あくまで除霊のためだから



 風呂の間、陽気な歌を口ずさんでいたおかげか、鏡に女の霊が映ることはなかった。
万が一出てきたときのためにほぼ薄目をキープしていたせいで、間違えてボディソープで髪を洗ってしまったが、そんなことは大した問題ではない。
 体も温まり、あとはぐっすり眠るだけ。
 電気を消して、布団に入ったのだけれど……。
「眠れん!」
 目を閉じると、昼間に学校で見た女の霊がちらついて、眠気がふっ飛んでしまう。
 それでも、なんとか眠りにつこうと布団に潜り込む。
 こういうとき、なんとなくだけど手足を布団から出しておきたくない。女の霊が鎌を持ってきて、手足を切り落とすんじゃないかと、そんな気がしてくるのだ。
 頭まですっぽり布団にくるまっていたら、今度は寝苦しい。
「やっぱり、眠れん!」
 そうこうしているうちに、今度はトイレに行きたくなってきた。眠ってしまえば尿意も忘れるだろうと、しばらく布団の中でじっと待ってみたものの、眠気は遠ざかるばかりだ。
 仕方なく、もぞもぞとベッドから抜け出してトイレへ向かう。
 そそくさと用を済ませ、ついでに喉を潤そうとキッチンに立ち寄る。
 しんと静まり返ったキッチンで冷蔵庫を覗いていると、リビングの扉がギィィと音を立てた。風がすっと足元を通り、体がぶるっと震える。
 嫌な予感がする。お茶だけ飲んだら、早く部屋に戻ろう。
「何してるの、千景」
 お茶に手を伸ばしかけたところで、すぐ横から声をかけられた。冷蔵庫の明かりに照らされて、真っ白い顔がぽっかりと闇に浮かんで見える。
「わっ――……んんん」
 思いっきり叫びそうになったが、口を塞がれたせいで唸り声になる。
「俺だよ、俺」
 拓己は静かにと伝えるように、口元に人差し指を当てている。
 俺が落ちついたとわかったのか、拓己が口を塞いでいた手を放す。
「なんだ、拓己かぁ。驚かすなよ」
「普通に話しかけただけだろ。こんな時間に、何してるの?」
「ちょっと眠れなくて。トイレに行ったついでに飲み物取りにきた。拓己は?」
「俺も同じ。数式解いたら、妙に頭が冴えちゃって。眠れないから何か飲もうと思って下りてきた」
「そっか。なんか温かいやつ淹れる?」
「じゃあ、俺淹れるよ」
 結局、何も取り出さずに冷蔵庫を閉め、拓己と一緒にハーブティーを準備した。
 この家はキッチンとリビングが繋がっている。すぐそこには大きなソファもダイニングテーブルもあるのだけど、なんとなくキッチンに立ったまま2人でハーブティーを飲んだ。
 カップから立ち上る白い湯気や鼻をくすぐる茶葉の香りが、心を和らげてくれる。
 不謹慎だけど、拓己が寝付けずキッチンに来てくれてよかったと思った。ひとりで冷たいお茶を飲んで部屋に戻っても、きっとまだ眠れずにいただろう。
 ハーブティーを飲みながら、ぼんやりとリビングを眺めていると、ふと昔のことを思い出した。
「子どもの頃さ、よくリビングに布団持ってきて一緒に寝てたよね」
 すると、拓己がふっと笑みをこぼした。
「俺もちょうど同じこと考えてた。ちゃんと自分たちの部屋もらってたのに、わざわざリビングで寝たいってなんなんだろうな」
「たしかに意味不明かも。そんで朝見つかって、母さんによく怒られたっけ。でも、楽しかったよな」
「そうだな、楽しかった」
 そこで同時にハーブティーを口にして、一時的に静けさが戻ってくる。
 何も言わずとも、拓己が今、俺と同じことを考えているだろうとわかった。
「あのさ……やってみる?」
 それだけで拓己には伝わったようだ。
「やるか。久しぶりに」
 拓己も即答する。
 ハーブティーを飲み終えカップを洗うと、すぐに準備に取り掛かった。
 眠っている両親を起こさないよう細心の注意を払いながら、客間の押し入れにある布団をリビングへ運び出す。
 まもなくして、リビングには2組の布団が並んだ。
 広々としたリビング、リビングの床に敷いても腰が痛くないふかふかの布団、ついでに倉庫から引っ張り出してきた無駄に豪華なランプ。
「いやぁ、こういうとき御曹司でよかったなって思うよな」
 即席の寝床を前に、俺は腰に手をつきながら笑う。
「そういう冗談、外では言わないようにね」
「大丈夫だよ。なぜなら俺だから」
「そうだね、千景は究極の人たらしだもんな」
 拓己は眼鏡を外してローテーブルに置くと、さっさと布団に入ってしまう。
