学校までの坂道をのぼりながら、頭上に広がる空の青さが眩しい。
心地のいい風に背を押されるようにして、足取りは軽かった。
「千景くん、おはよう」
校門をくぐったところで、同級生に後ろから声をかけられた。
「おはよう」
笑顔を浮かべ挨拶を返すと、その声に呼応するように先を歩いていた生徒たちも一斉に振り返った。
「千景先輩、おはようございます。また勉強教えてください」
「おはよう、いつでも教えるよ」
「おう、千景。この前は助っ人ありがとな。また試合あるときよろしく」
「気が向いたらね」
「おはよー、千景。昨日の借りたノートあとで返しにいくわ」
「おっけー、よろしく」
男女、学年問わず次々に飛んでくる言葉に最大限の爽やかさで対応しながら、校舎を目指す。校門からまっすぐに伸びる道の両脇には桜が咲いていて、風にのって運ばれてきた花びらがひらひらと舞っている。
都内にあるこの高校に通い始めてからもう2年目の春を迎えた。
成績良好、品行方正、交遊円満。
なにもかもが順調だ。
けれど、そんな俺の順風満帆な学園生活は今脅かされようとしている。
この日、“あれ”がやって来たのは午後の授業が始まってすぐのことだった。
俺は教室の中央後方の席で真剣に板書をとりながら、ふと廊下側が気になった。晴天から差し込む光のおかげで明るい窓際とは対照的に、廊下がやけに薄暗い。
そして、その異変を感じ取ったのは、教室内でおそらく自分だけだった。
来た――、と直感的に悟った。
気のせいだと自分に言い聞かせても、体が勝手に身構える。ペンを走らせていた手が止まり、教室の音が遠ざかっていく。
不意に、廊下側の窓に人影が映った。曇りガラスになっているので、ぼんやりとしか見えないが、俺はそれがどんな姿か知っている。
近くに座っている生徒が影に気づいている様子はまるでなかった。やっぱり他の人には見えていないのだ。
じっと耐えて平然を装いながら、視界の隅で影を追う。影はゆっくりと進み、俺たちのクラスの前を通り過ぎていったようだ。
ほっと胸を撫で下ろしつつも、苦い気持ちがこみ上げる。
本当に、どうしてこんなことになってしまったのだろう。いや、心当たりがあるにはあるのだけど。
おそらく、この前の休みに宿泊した旅館での出来事のせいだ。けれど、原因がわかったところでどうしようもない。対処する方法も知らないし、知ったところでどうにかできるものなのかも怪しい。
それに、今までこんなことは一度もなかったのに。
「……しば…………羽柴!」
すぐ傍から大きな声がして、やっと自分が呼ばれていることに気づいた。
そういえば、出席番号的に今日は指される日だったはずだ。返事がないから、先生が黒板の前を離れて俺の席まで来たのだろう。
「ペンを握ったまま居眠りか?」
「す、すみません――」
ハッとして勢いよく顔を上げた途端、俺は息をのんだ。
目の前に立つ先生の肩越しに、女の霊がこちらをじっと睨んでいた。
ひゅっと吸い込んだ空気が喉元で音を立てる。
「――うわあああっ」
押さえ込もうとした叫びは、溢れ出したように口から出た。悲鳴とはいかないまでも、教室で出すには大きすぎるレベルの声量だった。
「ど、どうしたんだ。羽柴……」
冗談交じりに声をかけた先生も、突然大声を上げた俺を見て心配の色を浮かべる。
教室中の視線が俺に集まっていた。
「いえ、なんでもありません」
「でも、顔色が悪いぞ。幽霊でも見たような顔してる」
まさに今見えているんだ、幽霊が。思わずそう言いたくなるのを、ぐっと堪える。笑顔を張り付けて、いつもの調子で答えた。
「すみません。昨日見たホラー映画のこと思い出してて」
すると、教室の空気がふっと緩み、あちこちから笑い声が起きた。先生も叱るでもなく、仕方ないなというように苦笑している。
