✻ ✻ ✻
「あのね亜奈ちゃん、あなたって何をどうしたいのかな。自分の望み――まるでわからない?」
麻美子の口調は淡々としていたが、問う言葉は厳しかった。
ここは二人の地元の商店街。麻美子と亜奈、二人で散歩に出ている。たぬきは留守番だ。しなくていい運動など、たぬきがするわけはない。
「あたしの未練……かぁ。何をどう、と言われましても」
「だってもう、神社に来てからけっこう経つのよ」
ヘラヘラする亜奈に向ける麻美子の目はくもっていた。
亜奈がぽんぽこ神社へ来たのは、世界が春めきかけた二月の終わり頃。今はもう四月だ。すっかり暖かくなり、世間では新年度が走り出している。
そして間もなく五十日の忌が明けるのだった。そのため麻美子は焦り始めている。
「亜奈ちゃんて、殺されたんじゃなかったし、幼なじみラブコメは本気じゃなさそうだし、推しのフォクシーにも会ったのに」
「うーん、あたしフツーに消えないね」
亜奈は照れたように笑う。笑っている場合じゃないのはわかっているけど、笑うしかなかった。
これはぽんぽこ神社の使命にかかわる本質的な問題。未練に迷う死者の魂を救うために、たぬきはいるのだ。幽霊を送り出すのが仕事なのに亜奈に居残られたら困るだろう。
「だけどさあ、それは麻実たんだって一緒じゃん? 八十年の時を越え、そろそろ旅立つべきだよ」
「……わかってるけど」
亜奈にしては正論だった。言われたことに麻実子もうなずく。長年幽霊として居座り続けた麻実子が他人にどうこう言うのはおかしい。
「麻実たんって、生きてた頃はどんな子だったの? 今はすっかり巫女さんだよね」
いきなりの問いに虚を突かれ、麻実子はゆっくりと空をあおいだ。
生きていた時――もうあやふやになりかけている記憶を探る。
「……とにかく、生きてたと思う」
こぼれ出た言葉はほとんど意味をなさなかった。でもそれがあの頃の真実。
麻実子は長女で、すぐ下の弟の他にも妹たちがいて子守をしていた。
実家の蕎麦屋は戦争で経営がぼろぼろだった。働いてくれていた人が兵隊に取られたし、食糧も品薄になっていったから。
父が出征し、祖父は苛立ち、町には防空壕がつくられた。空襲警報はだんだん増えた。挺身隊として工場に配属された麻実子は毎日単純作業をくりかえしていて――。
「戦争いつ終わるだろう、とは思ってたかな……どうなれば勝つとか負けるとかもわからないんだけど。終わったらきれいな服も着ていいし……母さんの着物が箪笥にしまってあってね。それをたまに虫干しで広げるじゃない? 華やかな銘仙、大好きだった」
あの着物も、空襲で燃えたのか。あらためて思うと寂しくなった。
そんな麻実子の横顔を盗み見て、亜奈の胸にモヤモヤが広がる。想像もできない暮らしをしてきた人が隣にいるのだ。
麻実子が述懐したことを理解するのは亜奈には難しい。銘仙とはなんなのか知らないし、着物を風にあてるのもやったことがなかった。浴衣ぐらいなら着たことはあるが洗濯機でガンガン洗って干しておしまいだ。
「……麻美たん、おしゃれしたかったの?」
「ううん自分は別に。もんぺも動きやすかったし」
もんぺ。それはモンスターペアレントのことではなく、実用的に仕立てたズボンのようなもの。それと無地のブラウスという服で、麻実子は工場へ通っていた。
「きれいな格好すると、皆が嬉しくなるでしょ。それを見ているのがよかったの」
近所のお姉さんが結婚したときにはお祝いに集まった女たちから歓声があがったものだ。お嫁さんが母親ゆずりの花嫁衣裳を身につけたので。久しぶりに美しいものを見た気がして、麻実子も幸せな気分だった。
それでも一部の大人からは「この時局に」「非国民だ」と陰口されていたのを思い出す。