 もう少し話がしたい気もしたが、もうそれなりに遅い時間だ。明日も学校だし、寝たほうがいいだろう。俺も大人しく布団に入ると、隣で拓己が続けた。
「高校に入るとき、心配してたんだ。大企業の御曹司だってみんなに知れ渡ったら、拓己が苦労するんじゃないかって。でも、そんな必要もなかったね」
「みんな言うほど気にしないよ」
「いや、拓己がすごいんだよ。拓己と話した人は誰でも拓己のことが好きになる」
「まあ、顔がいいからね」
「そういうことを言っても、拓己ならみんな許しちゃう。それが拓巳のすごいとこだよ」
 俺が羽柴ホールディングスの社長の息子だということは、学校のほとんどの人が知っている。
 一方で、俺と拓己が一緒に暮らしていることは、先生たちを除いて誰も知らない。
 なぜなら高校に入学する前に、俺たちの関係は学校では隠しておきたいと拓己からお願いされたからだ。同じクラスになったものの、拓己は学校では俺と距離を置いている。なるべく接点をもたないよう、心がけているようだ。
 拓己のことだから、将来的なことを考えてとかそういう理由なのだろうとは予想している。今から真剣に将来に向けて動いている拓己を尊敬する気持ちが半分と、あと半分は単純に寂しかった。
 俺は拓己と、普通の友達のように学校生活を送りたかった。
 拓己が俺のほうへ向くかたちで寝返りを打つ。
「拓己なら大丈夫だと思うけど、何かあったら言って。俺、なんでもするから」
 それは、事あるごとに拓己の口から出る言葉だ。
 隣を見ると、拓己は目を閉じていた。眼鏡を外した拓己は、少し幼く見える。
「俺は奥村家の人間で、千景を守るのは俺の役目だから。千景のためならなんでもするよ」
 拓己はそのまま寝落ちしてしまったようで、穏やかな寝息が聞こえてきた。
 顔の前に腕を持ってきて眠る癖は、まだ変わっていないようだ。
 そして、その腕にはシルバーのブレスレットが巻かれている。拓巳のお父さんの形見だ。
 両親を失い、いろいろなものを手放してきた拓己だけれど、あのブレスレットは今でも大切にしている。
 たぶん拓己は少なからず拾ってもらった恩みたいなものを羽柴家に対して抱えてきたはずだ。そして、すっかりこの家に馴染んだ今でも、それは同じなのだろう。拓己が奥村家の名前を出すたびに、自分の役割を話すたびに、俺は拓己なりの線引きを感じた。
 時々、考える。
 拓己は俺にとってどんな存在なんだろうと。兄弟のようで、幼馴染のようで、クラスメイトのようで、親友のようで。けど、どれでもない。
 将来、社長と側近という立場になったとして、その関係にぴったり当てはまるかというと、そうはならないような気がする。
 俺たちはこれからもずっと、お互いの関係を表す言葉を見つけられないまま、生きていくのではないだろうか。そんな気がするのだ。
 そして、その反対も考える。俺は、拓巳にとってなんなのだろう。


 女の霊は、そのあとも昼夜を問わず何度か現れた。
 古びた着物、乱れた長い髪、この世のものとは思えない蒼白い顔。予測できないタイミングで目の前に出てきては、こちらを恨めしそうに睨んでくるので恐ろしい。
 けれど一方で、少しずつ慣れてきてしまっている部分もあった。
 たしかに急に出てこられると驚くし怖い。少なからず生活に支障はあるのだけれども、何かこちらに危害を加えるわけでもない。
 慣れてしまえば、うまく見て見ぬふりをすればやり過ごせそうだ。

 事態が変わったのは、そんなふうに気が緩み始めた頃だった。
 放課後、日直の仕事を終わらせ教室に戻ってくると、他の生徒はすでに部活に行ったか帰宅したようで誰もいなかった。
 俺もカバンを手に取り、教室を出ようとしたところで、コツンという小さな音がした。
 見れば、足元に落ちたボタンが床を転がっていく。どうやらジャケットのボタンが取れてしまったようだ。
 どこかに引っ掛けたわけでもないのに、どうしてだろう。不思議に思いつつ、既視感を覚える。
 そういえば、ついこの前も同じようなことが家で起きた。
 胸騒ぎを覚えながら、しゃがんでボタンに手を伸ばす。
 すると、伸ばした手の先に、何か細い棒のようなものが落ちてきた。よく見れば、それは針だった。2本、3本とパラパラと上から降ってくる。
 いつものあの霊の気配がする。
