「あの霊が現れるようになったのは、一週間くらい前からなんだ」
自宅に帰り、リビングのソファに並んで腰をかけたところで、俺は事情を説明し始めた。
「これまで生きてきて幽霊が見えたことなんてなかったし、原因があるとしたらひとつしか思い当たらない」
「原因って?」
「この前の休みの旅行だよ」
「ああ、長野に行ったとき? でもなんで?」
家族全員での旅行だったから、もちろん拓己も一緒にいた。だからこそ、逆に旅行が原因と聞かされて、拓己が不思議に思うのも当然だ。拓己は何かあっただろうかと、記憶を辿るような顔をしている。
「長野で旅館に泊まっただろ。あそこに泊まったのがいけなかったんだ……」
その旅館に宿泊することになったのは、もともと予定していた宿に泊まることができなかったからだ。
出かけた先は人気の観光地ということもあり、もちろん俺たちは宿を予約したうえで旅行に出かけた。ところが宿に行ってみると、手違いで部屋が取れておらず、仕方なく別の宿泊先を探すことになった。
何軒か回ったがどこも満杯で、ようやく街の外れにあるその旅館で空き部屋を見つけたのだ。
俺たち4人は、離れのようになっている一室に案内された。他の居室との違いに最初は戸惑ったものの、ここしか空いてなかったのだろうと納得し、それなりに居心地のよさに満足していたのだけれど……。
「あの部屋さ、絵が飾ってあったじゃん。和室に似合わない感じの、とってつけたようなやつ。部屋に入ったときから、なんか変だなとは思ってたんだ。ほら、宿にある絵の裏って、よくお札が貼ってあるって言うだろ。それで、どうしても気になって……確かめてみたんだ」
「いつの間にそんなことを。」
「みんなが寝ている間にこっそり……だって気になって眠れなかったんだ、仕方ないだろ!」
拓己の顔に思いっきり「呆れた」と書かれていて、俺はつい弁明を口にする。
「確かめて本当にお札があったら、それこそ眠れなくなるだろ」
「それはそうだけど。その時はないってわかったら、安心して眠れると思ったんだよ」
「それで結局、本当にお札があったわけだ」
拓己の言葉に俺は頷く。
「絵を外したときに、張ってあったお札も一緒に剥がれちゃったみたいでさ。すぐに元に戻したんだけど、たぶん手遅れだったんだと思う」
あの瞬間の絶望感は、思い出すだけで体が震える。もし一度だけ時間を戻せると言われたら、俺はお札を剥がす前に戻るだろう。
「それで、旅行から帰ってきてみたら、あの女の霊が見え始めたと」
「うん、そういうこと」
霊が見えるようになった原因があるとすれば、あのお札以外に考えられない。
あれは霊を封じ込めるためのお札で、それを剥がしてしまったためにあの女の霊が解放された。霊はその土地を離れ、東京に戻ってきた俺についてきてしまった。
俺は自分の身に起きている状況を、そんなふうに予想していた。
「なるほどな。まあ、経緯はなんとなくわかった。でも、なんですぐ言わないんだよ。霊が見え始めてもう1週間も経ってるんだろ?」
「それは……」
普通なら信じられないような話だし、聞かされたところで解決できるような問題でもないし、困らせるだけだろうと思っていた。
けれど、実際には拓己はすんなり俺の話を受け入れてくれたし、何かしら対処法を知っているようだった。
「いつも何かあったら言ってほしいって言ってるのに」
拓己は少し拗ねたように愚痴る。
「ごめんって。でも、お互い様だろ? 拓己だって俺に幽霊が見えることずっと黙ってたわけだし」
「だって千景、怖い話とか心霊系とか苦手だろ。ただ怖がらせるだけだし、言うメリットないと思ったから」
そう言われるとそうかもしれない。けれど、解決はできないし力にはなれなくても、話してほしかったという気持もある。
「拓己はいつから幽霊が見えるの?」
「物心ついたときには見えてたかな。そういう家系なんだよ。父さんにも見えてたみたいだし、父さんは除霊もやってた。まあ、それを知ったのは2人がいなくなった後だけど」
拓己は、父親が残したブレスレットがしてある自分の腕を、反対の手でそっと掴んだ。
少し間を置いてから、拓己は続ける。
