怪我の手当をするため、俺たちは拓己の部屋に移動した。
俺の部屋の窓は割れて破片が散乱しているし、風も吹き込んでくる。床やベッドも塩で汚れてしまったので、とても落ち着いて話ができるような状態ではなかったからだ。
拓己の部屋に入るのはいつぶりだろう。高校に上がったあたりから、お互いの部屋を行き来することもずいぶんと減った。
以前はもっと気軽に出入りしていたはずなのに、今は妙に緊張する。
家具や配置は前とほとんど同じだし、全体的な雰囲気も相変わらず拓己らしい落ち着いたものだった。
部屋は変わっていない。変わったのはきっと俺たちのほうなのだろう。
ベッドの上に並んで腰かけ、救急箱の中から消毒液や薬を取り出して手当を始めた。
「大丈夫? 痛むよな?」
「平気。痛くないよ」
そう答えつつも、消毒をするとき拓己がわずかに顔を強張らせたのを俺は見逃さなかった。
「これくらいすぐ治るよ。思ったより深い傷じゃないし」
拓己は俺が気に病まないようにと、気を遣って強がってくれているのだろう。そういう拓己の優しさがわかるから、俺は口から出かけた謝罪の言葉を胸にしまうことにした。
肌に跡が残りませんようにと祈りながら、包帯を巻き終える。
すると、拓己が「さっきの話だけど」と切り出した。
「イギリスに行くのは語学留学のためで、一週間だけだから」
「え、そうなの?」
「うん、夏休みに行く予定なんだ。でも、千景をこの状態のまま置いていくのはかなり心配というか、無理だし。だから、その前に千景をなんとか元の体質に戻そうと思ったんだよ。それで、知り合いの除霊師に会いに岐阜に行ってきたんだ。ちょうど海外から戻ってきてるって聞いて」
「そうだったんだ……俺はてっきり拓己がひとりでイギリスの大学に進学つもりなのかと」
「なんで、そんな話になるの?」
「だって、進路希望出してないんだろ? 先生からそう聞いた。進路迷ってるのもイギリスに行くつもりだからかなって考えたら、話が繋がるし」
「ああ、進路希望なら、念のため千景に第一志望の大学どこにするか聞いてからにしようと思っただけだよ」
「え、それだけ?」
「そうだよ。前から言ってるじゃん。千景と同じ大学に行くって。それに、仮にもし俺が海外の大学に行くことがあるとしても、そのときはなんとかして千景を一緒に連れていくと思う」
「そっか、そうだよな……」
拓己はこういうやつだった。
直接拓己の口から話を聞いただけで、胸に積っていた不安があっという間に溶けていく。
「俺が千景を置いて行くわけないだろ。俺は千景の傍にずっといる。そのために俺はずっと努力してきたんだから。イギリスへの語学留学だって、将来千景のもとで働くときに役立つようにって考えたからだし。これで、わかってくれた? 俺はどこにも行かないって」
「うん、わかった。それは、わかったけど……」
俺には、どうしてももうひとつ確かめなければならないことがある。
「それじゃあ、告白は?」
もう誤魔化したり自分の気持ちから目を背けたりしたくない。
「拓己、全部元通りにしようって言っただろ? 告白もなかったことになる?」
「まさか。なかったことになんてしないよ。こんなに好きなのに」
拓己はあっさりと否定してから、申し訳なさそうに眉を下げる。
「元通りにしようって言ったのは、除霊のことだけだよ。俺もちゃんと言わなかったからな」
「本当だよ。拓己はいつも少し言葉が足らない」
安心して気持ちが緩んだからか、自分のことを棚に上げ、俺はむくれて見せる。
「だいたい拓己はわかりにくいんだよ。告白の返事だって聞こうとしないし」
「ああ、それは……本当は少なくとも高校を卒業するまでは、気持ちを伝えるつもりはなかったから。時間をかけて俺のことを好きになってもらおうって算段だったし。まあ、いろいろあって予定が狂っちゃったけど。だから、焦って返事を聞こうとは思わなかっただけ」
