たぬきが足もとでずずいと前に出た。スタッフ女性の目が点になる。
「たぬ……アライグ……ううん、たぬき?」
似ているけど、アライグマじゃありません。そう思ったが無言のまま、麻美子はたぬきを抱き上げた。静かにジッと視線を返す。できるだけ恨めしげな雰囲気を心がけてみた。
「……ひっ!」
スタッフは、どうやら相手が霊体だと悟ったみたいだ。一気に顔が青ざめる。
そろり、そろり後ずさる。そして――ダダダダッ!
「うっははっ! 逃げたねー」
手を叩いて笑ったのは亜奈だった。そんなにおもしろがってはかわいそうだろう、と麻美子は口をへの字にした。
感受性豊かなことで、彼女の人生には苦労があったと思う。今だってそこらへんの何も感じない人々が怪訝な顔で見送っていた。
「ずいぶんはっきり見える人みたいだけど……」
「そうかも。麻実たんの服、ドラマ撮影だと思われたんでしょ。超ウケた」
「もういいから、フォクシーを探しましょ」
「そうだった!」
亜奈は表情をキリリとあらためた。
今日の目的は、Fox:y にひと目会うこと。間もなく昼のバラエティが始まる時間なので、絶対に在局しているはずだ。
控え室、と表示されている廊下へ行くと、名前の書かれた扉が並んでいた。ひとつひとつ確かめる。
「うわっ……」
あった。〈 Fox:y 〉という札。
亜奈が手で顔をおおってしゃがみ込む。
「ちょ、マジか……どーしよ」
「どうしようって、会いたくて来たんでしょ。入ろうよ」
「待って待って心の準備が。それに楽屋内でのオフショなんて盗み見ていいものじゃないってば」
「オフ……? それは、メンバーがダラダラしてたら幻滅するかも、てこと?」
「んなわけないでしょ!」
亜奈の叫び声は小さかった。推しが仕事前で集中しているだろうに、邪魔はできないという無意識の配慮だ。大声をあげてもたぶん Fox:y には聞こえないのだが、それはそれとして。
「ケンは寝てようがぼんやりしてようがカッコいいに決まってるんだよそれがこの世の真理だからね? でもあたしらファンがそれを勝手にのぞくのは違うでしょ聖域に土足で踏み込むんですかあなたはってこと」
「ふ、ふうん?」
また亜奈が早口になったので麻美子はあいまいに引き下がった。
未練を晴らしたいのは亜奈なのだから、気のすむようにすればいいのだ。控え室に入るのがファンとして禁じ手なら、出待ちするのみ。この中に Fox:y がいるのかいないのかわからないが、たぬきも麻美子も待つのは得意だ。
しかしあまり待つことなく、その時は訪れた。スタスタ廊下を歩いてきた男性が迷いなくドアをノックし、返事もないのにさっさと開ける。
「準備いいかな? そろそろ移動するよ」
「うぃーす!」
「わかりました、行きます」
「はぁい!」
「じゃあみんな、よろしく!」
中からもれてきた四者四様の返事。入っていったのがマネージャーで、反応したのがケン・ルカ・タヒコ・サクヤだ。
亜奈は廊下に伏した。控え室方面を拝み始める。
「ケン……生声を聞ける日があるとは、あたしの耳はなんという果報者なんでしょうか。天にも昇る心持ちとはこのことっ」
本格的に振る舞いが面倒くさくなってきた亜奈を、たぬきと麻美子は一歩引いてながめている。ひざまずいたままの亜奈は顔を上げ、ドアを見つめた。
「よぉっし、ブチかますぜ!」
先頭に立って出てきたのはケンだった。間近に現れた推しの姿に亜奈はワナワナふるえ出す。
「亜奈ちゃん……」
もしかして未練が解消されるのだろうか。亜奈はとうとう消えていくのか。たぬきと麻美子は固唾をのんで見守った。
微笑みながら続くルカ。ピョンと追いついたタヒコはケンに抱きつく。
