✻ ✻ ✻
「――ほら、これで外に出られるよ。想い残した何かのところへ行ってごらん」
麻実子が言うのを、うさぎは澄んだ目で見上げた。その首には紐が結ばれている。御朱印を体にくくりつけるための物だ。
うさぎは一晩、社殿で保護されていた。どんな未練を抱えているやらわからないが、現世へ出すならついて行きたいから昼間がいい。
「リードにつながなくて平気なの? どっか行っちゃうんじゃ」
亜奈は心配そうだ。うさぎなんてすぐ迷子になってしまいそう。
「大丈夫でしょ。ちゃんと神社に入ってきたんだし、たぬきとか知らない人間の私たちとか相手に逃げないんだし」
「幽霊うさぎとしての自覚ができてるってこと?」
「だと思う。それに御朱印がたぬきとつながってるから見つけられるわよ」
「ほほう便利……」
首の後ろに挟み込まれた御朱印をヒラリとさせ、うさぎはピョンと歩き出した。
「うさぎ……とうとう何も明かさず……ひと言ぐらいあってしかるべきです……」
たぬきはグズグズ言う。まだうさぎに心を許していないのだ。しつこい。麻実子は適当にいなした。
「うさぎって鳴いたりする? 聞いたことないわ。猫はニャア、犬はワン、たぬきはポン」
「たぬきはポンとは鳴きませんです!」
ぷりぷり怒りながら、たぬきはうさぎの後を追った。腹が立っても放っておいたりはしないらしい。
たぬきなりの神さま仕草に微笑みながら、麻実子と亜奈も付き添った。
鳥居を出ると、そこは大きな通りだった。交通量が多く、うさぎは怯えたのか動かなくなる。鼻がヒクヒクと何かの気配を探っていた。
「あれれ……ねえうさぎさん、どこ行きたいの? 抱っこしようか」
「うさぎにはやさしい麻実子さん……」
たぬきが恨みがましくつぶやいた。
「たぬきにだってやさしいでしょ。息切れしたら抱っこしてあげるじゃない」
「そうなるまで走らせたり階段のぼらせたりするからなのですー」
「あ、ほら危ない!」
亜奈が悲鳴をあげて、たぬきの文句は無視された。うさぎがピョコリと動いたのだ。
道路に出ていきそうになったうさぎは、走ってきた車に飛びのく。これ以上死ぬことはないのだが、怖いものは怖いのだろう。
ジリジリしながら見上げているのは道の反対側の――。
「――病院?」
「のようですー」
ならば横断歩道を渡った方がいい。麻実子はかがんで手をヒラヒラした。
「ほら、あっちの信号まで回ろうよ。車は嫌だよね」
追いやるような誘導だったが、たぬきはブツブツ言う。
「……やっぱりやさしいですー」
自分には乱暴なのに。
たぬきはシュンとなったが、仕方なくついて行った。
青信号を渡ったうさぎは、やはり病院に入った。しかし天井を見上げて困っている。上階に用があるのだろう。
「なら階段ね」
「あううー、またなのです……」
たぬきは上る前からヘタれている。でもうさぎ本人が「何階」と教えてくれないのでエレベーターは使えなかった。仕方なく建物の端にある階段を行く。
「……ぐっふ……たぬきは、たぬきはもう……」
「おしまいになるの早くない!?」
あっという間にゼェハァ言い出したたぬきの後ろに回り、麻実子はもっふりした尻を押した。
「はい! やる気、元気、たぬき!」
「……やさし、く、ないですぅ……」
「こんなに応援してるのに? 頑張ろうよ」
しかしうさぎはたぬきの体たらくなど気にもせず、ぴょこぴょこ階段を駆け上がる。そして六階の廊下へと出ていった。たぬきはほとんど瀕死だ。
「はうぅ……ここは、なんの場所ですかねえ」
廊下の途中にはガラス戸があった。ちょうど出てきた看護師とすれ違い、スルリと入り込む。二人と二匹は相手から見えておらず、とがめられることはなかった。
病棟のスタッフはみなキビキビ動いていた。白衣の医者と看護師、水色の服は検査技師か。うさぎは彼らの足もとをくぐり抜け、一目散にどこかへ向かう。
「……患者さんに会いに来たのかな」
うさぎがもぐり込んだのは何やらものものしい病室だった。
モニターには青や赤、緑のラインが波打ち、無機質な音が一定のリズムを刻んでいる。機械から伸びた何本かの線は、ベッドの上の患者につながっていた。
寝ているのは女性だった。おそらく三十代から四十代ぐらい。判別できないのは顔も火傷しているからだ。
