あくまで除霊のためだから


 それから数日が経っても花子さんが再び現れることはなかった。
 拓己の言いつけを守り、なるべく日が出ているうちに人通りが多いタイミングを見計らってトイレに寄るようにしている。
 霊を引き寄せる体質かもしれないと聞いて身構えていたが、別の霊や怪異に出くわすこともなく、いたって平穏な日が続いていた。
 ところが、週が明けた月曜日。
 休みを挟んだことで慢心していた部分があったかもしれないし、この日が季節外れの暑さで水分を取り過ぎたせいでもある。
 放課後、他の生徒がほとんど誰もいなくなった校舎で、俺は猛烈にトイレに行きたくなった。
 仕方なく、教室から一番近いトイレに駆け込む。
 あの除霊のあとから花子さんは現れていない。拓己は心配していたけれど、きっと除霊は成功したのだろう。
 そう信じ、できる限り最短で用を済ませる。
 しかし、手を洗い水を止めたところで、またあの感覚がやってきた。背中がぞくっとして、肌が粟立つ。
 嫌な予感から、俺は鏡を見ないよう顔を伏せたまま急いでトレイを出た。
「なんでまた……」
 あの気配は十中八九、花子さんの気配だった。
 やはり拓己の懸念どおり、除霊はうまくいっていなかったのだ。
 とにかく学校を出たほうがいい。教室に戻りカバンを手に取ると、玄関を目指す。
 階段を駆け下り踊り場に着いたところで、足首を掴まれたような感覚がした。バランスを崩し、前につんのめるようなかたちで転ぶ。
「痛っ……」
 自分の足を振り返ってみてみるけれど、何もない。踊り場の床に何かあるわけでもなかった。
 たまたまだ。慌てていたから足がもつれただけだろう。そう無理やり自分を納得させ、立ち上がる。
 すると、誰かに腕を掴まれた。
「――!」
 振り返ると、目の前に踊り場の大きな鏡がある。鏡の中からは、生気を失った蒼白い腕が伸びていた。やせ細った見た目とは反対に、俺の腕を掴む力はとても強く、ギリギリと血管を締め付けてくる。
 言葉を失っていると、楽しそうに誘う声が聞こえてきた。
「ちーかーげーくん、遊びましょう」
 やっぱり花子さんだ。
 どうやら俺を鏡の中に引きずり込もうとしているらしい。抵抗も虚しく、腕を引かれた俺は大きく体が前に傾いた。
 そのまま鏡に吸い込まれそうになったそのとき、今度は反対の腕を掴まれた。
 大きくて温かい手のひらに、振り返る前から俺はそれが誰なのかわかった。
「拓己……!」
 背後を振り向くと、予想どおり拓己がいた。花子さんの気配を感じて、駆け付けてくれたのだろうか。
 手を引くだけでは力が足りないと思ったのか、拓己は抱きしめるようにして俺を引き留める。
「千景のこと、絶対にお前に渡したりしないからな……!」
 鏡に向けて訴えながら、拓己は全力で俺を引き寄せる。
 すると、鏡の中からすすり泣く声がかすかに聞こえてきた。俺の腕を掴む力もだんだんと緩んでいる。
 しかし、拓己はそれに気づいていないようだ。
「そっちが無理やり連れて行く気なら……」
 拓己は袖を捲って、腕にしてあるブレスレットを出した。針女のときと同じように、一時的にでも無理やり追い払おうとしているらしい。
「待って、拓己!」
「なんだよ!」
「無理に追い払わないで。花子さんの話を聞いてあげて」
「はぁ?」
 拓己は心底信じられないというように聞き返す。
「話が通じるような相手なら、こんなことになってない」
「でも、さっきから様子が違うみたいなんだ。たぶん本当に遊びたいだけなのかも」
「千景はまたそうやって……」
 拓己の顔に呆れが広がっていく。
 すると、花子さんの手がいきなり俺をパッと放した。
 鏡とは反対側に思いっきり引っ張られていた俺は、拓己と一緒に後ろに倒れ込んだ。
「痛った……」
「ごめん、拓己」