「ケンったら元気だねっ」
「たりめーだ。サクヤのドラマの宣伝だぜ? 気合い入れていかないとな!」
「はは、ありがとう。ケンはいい子だね」
「子ども扱いすんなよ!」
のんびり出てきたリーダーにほめられてケンが照れる。 Fox:y の仲のよさを見せつけられた亜奈は瞳をうるませた。
「尊死……」
バックステージにいても気づかい合うなんて。 Fox:y はカメラの前でだけビジネス団結力を売っているのではないらしい。
「人を化かしたりはしないようです……?」
「グループ名は色気の方に由来するんじゃないかしら」
こそっとささやいた麻美子は廊下の向こうに人影を見つけた。なんと、さっきの霊感女性スタッフだ。実はこれから Fox:y が出演する番組の担当で、彼らを迎えに来たのだった。明るく挨拶する。
「 Fox:y さん、よろしくお願いしま――ヒッ!」
悲鳴をあげ硬直したスタッフの視線の先を Fox:y も振り返る。
そこには廊下に膝をついて推しを拝む亜奈や、憮然とする麻美子、そしてポッテリたぬきがいたのだが―― Fox:y の四人とマネージャーは霊感がないのか、首をかしげられただけだった。
「きゃつら、おそらくきつねとは無関係なのですー」
「……そりゃそうよ」
たぬきにとって狐はライバル種族。同一視して Fox:y を警戒していたたぬきだが、彼らに神気が存在しなかったことで満足げになる。やはり Fox:y はただの人間のアイドルなのだった。
「ああぁ……本物のケンが視線くれたよぅ……もう死んでもいいです」
今の亜奈、推し活ウチワは持っていない。なのにガチめの〈こっち見て〉が実現して感激のあまり涙ぐんだ。
こうなるとさすがに未練も解消されたかと思って注視した麻美子だったが――。
亜奈は、まだ消えていかなかった。
「たぬ……アライグ……ううん、たぬき?」
似ているけど、アライグマじゃありません。そう思ったが無言のまま、麻美子はたぬきを抱き上げた。静かにジッと視線を返す。できるだけ恨めしげな雰囲気を心がけてみた。
「……ひっ!」
スタッフは、どうやら相手が霊体だと悟ったみたいだ。一気に顔が青ざめる。
そろり、そろり後ずさる。そして――ダダダダッ!
「うっははっ! 逃げたねー」
手を叩いて笑ったのは亜奈だった。そんなにおもしろがってはかわいそうだろう、と麻美子は口をへの字にした。
感受性豊かなことで、彼女の人生には苦労があったと思う。今だってそこらへんの何も感じない人々が怪訝な顔で見送っていた。
「ずいぶんはっきり見える人みたいだけど……」
「そうかも。麻実たんの服、ドラマ撮影だと思われたんでしょ。超ウケた」
「もういいから、フォクシーを探しましょ」
「そうだった!」
亜奈は表情をキリリとあらためた。
今日の目的は、Fox:y にひと目会うこと。間もなく昼のバラエティが始まる時間なので、絶対に在局しているはずだ。
控え室、と表示されている廊下へ行くと、名前の書かれた扉が並んでいた。ひとつひとつ確かめる。
「うわっ……」
あった。〈 Fox:y 〉という札。
亜奈が手で顔をおおってしゃがみ込む。
「ちょ、マジか……どーしよ」
「どうしようって、会いたくて来たんでしょ。入ろうよ」
「待って待って心の準備が。それに楽屋内でのオフショなんて盗み見ていいものじゃないってば」
「オフ……? それは、メンバーがダラダラしてたら幻滅するかも、てこと?」
「んなわけないでしょ!」
亜奈の叫び声は小さかった。推しが仕事前で集中しているだろうに、邪魔はできないという無意識の配慮だ。大声をあげてもたぶん Fox:y には聞こえないのだが、それはそれとして。
