ぽんぽこ神社のたぬきと巫女と

 この患者の娘と夫――ということなのだろうか。ベッドの脇に立つ。まだ低学年ぐらいの女の子は「ひっ」と息を飲んだ。母親の傷はどう見ても重い。父親が泣きそうな顔で娘の肩を抱いた。

「ほら、お母さん大変なのわかったろう。もう行こう」
「やだ……おかあさん。ねえおかあさん」

 よく見れば娘も手に包帯を巻いていた。母親にすがりつこうとするのを父親が押さえる。たぬきが痛々しげにつぶやいた。

「……お嬢ちゃんが学校から帰ってきた時、もう家が燃えていたのですー」
「うわ。びっくりしたろうね……」

 亜奈の顔もゆがむ。
 うさぎはかわいがってくれていた女の子にフンフンと寄っていった。だが家族から、うさぎの姿は見えない。
 ベッドの上でうさぎは切なげに頭を振った。そして抱っこしてもらうつもりか、ピョンと飛びつく。だが女の子の体をすり抜けて床に落ちてしまった。うさぎは幽霊なのだ。
 落ちたうさぎは父親の脚にも体をこすりつける。何度も。何度も。それでも二人は気づいてくれない。

「おかあさん、あのね、ゆきちゃんしんじゃったの」

 女の子は言いながらポロポロ涙をこぼした。ゆきちゃん、という声にうさぎが反応する。うさぎの名なのだろう。

「わたし、ゆきちゃんたすけられなかった……ごめんなさい」
「仕方がないんだよ。もういい」
「でもわたし、わるいこなの!」

 女の子は泣き続ける。
 すると、ベッドサイドモニターの波形が乱れた。アラーム音が変化する。看護師がハッとなり、他にも人が駆けつけてきた。女の子はオロオロとつぶやく。

「おかあさん……」
「……い……いこ」

 全員がハッとなった。患者がかすれた声をあげたのだ。

「いい子……いい子って言ったのか?」

 父親が必死で聞き返す。横たわる患者の口もとが一瞬ほほえんだ。

「ほらな、おまえは悪い子なんかじゃない。お母さんちゃんとわかってるんだ」
「おかあさん……」
「さあ、申し訳ありませんが出て下さい」

 娘と夫は看護師に連れ出されていった。何やら処置が始まる。

「おいで、うさぎさん――ええと、ゆきちゃん」

 人間の足から逃げて部屋のすみにいたうさぎを麻実子は抱き上げた。また飼い主のベッドに乗せてやる。医師もやってきてベッドの周りが囲まれるのを、たぬきと麻実子と亜奈は一歩さがってながめていた。
 たぬきには何もできない。麻実子も同じく。医療のことはわからない。

「……たまんないね」

 亜奈は部屋のすみっこに座り込んでしまった。
 たぬきによれば、あの小さな女の子は母親とうさぎを助けようとしたそうだ。燃える家に入ろうとし、火傷した。それでも助けられなかったうさぎの死を自分のせいだと責め、母親に会って謝ると言い張ったらしい。

「あの子なんにも悪くないのに」
「本当にね……お母さん、あなたはいい子だよって伝えたくて頑張ったのかな」

 麻実子の言葉もそこで止まる。
 死というのは、だいたいいつも理不尽なもの。だけどギリギリで生きている、こんな場合も胸がしめつけられてどうしようもなかった。この患者が助かるかどうかは、たぬきにもわからない。

 ――しかし不可解なのは、うさぎだった。会いたい人たちに会えたみたいなのに、うさぎの未練が解消されなかったのは何故だろう。麻実子は力なくつぶやいた。

「困ったね」
「はい、ですー」
「……とりあえず見守ろうか」
「そうしますです……」
「……ねえ。たぬきって」
「はい」
「神さまでしょ、いちおう」
「いちおう、は余計なのですー」
「なのに、ちょいちょい無力よね……」
「ぐふぅっ……」

 その言葉はたぬきの胸をえぐる。たぬきの存在意義にかかわる事柄だ。しかし麻実子は寂しそうに笑った。

「でも私の方がなんにもできない……ただの幽霊だから」
「あたしも幽霊だよーん」

 亜奈が口を挟むが、その声にはいつもの張りがなかった。少々この状況がこたえているらしい。

「……たぬきにできることは、本当はそんなにないのですー」

 ポツリと返し、たぬきも黙ってしまった。


  ✻


 うさぎの飼い主の状態はひとまず安定したようだ。でも意識は戻らない。難しい顔をする医者と看護師が出て行くのを見送って、たぬきと麻実子と亜奈はうーん、と腕を組んだ。
 しばらくここで籠城戦になるかもしれない。うさぎは飼い主から離れる様子がなかった。

