた。
「田中さんだって――死にたくなかったはずですよ!」
強く抗議するひと言に、オフィスが沈黙した。
社務所の控室でまんじりともせず夜を明かした田中は、翌日の昼になって「会社を見に行きたい」と申し出た。
「抱えていたプロジェクトもあるし……どうなったかと」
「わりと真面目な方なのですねえ」
たぬきがシレッと失礼なことを言う。でも田中は気にしなかった。そんなことより会社に行きたい。そして確かめたい。
「俺が現世に出ることって、できるんですかね」
「できますです、はいー」
たぬきの返事にホッとした田中へ、麻美子は釘を差す。
「でも幽霊なんだから、そこに行くだけ、ながめるだけね。何もできないのは承知しておいて」
「そう……なんだ」
「物にはさわれないし誰とも話せない。幽霊になったおかげでできるようになるのは……ドアのすり抜けぐらいかしら」
「は? すり抜け?」
「だってさわれないんだもの」
幽霊は現実の物体に干渉できない。だからドアを開けることもできないのだった。
麻実子も含め幽霊は、地面に立ち階段を昇り降りする。だがそれは生きていた頃の習慣としてそう動いてしまうだけ。やろうと思えば地面に沈むことも……たぶんできるはずだ。絵面がホラーすぎてやりたくないが。
「ねえ、あたしそれも説明されてないってば!」
亜奈から抗議の声が上がった。そうか、亜奈はひとりにしなかったので言う必要がなかった。
「だって密室に入る必要なかったし……あまり気持ちいいことじゃないから、やらなくていいのよ」
「え、それ痛かったりするのか」
田中の懸念ももっともだ。麻美子は首を横に振る。
「大丈夫。ただ、自分の体がドアや壁にめり込んでいるのは見たくない、てこと」
「……まあそうだな」
「なので生きている人の動きに乗じて通るのが無難でしょうね。すぐそばにくっついてもたいていバレないから。もちろん霊感の強い人には見られちゃうこともあるけど」
麻美子の説明で田中はうつむいた。会いたいあの人は……特に霊感などないと思う。ということはそばに行っても気づいてもらえないのか。
「それでもよろしいですー?」
たぬきに念を押され、仕方なく田中はうなずいた。ここでくすぶっていてもどうにもならない。
麻美子は御朱印の用意をした。
紙に筆を走らせ「狸穴神社」の字を記す。
たぬきは朱肉で、肉球をポンッ。
「これをお持ちになれば、お出かけ可能でございますー」
「お、おう……」
いったいどういうシステムなんだろう。渡された御朱印を受け取った田中は、まじまじと文字を見つめた。
「……ここ、〈ぽんぽこ神社〉じゃなかったっけ。最初そう言ってた気が……まみあな?」
「この御朱印そう読むの? 田中さんすっごいじゃん!」
亜奈は自分の御朱印を広げて感心している。
「あたしコレ、どういう意味かわかんなかったんだよね。ここの名前なんだ?」
「亜奈さん……かわいい御朱印だと褒めてましたのにー!」
「あはは。それはたぬきゅんの肉球のことだってば」
読めずにスルーしていただけと判明し、たぬきはしょんぼりする。亜奈らしいかも、と麻美子は苦笑いだった。
「ぽんぽこ神社は愛称として付けてみたのよね。親しみやすいでしょ?」
麻実子はニッコリ開き直るが、田中は眉をひそめる。たぬきと麻実子のセンスに納得できなかったのだ。こんな場所が親しみやすくある必要はないだろう、と大声で主張したくなった。
✻
御朱印をカバンにしまった田中は、おそるおそる鳥居の外に出た。そこは普通に、町。
振り向けばビルとビルの隙間の空間が歪み、ぽんぽこ神社の鳥居がそこにギュッと収まっている。
「……え。こわ」
なんとなくホラーみがある見た目。だがそれ以外、町はいつもと変わらなかった。
たくさんの人が行き交う通りは、田中が勤める会社の近くだ。いきなり何故。死んだのは駅……いや、病院なのか? とにかくここじゃない。
