✻ ✻ ✻
麻美子は八十数年前の戦争で死んでいる。空襲で犠牲になったのだ。
そしてそれからずっと、ぽんぽこ神社に居着いていた。
ぽんぽこ神社は狭間の場所。
未練を抱えた幽霊たちが集う神の庭。
たぬきは死者の悲しみを受けとめて、想いをとげる手伝いをする。そんな神さまなのだった。
「……まったく麻美子さんはおかしいのですー」
「普通じゃないって意味なら、たぬきがしゃべってるのもおかしいのよ?」
「何を言いますか! たぬきはこれでも神として祀られた身なのです。しゃべるぐらいお茶の子さいさいですー!」
社殿の中で、たぬきはぽてんと床に落ちていた。
ひんやりした板張りに腹をペタリとし、くつろぐ様子はまるで敷物だ。そんな姿勢で話す姿には神々しさの欠片もない。
「だって麻美子さんはですよ? なんと未練を引きずり続けて八十年以上! 驚きの執念深さですー」
「別にいいでしょう……これといって何かに執着してるわけじゃないんだけど」
未練。執着。
そういうものが無くなれば、幽霊たちは消えていく。でなくても次第に諦めて影を薄れさせ、いなくなる。
しかし麻美子はそうならなかった。ズルズルとぽんぽこ神社に居座り、とうとう巫女のフリをして新着の幽霊を導く側に回っている。
「麻美子さん、はじめは実家のお蕎麦屋さんと弟さんが心配だと言ってたです……なのにお蕎麦屋さんが再建されても、弟さんがお爺さんになって大往生しても、麻美子さんは消えませんですー」
「そうだったかな。でも弟の子孫を見守るのも楽しいし」
「はあ、ですー」
「グダグダ言わないの!」
この神社の主はたぬきの方なのに、何故か麻美子から叱りつけられた。まったく理不尽だが、たぬきはこの状態に慣らされてしまっている。
「……たぬきは、麻美子さんを心配しているだけなのですー」
いちおう言ってみて、床の上のたぬきはコテンと首をかしげた。
たぬきの使命は死者の未練を晴らすこと。そして黄泉へと送ること。延々と神社に居残っている麻美子を案じるのはあたりまえなのだ。
わかっているから麻美子は軽く笑ってみせた。
「こうしているのも悪くないっていうだけだから、たぬきは心配しなくていいのよ。さて、その子孫の見守りにでも行ってこようかな」
「お散歩ですー? いってらっしゃいなのですー」
「……たぬきも運動したらどう?」
「ごめんこうむりますですー」
怠惰な返事に送られて、麻美子はひとりで神社を出た。
✻
ヒマな時、麻美子はよく散歩に出る。たぬきはつき合わない。たくさん歩かされるのが嫌だから。
あのたぬきは神さまだけど、とても根性なしだ。いや、たぬき全般が元々そうなのかもしれない。
切実な苦しみを抱え未練に泣く死者たちを迎え、導く。それがたぬきの使命だ。
なのに幽霊と一緒にちょっと走ったぐらいですぐ、「たぬきはもうおしまいです……」と息を切らす。それが今の麻美子のいちばんの悩みだろうか。
いちおう神さまなのだから、ヘタれている場合じゃないと思う。
「最近は新聞ののぞき読みできなくなったわね。街頭テレビもないし」
町をブラブラしながら麻美子はぶつくさ言った。
「ぽんぽこ神社にもスマホが欲しい」
最近みんなが持っているスマホなる物、麻美子だって使ってみたいのだ。でないと世の中から取り残されてしまうじゃないか。
でも回線契約ができないからスマホがあってもネットにつなげない。そのへんの細かい事情が麻美子にはわからなかった。だって、はるか昔の死者なので。
昔はみんなが新聞を読んでいて、どこにでも新聞が売っていて、公園のベンチには読み捨てられた新聞があり風に飛んでいた。
