目を覚ますと、ベッドの上にいた。
白い天井に白いカーテン、清潔で肌触りのいいシーツ。
そして、すぐ横に俺を心配そうに覗き込む拓己の顔があった。
「気がついた?」
「あれ、ここは……」
「保健室。どこか痛む?」
俺はゆっくりと体を起こしてから、自分の体を確かめてみる。カーディガンは脱がされていて、シャツだけになっていた。
「いや、大丈夫」
「本当のこと言って」
「……ちょっとだけ脇腹が痛いかも。でも、本当に大丈夫。思ったよりは平気だったみたい」
階段を転げ落ちたわりには、軽傷だ。
「拓己、部活だたんじゃいの?」
ベッドの脇に座っている拓己は、陸上部のジャージ姿だ。
「千景が階段から落ちたって聞いて、仮病使って抜け出してきた」
そう話す拓己は、なんだか落ち込んでいるように見えた。
「そこまでしてもらったのに、こんなに軽傷でなんか悪いな」
冗談のつもりで言ったのだけど、拓己は笑わない。
代わりに、泣きそうな顔で呟いた。
「……ごめん」
「なんで拓己が謝るの」
「やっぱり、ちゃんと祓えばよかった。ブレスレットだけじゃ完全じゃないってわかってたのに」
「拓己のせいじゃないよ。そもそも俺がお札を剥がしたりしなければ、こんなことにならなかったわけで!」
普段なら見ることがない拓己の表情に、俺は慌てて拓己を慰めた。あえて明るく振る舞ってみたけれど、拓己の表情は暗いままだ。
「いや、考えが甘かった。守るって約束したのに……肝心なときに役に立たないんじゃ意味がない」
「誰かのせいだって言うなら、それは俺のせいだよ。ちゃんと真剣に考えてなかったと思う。無理に祓わなくても、なんとかなるだろうって……」
そのせいで、拓己だけでなく関係のない女子生徒まで巻き込んで、危うく怪我をさせるところだった。
「でも、今日のことがあって考えが変わった。このまま放っておいたら、いつか取り返しのつかないことになる。やっぱりちゃんと除霊したい。だから……」
その先が言えなくて、言葉を切る。
それでも、もう一度心を決めて続きを口にした。
「拓己、手伝ってくれる?」
拓己は、わずかに目を見開いた。
「本当にいいの?」
俺は自分の意思が伝わるように、しっかりと頷いた。
女の霊に男が好きだと思わせることで本当に除霊ができるのか。まだ信じられない気持ちはあるけれど、今は拓己を信じるしかない。
拓己は受け止めるような間を空けてから、口を開いた。
「じゃあ、今からやろう」
「えっ、今から!?」
いくらなんでも、今ここで始めようと言われると思っていなかったので、俺は少し慌てた。
「すぐやらない理由なんてないだろ?」
拓己は丸椅子から腰を上げると、カーテンを閉め切ってベッドの上に乗った。
「でも、ここ保健室だし」
「誰もいないし、来ないよ。来たとしてもカーテンがあるからなんとかなるし。あと、そんなに時間をかけるつもりもない」
すらすらと反論を述べながら、拓己は俺に覆いかぶさる。拓己との距離がぐっと縮まった。拓己が動いた反動でベッドのマットレスが揺れ、それに呼応するように鼓動が跳ねた。
「ちゃんと覚悟決めて」
そう言う拓己は、とっくに覚悟を決めているようだった。
頼んだのは俺で、頼っているのも俺なのに、いつまでも躊躇してしまう自分が情けなくなる。
「わかった。やろう」
拓己は軽く微笑むと、俺の胸元に手を伸ばした。
シャツの隙間に手を滑り込ませ、そのまま思いっきり両側に引いた。強引に開かれた勢いで、シャツのボタンが弾け飛び、床に散らばる。
「なっ、何するんだよ!」
いきなりのことに俺は目を丸くする。
「針女を呼び出すためだよ」
言われてみれば、ボタンが取れたときは必ず針女が現れている。
これも除霊の一環ということらしい。
「でも、だからって……」
シャツがはだけたせいで、素肌がさらけ出されてしまっている。
一緒に暮らしていればお互いの上裸を目にすることくらいいくらでもあるが、こんなふうにベッドで向き合いながら見られるのは、なんだかとても居心地が悪い。
さっきした覚悟が、あっという間に吹き飛んでしまいそうだった。
一方で、拓己にそんな気まずさはないらしく、無遠慮な視線を向けてくる。
「千景って、そんなに腹筋あったっけ?」