「あの女の霊は、おそらく針女だと思う。愛媛県に伝わる妖怪だとか、長年使われていた裁縫道具の針が怨念によって怪異となったとか言われているけど。そういう伝承のようなものはいくつもあって、針にまつわる女の怪異はだいたいそう呼ばれているみたい」
「針女か……そういえば、今日針が頭の上から降ってきた」
近頃、やたらボタンが取れるのも、やはり針女の影響なのだろうか。
「どんな力があるのかも結構違って、髪を操って男を連れ去るとか、針で肉体を突き刺すとかいろいろある。それで千景に憑いている針女だけど、俺の見立てによれば……」
聞いているだけで身の毛もよだつ内容に、俺は思わず身構えた。
心して拓己の言葉を待つ。
「あの女の霊は千景に執着している。っていうか、惚れてる」
「は?」
思いもよらぬ方向に話が向かい、間抜けな声で聞き返す。
「惚れてる?」
聞き間違いだろうか。たしかに拓己がそう言った気がするのだが。
「そう、惚れてる」
拓己は、堂々ともう一度言い直した。
「いや、待ってよ。執着っていうのは、怨念みたいな意味で言ってるなら、わからないでもないけど。惚れてるってなんだよ。そんなことあるわけないだろ」
「いや、絶対に惚れてる。だって、あの霊を見てみなよ」
拓己は、リビングにある庭に面した大きな窓を指さす。
庭園とも呼べるほどの広々とした庭の中央には大きな木が植えられている。そして、その木の枝でできた暗がりの下で、例の針女がちくちくと何かを縫っていた。
「あれは、完全に惚れた女の顔だろ」
「そ、そうかな……?」
言われてみれば、確かに針女はこの一週間ほどで見たことがない穏やかな顔をしている。蒼白い顔は変わらないものの、少し俯きがちに裁縫に熱中していると、しおらしいという言葉が似合いそうな雰囲気がある。黙々と針を動かす姿は、想い人のためにセーターを編む女性と重なった。
「天性の人たらしだとは思っていたけど、まさか霊までたらしこむなんて」
拓己は冗談のようなことを本気で言いながら、頭を抱えている。
「たらしこむって……なんか言い方が嫌だし、さすがの俺も幽霊にまで惚れられたら困るんだけど」
「でも、千景にも悪いところあるよ」
「え、俺?」
急に矛先を向けられ、面食らう。
「霊っていうのは、たとえ見えたとしても気づかないふりをして、相手にしないほうがいいんだ。それなのに千景は! 針女を庇うような真似して。針女からしたら自分の気持ちを汲んでもらえたってなるだろ。余計に執着される原因を自ら作ってるようなものだよ」
拓己の指摘はどれも正論で、ひとつひとつが胸に突き刺さる。
「ごめん……針女もすごい怒っているみたいだったし、拓己に何かあったらって思ったら、つい。なんとか止めなくちゃって必死だったんだよ」
しゅんと肩を縮めると、拓己は小さく息を吐く。
「まあ、俺が力不足だったのが一番悪い。助けようとしたのに、結局千景に守られることになったわけだし」
拓己は自分の不甲斐なさを悔しがっているようだった。
「あのさ、絶対に追い払わないとダメなのかな。危害を加えられるわけじゃないなら、このままでもいいのかなって思ったんだけど」
今日は一瞬、身の危険を感じるほどだったけれど、今はもう針女から邪気のようなものは感じない。
無理に追い払おうとしなければ、そのうち勝手に消えてくれるのではないだろうか。
そんなふうに考えて言ったのだけれど、拓己は首を横に振った。
「その考えは甘いよ。今はいいかもしれないけど、いつ豹変するかわからない。悪霊にでもなってからじゃ手遅れになる」
昔から霊が見える生活を送ってきた拓己が言うのだから、きっとそうなのだろう。
「そうなると、やっぱりちゃんと除霊みたいなことをしてもらったほうがいいんだよね」
とは言え、除霊というものをどうやってやるのか、どうやって除霊をしてくれる人を見つけるのか、まるで知識がない。
「ネットで調べたらわかる?」
「ネットの海には偽物がうようよいるし、お金を吹っ掛けられるからやめたほうがいい。あと自己流で除霊の真似事みたいなことは絶対にしないで」
「じゃあ、どうしたら……」
