放課後、学校からそのまま塾へ向かった。
口裂け女がまた出てこないとも限らないから、今日くらい塾は休もうかとも考えたが、結局いつもどおりに過ごすことにした。
拓己が前に話していたように、霊を呼び寄せやすい体質に変わってしまったのが原因なら、この生活はまだ続くだろう。解決策は拓己も探してくれているようだし、俺も自分なりに調べてはいるけれど、今のところ目ぼしい情報は見つかっていない。
早く元の生活に戻りたいところだけど、いつ解決するかわからない以上、慣れるしかないのだろう。霊が現れるたびに、生活を変えたり逃げたりしているようでは、この先やっていけない。
とはいえ、もしまた帰り道で口裂け女に出くわしたらと思うと、どんよりとした気持ちになる。
なにしろ、俺は生粋のびびりだ。幽霊や怪談といった怖いものは、なるべく避けて生きてきた人間である。
昨日はうまく逃げ切れたけど、次はどうなるかわからない。
不安を抱えたまま塾を出ると、建物の前に見慣れた姿を見つけた。
「拓己……?」
名前を呼ぶと、拓己はスマホから顔を上げた。
「なんでいるの?」
「迎えにきた」
私服姿だから、一度家に帰ってから塾まで来てくれたようだ。それにしても、いつから待ってくれていたのだろう。
「連絡くれたら、すぐ来たのに」
「集中してたら悪いかなと思って」
拓己がこうしてわざわざ迎えに来てくれることは、そうあることではない。おそらく昨夜俺の様子がおかしかったから、心配して来てくれたのだろう。
「……ありがとう」
拓己はなんてことないように小さく笑うと、「帰ろう」と告げた。
俺は拓己と並んで帰り道を歩き始めた。
しばらくお互いに何も話すことなく、時間が流れていく。角を3つ曲がっても、俺たちの間に会話は生まれなかった。夜の住宅街を包む静けさがやけに際立って感じられる。
ずっと一緒にいるからと言って、拓己といるときに話題に困ることはほぼない。どんな些細なこともくだらないことも話す。逆に他の誰にも言えないことを、拓己にだけ話すこともある。
かと言って、沈黙が怖くなるようなこともない。子どもの頃から常に傍にいたのだから当たり前ではあるけれど、拓己といるときは会話がなくても気まずくないし、むしろ居心地よかったりする。
けれど、今日は少し違った。
なんだか気持ちがそわそわとして落ち着かない。
隣を歩く拓己のことが気になって仕方ないのに、そちらに視線を向けないよう前ばかり見て歩いている。
何を話そうかと頭の中で探し、いくつか話題が浮かんだが、これも違うあれも違うと捨てていく。
こんなふうに感じているのは俺だけなのだろうか。拓己は、どう思っているのだろう。
そのとき、拓己がおもむろに口を開いた。
「やっぱり、なんか怒ってる?」
俺とまったく同じではないだろうけど、拓己も何かしらの気まずさは感じていたようだ。
「怒ってないよ」
怒ってはいない。心に引っかかるものがあるだけで。
だから、本心を答えたつもりだったけど、拓己は釈然としないようだった。
「どうしても教えないつもり?」
拓己は立ち止まると、俺の腕を掴んだ。
引き留められるような格好で、俺も足を止める。
「なんだよ。そんなに気になることかよ」
「ああ、気になる」
こういうときの拓巳はいつになく頑固だ。スイッチが入ってしまうと、納得できるまで追求してくるのだ。
俺が白状すれば済む話なのかもしれない。
でも、なんて?
実は拓己が女子に告白されるところを見ていて、なんだかモヤモヤしてるだけだって?