「変なこと言うなよ! ってか、見るな」
視線で肌を撫でられているような気分になり、思わず声を上げる。
「別にちょっと意外だっただけ。高校入ってから部活やってないのに、思ったより筋肉あるなって」
平然と返されると、俺ばかり意識してしまっているようで居たたまれなくなる。
押し寄せてくる気恥ずかしさをなんとかやり過ごそうとしていると、拓己が不安そうに顔を覗き込む。
「そんな調子で大丈夫?」
「全然、問題ない」
強がって言い切るけれど、拓己には見透かされている気がした。
「いい? あの女の霊に、千景は男が……つまり俺のことが好きで、女なんて興味ないって思わせるんだからな。死ぬ気で演技して」
「……わかってるよ」
わかってはいるんだけど、いろいろ気持ちが追いつかない。
「来たよ」
拓己が言うのと同時に、カーテンをすり抜けて針女が姿を現した。
あっという間に周囲が強い霊気に包まれ、肌が一気に粟立つ。
「……ボタン、とれちゃったな」
拓己の雰囲気が変わったので、除霊のための演技が始まったのだと悟った。
「拓己のせいだろ」
これで正解なのかわからないけれど、とにかく会話を合わせてみる。
「俺があとで縫ってあげるから。いつもそうしてるだろ?」
すると、針女から低い唸り声が聞こえてきた。つい、そちらにちらっと視線を向けてしまう。
針女は憎悪を滲ませた顔で、こちらを睨んでいる。目は窪み、口は縦に大きく開かれ、瘦せこけた頬のせいで輪郭が歪んでいた。
「――っ」
溢れ出しそうになる悲鳴をなんとか堪える。まるで金縛りにあったように、針女から視線を離せなくなる。
すると、拓己の手のひらが頬に触れた。
「目、逸らさないで。俺だけ見て」
柔らかい声に、ふと体の力が抜けた。視線を戻すと、拓己にまっすぐに見つめ返される。 その目は絶対に大丈夫だと訴えかけていて、それだけでとても心強かった。
俺も大丈夫だと伝えるように、こくりと頷く。
「好きだよ、千景」
不意に拓己が告げた。
針女に見せつけるための演技とはいえ、あまりに真剣な口ぶりに戸惑ってしまう。
俺も拓己に合わせて、ちゃんとやらないと。
「……俺も」
好きだとは、やはり恥ずかしくて言葉にできず、そう口にするのが精一杯だった。
たったそれだけのことなのに頬が熱くなる。
こんな調子で本当に除霊なんてできるのだろうか。
思わず心配になるけれど、針女の邪気がわずかに緩んだ。半信半疑だったものの、ちゃんと効き目はあるらしい。
「好きだ、千景」
拓己がゆっくりと距離を詰める。お互いの唇がもう少しで触れるくらいに近づいてから、ようやくキスしようとしているのだと気づいた。
「……!」
反射的にシーツをぎゅっと握り締める。
すると、拓己はキスはやめて少し顔を離し、俺の耳元に顔を寄せた。それから、俺にだけ聞こえるように小声で囁く。
「目つぶっておいて。一瞬で終わるから」
俺の躊躇いを察して、気を遣ってくれているらしい。
「こんなキスに意味なんてない。たまたま唇がぶつかるのと同じようなものだから」
視界の隅で針女を確かめると、威勢を取り戻している。このままでは除霊が中途半端に終わってしまうと、俺は気を取り直した。
「……わかった」
俺が答えると、拓己は耳元から顔を離して再び正面で向き合う。
拓己がもう一度距離を詰めるのをドキドキしながら待つ。
ところが、拓己はじっと俺のことを見つめたままで、いっこうに距離を縮める気配がない。どうやら拓己は、俺がちゃんと心の準備ができるまで待っているようだ。
そんなふうに待ってもらっても、時間をかければ心の整理ができるわけでもない。
それなら、いっそのこと拓己のほうから少し強引にでも押し進めてほしかった。けれど、拓己はその時が来るまで動くつもりはないらしい。
なんてことないことだ、と心の中で何度も自分に言い聞かせる。
これは一般的なキスではない。拓己が言うように意味なんてなくて、キスとは呼べないものだ。
それに拓己と俺は兄弟のようなものだし。いや、兄弟はキスしないだろ。だから、キスじゃないって。そんなことがぐるぐると頭を巡る。
なんでもないと思い込もうとすればするほど、強く意識してしまう。
「これは、あくまで除霊のためだから」
拓己が小声で言う。