「父さんの知り合いだった人に除霊師がいるみたいなんだけど。海外を飛び回っててなかなかつかまらないんだよな。残念ながら俺も一時的に追い払うことはできるけど、ちゃんとした除霊師じゃない」
「そっか……」
「けど、方法はなくはない」
「え?」
俯きかけた俺は、拓己の言葉にすぐに顔を上げた。
「たぶんその方法を使えば、除霊はできる。俺にもできる方法で、千景のこの状況だからこそ成り立つ。でも、それには千景の協力が必要だ」
「そんなの、もちろん協力する! ってか、どっちかって言うと拓己が協力してくれる側だろ。それで、どんな方法?」
かすかに見えた希望の光に縋るように、少し前のめりになりながら俺は尋ねる。
すると、拓己は俺の目をまっすぐに見つめながら言った。
「あの霊に、千景は男が好きだって思わせればいいんだよ」
「んっ……?」
拓己の声はきちんと耳に届いたのに、何を言っているのかさっぱり理解できない。言われたことをもう一度ゆっくり頭の中で反芻してみるけれど、やっぱりわからなかった。
「えっと、どういうこと?」
「あの霊は千景に惚れてるわけだろ。でも、男が好きなんだってわかれば、きっと諦めて離れていくはずだ。その気持ちを利用して除霊する」
冗談を言っているのかと思ったけれど、拓己はいたって真剣なようだ。
「簡単だろ? その方法なら俺も手伝える」
「手伝えるって……」
「わかりやすいほうが効果があると思うよ」
拓己の手がそっとこちらに伸びてくる。指が顎の下に触れたかと思うと、わずかに顎を持ち上げられた。
「え、拓己……」
俺の戸惑いなど意に介さず、拓己がゆっくりと顔を寄せる。
これは、まるでキスをする直前だ。
そう気づいた瞬間、頬がカッと熱くなった。
「手伝うの意味、わかった?」
「嘘だ! そんな冗談みたいな話、あるわけないだろ!」
俺は思わず拓己の肩を掴んで押し返しながら反論する。
「嘘じゃない。実際にそういう事例があったって聞いたことがある」
拓己は相変わらず真面目な顔をしている。
拓己にそんな嘘をつくメリットはない。何より拓己は俺に危険が及ぶような状況で、冗談を言うようなやつではない。
「でも、だからってそんな方法……」
拓己はただ俺を助けようとしていて、事実を言っているだけ。仮にそうだとしても、簡単に頷ける話ではない。
だって、それは除霊のために拓己とキスをしたりするということで。むしろ、拓己はどうして平然とそんな話を持ち出せるのだろう。
俺は拓己が、いつも「なんでもする」と言っていることを思い出した。いくら拓己が、その言葉どおりなんでもする覚悟を持っていたとしても、度を越している。
戸惑いが顔に出ていたのか、拓己は自分の無害を示すように両手を上げて見せた。
「そういうやり方もあるから一応伝えただけ。強制はしないし、別に信じなくてもいい。でも、このままとはいかないから……腕、貸して」
拓己は自分の腕からブレスレットを外すと、俺の腕に付け直した。
「これ、魔除けの効果があるらしいから、付けておいて」
「いや、だめだよ。だって、これすごく大切なものだろ? そんなの借りられないって」
「いいんだよ。羽柴家を守るのが、奥村家の使命だから。千景のために使えるなら、それが一番いいと思う」
そう話す拓己は優しい顔つきをしていた。拓己は今、ブレスレットを通して父親のことを思い出しているのだろう。
そう思うと、俺は拓己の気持ちを突き返すようなことはできなかった。
「……ありがとう。じゃあ、少しだけ借りるね」
拓己は安心したように頷く。
「でも、このブレスレットだって完璧なわけじゃない。何かあったら俺を頼って。俺がなんとかするから」
「わかった」
俺が素直に頷くと、拓己は気持ちを切り替えるように「よし」と言いながら立ち上がった。
「じゃあ俺、夕飯まで部屋で勉強してるから」
拓己はそう言い残して、自室がある2階へ上がっていく。
その背中を見送ってから、俺も塾の課題を片付けようと腰を上げる。リビングを出る前に、庭を振り返った。
いつの間にか、庭の木の下から針女の姿は消えていた。
ブレスレットの効果のおかげで、それから数日間は針女の姿を見ない日が続いた。