状態は良くないように見える。布団から出ている肩から上だけでも皮膚が広範囲に被覆材でカバーされているのがわかった。その隙間を縫い、点滴の管がなんとか腕に刺さっている。
ベッドの下でうさぎは必死に跳ねた。でも高すぎて届かない。
「ほら」
亜奈が抱き上げてやると、うさぎは怪我人の枕もとにすり寄った。
「……たぬきも、見えません、ですー」
たぬきも床でピョンとしてみたが、まったく跳べない。こちらも麻実子が抱き上げベッドの足もとに乗せた。
「飼い主さんなのかな」
「はあ、そのようですー。同じ火事で、うさぎさんだけ亡くなったんですねえ」
「そっか……」
うさぎは飼い主が心配だったのだろうか。それともただ、会いたかったのかもしれない。大好きな人だから。
「この飼い主さん、重体ってやつだよね。意識不明っぽいよ……」
亜奈もさすがに声が小さくなった。ここは集中治療室なのだと思う。聞こえないからといって、死と戦っている人の前では気をつかいたかった。
うさぎの飼い主の心と記憶を、たぬきはそっと探る。
「……火傷が重いうえに煙も吸ってしまってますですー」
「この人に化けて、うさぎさんと話せる?」
「化けてもバレそうな気がしますです……うさぎは恐ろしい生き物ですからっ」
ぐぎぎ、とたぬきは顔をしかめる。どこまでも種族としてのうさぎを警戒してしまうのだ。
麻実子と亜奈がため息しか出ずに見守る中、うさぎは必死に飼い主の頬をちょんちょん突っついていた。でも今のうさぎは幽霊。触れられていることが飼い主にはわからなかった。よって反応もない。
「どうしてあげればいいんだろう……」
麻実子が困っていると、廊下から看護師の声がした。
「ごめんなさいね、面会は五分だけ。なるべく静かにできますか?」
「おかあさん、おきてる? おはなししたい」
「……おかあさんは眠ってるんだよ。静かにしてあげなきゃな」
看護師に案内されて入ってきたのは、小学生の女の子と父親だった。かっぽう着のような白い服を着て、頭をおおう白い帽子とマスクも身につけている。患者への感染リスクを減らすためのものだった。
「――ほら、これで外に出られるよ。想い残した何かのところへ行ってごらん」
麻実子が言うのを、うさぎは澄んだ目で見上げた。その首には紐が結ばれている。御朱印を体にくくりつけるための物だ。
うさぎは一晩、社殿で保護されていた。どんな未練を抱えているやらわからないが、現世へ出すならついて行きたいから昼間がいい。
「リードにつながなくて平気なの? どっか行っちゃうんじゃ」
亜奈は心配そうだ。うさぎなんてすぐ迷子になってしまいそう。
「大丈夫でしょ。ちゃんと神社に入ってきたんだし、たぬきとか知らない人間の私たちとか相手に逃げないんだし」
「幽霊うさぎとしての自覚ができてるってこと?」
「だと思う。それに御朱印がたぬきとつながってるから見つけられるわよ」
「ほほう便利……」
首の後ろに挟み込まれた御朱印をヒラリとさせ、うさぎはピョンと歩き出した。
「うさぎ……とうとう何も明かさず……ひと言ぐらいあってしかるべきです……」
たぬきはグズグズ言う。まだうさぎに心を許していないのだ。しつこい。麻実子は適当にいなした。
「うさぎって鳴いたりする? 聞いたことないわ。猫はニャア、犬はワン、たぬきはポン」
「たぬきはポンとは鳴きませんです!」
ぷりぷり怒りながら、たぬきはうさぎの後を追った。腹が立っても放っておいたりはしないらしい。
たぬきなりの神さま仕草に微笑みながら、麻実子と亜奈も付き添った。
鳥居を出ると、そこは大きな通りだった。交通量が多く、うさぎは怯えたのか動かなくなる。鼻がヒクヒクと何かの気配を探っていた。
「あれれ……ねえうさぎさん、どこ行きたいの? 抱っこしようか」
「うさぎにはやさしい麻実子さん……」
たぬきが恨みがましくつぶやいた。
「たぬきにだってやさしいでしょ。息切れしたら抱っこしてあげるじゃない」
「そうなるまで走らせたり階段のぼらせたりするからなのですー」
「あ、ほら危ない!」
亜奈が悲鳴をあげて、たぬきの文句は無視された。うさぎがピョコリと動いたのだ。
道路に出ていきそうになったうさぎは、走ってきた車に飛びのく。これ以上死ぬことはないのだが、怖いものは怖いのだろう。