「ご都合主義だなッ……!」
小さく叫んだが、その声は誰にも聞こえないらしい。振り向く人はいなかった。
今の田中はいわゆる幽霊であり、こんな真っ昼間に現れると思われていない存在だ。
予想外のものは認知されにくい。だからよほど霊感の強い者でもなければ田中を知覚しないだろう、と言われていた。たぬきから。
「たぬき、てのがなあ……」
どこまで信じていいものやら。なんだか化かされている気がして仕方なかった。
――そのたぬき、ちょっと離れた後ろから田中を尾行している。麻実子と亜奈も一緒だ。
「……どうしてついてくるの、亜奈ちゃん」
「だっておもしろそうだもん」
「他人事だと思って……」
お気楽に初めての町を歩いていく亜奈。麻美子はそっとため息をついた。少しだけ田中がかわいそうになる。
まだ若く、人生も仕事もこれからという時だろうに。転落事故に巻き込まれて死んでみれば、同じ幽霊から未練の成り行きを観察されるとは。とても不憫だ。
「……田中さん、いちばん気になるのが会社って。今そういうの、なんて言うんだっけ」
「社畜でしょ。ブラックな会社とかだったら笑うー」
「ちょっと亜奈ちゃん、どうして笑うのよ」
「なんとなく? あ、でも馬鹿にしてるんじゃないからね?」
言葉の使われ方はどんどんうつろう。麻美子と亜奈の日本語感覚のギャップはなかなか埋まらないのだった。
田中が入ったビルへ、皆でついていく。すると田中はエレベーターに消えるところだった。麻実子は周囲を確認した。
「うん。階段で行きましょ」
「えええー、なのですー!」
田中が何階に行ったのかわからないのだから仕方ない。たぬきたちが各階止まりにしてエレベーターを使うと、一見誰も乗っていないのにドアが開閉するホラーエレベーターが爆誕してしまうのだ。
たぬきの抗議の声を聞かないふりで、麻実子はさっさと階段を上り始めた。でも三階ほどで早々にたぬきの息があがる。
「たぬきは……たぬきはもうおしまいです……」
「情けないなあ」
だが幸いなことに田中は五階にいた。たぬきもヨロヨロたどりつく。田中が持つ御朱印にこめられた神気はたぬきとつながっているので、見失うことはないのだった。
田中はぼう然と立ち尽くしていた。
いつものオフィス。なのに同僚が誰も自分を見ない。挨拶もされない。
聞こえてくる話題は田中の突然の訃報についてが多かった。仕事の引き継ぎ、リスケ、まだ決まらない葬儀もろもろのことなど。
「俺……本当に死んだんだ」
絞り出した声は震えていた。
たぬきたちは離れたところで見守る。これは本人が受容しなければならないことだ。
オフィスに電話が入ったのはそんな時だった。取ったのは、田中の後輩の間中という女性。少し言葉を交わして上司に回す。
「田中さんの、お兄さまという方です」
「ああん?」
渋々電話を受けた上司はいちおう沈痛な声を出した。
「お電話替わりました。このたびは大変なことになりまして、お悔みを申し上げます……はあ、はい」
兄。電話の向こうにいる人のことを考えて田中の鼻の奥がツンとした。
実家も大慌てだろう。昨夜遅くに連絡がいったのか、今朝になってからか。わからないが両親は悲しんでいると思う。驚いて倒れてないといいのだが。
しばらく何事かを話して電話を切った上司は、大きくため息をついた。間中が心配そうにする。
「どんなお話でしたか」
「まあ普通に葬儀をこっちでやるので手伝ってくれと。あと労災の申請を頼むとか」
通勤中の事故死ということになるので遺族補償給付や葬祭料が請求できる。でも上司は不満そうにつぶやいた。
「めんどくせえなあ。ただでさえ人手が足りないってのに、階段から落ちて死ぬなんて」
「そんな」
聞きつけた間中の表情が曇る。悲しげに瞳が揺れた。
「田中さんだって――死にたくなかったはずですよ!」
強く抗議するひと言に、オフィスが沈黙した。