 ほぼ俺の下敷きになっていた拓己に謝りながら、慌てて体を起こす。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ。それより千景はなんでいつもそう……」
 拓己は不服をこぼしながら起き上ったが、ふと言葉を切った。拓己の視線は俺を通り越して、鏡のほうに向いている。
「どうしたの?」
 不思議に思いつつ、視線を辿って俺は後ろを振り返った。
 鏡の前に、花子さんが立っている。そして、めそめそと泣いていた。
「……そうなの……ちょっと遊びたかっただけなの……」
 手で涙を拭う花子さんの姿は、同級生の女子たちとなんら変わらないように見えた。


 屋上から見下した校庭には、人影はほとんどなかった。帰宅のため校門へ向かう生徒が数人、歩いているだけだ。
「なんか静かだね」
 何気なく言うと、隣の拓己がそれに応える。
「テスト前だからな。部活もないところがほとんどだし」
 屋上には俺と拓己ともうひとり、花子さんがいる。
 ついこの前、ここで花子さんの除霊について話し合っていたばかりなのに、まるで同級生のように一緒に並んで立っているのはなんだか不思議な気分だ。 
 踊り場から屋上へ移動してきたのは、花子さんの話を聞くためだった。今日はいつもより残っている生徒が少ないからと言って、花子さんと話しているところを誰かに見られるのはなるべく避けたほうがいいだろう。
「それで、なんで千景を連れ去ろうとしたんだよ?」
 拓己は花子さんと話をすることには了承をしてくれたものの、まだ警戒は解いてないみたいだ。普段は穏やかな拓己にしてはめずらしく、問い質すような口調だった。
 トイレで見た花子さんは血に塗れていたが、今は顔も制服もきれいな状態だ。
 そういえば、針女のときも顔つきや印象が状況によって変わった。もしかしたら、そのときの霊の精神状態が、見た目に現れているのかもしれない。
 花子さんは校庭に目を向けたまま、静かに語り始めた。
「私、学校でずっとひとりだったんだ。周りとうまくかみ合わなくて。それなら、ひとりでいいやってなって。ひとりになってみたら思ったより快適で。そんなふうに過ごしてたら、ある日突然死んじゃった」
 花子さんは、寂しそうに笑う。
「死んでから、急に後悔したの。青春みたいなの、してみたかったなって。誰かを本気で好きになって、夜眠れなくなったり、明日がすごく楽しみになったり、そういう恋をしてみたかった」
「なるほどなぁ」
 花子さんの話を聞いているうちに、俺はすっかり感情移入してしまった。 
 真剣に耳を傾ける俺とは違い、拓己はどこか不機嫌そうだ。
「じゃあ、それが心残りになって学校にとどまってしまってるみたいなこと?」
 花子さんの事情を簡単にまとめてしまえば、たぶんそういうことなのだろう。
 花子さんは景色から目を離し、俺たちのほうに向き直った。
「そう。千景くんみたいな人と恋をしてみたかったな」
 それから、花子さんは俺に頭を下げた。 
「怖い思いをさせて、ごめんなさい。でも私、ちゃんと成仏したいと思ってるの。たくさん嫌な思いをさせておいて、こんなお願いできる立場じゃないかもしれないけど……私が成仏できるように、手伝ってもらえない?」
「いいよ」
「ちょっと、千景! そんな簡単に決めるよな」
 あっさり承諾する俺を、すかさず拓己が止める。
「内容も聞かないで引き受けるやつがいるか」
「えー、いいじゃん。別に手伝うくらい。せっかく成仏したいって前向きに考えてるんだしさ。いいことじゃない?」
「それはそうだけど……」
 もともと俺たちは花子さんを除霊しようとしていたのだ。自ら成仏したいと申し出てくれるなら、むしろありがたい話である。拓己もそう考えたのか、言葉を濁した。
 それでもまだ、拓己は判断に迷っているようだ。
「手伝うって、具体的にどんなこと?」
 内容次第で決めるつもりなのか、拓己が尋ねる。