ジリジリしながら見上げているのは道の反対側の――。
「――病院?」
「のようですー」
ならば横断歩道を渡った方がいい。麻実子はかがんで手をヒラヒラした。
「ほら、あっちの信号まで回ろうよ。車は嫌だよね」
追いやるような誘導だったが、たぬきはブツブツ言う。
「……やっぱりやさしいですー」
自分には乱暴なのに。
たぬきはシュンとなったが、仕方なくついて行った。
青信号を渡ったうさぎは、やはり病院に入った。しかし天井を見上げて困っている。上階に用があるのだろう。
「なら階段ね」
「あううー、またなのです……」
たぬきは上る前からヘタれている。でもうさぎ本人が「何階」と教えてくれないのでエレベーターは使えなかった。仕方なく建物の端にある階段を行く。
「……ぐっふ……たぬきは、たぬきはもう……」
「おしまいになるの早くない!?」
あっという間にゼェハァ言い出したたぬきの後ろに回り、麻実子はもっふりした尻を押した。
「はい! やる気、元気、たぬき!」
「……やさし、く、ないですぅ……」
「こんなに応援してるのに? 頑張ろうよ」
しかしうさぎはたぬきの体たらくなど気にもせず、ぴょこぴょこ階段を駆け上がる。そして六階の廊下へと出ていった。たぬきはほとんど瀕死だ。
「はうぅ……ここは、なんの場所ですかねえ」
廊下の途中にはガラス戸があった。ちょうど出てきた看護師とすれ違い、スルリと入り込む。二人と二匹は相手から見えておらず、とがめられることはなかった。
病棟のスタッフはみなキビキビ動いていた。白衣の医者と看護師、水色の服は検査技師か。うさぎは彼らの足もとをくぐり抜け、一目散にどこかへ向かう。
「……患者さんに会いに来たのかな」
うさぎがもぐり込んだのは何やらものものしい病室だった。
モニターには青や赤、緑のラインが波打ち、無機質な音が一定のリズムを刻んでいる。機械から伸びた何本かの線は、ベッドの上の患者につながっていた。
寝ているのは女性だった。おそらく三十代から四十代ぐらい。判別できないのは顔も火傷しているからだ。
状態は良くないように見える。布団から出ている肩から上だけでも皮膚が広範囲に被覆材でカバーされているのがわかった。その隙間を縫い、点滴の管がなんとか腕に刺さっている。
ベッドの下でうさぎは必死に跳ねた。でも高すぎて届かない。
「ほら」
亜奈が抱き上げてやると、うさぎは怪我人の枕もとにすり寄った。
「……たぬきも、見えません、ですー」
たぬきも床でピョンとしてみたが、まったく跳べない。こちらも麻実子が抱き上げベッドの足もとに乗せた。
「飼い主さんなのかな」
「はあ、そのようですー。同じ火事で、うさぎさんだけ亡くなったんですねえ」
「そっか……」
うさぎは飼い主が心配だったのだろうか。それともただ、会いたかったのかもしれない。大好きな人だから。
「この飼い主さん、重体ってやつだよね。意識不明っぽいよ……」
亜奈もさすがに声が小さくなった。ここは集中治療室なのだと思う。聞こえないからといって、死と戦っている人の前では気をつかいたかった。
うさぎの飼い主の心と記憶を、たぬきはそっと探る。
「……火傷が重いうえに煙も吸ってしまってますですー」
「この人に化けて、うさぎさんと話せる?」
「化けてもバレそうな気がしますです……うさぎは恐ろしい生き物ですからっ」
ぐぎぎ、とたぬきは顔をしかめる。どこまでも種族としてのうさぎを警戒してしまうのだ。
麻実子と亜奈がため息しか出ずに見守る中、うさぎは必死に飼い主の頬をちょんちょん突っついていた。でも今のうさぎは幽霊。触れられていることが飼い主にはわからなかった。よって反応もない。
「どうしてあげればいいんだろう……」
麻実子が困っていると、廊下から看護師の声がした。
「ごめんなさいね、面会は五分だけ。なるべく静かにできますか?」
「おかあさん、おきてる? おはなししたい」
「……おかあさんは眠ってるんだよ。静かにしてあげなきゃな」
看護師に案内されて入ってきたのは、小学生の女の子と父親だった。かっぽう着のような白い服を着て、頭をおおう白い帽子とマスクも身につけている。患者への感染リスクを減らすためのものだった。