個人経営の電気屋さんがたくさんあって、ショーウィンドウの中のテレビに見入る人々が道端で歓声を上げていた。
今は誰もがスマホやパソコンで情報を得、それぞれ好きな時に好きなコンテンツにアクセスしている。
つながりたければ地球の裏側とも瞬時につながれるのに、見たくないものには触れずに済む。
「……みんながバラバラに生きてる世界になるなんて、びっくりだわ」
向こう三軒両隣りと足並みそろえ生きていた麻美子には信じられない世界だ。
麻実子が生まれたのは昭和の最初の方だった。
家は〈壱乃庵〉という蕎麦屋を営んでいた。その店が空襲で焼け、母と弟妹は逃げのびたが店主の祖父はそこで亡くなったらしい。父は赤紙が来て戦地へ行っていた。
麻実子は工場に動員され作業中で、そこで空襲に巻きこまれた。一緒に働いていた少女たちとともに瓦礫と炎に呑まれたのを覚えている。
そして気づいたら神社にいた。境内は大勢の死者であふれ、ごった返し――。
「家族がどうなったか、探したかっただけだと思っていたのに……」
店の焼け跡で泣く母と弟妹を見つけ、ホッとした。でも麻実子は消えなかった。
父は戦争から戻らなかった。母の元に戦死が伝えられても麻実子はそのまま神社にいた。
弟が母を助けて店を再建した。なのに麻実子はズルズルと幽霊をやっていた。
「だって世の中がどんどん面白くなるんだもの。あの世になんか行ってられないわよ!」
図々しいことを言い切り、麻美子はニッコリする。
終戦。占領。戦後復興。高度成長。オイルショック。一億総中流。バブル経済。失われた三十年。
そんな教科書に載るような言葉の裏で、たくさんの人々がぽんぽこ神社を訪れ、そして消えていった。だけど。
麻実子が「もういいや」と思える日は――いつになるのだろうか。
✻
麻美子の実家があったあたりには、戦後に商店街が作られた。壱乃庵もその中にある。
ぶらぶらと商店街を歩いていく麻美子を、高校生ぐらいの男女が追い抜いていった。
今はまだお昼ごろ。二人は制服にコートだが、早く学校が終わったのだろうか。
「あたし、英コミュちっともわかんなかったー」
「また赤点取る気かよ。学年末だぞ、再試験とか補講とかになったら面倒くさいのに」
そんな会話が聞こえてきたので、おそらく試験中なのだろう。
「あれ……あの男の子、うちの」
うち、というのは壱乃庵のこと。
再興した蕎麦屋は今、弟の孫が経営している。さらにその息子が、通りすぎた高校生の達彦だ。
「なに彼女いるの? 青春してるんだ」
ちょっとうらやましい。
二人は蕎麦屋の前で手を振って別れた。達彦はもちろん壱乃庵へ、女子の方は隣の酒店に「ただいま」と入っていく。
「へえ、お隣さんだったのね……じゃあ彼女ってわけでもないのかな?」
たぶん二人は麻実子が死んだのと同じ年頃。
戦争の中に生きた麻実子ができずに終わった勉強や試験、男女の他愛ないおしゃべりなど――目の当たりにすると、やってみたかったと思う。こうして麻美子の未練は増えていくのだ。
とはいえ学校も恋も、遠い夢物語のようなもの。
「神社には、たぬきしかいないんだよ? どうしろっていうの――っ!」
麻美子は叫んでみた。どうせ誰にも聞こえないから、だいじょうぶ。
ぽんぽこ神社はたぬきの神社。
だから人間の友だちはできないし、恋の相手も見つからない。
よしんばたぬきがイケメンに化けてくれたとしても、中身が「もうおしまいです」なのはわかっているし。
「……ま、こうしているのも楽しいけどね」
のんびりと道をたどる。風を聞く。
空は透きとおるように青く、早春の花の香りがどこからかただよう。
だからそれでいい。
麻美子が神社から消える日は、たぶん遠い先のこと――――。