「え……なんで。一生に一度のことじゃん? パーッといこうよ」
「ぜいたくは敵だったから。新しくあつらえた衣装ってわけじゃないのにね。しかも花婿さんが出征するからって急いで挙げた式だったのよ」
「なんてゆーか……意味わかんない。すごかったんだね」
時代が、だ。
亜奈の家だって裕福ではないが、かわいい服ぐらい買ってもらえた。ぜいたくはできないけど、働かされたことはない。式典かあれば記念写真を撮って祝ってもらうのが当たり前だった。
SNSでは皆が食べたものや買ったものを自慢している。それをなんとも思わずながめていたけど、麻実子が教えてくれたような生活をしていた頃からまだ百年も経っていないのだ。曾祖父母の時代の日本がそんなだったなんて。
「あたしの服……うちにまだ残ってるはずだけど。ワンピとかもあるよ。麻実たんに着せてあげたい」
「現世の物だから無理よ」
「そっか……」
亜奈の家はすぐそこだ。今日の散歩は両親がどうしているかを偵察するためでもあるのだが、亜奈は誘ってみた。
「蕎麦屋も見ていこうよ。麻実たんの子孫だもん」
「直系じゃないけどね……亜奈ちゃんも達彦くんが心配でしょう? あの子、落ち込んでたけど元気出たかしら」
麻実子は当たり前のように亜奈のことばかり気づかう。そうじゃなくて、麻実子の未練についても考えたいと亜奈は思った。
巫女として、幽霊たちの未練を考える暮らしはきっと――麻実子が戦時中に身につけた生き方が元になっているのだ。わずかな物を分け、互いに支え合わないと生きられなかった時代。
麻美子は自分が何かを望んでいいということすら知らない。いや知ってはいるけど、心がうまく動かないのだろう。何も望むことなく生きたから。
(麻実たんが好きなことってなんだろ……)
亜奈は唇をとがらせ考え込んだ。
「あのね亜奈ちゃん、あなたって何をどうしたいのかな。自分の望み――まるでわからない?」
麻美子の口調は淡々としていたが、問う言葉は厳しかった。
ここは二人の地元の商店街。麻美子と亜奈、二人で散歩に出ている。たぬきは留守番だ。しなくていい運動など、たぬきがするわけはない。
「あたしの未練……かぁ。何をどう、と言われましても」
「だってもう、神社に来てからけっこう経つのよ」
ヘラヘラする亜奈に向ける麻美子の目はくもっていた。
亜奈がぽんぽこ神社へ来たのは、世界が春めきかけた二月の終わり頃。今はもう四月だ。すっかり暖かくなり、世間では新年度が走り出している。
そして間もなく五十日の忌が明けるのだった。そのため麻美子は焦り始めている。
「亜奈ちゃんて、殺されたんじゃなかったし、幼なじみラブコメは本気じゃなさそうだし、推しのフォクシーにも会ったのに」
「うーん、あたしフツーに消えないね」
亜奈は照れたように笑う。笑っている場合じゃないのはわかっているけど、笑うしかなかった。
これはぽんぽこ神社の使命にかかわる本質的な問題。未練に迷う死者の魂を救うために、たぬきはいるのだ。幽霊を送り出すのが仕事なのに亜奈に居残られたら困るだろう。
「だけどさあ、それは麻実たんだって一緒じゃん? 八十年の時を越え、そろそろ旅立つべきだよ」
「……わかってるけど」
亜奈にしては正論だった。言われたことに麻実子もうなずく。長年幽霊として居座り続けた麻実子が他人にどうこう言うのはおかしい。
「麻実たんって、生きてた頃はどんな子だったの? 今はすっかり巫女さんだよね」
いきなりの問いに虚を突かれ、麻実子はゆっくりと空をあおいだ。
生きていた時――もうあやふやになりかけている記憶を探る。
「……とにかく、生きてたと思う」