「わかってる。わかってるよ、でも……」
じゃあ、なんで。
なんで、拓己はそんなに余裕なさそうな顔をしてるんだよ。
落ち着いた口調とは裏腹に、拓己の頬はわずかに紅潮していて、緊張が伝わってくる。 こんなキスに意味なんてない。そう言ったのは俺の緊張をほぐすためで、拓己自身そんなふうに思ってないことが、目の前の表情からわかってしまう。
拓己から伝わってくる緊張感と自分の動揺が混ざり合って、頭が沸騰しかける。
腹を括るというよりも、一刻も早くこの状況から逃げ出したくなった。
「……早く、して」
気がつくと、せがむような言葉を口走っていた。
目の前の拓己の瞳が揺れる。
次の瞬間には、唇を塞がれていた。
1秒1秒がとても長く感じられる。いきなりキスをされたせいで息を吸う間もなかったから、すぐに呼吸が苦しくなった。鼻で息をすればいいという知識は頭の中にあったものの、それを実行するほどの余裕はない。
息が限界に達しようとしたそのとき、唇が離れた。
「……はっ」
酸素を求めて喘ぐ。
呼吸を整えていると、針女の邪気が鎮まっていくのを感じた。見れば、針女の輪郭が薄くなっていっている。針女は蒸気が立ち上るように少しずつ粒子となって欠けていき、やがて跡形もなく消えてしまった。
「ちゃんと除霊できたみたいだ」
呆然と宙を見つめていると、拓己の言葉が耳に届いた。
「本当に除霊できたんだ」
ということは、針女には俺と拓己が想い合っているように見えたということか。
「てか、なんで千景、息しないの」
いきなりそんなことを指摘されるとは思っておらず、俺はたじろいだ。
「し、仕方ないだろ。キスしたの初めてなんだから」
ついそんなふうに言い返してから、なんだかすごく恥ずかしいことを言ってしまったような気持ちになる。
あれだけキスではないという前提で始めたのに、自分でキスと言い切ってしまったことが、さらに追い打ちをかけた。
いつもはうまくフォローしてくれる拓己も、今は困った顔で押し黙っている。
「…………」
「…………」
拓己の目を直視できず、俺は膝に顔を埋めた。
「あんなキス、カウントしたらだめだよ」
拓己はベッドの脇から足を出して、上履きを履き出した。
「お互いの気持ちがないキスなんて、キスじゃないから」
「そうかもしれないけど……」
「千景の初めてを奪ったってなったら、俺だって申し訳なくなるし」
「……うん」
「とにかくもう針女は出てこないだろうし、これで全部元通りだ。キスのことだって、1
分もしないうちに忘れるよ」
あっさりと言い捨てられると、なんだか悔しくなる。
「拓己は、キスしたことあんの?」
少しムキになって、そんなことを聞いてみる。思えば、こういう話は拓己とはしたことがほとんどない。けれど、やけに慣れた感じがしたから、もしかしたらそういう経験があるのかもしれないと思った。
膝に埋めていた顔を少し傾けて、ちらっと拓己を見やる。拓己はベッドの端に座り、こちらに背中を向けたままだった。
「……俺だって、初めてだよ」
小さくてきれいな形をした拓己の耳は、赤くなっていた。
「カバン取ってくる」
拓己は腰を上げるとカーテンを開け、こちらを振り向かずに保健室を出ていってしまった。
「もう、なんなんだよ……」
キスではない何かに、こんなに気持ちを乱されている俺はなんなのか。
保健室の壁にかけられた時計をじっと見つめ、針が一番上に来るのを待った。
除霊は成功した。拓己の言うように1分もしないうちにキスのことも忘れて、これまでと何も変わらない日常が戻ってくるのだろうか。
余裕を失くした拓己の表情を思い出し、胸の奥がむずむずと疼く。拓己のあんな表情は、初めて見た。今まで知らなかった拓己の一面を知ってしまったあとで、何もかもが元通りになるのだろうか。
わからない。でも、拓己が言うのだから、きっとそうなのだろう。
秒針が時計を一周して、またてっぺんに戻ってきた。
「……拓己の嘘つき」
俺は拓己のことが恨めしくなって、また膝に顔を埋めた。
真剣な目も、意外に長いまつげも、赤くなった耳も、脳裏に焼き付いて離れない。唇の感触も、消えないままだ。
まったく意味を持たないはずのキスの余韻は、そのあともしばらく続いた。
