あくまで除霊のためだから


 その翌日、学校のあと塾へ寄った俺は、ひとりで帰路に着いた。
 数学の問題で躓いたところがあり、先生に質問に行ったりしていたら、いつもよりずいぶん遅い時間になってしまった。
 駅前の塾から住宅街に入ると、歩行者の姿はほとんどない。夜特有の静けさに包まれていて、ときどきどこかの家から笑い声やテレビの音が漏れ聞こえるくらいだ。
 そのとき、ポケットのスマホが震えた。メッセージアプリを開くと、拓己からだった。帰りが遅いから心配して連絡をくれたらしい。
『今帰ってるところ。もうすぐ着くよ』
 返信を送りスマホを再びポケットにしまいながら、ぼんやりと拓己のことを考える。結局、拓己は自分が告白されたことを俺に話すことはなかった。
 別に話す義務があるわけではないけれど、なんとなく寂しさはある。
 とは言え、もし教えられても困るとも思う。たとえば、「付き合ったほうがいいと思う?」なんて聞かれたら、俺はどう答えるのだろう。当たり障りのない返事しかできないかもしれない。
 もしも、と考える。
 もしもだけど、この前の屋上での告白がもし本気だったら、俺はなんて答えていただろう。もし返事を拓己から求められていたら、どんな選択をしたのだろう。
 そんな意味のないことばかりまた考えていることに気づき、俺はため息を吐く。
 すると、足元を風が通り抜けた。塾と家のちょうど中間地点くらいにある寺の前だった。
 風が吹いてきたのは寺からのようで、思わず足を止めて山門のほうを見つめる。別に何があるわけでもなく、ただ夜の闇の中に朱色の門が佇んでいた。
 特に気にせず、再び歩き出したところで、全身がぞわりと総毛立った。
 気が付かなかった振りをして、足を速める。
「ねえ」
 突然、背後から声をかけられた。
 無視をしたほうがいいと頭ではわかっているのに、なぜか足が止まる。
 後ろにいるのが、生きた人間ではないこともわかっている。
 それでも、まるで身体を操られているかのように、振り返らずにはいられなかった。
 そこにいたのは、腰くらいまである長い髪の女性だった。顔のほとんどが隠れるほどの大きなマスクをしている。
「ねえ、わたし、きれい?」
 掠れた震える声で、女性が聞く。
 聞かれたので、俺は真剣に考える。一瞬だけ恐怖も忘れて、きちんと向き合った。
 周囲が暗いし、俯いていることもあって、女性の顔は陰ってしまっている。
「うーん、よく見えないな。もう少し顔上げてくれない?」
「……え」
 少し間を空けてから、女性はわずかに顔を上げる。
「そうそう。うん、きれいだよ」
「そう……これでも?」
 女はマスクに手をかけ、ゆっくりと外していく。
 マスクの下から現れたのは、左右に大きく裂けた口だった。
「きれいだと思う」
「えっ。こ、これでも? 本当に?」
「うん。逆になんで?」
「だって、こんなに口が裂けてるし」
「まあ、それも個性のひとつじゃない?」
「そう、かしら……」
 女性はまんざらでもなさそうに、口元に手を当て恥じらうように俯く。
 そこまで話してみてふと思い至る。これって、都市伝説でよく聞く口裂け女ではないだろうか。もしかして、今のこの状況ってものすごくピンチなのでは。
 気づいた途端に恐怖が足元からせり上がってきた。
 口裂け女は、自分の世界に入っているようだ。「もしかして、最近大きな口が流行ってたりするのかも……え、やだ、時代の流れ?」などと、呟いている。
 逃げるなら今しかない。
 俺はすっと気配を消すように立ち去り、家までの道のりを走り出した。


 全速力で住宅街を駆け抜け、なんとか無事に家まで辿り着いた。
「た、ただいま……」
 家の扉を開けた頃にはすっかり息が上がっていて、俺は膝に手をついたまま呼吸を整えた。
「おかえり。遅かったね」
 帰りを待ってくれていた拓己が、すぐにリビングから顔を出す。
 しかし、息を荒げて玄関に立ち尽くす俺を見て、ぎょっと目を見開いた。
「なに、どうしたの?」
「いや、それが実は……」
 口裂け女に出くわしたことを話そうとして、言葉を切る。
 脳裏に、拓己が告白された場面がちらつく。それから、照れていた拓己の横顔を思い出す。
「……実は、最近運動不足だから、走って帰ってきたんだ」
 俺はとっさに誤魔化した。
 けれど、拓己は訝しそうに目を細める。
「嘘だ。絶対に何かあっただろ?」
「何もないって」
「じゃあ、なんでそんなに蒼白い顔してるの」
「運動不足なのに急に走ったのがよくなかったみたい」
「家までの道を走ったくらいで、千景がそんなふうになるわけない」
「俺だってそういうときもあるよ。いやぁ、勉強ばっかりしてたから、体がなまってるみたい。日頃からちゃんと運動はするべきだよな」
 適当な言い訳を並べながら靴を脱ぎ、拓己の横を通り抜けてリビングに入る。
 拓己はまだ納得がいかないようで、後ろをついてきた。
「また別の霊が出た?」
「違うよ」
「なんで隠そうとするの」
「だから、そんなんじゃないって。拓己こそ、なんでそんなに聞こうとするの」
 やんわりと躱そうとするが、少しずつ苦しくなってきた。
 喉が乾いている。キッチンの水切りカゴに置いてあったグラスを手に取ると、水を注いで一気に飲み干した。
 冷たい水が喉を通り、少しだけ冷静さが戻ってきた。
「千景があのやり方が嫌なのはわかるけど、今はそれ以外に方法はないんだ」
「……そうじゃないよ。そういう理由じゃない」
 たしかに俺はあの除霊の方法に最初は戸惑っていたし、慣れたかと言えばそんなことはない。
 ただ、今回は少し理由が違う。
 拓己には拓己の学校生活がある。
 いつまでも拓己を除霊に付き合わせていいのだろうか。
 そうやって、自分の気持ちを理由づけようとするけれど、やっぱり何かが違う。それも嘘ではないが、大事なピースが欠けているような、そんな感じがする。
 水道の蛇口から垂れた水滴がシンクに落ちて、小さな音を立てた。
「もう聞き飽きたかもしれないけど、俺は千景のためにできることがあるなら、なんでもする。だから、何かあるなら話してほしい」
「拓己だって、俺に話さないことあるだろ?」
 そう反論すると、拓己は少し驚いたように目を見開いた。
「たとえば、何?」
 告白のことだよ、と心の中でぼやく。
「……別に」
 どうしても話してほしいなら、拓己みたいに聞けばいいだけだ。こんな拗ねた子どもみたいな態度しか取れないのが、情けなくて悔しくなってくる。
 使用したグラスを手早く洗って水切りカゴに戻す。
「風呂入ってくるわ。拓己も早く寝なよ」
「……うん、おやすみ」
 拓己もこれ以上粘るつもりはないようだった。 
 俺はカバンを手に取ると、逃げるようにリビングを出て自室に向かった。