麻美子は八十数年前の戦争で死んでいる。空襲で犠牲になったのだ。
そしてそれからずっと、ぽんぽこ神社に居着いていた。
ぽんぽこ神社は狭間の場所。
未練を抱えた幽霊たちが集う神の庭。
たぬきは死者の悲しみを受けとめて、想いをとげる手伝いをする。そんな神さまなのだった。
「……まったく麻美子さんはおかしいのですー」
「普通じゃないって意味なら、たぬきがしゃべってるのもおかしいのよ?」
「何を言いますか! たぬきはこれでも神として祀られた身なのです。しゃべるぐらいお茶の子さいさいですー!」
社殿の中で、たぬきはぽてんと床に落ちていた。
ひんやりした板張りに腹をペタリとし、くつろぐ様子はまるで敷物だ。そんな姿勢で話す姿には神々しさの欠片もない。
「だって麻美子さんはですよ? なんと未練を引きずり続けて八十年以上! 驚きの執念深さですー」
「別にいいでしょう……これといって何かに執着してるわけじゃないんだけど」
未練。執着。
そういうものが無くなれば、幽霊たちは消えていく。でなくても次第に諦めて影を薄れさせ、いなくなる。
しかし麻美子はそうならなかった。ズルズルとぽんぽこ神社に居座り、とうとう巫女のフリをして新着の幽霊を導く側に回っている。
「麻美子さん、はじめは実家のお蕎麦屋さんと弟さんが心配だと言ってたです……なのにお蕎麦屋さんが再建されても、弟さんがお爺さんになって大往生しても、麻美子さんは消えませんですー」
「そうだったかな。でも弟の子孫を見守るのも楽しいし」
「はあ、ですー」
「グダグダ言わないの!」
この神社の主はたぬきの方なのに、何故か麻美子から叱りつけられた。まったく理不尽だが、たぬきはこの状態に慣らされてしまっている。
「……たぬきは、麻美子さんを心配しているだけなのですー」
いちおう言ってみて、床の上のたぬきはコテンと首をかしげた。
たぬきの使命は死者の未練を晴らすこと。そして黄泉へと送ること。延々と神社に居残っている麻美子を案じるのはあたりまえなのだ。
わかっているから麻美子は軽く笑ってみせた。
「こうしているのも悪くないっていうだけだから、たぬきは心配しなくていいのよ。さて、その子孫の見守りにでも行ってこようかな」
「お散歩ですー? いってらっしゃいなのですー」
「……たぬきも運動したらどう?」
「ごめんこうむりますですー」
怠惰な返事に送られて、麻美子はひとりで神社を出た。
✻
ヒマな時、麻美子はよく散歩に出る。たぬきはつき合わない。たくさん歩かされるのが嫌だから。
あのたぬきは神さまだけど、とても根性なしだ。いや、たぬき全般が元々そうなのかもしれない。
切実な苦しみを抱え未練に泣く死者たちを迎え、導く。それがたぬきの使命だ。
なのに幽霊と一緒にちょっと走ったぐらいですぐ、「たぬきはもうおしまいです……」と息を切らす。それが今の麻美子のいちばんの悩みだろうか。
いちおう神さまなのだから、ヘタれている場合じゃないと思う。
「最近は新聞ののぞき読みできなくなったわね。街頭テレビもないし」
町をブラブラしながら麻美子はぶつくさ言った。
「ぽんぽこ神社にもスマホが欲しい」
最近みんなが持っているスマホなる物、麻美子だって使ってみたいのだ。でないと世の中から取り残されてしまうじゃないか。
でも回線契約ができないからスマホがあってもネットにつなげない。そのへんの細かい事情が麻美子にはわからなかった。だって、はるか昔の死者なので。
昔はみんなが新聞を読んでいて、どこにでも新聞が売っていて、公園のベンチには読み捨てられた新聞があり風に飛んでいた。