後ろに針女がいきなり現れることもなければ、壁からぬっと頭だけ出てくるということもない。心穏やかに過ごせる時間が増え、学校の授業も家での勉強にも集中できた。
ブレスレットが思っていた以上に効き、もしかしたら針女はどこかに行ってしまったのかもしれない。あまりに平穏な時間が続くので、俺はそんなふうに思い始めていた。
ところが、ある日の放課後。
教室に残り塾の予習をしていた俺はふと顔を上げ、いつの間にかひとりきりになっていることに気づいた。
「うわ、もうこんな時間か」
すっかり課題にのめり込んでいたようだ。時計を確認すると、ホームルームが終わってから結構な時間が経っていた。
そろそろ塾に向かおうと腰を上げる。
カバンを手に取り教室を出て、階段を降りていく。
そのとき、コツンというあの音が再び耳に届いた。思わず足を止めると、階段をボタンが転がり落ちていく。ボタンは踊り場で緩やかに回転してから、横に倒れた。
自分のカーディガンを見ると、ボタンがひとつなくなっている。
まただ。
嫌な予感に心臓がばくばく鳴り始めるのを感じながら、慌てて階段を駆け下りる。
すると、反対に階段をのぼってきた生徒が先にボタンを拾い上げた。
「これ、千景くんの?」
そう尋ねてきたのは、隣のクラスの女子生徒だった。
「そう。取れちゃったみたいで。ありがとう」
手を差し出すけれど、女子生徒が返す気配はない。自分の手の中にあるボタンと俺のカーディガンを交互に見比べている。
「本当だ。どっかに引っかけて取れちゃったのかな。そうだ、わたしが縫ってあげるよ」
「いや、いいよ。悪いし」
なるべく嫌な感じにならないように気をつけながら、俺はやんわりと断る。
けれど、相手の女子生徒はボタンを手にしたまま、笑いかける。
「えー、遠慮しないでよ」
そのとき、背中に悪寒が走った。
間違いない、針女が近くにいる。早くこの場から離れないと。
「別にボタン付けるくらい簡単だよ」
ボタンなんて忘れて立ち去ればいいだけなのに、話を続けられると無下にもできず、なかなか動けない。
「わたし裁縫セット、カバンに常備してるんだ」
「へえ、そうなんだ」
曖昧に微笑み返しながら、背後に迫る針女の気配を探った。
振り向けないけれど、確実に針女が迫っている。ついこの間、拓己と対峙したときにも強い霊気を感じたけれど、今はそれ以上だ。
怒りや憎悪や嫉妬、そういった様々な感情がない交ぜになった大きな気の塊を身体に押し当てられてるような感覚がした。
俺はブレスレットをしているほうの腕を背中に回して、「助けてください、力を貸してください」と念じた。誰に向けてかはわからない。神様かもしれないし、拓己のお父さんかもしれないし、拓己かもしれない。
とにかく、針女が消えてくれるように祈った。
すると、ブレスレットから熱を感じた。それと同時に、針女の邪気が薄れていく。
どうやらブレスレットの力が効いているようだ。
けれど、針女が消える様子はない。ブレスレットはさらに熱くなる。
不意に、このままではブレスレットが壊れてしまうのではないかと怖くなった。
拓己の顔を思い出し、俺は背中に回していた腕を引いた。
「私、妹と弟がいるから、裁縫は結構得意なんだよ」
女子生徒は針女にはまるで気づいていないようで、笑顔で話を続けている。
「ねえ、教室に行って今から一緒に……」
そのとき、背後から針女の髪が伸びてきた。
真っ黒で長い髪は、俺の肩を通り越し、その先で女子生徒の肩を押した。
「えっ……」
女子生徒が目を開き、体が大きく後ろに傾く。そのすぐ後ろには階段がある。
「危ないっ――」
俺はとっさに手を伸ばし、女子生徒の腕を掴んだ。
力を振り絞り、女子生徒を踊り場に引き上げた。けれど、その反動で代わりに自分の体が宙に投げ出された。
「……っ!」
全身に痛みが走り、気が付いたときには階段を転がり落ちていた。
意識が遠のいていく中で、腕にしてあるブレスレットが目に入る。ブレスレットは壊れておらず、ちゃんと元の形を維持していた。
「よかった……」
ブレスレットの無事がわかり安心したからか、俺はそこで気を失った。