拓己は照れくさそうにしながらも、すべて話して聞かせてくれた。
「あ、それと、もう景昭さんの許可はもらってるから」
「へ? なんで父さんが出てくるんだよ? てか、許可って何?」
「だから、交際の。俺と千景が付き合ってもいいですかって話」
拓己はさらりととんでもないことを言い放った。
「はあ!? いつの間にそんな話を……!?」
「つい最近かな。これだって、卒業してからって思ってたんだ。ほんと予定が全部変わっちゃったよ」
そういえばこの前、父さんが朝食の席で好きな子はいるのかと話題に出したとき、拓己は「その時が来たら話す」と言っていた。もしかして、あれも俺とのことだったのだろうか。
「で、父さんはなんて?」
「許可してくれたよ。俺たちが真剣に想い合っていて、幸せならそれでいいって」
「そう。相変わらず懐が深いというか、大雑把というか……」
会社でどんなことが起きても、のんびり笑ってやり過ごしてきた父さんの顔を思い出す。俺は将来、あんな寛大で堂々した人間になれるのだろうか。
それにしても、俺からの返事を聞く前に父さんに相談するなんて、父さんと同じくらい拓己も大胆だ。もしかしたら、そんな行動に出れるくらい、俺が拓己のことを好きだと確信していたのかもしれない。拓己がいつも慎重に行動していることを思うと、その考えはしっくりくる気がした。
もしくはさっき拓己が言っていたように、絶対に好きにさせる自信があったのか。
どちらにしても、拓己は恐ろしいなと思う。
恐ろしいくらいに、俺のことが好きらしい。
その事実に思い至り、俺はひとり照れくささと嬉しさを噛みしめる。
話を聞いてみれば、なんてことはない。拓己の行動はすべて俺のためだったわけだ。
俺を置いて遠くに行くなと、感情をぶちまけた自分が恥ずかしくなる。
「じゃあ、本当に元通りにしようって言ってたのは、除霊のことだけなんだな?」
もう今となってはわかっているくせに、気持ちを確かめるようなことを口にする。
「そうだよ」
「そっか。ごめん」
「なんで千景が謝るの?」
「んー、いろいろ?」
拓己は常にまっすぐ俺のことを思ってくれていたのに、俺はその気持ちにちゃんと向き合うことができていなかった。
自分の本心がわかった今だから言えることだろうけど、きっと俺はかなり前から拓己への気持ちを募らせていたのだろうと思う。
それに気づくまで、かなり時間がかかってしまった。
気づけなかったり、信じ切れなかったり、俺が遠回りしている間、拓己はたくさん傷ついていたのではないだろうか。
けれど、すべてを言わなくても拓己には伝わったようだ。俺の気持ちを汲み取るように優しく微笑みかける。
「俺はさ、嬉しいよ。千景からちゃんと気持ちを聞けて。本当に信じられないくらい嬉しくて、今でも夢なんじゃないかなって思う。でも、本当に千景と両想いなんだな」
両想い、と言われ、俺もその言葉の意味を噛みしめる。
俺は拓己のことが好きで、拓己も俺のことが好き。
言葉にしてみればとてもシンプルだけど、言いようのない不思議な高揚感がある。
「これまでは、除霊のためって理由をつけてきたけど、もうそんな必要もなくなる。これからは、ただ千景のことが好きっていうそれだけで、千景に触れられる」
拓己が手を伸ばし、俺の頬にそっと触れる。
心臓の音が拓己にも聞こえているんじゃないかと思うくらいにうるさい。
拓己の端正な顔が間近に近づき、あと少しで唇が重なるというそのとき。
ベッドの端に置いておいた俺のスマホから着信音が流れ出した。
「……」
「……」
着信音は鳴りやみそうにない。少しの間じっと見つめ合ったあとで、俺も拓己も諦めて顔を離した。
スマホに手を伸ばし、画面を確かめる。
「この番号、昨日と同じだ」
すると、拓己もスマホを覗き込んだ。
「浮かれてて、完全に忘れてた。メリーさんの除霊まだ終わってないんだったな」
キスの邪魔をされたのが相当頭に来たのか、拓己の目は据わっている。