「授業中にそんなこと考えるなんて、ずいぶん吞気だな。それなら、問3も余裕だろう?」
「はい」
俺は腰を上げると、すらすらと解答を述べた。
「正解」
先生は満足したように笑いかけて、教壇へと戻っていく。
いつの間にか女の霊は消えていて、教室のみんなの視線も正面に向き直る。授業は何事もなかったように再開され、俺は席に座りながら安堵の息を吐いた。
その中で、こちらへ注がれ続けている視線があった。
斜め前の席、奥村拓己だ。
頬杖をついたまま、顔だけで振り返るような姿勢でこちらをじっと見つめている。その表情は、心配しているようにも、怪訝そうにも、呆れているようにも見えた。
そんな顔するなよ、そう心の中で言うと、拓巳はふいっと視線を逸らして前を向いた。
その夜、自室で数学の問題を解いていた俺は、答え合わせが終わったところでシャーペンを置いた。
「よし、全問正解」
達成感から体を思いっきり伸ばしていると、コツンと何かが床に当たる音が聞こえた。
見れば、小さくて丸い物体がフローリングの上を転がっていき、扉の近くで横に倒れて止まった。
腰を上げて見に行くと、ボタンだった。
どうやら椅子にかけてあったカーディガンのボタンが取れて落ちたみたいだ。けれど、糸がほつれている様子もなかったのに、どうして急に取れたのだろう。
ボタンを拾い上げながら違和感が胸を襲う。それと同時に、肌がぞわりと粟立つ感覚がした。
また、“あれ”が来る。そんな予感がした。
女の霊が音もなく俺に忍び寄ってきているのだ。
ひとりきりの部屋で息をのみ、どこからやって来るのかと耳を澄ませる。さっきまで気にならなかった静けさが妙に気に障る。時計の針が進むカチカチという音がとても大きなものに感じられた。
そのとき、コンコンと扉をノックする音が響いた。
「ひいっ!」
扉のすぐ近くに立っていたこともあり、普段なら驚かないノックの音に敏感に反応してしまう。
跳ね上がった心臓を落ち着かせてから、俺は扉を開けた。
部屋の外に立っていたのは、拓巳だ。
馴染のある顔を見たことでふっと肩の力が抜け、自然と表情が和らいだ。一方の拓巳は、さっきの小さな悲鳴が聞こえていたのか、訝しそうな顔をしていた。
「なんか変な声が聞こえたけど」
「拓己がいきなりノックするからだろ」
「ノックはいきなりするものだろ」
軽口を叩きつつ、拓己は俺の手元に目を向ける。
「そのボタン、どうしたの?」
「ああ、なんか取れちゃったみたいで」
「貸して。俺が縫っておく」
「いいよ。これくらい自分でやる」
「だめ、俺がやる。俺がやったほうがきれいにできるから」
暗に俺の裁縫が下手と言われているようで不満だったが、たしかに拓己のほうがこういうのは上手い。俺は大人しく椅子にかけてあったカーディンガンを取ってきて、ボタンと一緒に渡した。
拓己はそれらを預かると、部屋を訪ねてきた用件を切り出した。
「風呂、空いたよ」
「ああ、風呂か……」
「なんでそんな嫌そうなの」
歯切れの悪い返事をしたせいで、拓己に探るような眼差しを向けられる。
いつもならすんなり風呂に向かうのだけど、脳裏にどうしても女の霊が過り、気が削がれてしまったのだ。
「最近、なんか様子おかしくない? 今日だって、学校で急に叫び出したし」
「あれは、だからホラー映画の見過ぎで」
「見ないじゃん、千景。そういうの昔から苦手だろ」
教室で何やら目で訴えていると思ったが、どうやらこれが言いたかったらしい。
俺は返す言葉を失って、小さく息を吐いた。
「そうだよな。拓己にこの嘘は通用しないよな」
俺と千景は、同じ屋根の下、長いこと一緒に暮らしている。
でも、兄弟ではない。
両親の再婚によって家族になった義理の兄弟というわけでもない。