 でも、こんな現象は初めてだ。それに、なんだかいつもと様子が違う。これまでと比べ、明らかに邪気が強い。
 針がまた1本、落ちてきた。
 上を見上げるのが怖くて、ボタンを拾うと俺は俯き気味に急いで教室を出た。
 女の霊が後を付いて来るのがわかる。
 どうしよう、どうしよう。なんかまずい気がする。恐怖に追い立てられるように、俺は足早に廊下を進んだ。
 すると、角を曲がったところで誰かが飛び出してきた。
 すれ違いざまに肩が当たり、持っていたボタンが手から落ちる。
「……っ、ごめん」
 謝りながら振り返り、顔を確認する。ぶつかった相手は拓己だった。
「拓己、なにしてるの? 部活は?」
 拓己が所属している陸上部は、今も校庭で練習中のはずだ。拓巳もジャージ姿だし、抜け出してきたのだろうか。
 拓己は俺からの質問に答えず、しゃがんでボタンを拾う。
「やっぱり、そういうことか」
 ひとり言のように呟き、拓己はゆっくりと立ち上がる。
 そうしている間にも、女の霊が迫ってきているのがわかった。早くここから立ち去らないと。
「ごめん、それ俺の。拾ってくれて、ありがと」
 ボタンを受け取ろうと、拓己に手を差し出す。
 けれど、なぜか拓己はボタンを渡そうとしなかった。
 背中から、息苦しさを感じるほどの重々しい空気がのしかかってくる。
 何か黒いオーラのようなものが背後からまとわりついてきた。うねうねと動くそれは、よく見たら女の髪だった。
 すると、おもむろに拓己が口を開いた。
「あのさ、千景に手出さないでもらえる?」
 言われた意味がわからず、拓己を見つめる。
 けれど、拓己と視線が交わらない。
 拓己は俺のほうを見ていなかった。俺の肩越し、女の霊がいるはずの場所を見据えている。
「もしかして……」
 ある可能性に気づき、俺はハッとする。
 もしかすると、拓己にも女の霊が見えているのだろうか。
 拓己は手を差し出すと、俺の手のひらにボタンを落とす。
 ボタンが零れ落ちないよう、きゅっと握りしめた次の瞬間、拓己に腕を引かれた。
 引き寄せられるまま、俺は拓己の隣に立つ。
 拓己は、その間もずっと挑むような眼差しを女の霊に向けていた。
「うまくいくかわらからないけど、やるしかないか」
 拓己は女の霊に向けて腕を掲げた。その腕には、形見のブレスレットがしてある。
「これ以上、千景に近寄るな」
 拓己の言葉とブレスレットに反応するように、女の霊が苦しそうな唸り声を上げ始めた。
 確実に、さっきより弱っている。
 けれど、怯んだのも一瞬で、女の霊はすぐに勢いを取り戻した。
 女の髪はさらに伸び、拓己にじりじりと迫る。嵩を増した髪は、黒々とした波のようにうねっていた。
「拓己、大丈夫なの?」
「わからない。でも、父さんは同じようにやってきたはずだから」
 その言葉の真意はわからないけれど、形見のブレスレットに関係があり、拓己が何かしらの力を持っているのだろうとは予想できた。
 おそらく拓己は、女の霊を追い払おうとしてくれているのだろう。
 けれど、女の霊は引かないどころか、むしろ蒼白い顔に怒りを滲ませている。拓己にはっきりと敵意を向けているのが見て取れた。
 それでも、拓己は俺の前に立つようにさらに1歩前に出る。
 女の髪が、拓己の喉元に触れそうになったそのとき。 
「待って、拓己!」
 俺は思わず、叫んだ。
「無理に追い払わなくていいから!」
「は? 何言って……」
 拓己が俺を助けてくれようとしていることはわかる。けれど、このままだと拓己に危険が及ぶかもしれない。
 それは、なんとしても止めたかった。
「たぶんあの霊、ボタンを縫いたいだけだと思うから……!」
 はっきりとした根拠があったわけではない。直感でなんとなく思ったことをそのまま言っただけだ。
 何を言っているのだと訝しまれても仕方ない。
「この状況で何言ってるんだよ」
 案の定、拓己は眉をひそめた。
「こいつは悪霊になりかけてる。放っておいたら……」
 力強く反論しかけた拓己だったが、女の霊の変化に気づき言葉を切った。女の邪気がしゅるしゅると引いていく。攻撃をしかけようとしていた長い髪も、落ち着きを取り戻した。
「え……?」
 2人して戸惑いの声を上げながら、女の霊を振り返る。
 さっきまでの様子が嘘かのように、女の霊は大人しくなっていた。