 
 翌日の休憩時間、席で次の授業の準備をしていると、教科書がないことに気づいた。
「やば」
 思わず声に出して言うと、前の席の真人が振り返る。
「どうかした?」
「教科書忘れたっぽい。昨日まではあったんだけどな。どこに置いてきたんだろう」
 昨日、予習のためにどこかで使った記憶はある。朝には机の上に何もなかったから、カバンに入れたつもりになっていたが、どこか別のところに閉まったのだろうか。
「うーん、思い出せない。なんか最近ついてないな」
「勉強、頑張りすぎじゃない? 千景、なんか最近疲れた顔してるし」
「たしかにちょっと寝不足気味かも」
 拓己に告白されたり、拓己が告白されるのを見てしまったり、なかなか寝付けない日が続いている。
 そんな話をしていると、視界の隅で宏太が拓己のところへ行くのが見えた。
 宏太は少し興奮した様子で何かを拓己に伝えながら、教室の後方の扉を指さしている。
 思わずそちらを振り返り、理由がわかった。
 拓己に告白してきたあの女子生徒が、廊下に立っている。
 拓己が席を立ったのがわかり、俺は慌てて視線を戻した。拓己が扉のほうへと歩き出すのと同時に、宏太がにやにやと緩みきった顔で俺の席に近寄ってくる。
「ねえ、昨日の子、拓己に会いにきたみたい。熱心だね~」
 宏太は扉のほうに指を向け、ちょいちょいと動かす。
「へえ、意外に積極的だね」
 真人は感心したように言う。
「だよね、だよね」と宏太は完全に楽しんでいるようだった。
 俺はまるで面白くない。
 何も言及せずにいると、宏太が俺に話を振った。 
「千景はお兄ちゃんとして気にならないの?」
「俺、別に拓己の兄貴じゃないし」
 たしかに俺のほうが誕生日が早いし、兄弟のように思っているけれど、本当の兄弟ではない。
「そうは言っても、気になるだろ?」
 本音を言えば気になって仕方ない。けれど、それを認めたくなくて、口からは本心と反対の言葉が出る。
「別に」
「うわーん、なんか千景が冷たい~」
 宏太は真人に泣きつき、そんな宏太を真人は「よしよし」と慰めている。
 なんだこの茶番と思っていると、後ろから名前を呼ばれた。
「千景」
 いつの間にか話を終えたらしく、振り向くと拓己が立っていた。
「これ、昨日家の洗面台に忘れてったろ」
 拓己の手には、俺が探していた教科書があった。
 昨日湯船に浸かりながら、教科書を読んでいた記憶が蘇る。風呂から上がり、教科書を洗面台の片隅に置き、そのまま忘れてしまっていたのだろう。
「……ありがとう」
 教科書を受け取ろうと、手を伸ばしかけたそのとき。
「ねえ、拓己。さっきあの子と何話してたの~?」
 宏太がウキウキと弾んだ声で拓己に尋ねた。俺は出しかけた手を引っ込める。頬杖を突き、そっぽを向いた。
「大した話じゃないよ」
「本当に?」
 拓己はなんでそんなことを聞くんだろうと不思議そうにして、いつまでも教科書を受け取らない俺を見てさらに不可解そうな顔をした。
「千景、教科書」
「いらない」
 思わずそう口にしていた。
「いらないって、次の授業どうするんだよ」
「俺くらいになれば、教科書なんてなくても授業は受けられる」
 謎の言い分をぶつけると、拓己は首を傾げる。
 すると、宏太が拓己にフォローを入れた。
「拓己、気にしないで。千景、今日なんかご機嫌斜めみたい」
「なんで?」
 なんでかなんて俺が知りたい。
「まあ、いいや。ここに置いておくから」
 拓己は俺の教科書を机に置くと、自分の席に戻っていく。
 本当に、なんでこんなにモヤモヤするのだろう。