「……ゆきちゃんの未練、飼い主さんを助けたいとかだったらどうしよう。助かればいいけど……」
「助からなければ、ふたつにひとつ。この世をさまようか、あきらめて黄泉へ行くか。ですー」
「さまよった幽霊うさぎが神社にいる……それもかわいくていいかな。カチカチ神社に名前を変えるしかないわ」
「やめるのです!」

 たぬきは思いっきり不愉快な顔で抗議する。だが麻実子は静かに笑った。

「もちろんちゃんと助かってくれる方がいいよ。私たちいつも死んじゃった人ばかり相手にしてるし……こういうの困っちゃって」
「……ですー」

 そう。実は麻美子とたぬき、誰かが死んでからが本番のため、生死の境をさまよう人に寄り添うことはまれ。なので今すごく落ち着かないのだ。

「というか、このうさぎの未練がどういうことだか、まだわかりませんですー」

 たぬきは微妙に心を許さず、うさぎのことを横目で見ている。麻美子はあきれて叱りつけた。

「たぬきが悪いことしなければ、うさぎだって何もしないでしょ」
「ぐぎぎぎ……」

 たぬきから何かするつもりはない。でもそれと警戒心は別問題だ。
 しかしうさぎの方はたぬきなど気にする様子はなかった。ただ一心に飼い主のことを見つめている。
 どうしてあげればいいのかわからず、麻実子はそっとその背をなでた。


  ✻


 そのまま一晩が経った。
 全員がずっと待機中だ。うさぎは飼い主の枕もとで丸くうずくまり、たぬきは部屋にあった椅子の上にポテンと寝そべり、麻実子と亜奈は床に座ったりゴロゴロしたりしている。
 彼らは皆、神さまと幽霊。寒い暑いも空腹も眠気も感じないのでなんら問題はなかった。時を待つのも気にならない。もう時間の流れからは解放された身だ。

「――ええとね、電気の何かがどうにかなって、火が出たとか」

 それでも暇だった麻実子は、看護ステーションでそんな話を聞き込んで戻った。

「麻実たん、それなんにもわかんないよ」
「だって神社には電気設備なんてないんだもの。言葉になじみがなくて聞いてもなんのことだか……おうち、ほぼ全焼したみたいね」
「うさぎ……カチカチの報いなのでは」
「こら、失礼でしょ。この子は昔話と別うさぎだってば。ねえ、ゆきちゃん?」

 うさぎは無言で麻実子のことを見上げる。たぶんカチカチ山の話など知らないのだ。
 飼い主の腕には点滴がつながれ、ベッドの上にぐったりと投げ出されていた。その手のひらを、うさぎはフンフンした。頭をこすりつけるような仕草が、起きてと言っているよう。
 応えたのかピクリと飼い主の指先が動く。そして、モニターの波形が乱れた。

「あ……」
「これは、またお医者さんたち来ますです?」

 たぬきたちにはアラーム音の変化が良いのか悪いのかわからない。でもバタバタ駆けつけた人々の表情は深刻だった。どうやら快方に向かったわけではないらしい。

 うさぎはベッドの上から逃げなかった。処置する人々の手をかいくぐり、飼い主から離れない。
 病院のスタッフからは緊迫した指示が飛んでいた。たぶん患者の状態は悪い。うさぎにはそれがわかっているのだろう。

 しばらくして、モニターの波形が平らになった。
 アラームがピ――――、と響く。
 そして――飼い主がゆっくりと身を起こした。

「……幽体離脱」

 麻実子はつぶやいた。
 飼い主の魂が、体から抜けていく。包帯も火傷もない、生前と変わらぬ姿になって。とても優しそうな女性だった。
 その人はそこにいるうさぎを認めると、くしゃ、と笑う。悲しいけど安堵に満ちた笑みだった。たぶん火傷がとても苦しかったのだろう。それがやっと終わったのだ。

「――ゆき、ちゃん」

 名を呼んで、そっとなでる。抱き上げる。
 飼い主の手に触れてやっと安心したのか、うさぎは耳を寝かせてなすがままだ。

「助けてあげられなくて、ごめんね。私のこと待っててくれたの?」

 うさぎは胸に頭をこすりつけた。大好き、と伝えるように。

「……あの子、信じてくれるよね、自分はいい子だって。私の娘なんだから自信持って生きてほしいな……」

 飼い主はつぶやいた。「いい子」という言葉が娘に伝わったのがわかっているのだ。やはりあの時、娘を前にして力を振り絞ったのだろう。
 ――なのでこの人はぽんぽこ神社には来ない。言うべきことはもう伝えられたから。
 
 微笑んだ飼い主は薄っすらと、やわらかい光になっていく。うさぎを抱いたまま。
 うさぎの影もフワリと揺れながら霞む。もう思い残すことはなかった。
 うさぎが欲しかったのは大好きな飼い主の手。
 もういちどなでて欲しい。それだけだったのだ。

 二つの魂が光になって旅立つのと重なりながら、此岸の病室では――医療従事者たちが淡々と患者の死亡を記録していた。