個人経営の電気屋さんがたくさんあって、ショーウィンドウの中のテレビに見入る人々が道端で歓声を上げていた。
今は誰もがスマホやパソコンで情報を得、それぞれ好きな時に好きなコンテンツにアクセスしている。
つながりたければ地球の裏側とも瞬時につながれるのに、見たくないものには触れずに済む。
「……みんながバラバラに生きてる世界になるなんて、びっくりだわ」
向こう三軒両隣りと足並みそろえ生きていた麻美子には信じられない世界だ。
麻実子が生まれたのは昭和の最初の方だった。
家は〈壱乃庵〉という蕎麦屋を営んでいた。その店が空襲で焼け、母と弟妹は逃げのびたが店主の祖父はそこで亡くなったらしい。父は赤紙が来て戦地へ行っていた。
麻実子は工場に動員され作業中で、そこで空襲に巻きこまれた。一緒に働いていた少女たちとともに瓦礫と炎に呑まれたのを覚えている。
そして気づいたら神社にいた。境内は大勢の死者であふれ、ごった返し――。
「家族がどうなったか、探したかっただけだと思っていたのに……」
店の焼け跡で泣く母と弟妹を見つけ、ホッとした。でも麻実子は消えなかった。
父は戦争から戻らなかった。母の元に戦死が伝えられても麻実子はそのまま神社にいた。
弟が母を助けて店を再建した。なのに麻実子はズルズルと幽霊をやっていた。
「だって世の中がどんどん面白くなるんだもの。あの世になんか行ってられないわよ!」
図々しいことを言い切り、麻美子はニッコリする。
終戦。占領。戦後復興。高度成長。オイルショック。一億総中流。バブル経済。失われた三十年。
そんな教科書に載るような言葉の裏で、たくさんの人々がぽんぽこ神社を訪れ、そして消えていった。だけど。
麻実子が「もういいや」と思える日は――いつになるのだろうか。
✻
麻美子の実家があったあたりには、戦後に商店街が作られた。壱乃庵もその中にある。
ぶらぶらと商店街を歩いていく麻美子を、高校生ぐらいの男女が追い抜いていった。
今はまだお昼ごろ。二人は制服にコートだが、早く学校が終わったのだろうか。
「あたし、英コミュちっともわかんなかったー」
「また赤点取る気かよ。学年末だぞ、再試験とか補講とかになったら面倒くさいのに」
そんな会話が聞こえてきたので、おそらく試験中なのだろう。
「あれ……あの男の子、うちの」
うち、というのは壱乃庵のこと。
再興した蕎麦屋は今、弟の孫が経営している。さらにその息子が、通りすぎた高校生の達彦だ。
「なに彼女いるの? 青春してるんだ」
ちょっとうらやましい。
二人は蕎麦屋の前で手を振って別れた。達彦はもちろん壱乃庵へ、女子の方は隣の酒店に「ただいま」と入っていく。
「へえ、お隣さんだったのね……じゃあ彼女ってわけでもないのかな?」
たぶん二人は麻実子が死んだのと同じ年頃。
戦争の中に生きた麻実子ができずに終わった勉強や試験、男女の他愛ないおしゃべりなど――目の当たりにすると、やってみたかったと思う。こうして麻美子の未練は増えていくのだ。
とはいえ学校も恋も、遠い夢物語のようなもの。
「神社には、たぬきしかいないんだよ? どうしろっていうの――っ!」
麻美子は叫んでみた。どうせ誰にも聞こえないから、だいじょうぶ。
ぽんぽこ神社はたぬきの神社。
だから人間の友だちはできないし、恋の相手も見つからない。
よしんばたぬきがイケメンに化けてくれたとしても、中身が「もうおしまいです」なのはわかっているし。
「……ま、こうしているのも楽しいけどね」
のんびりと道をたどる。風を聞く。
空は透きとおるように青く、早春の花の香りがどこからかただよう。
だからそれでいい。
麻美子が神社から消える日は、たぶん遠い先のこと――――。