「言えない」
やっぱり無理だ。
拓己はじっと俺を見つめたままでいる。そうしていれば、そのうち俺が観念して本音を話すだろうと思っているのかもしれない。
俺は俺で、無言の圧に抵抗するように、拓己を見つめ返す。
しばらくそうやって2人で押し黙ったまま見つめ合っていると、不意に足元を冷たい風が通った。
周りを見渡して気づいた。ここは、例の寺のすぐ近くだ。
昨夜、口裂け女と出くわした通りとは寺を挟んでちょうど反対側で、通りの左手側には寺を囲う塀がある。
拓己が傍にいるこのタイミングで、どうか現れませんようにと祈った。
しかし、そんな願いも虚しく、霊現象が起こるとき特有の寒気に襲われる。
拓己もそれを感じ取ったようで、顔をしかめた。拓己は体や顔の向きはほとんど変えず、視線だけを動かしてその正体がどこにいるのか探す。
「……いるな。あっちの電柱の陰だ」
こちらが向こうの存在に気づいたと知らせないほうがいいだろう。俺も拓己を真似て、ちらっと横目で窺い見る。
3本先の電柱の陰に、それはたしかにいた。
口裂け女だ。
柱から半身をはみ出し、こちらをじっと見つめている。
「やっぱり憑かれてたんだな」
嘘を咎めるというより、呆れたという調子で拓己が言う。
「あれ、口裂け女だよな。なんでマスクしてないんだ?」
拓己が違和感に気づき、眉をひそめる。拓己の言うように、昨夜と違って口裂け女はマスクをしていなかった。最初から左右に大きく裂けた口元を曝け出している。都市伝説にあるように「わたし、きれい?」と聞きながらマスクを外すのが一般的な口裂け女だとすると、今の状況は特殊なのかもしれない。
そして、拓己はその原因が俺にあるはずだと思ったらしい。
「千景、口裂け女にも人たらし発動しただろう?」
「してねえよ!」
「いや、千景のことだから、またたらしこむようなこと言ったんだ」
「決めつけがすごい」
「本当か? 口裂け女ならきれいかどうか聞かれただろ? なんて答えたんだよ?」
「普通に思ったことをそのまま。きれいだと思うし、大きな口も個性だって」
拓己は額に手を当ててうなだれた。「これ全部無意識でやってるんだもんな。俺はそっちのほうが怖いよ……」とぼそぼそ呟いたあとで、「いや、今はそれどころじゃない」と気持ちを切り替えるように顔を上げた。
拓己はちらっとまた口裂け女がいるほうを見る。
「さっきより近づいてきたな」
「本当だ……」
ついさっきまで3本目の電柱にいたはずの口裂け女が、今は2本目の電柱に移動していている。
だんだんと忍び寄って来ているのだと思うと、ぞっとした。
「逃げたほうがいいんじゃ……」
「いや、すぐ除霊しよう」
拓己が俺に一歩近づく。
思わず一歩下がると、さらに一歩こちらに踏み込んで距離を詰める。
もう一歩下がったところで、背中に塀が当たった。
さらに俺の退路を塞ぐように、拓己が壁に手をつく。
「本当にするの?」
「するよ」
たしかに、ここで逃げたところでまた口裂け女は現れる。
憑かれていることは拓己に知られてしまったわけだし、除霊が終わるまで心配し続けるだろう。
「わかった」
「なんか今日はやけに素直だな」
「だって、あんまり拓己に手をかけさせたくないし」
「……なにそれ」
ほんの一瞬だけ拓己の顔が不機嫌そうに歪んだ。
「するなら早くしよう」
いつ口裂け女がここまでやって来るとも限らない。針女はまだ2本目の電柱のところにいるが、今にも動き出すのではないだろうかと怖かった。
「拓己、早く」
急かしてみるけれど、なぜか拓己はじっと動かずにいる。こんな状況で何か考えごとをしているようだった。
「なあ、拓己。除霊するんだろ?」
「するよ」
「なら、早くキスして」
拓己がまったく動かないものだから、つい自分からせがむようなことを言ってしまう。
「嫌だ」
「え?」
