波瑠の家は、ごく普通のファミリー向けマンションだった。両親と娘二人で暮らしているそう。その前で波瑠はふと立ちすくんだ。後ろについてくるたぬきたちを確認して口走る。
「……私が死んだのって昨日よね?」
「ですですー」
「じゃあまだ、体は……ううん、家には戻さないで霊安室から斎場に直行かな。なら大丈夫」
とても現実的な分析を繰り出す波瑠だったが、つまり自分の遺体に対面するのが怖かったのだ。その気持ちはわかる。
ふん、と気合を入れ直した波瑠だったが、その視線がたぬきたちの後ろに向けられた。息を飲む。
「那月……」
駅の方から歩いてきたのは、波瑠の姉だった。妹の死が急すぎたために今朝は一度出社し、仕事の手配をしてきたのだった。ろくに眠れていないのか顔色がひどい。那月は波瑠の前をせかせかと通りすぎていった。
「なつ……き」
「ほら、せっかくだから一緒に行きましょ」
姉が自分を見てくれないことにショックを受けた波瑠の背を、麻実子は冷静に押した。
生者とのすれ違い。それがいちばん死者の心にくるのはいつも見ている。そこで泣き崩れる人なら神社に連れ帰り何日でも保護するが、波瑠はおそらくリアリスト寄りの性格だ。
「……うん。ありがとう、行くわ」
ほら、やはり。グッと唇を結んで姉を追う波瑠の足取りはしっかりしていた。
家に帰ってみたら両親の表情は硬かった。わりとテキパキとPCを使い、葬儀の見積もりを取っている。
おそらく悲しむより何より、やらなければならないことを機械的にこなす段階にいるのだ。遺族としてはよくある状態で、この場合もろもろの手続きや葬儀を済ませてからガックリくることが多い。
「……お母さん。お父さん」
両親の様子を見た波瑠はうめいた。くつろいだ普段の顔と比べて目が吊り上がり頬が強張り、無理をしているのが一目瞭然だった。自分のせいで苦しめてしまっているのがいたたまれない。
「波瑠さんは愛されてるんだね。みんなすっごく悲しそう」
亜奈がそっとささやいた。波瑠は無言でうなずく。
親より先に死んだ娘、という点で波瑠には共感しかない亜奈だった。酒店へ謝罪に訪れた達彦たちの前で泣いていた母のことを思い出す。でも波瑠の母はまだ泣くこともできないようだ。
「なっちゃん、はるちゃんのお仕事関係には連絡できたの?」
「うん。何件か抱えてたみたいだけど、メール回してもらってる」
波瑠はパタンナーとして業務委託を受けていた。進行中で投げ出す形になった仕事のことを考えると申し訳ない。
でもそれより、母が「はるちゃん」と言ったのがたまらなかった。子どもの頃と変わらない、その呼び方。波瑠は大人になった今も――この両親の娘なのだ。
家族から目をそらした波瑠は、荒くなる呼吸を必死にととのえ自室へ向かった。
そこにはトルソーとドレスが置かれている。波瑠は倒れる時にこれへ抱きつき、そのまますぐ息絶えたらしい。それで手荷物として一緒に神社へ持ち込まれたというわけだ。
「どうしてここにもドレスが……?」
波瑠は目をまるくして気味悪そうだ。でも神社に残してきたのは霊体で、こっちが本物。
作業台の上には裁断された立襟のパーツも並べられている。手に取ろうとした波瑠はなんの感触もないことに驚愕の顔になった。レースにさわれないのではボレロを仕上げることなどできない。
「嘘……」
自分はもう幽霊だと言われたのを思い出した。あらためて死の実感が湧いてくる。波瑠は現世では何もできない、無力な存在になってしまったのだ。
✻ ✻ ✻
ぽんぽこ神社の社務所の中で、波瑠は考え込んでいた。どうすれば姉の結婚式をとどこおりなく挙げることができるだろうか。
一、ボレロなしで波瑠のドレスを着る。