「今から除霊する?」
俺から尋ねると、拓己が頷く。
「ああ、さっさと終わらせよう。また邪魔されたら堪らないし」
拓己は俺の手からスマホを奪うと、通話ボタンを押し、さらにスピーカーモードに切り替えた。
スマホから昨夜と同じ声が聞こえてくる。
『わたし、メリーさん。今あなたの家の前にいるの』
すると、拓己がスマホに顔を近づけて応える。
「来るなら来なよ。俺たちがどれだけ好き合ってるか見せてあげる」
メリーさんを思いっきり煽ると、拓己は通話を繋げたままのスマホを枕の横に置いた。
そのまま俺との距離をぐっと詰め、躊躇いもなくキスをする。いつもと違い、ゆっくりと重ねるようなキスではなくて、ちゅっと軽く音を立てるような短いものだった。
唇を離すとすぐにまた重ね、短いキスを何度も繰り返す。そのたびにキスの音が響く。その音を生み出しているのが自分たちだと思うと、余計に羞恥心を掻き立てられた。
「ねえ、拓己……! これって、わざとやってる?」
キスの合間を縫って拓己に聞いてみる。
「もちろん」
短く答えて拓己はまたキスをする。
どうやら拓己は電話の向こうにいるメリーさんに聞かせるため、わざと音を立ててキスをしているようだった。
堪らなくなって、無数に降ってくるキスを止めたくなるけれど、メリーさんにはちゃんと効いているらしい。スピーカーにした電話から苦しげな唸り声が聞こえてくる。
電話を気にして横を向いていると、拓己の指が顎に触れた。くいっと顔を正面に戻される。
「なんか余裕そうだな?」
「いや、そんなこと……」
ない、と否定しようとして、言葉を切る。拓己が俺の首筋に顔を埋めるようにキスをしたからだ。軽く触れただけなのに、素肌に触れた拓己の唇から熱が伝わってくる。
「……っ、ちょっと。首はだめだって」
「知ってる。千景、首弱いもんな」
悪戯っぽく笑いかけられ、頬が一気に熱を帯びていく。
耳まで赤くなっている自覚があり、俺は手で顔を覆った。
「顔、隠すなよ」
「だって……」
拓己は、俺の腕を掴んで引き剥がそうとする。負けじと顔を隠し続けていると、拓己の拗ねたような声が聞こえてきた。
「そんなに抵抗するなら、もうキスしない」
拓己が冗談で言っているのはわかっている。それでも、俺は素直に腕を下ろした。拓己は満足そうに頬を緩める。
「ねえ、千景からしてよ」
「えっ……」
思えば、俺から拓己にキスをするのは初めてだ。口裂け女のときにしょうとして止められてしまったし、拓己が危険に晒されていたから必死だった。
こうやって改まって自分からしようと思うと、かなり緊張する。
けれど、拓己は期待するような目でじっと待っている。そんな拓己を前にすると、なんとか応えたくなってしまう。
俺は緊張を抑え込み、自分から距離を詰めると、短いキスを落とす。拓己を真似て音が立つよう意識をしたら、思ったよりきちんと音が響いた。
すると、それが効いたのか、スピーカーにしてあったスマホから、しゅううっという蒸発するような音が聞こえてきた。次の瞬間には、電話も切れたようだ。
「除霊できたみたいだ。これでもう邪魔は入らない」
そう告げて、今度はまた拓己から距離を詰める。
けれど、唇が触れる直前で拓己はぴたりと止まった。
「ねえ、千景。除霊のためにしたキス、カウントしないようにって言ったよね? だから、これが俺たちにとって初めてのキスってことだよな」
「そう言われると、なんか緊張するんだけど……」
もう数えきれないしているはずなのに、特別に胸が高鳴る。
「……俺も」
拓己はふっと笑みを零した。
「好きだよ、千景」
これまでのどんなときよりも、まっすぐにその言葉が届いた。
胸がいっぱいになるのを感じながら、精一杯気持ちを込めて答える。
「俺も。好きだよ、拓己」
そう告げると、拓己が最後に残されていたわずかな距離も詰める。
除霊のためという言い訳を捨てて、俺たちは恋人同士としての初めてのキスをした。