突然、拒まれて俺は面食らう。除霊をすると言い出したのは拓己だし、キスをしなければ除霊はできないのに、意味がわからない。
「キスしてほしかったら、ちゃんと言って」
「は? だから言ってるだろ。キスしてって」
「違う。怒ってる理由。ちゃんと教えてくれたら、キスする」
「な、なんだよそれ……」
この場面でそんな条件を突き付けてくる拓己に腹が立った。
それとも、いつまでも頑なに隠し通そうとする俺のほうがいけないのだろうか。
言ってしまえば、きっと楽になるのだろう。
拓己への告白を聞いてしまったと。それで、嫌な気持ちになったって。
それでも、喉元まで出かけた言葉はまた胸の底に沈んでいく。
「……言えない」
「絶対に?」
「絶対に。口が裂けても」
「口裂け女だけにって? 冗談言ってる場合?」
「そんなつもりで言ってねえ! 拓己こそ、ふざけてる場合かよ」
口裂け女の場所を確かめると、2本目の電柱の陰には姿がない。すでにここからそう距離もない1本目の電柱の傍に立っていた。
「俺は真剣だけど?」
拓己は壁に手をついたまま、体をさらに寄せる。
「もしかして、告白のこと?」
不意に拓己が核心を突いた。
俺が告白を聞いていたことに、拓己は気づいていたのだろうか。
それなら、これ以上隠す必要もないのかもしれない。俺は観念することにした。
「……ああ、そうだよ。拓己は、どうするつもりなの?」
「どうするって、俺は本気だよ」
予想外に胸がズキッと痛んだ。
それを認めたくなくて、誤魔化すように早口で喋り出す。
「そ、そうなんだ。なんかお前が好きそうな子だったもんな。隣のクラスの子なんだって?」
「え? なんの話?」
拓己が眉を寄せ、首を傾げる。
それから、何か思い当たったように「ああ」と続けた。
「なんだ、そっちのことか」
「お前がそんなに本気だとは思わなかった。だって……」
「もう黙って」
拓己が遮るように告げた次の瞬間、唇を塞がれた。
「……っ」
すぐに息が苦しくなる。鼻で呼吸してみたけれど、思うようにできない。
拓己の肩を掴むと、唇が離れた。
すぐにまた拓己がキスを続けようとするが、手で押し返す。
「ま、待って。もう口裂け女いないし……」
キスをしている間に口裂け女は姿を消したようだ。
「いや、完全には除霊できてない」
拓己は通りを確認もせず、確信的に言う。俺が止める前から口裂け女がもういないことに気づいていたようだ。
それなら、どうして除霊を続けようとしたんだろうと疑問が浮かんだが、口にはしなかった。
「一時的に追い払えただけだと思う。キスも短かったし」
「ごめん、俺が息継ぎ下手なせいで」
「……いや、悪いのは俺だよ」
拓己は素っ気なくそう返すと、体を離した。
「帰ろう」
拓己はふいっと顔を逸らして、先を歩き出す。
慌てて俺も追いかけながら、胸がざわざわとした。
「あのさ、拓己」
「何?」
拓己はこちらを振り向かない。
「……なんでもない」
「そう」
前を行く背中が話しかけるなと訴えているようで、俺は口をつぐんだ。
理由も原因もわからないけど、どうやら拓己は怒っている。
結局、家に着くまで俺たちはひと言も話さなかった。
翌朝、朝食のためにリビングに行くと、拓己はすでにテーブルについていた。
「おはよう、拓己」
「おはよう」
俺は拓己の隣に腰を下ろす。
いつもと同じように挨拶は交わすし、口調は柔らかいものの、拓己は静かな怒りを纏っていた。一晩経てば元通りになっているかもしれないと軽く考えていたが、甘かったようだ。 テーブルに皿が並び、父さんと母さんも向かい側の席に着いたところで、朝食は始まった。
我が家で一番口数が多いのは母さんだ。
何も知らない母さんは、いつもの調子で話題を振る。
「そういえば、洗剤の在庫がどこにも見当たらないのよね。今日の洗濯はぎりぎり間に合ったけど。ねえ千景、知らない?」
「えー、知らないよ」
「そう? だってこの前、ドラッグストアで買ったじゃない?」