二、未完のドレスなど諦めて既製品をレンタルする。
三、ボレロを別の誰か――波瑠の仕事仲間などに仕上げてもらう。
「うん、誰かに依頼するのがいちばんマシか」
波瑠はうなずく。
あと少しで完成するところだったのだ。仮縫いして那月に試着してもらい、調整のうえで本縫いするだけ。友人に頼み込んでもそんなに負担にはならない。
そのあたりの実際的な試算を平気でしてしまうのが波瑠なのだった。自分の死から始まった問題なのにドライというかなんというか。
「でもその提案、どうやって那月に伝えればいいんだろ……?」
波瑠の姿は姉に見えていなかった。ということは、声も聞こえはしないだろう。
✻
「そういうことなら、このたぬきにお任せあれですー」
相談してきた波瑠に、たぬきは満面の笑みで応じた。ここは神としての力の見せどころ。
「たぬきが波瑠さんに化けて、お姉さんとお話しいたしますですー」
「化け……ああ、たぬきだものね。納得」
秒速で波瑠が理解してくれ、麻実子は苦笑いだった。適応能力が高い。
「ところで波瑠さん、本当に葬儀へ行かなくてよかったの?」
実は今日が波瑠の葬儀の日。だが波瑠は首を横に振った。
「むしろ無理。みんなの反応見るの怖いし。付き合いで焼香しに来る人とかもいるでしょ。普通は自分の葬式なんて知らずに済むんだから、そんなのいらないわよ」
「ほんと波瑠さんてサバサバしてるわ……」
「ああでも、今日なら那月の相手も来るはずだし、そっちの確認はしておきたいかな」
「婚約者さん? 何を確認するの」
「結婚式。日程ずらしたりしないかどうか」
妹の喪が明けないうちに寿というのも体裁が悪い。そう判断されたら式は延期だ。
「そんなの嫌だから……キャンセル料とか出席者への連絡とか、えらいことだよ。那月の幸せを邪魔したくない」
波瑠の願いはどこまでも姉のため。もしそういう流れになっていたら、化けて出て阻止するしかあるまい。
腕が鳴る――たぬきはそう思った。
「……私が死んだのって昨日よね?」
「ですですー」
「じゃあまだ、体は……ううん、家には戻さないで霊安室から斎場に直行かな。なら大丈夫」
とても現実的な分析を繰り出す波瑠だったが、つまり自分の遺体に対面するのが怖かったのだ。その気持ちはわかる。
ふん、と気合を入れ直した波瑠だったが、その視線がたぬきたちの後ろに向けられた。息を飲む。
「那月……」
駅の方から歩いてきたのは、波瑠の姉だった。妹の死が急すぎたために今朝は一度出社し、仕事の手配をしてきたのだった。ろくに眠れていないのか顔色がひどい。那月は波瑠の前をせかせかと通りすぎていった。
「なつ……き」
「ほら、せっかくだから一緒に行きましょ」
姉が自分を見てくれないことにショックを受けた波瑠の背を、麻実子は冷静に押した。
生者とのすれ違い。それがいちばん死者の心にくるのはいつも見ている。そこで泣き崩れる人なら神社に連れ帰り何日でも保護するが、波瑠はおそらくリアリスト寄りの性格だ。
「……うん。ありがとう、行くわ」
ほら、やはり。グッと唇を結んで姉を追う波瑠の足取りはしっかりしていた。
家に帰ってみたら両親の表情は硬かった。わりとテキパキとPCを使い、葬儀の見積もりを取っている。
おそらく悲しむより何より、やらなければならないことを機械的にこなす段階にいるのだ。遺族としてはよくある状態で、この場合もろもろの手続きや葬儀を済ませてからガックリくることが多い。
「……お母さん。お父さん」
両親の様子を見た波瑠はうめいた。くつろいだ普段の顔と比べて目が吊り上がり頬が強張り、無理をしているのが一目瞭然だった。自分のせいで苦しめてしまっているのがいたたまれない。
「波瑠さんは愛されてるんだね。みんなすっごく悲しそう」