「千景くんに私と恋愛ごっこをしてもらいたいの! 幽霊の私が今から誰かと本当の恋人同士になれないのはわかってる。偽物でもいい。演技でもいい。無理なお願いもしない。ただ、一緒に学校の中を回ったり、遊んだりしてくれたらそれでいいから。だから、少しの間だけ私と疑似恋愛をしてほしい」
 花子さんの要望を聞き終えた俺と拓己は同時に口を開いた。「いいよ」と俺が言い、拓己は「だめだ」と言った。
 意見が食い違った拓己と俺は顔を見合わせる。
「なんでそう千景は安請け合いするかな」
「拓己こそなんで? そんな難しいお願いじゃないと思うけど」
 むしろ目的が成仏だということを考えれば、そんな簡単なお願いでいいのかと思えてくる。
 あなたの背後霊にさせてとか、未来永劫呪わせてとか言われるよりずっと良心的だ。
「だめだろ。恋愛ごっごなんて」
「だから、なんで」
「それは……」
 めずらしく拓己が言い淀む。
 拓己はわりと物事を論理的に考えるタイプだ。そんな拓己がただダメの一点張りで、明確な理由を言わないのは、何か理由があるからだろうか。
 拓己が口を閉ざしたままなので、俺は続ける。
「それで花子さんが成仏できるなら、やったほうがよくない?」
 拓己もやはりそこは否定できないのか、それ以上反論するつもりはないようだった。俺を見て、花子さんを見て、それから観念したように息を吐く。
「わかったよ。俺もできる限り手伝う」
 拓己からのゴーサインも出て、花子さんは笑顔になる。
「やったぁ! じゃあ、拓己くんは恋のライバル役ね」
「え、俺も混ざるの? 手伝うとは言ったけど、疑似恋愛に参加するのはちょっと……」
「お願い。ライバルがいたほうが燃えるでしょう?」
 すっかりはしゃぐ花子さんに、拓己も抵抗を諦めたらしい。
「はぁ……わかったよ。いいけど、千景に妙な真似をしたら許さないから。あくまで常識の範囲内で手伝うだけだからな」
「了解、常識の範囲内ね。じゃあ、さっそく学校内デートに行こう!」
 花子さんはウキウキとした様子で、屋上の扉のほうへと向かっていく。声が届かないくらい距離が開いたところで、拓己がすっと俺に近づいてきた。
「千景、気を抜かないように」
「わかってる。無理なことは俺だって断るよ」
「恋愛ごっこもだけど、それだけじゃない……」
 拓己はなにやら神妙な顔つきで花子さんの背中を見つめている。
「花子さんの制服、あれってかなり前のものだろ」
「そういえばそうだね」
 拓己の言うとおり、花子さんが着ているのはこの学校の制服ではあるけれど、俺たちの同級生が着ているものとは違う。
 たしか、何年も前に制服のデザインが一新されたと聞いたことがある。おそらく花子さんが着ている制服は、それよりも前のものなのだろう。ということは、花子さんはその頃にこの学校に通っていたということになる。
「それだけ長い間、この学校に留まってるってことだ。かなり未練が強いんだと思う。それに、霊っていうのはこの世に長くいるほど、悪霊化しやすいんだ」
「悪霊化……?」
「そう。今はまだ花子さんも自我がちゃんとあるし、俺たちへのお願いも些細なものだけど、もし悪霊化したらどうなるかわからない。だから、気をつけて」
 胸のざわつきを覚えながら、花子さんに目を向ける。
 すると、花子さんがこちらを振り返った。
「何してるの? 早くー!」
 花子さんは扉の前で俺たちを手招きをしている。
 ふと、その頬に黒い靄のようなものがかかっている気がした。けれど、そう見えたのも一瞬で、瞬きをしているうちに消えてしまった。
「今、行くー!」
 俺は気を取り直して花子さんに元気よく返事をする。それから拓己と並んで歩き出した。
「花子さんが悪霊化する前に、ちゃんと成仏させてあげよう」
「そうだな」
 それだけ確かめ合うと、何事もなかったかのように花子さんの元へ向かった。