あくまで除霊のためだから

第2章 トレイの花子さんを除霊するためだから


 あれからというもの針女の姿を見ることはなくなり、俺は順風満帆な学園生活を取り戻した。 
 いつどこで霊が現れるのかびくびくせずに済む生活の素晴らしさを日々噛みしめている。
 教室の窓の外は清々しい晴天で、校内の木々の緑は瑞々しく、花壇の花も俺のことを祝福しているようだ。
 本日も絶好調。
 休み時間にトイレに駆け込んだ俺は、用を済ませ鼻歌交じりに手を洗っていた。
 すると、不意にトイレの中が翳った気がした。太陽が雲に隠れたのだろうかと思ったが、窓の外は明るい。
 肌がぞわりと粟立ち、胸がざわつく。そして、この感覚を俺はすでに知っていた。
 頭の中に浮かんだ可能性を慌てて振り払い、気のせいだと自分に言い聞かせ蛇口を閉める。
 そのとき、背後からギィィィと鈍い音がした。
 びくっと肩を震わせ、固唾を呑む。ひとつだけ閉まっていた個室の扉が開く気配がした。
 今すぐ逃げ出したいのに、足が震えて動けない。
 目を伏せ、消えてくれるよう祈った。
 石になったようにじっと佇んでいると、後ろから声がした。
「ちーかーげーくん、遊びましょう」
 思わず顔を上げる。
 鏡越しに見えたのは、女子生徒だった。首を横に傾け、こちらに笑いかけているが、その顔は真っ赤な血に塗れている。
「うわあああああ――――っ!」 
 ここが昼間の学校であることも忘れ、俺は腹の底から思い切り叫んだ。