「ケンは寝てようがぼんやりしてようがカッコいいに決まってるんだよそれがこの世の真理だからね? でもあたしらファンがそれを勝手にのぞくのは違うでしょ聖域に土足で踏み込むんですかあなたはってこと」
「ふ、ふうん?」
また亜奈が早口になったので麻美子はあいまいに引き下がった。
未練を晴らしたいのは亜奈なのだから、気のすむようにすればいいのだ。控え室に入るのがファンとして禁じ手なら、出待ちするのみ。この中に Fox:y がいるのかいないのかわからないが、たぬきも麻美子も待つのは得意だ。
しかしあまり待つことなく、その時は訪れた。スタスタ廊下を歩いてきた男性が迷いなくドアをノックし、返事もないのにさっさと開ける。
「準備いいかな? そろそろ移動するよ」
「うぃーす!」
「わかりました、行きます」
「はぁい!」
「じゃあみんな、よろしく!」
中からもれてきた四者四様の返事。入っていったのがマネージャーで、反応したのがケン・ルカ・タヒコ・サクヤだ。
亜奈は廊下に伏した。控え室方面を拝み始める。
「ケン……生声を聞ける日があるとは、あたしの耳はなんという果報者なんでしょうか。天にも昇る心持ちとはこのことっ」
本格的に振る舞いが面倒くさくなってきた亜奈を、たぬきと麻美子は一歩引いてながめている。ひざまずいたままの亜奈は顔を上げ、ドアを見つめた。
「よぉっし、ブチかますぜ!」
先頭に立って出てきたのはケンだった。間近に現れた推しの姿に亜奈はワナワナふるえ出す。
「亜奈ちゃん……」
もしかして未練が解消されるのだろうか。亜奈はとうとう消えていくのか。たぬきと麻美子は固唾をのんで見守った。
微笑みながら続くルカ。ピョンと追いついたタヒコはケンに抱きつく。
「ケンったら元気だねっ」
「たりめーだ。サクヤのドラマの宣伝だぜ? 気合い入れていかないとな!」
「はは、ありがとう。ケンはいい子だね」
「子ども扱いすんなよ!」
のんびり出てきたリーダーにほめられてケンが照れる。 Fox:y の仲のよさを見せつけられた亜奈は瞳をうるませた。
「尊死……」
バックステージにいても気づかい合うなんて。 Fox:y はカメラの前でだけビジネス団結力を売っているのではないらしい。
「人を化かしたりはしないようです……?」
「グループ名は色気の方に由来するんじゃないかしら」
こそっとささやいた麻美子は廊下の向こうに人影を見つけた。なんと、さっきの霊感女性スタッフだ。実はこれから Fox:y が出演する番組の担当で、彼らを迎えに来たのだった。明るく挨拶する。
「 Fox:y さん、よろしくお願いしま――ヒッ!」
悲鳴をあげ硬直したスタッフの視線の先を Fox:y も振り返る。
そこには廊下に膝をついて推しを拝む亜奈や、憮然とする麻美子、そしてポッテリたぬきがいたのだが―― Fox:y の四人とマネージャーは霊感がないのか、首をかしげられただけだった。
「きゃつら、おそらくきつねとは無関係なのですー」
「……そりゃそうよ」
たぬきにとって狐はライバル種族。同一視して Fox:y を警戒していたたぬきだが、彼らに神気が存在しなかったことで満足げになる。やはり Fox:y はただの人間のアイドルなのだった。
「ああぁ……本物のケンが視線くれたよぅ……もう死んでもいいです」
今の亜奈、推し活ウチワは持っていない。なのにガチめの〈こっち見て〉が実現して感激のあまり涙ぐんだ。
こうなるとさすがに未練も解消されたかと思って注視した麻美子だったが――。
亜奈は、まだ消えていかなかった。