こぼれ出た言葉はほとんど意味をなさなかった。でもそれがあの頃の真実。
麻実子は長女で、すぐ下の弟の他にも妹たちがいて子守をしていた。
実家の蕎麦屋は戦争で経営がぼろぼろだった。働いてくれていた人が兵隊に取られたし、食糧も品薄になっていったから。
父が出征し、祖父は苛立ち、町には防空壕がつくられた。空襲警報はだんだん増えた。挺身隊として工場に配属された麻実子は毎日単純作業をくりかえしていて――。
「戦争いつ終わるだろう、とは思ってたかな……どうなれば勝つとか負けるとかもわからないんだけど。終わったらきれいな服も着ていいし……母さんの着物が箪笥にしまってあってね。それをたまに虫干しで広げるじゃない? 華やかな銘仙、大好きだった」
あの着物も、空襲で燃えたのか。あらためて思うと寂しくなった。
そんな麻実子の横顔を盗み見て、亜奈の胸にモヤモヤが広がる。想像もできない暮らしをしてきた人が隣にいるのだ。
麻実子が述懐したことを理解するのは亜奈には難しい。銘仙とはなんなのか知らないし、着物を風にあてるのもやったことがなかった。浴衣ぐらいなら着たことはあるが洗濯機でガンガン洗って干しておしまいだ。
「……麻美たん、おしゃれしたかったの?」
「ううん自分は別に。もんぺも動きやすかったし」
もんぺ。それはモンスターペアレントのことではなく、実用的に仕立てたズボンのようなもの。それと無地のブラウスという服で、麻実子は工場へ通っていた。
「きれいな格好すると、皆が嬉しくなるでしょ。それを見ているのがよかったの」
近所のお姉さんが結婚したときにはお祝いに集まった女たちから歓声があがったものだ。お嫁さんが母親ゆずりの花嫁衣裳を身につけたので。久しぶりに美しいものを見た気がして、麻実子も幸せな気分だった。
それでも一部の大人からは「この時局に」「非国民だ」と陰口されていたのを思い出す。
「え……なんで。一生に一度のことじゃん? パーッといこうよ」
「ぜいたくは敵だったから。新しくあつらえた衣装ってわけじゃないのにね。しかも花婿さんが出征するからって急いで挙げた式だったのよ」
「なんてゆーか……意味わかんない。すごかったんだね」
時代が、だ。
亜奈の家だって裕福ではないが、かわいい服ぐらい買ってもらえた。ぜいたくはできないけど、働かされたことはない。式典かあれば記念写真を撮って祝ってもらうのが当たり前だった。
SNSでは皆が食べたものや買ったものを自慢している。それをなんとも思わずながめていたけど、麻実子が教えてくれたような生活をしていた頃からまだ百年も経っていないのだ。曾祖父母の時代の日本がそんなだったなんて。
「あたしの服……うちにまだ残ってるはずだけど。ワンピとかもあるよ。麻実たんに着せてあげたい」
「現世の物だから無理よ」
「そっか……」
亜奈の家はすぐそこだ。今日の散歩は両親がどうしているかを偵察するためでもあるのだが、亜奈は誘ってみた。
「蕎麦屋も見ていこうよ。麻実たんの子孫だもん」
「直系じゃないけどね……亜奈ちゃんも達彦くんが心配でしょう? あの子、落ち込んでたけど元気出たかしら」
麻実子は当たり前のように亜奈のことばかり気づかう。そうじゃなくて、麻実子の未練についても考えたいと亜奈は思った。
巫女として、幽霊たちの未練を考える暮らしはきっと――麻実子が戦時中に身につけた生き方が元になっているのだ。わずかな物を分け、互いに支え合わないと生きられなかった時代。
麻美子は自分が何かを望んでいいということすら知らない。いや知ってはいるけど、心がうまく動かないのだろう。何も望むことなく生きたから。
(麻実たんが好きなことってなんだろ……)
亜奈は唇をとがらせ考え込んだ。