亜奈がそっとささやいた。波瑠は無言でうなずく。
親より先に死んだ娘、という点で波瑠には共感しかない亜奈だった。酒店へ謝罪に訪れた達彦たちの前で泣いていた母のことを思い出す。でも波瑠の母はまだ泣くこともできないようだ。
「なっちゃん、はるちゃんのお仕事関係には連絡できたの?」
「うん。何件か抱えてたみたいだけど、メール回してもらってる」
波瑠はパタンナーとして業務委託を受けていた。進行中で投げ出す形になった仕事のことを考えると申し訳ない。
でもそれより、母が「はるちゃん」と言ったのがたまらなかった。子どもの頃と変わらない、その呼び方。波瑠は大人になった今も――この両親の娘なのだ。
家族から目をそらした波瑠は、荒くなる呼吸を必死にととのえ自室へ向かった。
そこにはトルソーとドレスが置かれている。波瑠は倒れる時にこれへ抱きつき、そのまますぐ息絶えたらしい。それで手荷物として一緒に神社へ持ち込まれたというわけだ。
「どうしてここにもドレスが……?」
波瑠は目をまるくして気味悪そうだ。でも神社に残してきたのは霊体で、こっちが本物。
作業台の上には裁断された立襟のパーツも並べられている。手に取ろうとした波瑠はなんの感触もないことに驚愕の顔になった。レースにさわれないのではボレロを仕上げることなどできない。
「嘘……」
自分はもう幽霊だと言われたのを思い出した。あらためて死の実感が湧いてくる。波瑠は現世では何もできない、無力な存在になってしまったのだ。
✻ ✻ ✻
ぽんぽこ神社の社務所の中で、波瑠は考え込んでいた。どうすれば姉の結婚式をとどこおりなく挙げることができるだろうか。
一、ボレロなしで波瑠のドレスを着る。
二、未完のドレスなど諦めて既製品をレンタルする。
三、ボレロを別の誰か――波瑠の仕事仲間などに仕上げてもらう。
「うん、誰かに依頼するのがいちばんマシか」
波瑠はうなずく。
あと少しで完成するところだったのだ。仮縫いして那月に試着してもらい、調整のうえで本縫いするだけ。友人に頼み込んでもそんなに負担にはならない。
そのあたりの実際的な試算を平気でしてしまうのが波瑠なのだった。自分の死から始まった問題なのにドライというかなんというか。
「でもその提案、どうやって那月に伝えればいいんだろ……?」
波瑠の姿は姉に見えていなかった。ということは、声も聞こえはしないだろう。
✻
「そういうことなら、このたぬきにお任せあれですー」
相談してきた波瑠に、たぬきは満面の笑みで応じた。ここは神としての力の見せどころ。
「たぬきが波瑠さんに化けて、お姉さんとお話しいたしますですー」
「化け……ああ、たぬきだものね。納得」
秒速で波瑠が理解してくれ、麻実子は苦笑いだった。適応能力が高い。
「ところで波瑠さん、本当に葬儀へ行かなくてよかったの?」
実は今日が波瑠の葬儀の日。だが波瑠は首を横に振った。
「むしろ無理。みんなの反応見るの怖いし。付き合いで焼香しに来る人とかもいるでしょ。普通は自分の葬式なんて知らずに済むんだから、そんなのいらないわよ」
「ほんと波瑠さんてサバサバしてるわ……」
「ああでも、今日なら那月の相手も来るはずだし、そっちの確認はしておきたいかな」
「婚約者さん? 何を確認するの」
「結婚式。日程ずらしたりしないかどうか」
妹の喪が明けないうちに寿というのも体裁が悪い。そう判断されたら式は延期だ。
「そんなの嫌だから……キャンセル料とか出席者への連絡とか、えらいことだよ。那月の幸せを邪魔したくない」
波瑠の願いはどこまでも姉のため。もしそういう流れになっていたら、化けて出て阻止するしかあるまい。
腕が鳴る――たぬきはそう思った。