「それは、トイレの花子さんだな」
 数日後の昼休み、俺は拓己と学校の屋上にいた。
 今日も快晴で空からは燦々と日差しが降り注いでいる。だいぶ気温が上がっているようで、日陰にいても暑いくらいだ。
 屋内で話したいところだけど、内容も内容だし、俺たちの関係を隠したいという拓己の要望もあり、人目を避けてここに辿り着いた。
 そして、事情を聞いた拓己は、俺でもよく知っている有名な怪談の名前を口にしたのだ。
「トイレの花子さんって、あの……?」
「そう。その花子さん」
「花子さんって、男子トイレにも出るものなの?」
 いろいろ聞きたいことはあるけれど、単純な疑問を真っ先に投げかける。
「そりゃまあ、全国津々浦々、あらゆる花子さんがいるからね。男子トイレには太郎さんが出るなんて話もあるけど。だから、どんな新種の花子さんがいてもおかしくはないんじゃない?」
「新種って……」
 生態系のひとつみたいな言い方をされると、霊や怪異とは対極なちぐはぐさがある。
「一番有名なのはトイレの扉を3回ノックして呼ぶと、返事があるってやつかな」
「俺、別に呼んでないんだけど」
 向こうから勝手に出てきて、遊ぼうと誘われたのだ。けれど、それも拓己に言わせれば、新種ゆえなのかもしれない。
「てかさ、それならなんでもっと早く言わないんだよ? 針女のときは仕方ないと思ったけど、なんで今回も数日我慢してから相談するんだよ」
「それは……」
 拓己の言うことはもっともなんだけど、俺には俺の言い分がある。
 拓己に霊現象のことを相談するということは、また助けを求めるということで、つまりはまたあの除霊をしてほしいと頼むことと同じだ。
 もっと言うと、またキスをしてほしいとお願いすることでもある。
 拓己はそんなふうに考えないかもしれないし、気にしないだろう。
 針女の除霊をしたあとも、少し気まずくてぎくしゃくしてしまった俺とは対照的に、拓己はまるでキスなんてなかったみたいに普通だった。
 俺ばかり気にしていると少し悔しくもあったが、拓己が普通にしてくれたからこそ、俺もだんだんとこれまでのように接することができるようになったと思う。
 今でもふとした瞬間に思い出しては悶えているものの、除霊をしてすぐに比べればだいぶ記憶に慣れてきた。
 ようやく、すべてが元通りになりつつあったのに。
「もしかして、まだ気にしてるの? この前のこと」
 俺の気持ちを見透かしてか、拓己が尋ねる。
「別に気にしてないけど」
 とっさに虚勢を張るが、拓己は疑わしげに目を細める。
「忘れるように言ったでしょ」
「忘れろって言われて、忘れられるものでもないだろ」
「じゃあ、責任取る」
「は? 責任?」
 突拍子もない発言に、俺は目を瞬く。
 拓己はたまに、こういうところがある。脈絡もなく、冗談のようなことを本気で言ったりするのだ。
「俺があの除霊方法を教えたわけだし」
「別に拓己に何か責任があるわけじゃないだろ」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
 そう聞かれると、返す言葉が見つからない。
 たしかに、俺は拓己にどうしてほしいのだろう。拓己は何も悪くない。むしろ俺のために除霊に付き合い、好きだと言ったりキスしたりしているわけで、こちらが申し訳ないくらいだ。
 ただ、あまりに平然と日常に戻っていく拓己の様子には、少し腹が立っている。いつも落ち着いていて淡々としている拓己だけど、そんな冷静さがうらやましくもあった。
 黙ってしまった俺に代わり、拓己が言葉を続ける。
「まあ、責任取るは言い過ぎだけど、千景の問題が解決するまでは付き合うよ。千景の問題は、俺の問題だし」
「ありがとう」
 素直にお礼を伝えると、拓己は嬉しそうに微笑む。
 けれど、すぐに神妙な顔つきに変わった。
「それにしても困ったな……」
「何? 花子さんって、そんなに手強い霊なの?」
「そっちはまだ見てないからわからない。それより、問題はまた霊が千景のところに出てきたことにあると思う。この前の針女みたいに、何か心当たりはないんだよね?」
「ない! 誓って!」
 俺は胸を張って言う。針女のときのように、うっかりお札を剥がすような失態はしていない。
「これまで千景は、幽霊を見たり怪異に出くわしたりってこともなかったんだよね?」
「うん。一度もなかった」
「これは俺の予想だけど……針女のことがあってから、霊が千景に集まりやすくなっているんじゃないかな。一度霊現象に巻き込まれると、それをきっかけに霊を呼び寄せる体質になることがあるらしい。それに、もともと千景は霊を呼びやすい体質みたいだし」
「え、そうなの?」
 ついこの間まで霊現象や怪異とは縁のない人生を送ってきたから、てっきり霊感はないものだと思っていた。
「それもかなり霊に執着されやすい。たぶん千景の天性の人たらしぶりが起因してる」
「俺ってそんなに人たらしなのか……?」
 人生で何度も拓己に言われてきたことだし、ある程度自覚もあるので甘んじて受け入れてきたが、さすがに霊にまで及ぶとなると不安になる。
「魂レベルの人たらしだよ」
 拓己は容赦なく言い放つ。
「とりあえず俺の人たらしぶりは置いておいて……じゃあ、つまりトイレの花子さんを除霊できたとしても、また新しい霊が現れるかもしれないってこと?」
「そういうこと」
「そんな……」
 俺は目の前が真っ暗になった。
「そんな気を落とさないで。元の生活に戻る方法がどっかにはあるはずだよ。その辺は俺が調べてみるから」
 たしかに落ち込んでいても、霊がいなくなるわけではない。
 頷き返すと、拓己が続ける。
「それより、今は花子さんだ。千景も、もうあんな除霊の仕方は嫌だろうし、別の方法を探すから少し時間をもらえる?」
 拓己の問いかけに、今度は頷けなかった。
「あのさ、拓己……いろいろ調べようとしてくれてるところ、すごく言いづらし、自分ではどうしようもできないのに、こんなお願いするのは申し訳ないんだけど……」
「何?」
 もごもごと言い訳のように切り出すと、拓己が首を傾げる。
 拳をきゅっと握りしめ、俺は恥を忍んで告げた。
「できれば、すぐに除霊してほしいんだ」
「すぐにって……あの方法でってこと?」
「そう」
 拓己に相談すると決めた時点で、ある程度覚悟は決めてあった。何より今すぐに解決したい切羽詰まった事情がある。
「でも、嫌なんじゃないの。千景から言い出すなんて。どうしたの?」
「……けないんだよ」
「え?」
「だから! 怖くてトイレに行けないんだよっ!」  
 青く澄み渡った空に、俺の叫びが響き渡った。