先日、ドラッグストアへ一緒に買い出しに行ったのは俺ではなくて拓己だ。
「わかんない。拓己に聞いて」
普段なら俺から拓己にそのまま話を振るが、今日は気が進まない。
母さんは少し不思議そうにしたが、拓己に聞き直す。
「拓己、知ってる?」
「家に在庫があるかもしれないから、とりあえず確認してからにするって言ってたよ」
「ああ、思い出した! そうだった、そうだった。でも、たしかお隣の寺門さんがお裾分けで洗剤くれたんだったわよね?」
「いや、そんな話は聞いてないけど」
「あら、拓己が教えてくれたんじゃない。寺門さんからもらったから棚に入れておいたよって」
寺門さんの話を母さんに伝えたのは俺だ。家の前でばったり会って世間話をしているうちに洗剤をもらったのだった。
「俺は知らないよ。千景に聞いて」
拓己も同じように直接聞こうとしない。
母さんが答えを求めるように俺を見た。
「寺門さんから洗剤もらったの俺だよ。でもそれ、洗濯洗剤じゃなくて食器洗うほうの洗剤ね。キッチンの棚にしまっておいたから」
「なんだ、すっかり勘違いしてたわ。じゃあ、洗濯洗剤は今日買わないとね」
母さんは明るく笑い飛ばしてから、「ところで、あなたたち……」と続ける。
「喧嘩でもしたの?」
微妙な間のあとで「別に」と俺が返し、「そんなんじゃないよ」と拓己が答える。
「そう? なんでもないようには見えないけど」
そのとき、拓己の視線が俺のすぐ傍にある醤油の瓶に向けられたのがわかった。いつもの癖で考えるより先に手が動き、醤油を取って拓己に渡す。
「ほら」
「ん、ありがとう」
当たり前のようにそんなやり取りをしてから、気まずさに襲われた。
母さんはそんな俺たちを、呆れたように交互に見ている。
「ねえ、あなたたち。喧嘩するならするで、ちゃんと喧嘩しなさいよ」
俺と拓己は返す言葉もなく、黙々と食事を続ける。
すると、母さんが父さんに目配せをした。その目は「何か話題を」と訴えているようだった。
父さんは了解と伝えるように軽く咳ばらいをしてから、背筋を伸ばす。
「2人とも……最近、学校はどうだ?」
当たり障りのない質問に、俺は「普通だよ」と返し、拓己は「特に問題ない」と答える。
父さんには悪いけど、今はあまり学校の話題は広げたくない。
しかし、父さんは母さんから話題の提供を託されたからか、絞り出すように質問を重ねた。
「その、あれだ……好きな子とか、いるのか?」
父さんはにこやかな顔で、食卓に爆弾を放り込んだ。
紅茶が変なところに入ったせいで、俺は盛大にむせ返る。
「お、千景、その反応は図星だな? どんな子なんだ。特徴を教えてくれたら、俺が相手の心を手中に収める必勝法を教えてやろう」
「……別にいいよ」
俺は呼吸を整えながら、父さんの申し出を断る。
父さんは「そうか?」と残念そうに俯いたが、すぐに顔を上げた。
「拓己は、どうだ? 何かあるなら話聞くぞ」
瞳を輝かせながら、今度は拓己に投げかけた。
「いや、今は特にないけど……その時が来たら、ちゃんと話すよ」
なんだよ、その時が来たらって。
心の中で呟きながら、苦い気持ちがこみ上げる。
「そうか、そうか。いつでも大歓迎だ」
父さんはパッと表情を明るくして、うんうんと頷いている。
「千景はもう拓己から聞いているのか?」
「直接聞いてないけど、知ってるよ。この前、告白されてるところ見たから」
少しやけになっていたのかもしれない。あれだけ言えなかったことが、口からすんなりと出た。
「なんだ、そうなのか」
父さんが純粋に驚いている前で、拓己が「えっ」と小さく零す声が聞こえた。拓己がこちらを見ているのが視界の隅でわかったか、今は顔を合わせられそうにない。
俺は皿に残っていたクロワッサンを口に放り込むと、紅茶で流し込んだ。
「ごちそうさま」
勢いよく席を立ち自分の皿をシンクまで運び終わると、リビングを出た。