俺に生まれた羽柴家は、羽柴ホールディングスというグループ企業を代々経営しており、今は俺の父親が代表取締役についている。
羽柴ホールディングス代表の椅子は創業当初から世襲的に親から子に受け継がれ、その羽柴家を一番近くで支える側近の立場もまたとある家が継続的に担ってきた。
それが奥村家であり、拓己はその家の息子である。
けれど、俺たちがまだ小さい頃に、拓己の両親は事故で亡くなってしまった。身寄りのない拓己を羽柴家が引き取ることになり、その日から俺と拓己はずっと一緒に暮らしているというわけだ。
いずれ俺も父の後を継ぎ、会社を背負う立場になる。そのとき、今は代理で補っている側近の役目を継ぐのは拓己だ。
少しだけ特殊で、少しだけ複雑な関係のもと、俺と拓己は幼少期から長い時間を共有してきた。
だから、拓己はクラスメイトの誰よりも俺のことを知っている。
「何かあった?」
質問の体裁を取っているけれど、拓己はほぼ確信を持って聞いているようだった。
拓己には打ち明けてしまおうかとも思ったが、さすがに今回の件は話せそうにない。
女の霊が見えるなんて話したら、拓己はどんな反応をするだろう。深いため息をついて、眼鏡のレンズの向こうから冷めた目を向けられるかもしれない。
結局、俺は誤魔化すことにした。
「別に何もないよ。風呂はなんか乗り気じゃないだけ」
「千景の好きなバスボムあるよ。中に海の生き物のマスコット入ってるやつ」
バスボムはかなり魅力的だけれど、今夜はどうしても入る気がしない。なにせ、さっき女の霊の気配を感じたばかりだ。髪を洗ったあとに鏡を見て、女の霊が映っていようものなら、泡を吹いて倒れかねない。
「バスボムでつれると思うなよ」
「バスボムでもだめか」
絶対に食い付いてくる自信があったのか、拓己は少しショックを受けたようだ。
「本当にただ気が進まないだけだから。ホラー映画じゃないけど、たまたま動画サイトで怖いやつが流れてきて、見ちゃったんだよ。だから、なんかひとりで入るの怖くて」
拓己を納得させるため、本音と嘘を半分ずつ混ぜて説明する。
「なるほどな。じゃあ……一緒に入ってあげようか?」
拓己は少し考え込んだあとで、大真面目な顔で言う。
「はぁ? 入らねえよ!」
「なんで? 前は普通に入ってたのに。サメの映画観たあとに、千景が怖くてお風呂入れないって泣き出すから、一緒に入ってあげたの俺だけど」
「いつの話してるんだよ! 子どもの頃の話だろ! ああ、もう。入るよ、入る!」
赤面ものの話を持ち出され、気がつくと俺は風呂に入ると宣言していた。
「入ればいいんだろ。風呂くらい入るって。俺、風呂大好きだし!」
「そう? じゃあ、ごゆっくり」
拓己は満足げに微笑んで扉を閉めると、自分の部屋へと戻っていった。
「……まったく」
大々的に宣言してしまった手前、風呂に入らないわけにいかない。クローゼットから下着や寝間着を手にお風呂場へ向かう。服を脱ぎ、バスボムを湯船に放り込んだところで、ふと思う。
なんだか拓己に仕向けられた感じがする。
おそらく拓己は、俺がどうしたら風呂に入る気になるかを考え、バスボムというご褒美を目の前にぶら下げてみせた。それでも効果がないとわかると、今度は羞恥心を煽って風呂に行くと俺の口から言わせた。
普通の人ならこんな手間のかかることはしないだろうが、拓己は最近よくこういうことをする。まるで、どうすればうまく俺を動かせるのか研究しているみたいだ。
そのことを俺が話すと、父さんは嬉しそうに笑っていた。父さんが言うには、側近としての立ち回りを勉強しているのだろうということだった。
父さんは感心していたが、俺はなんだか手のひらの上で転がされているような感じがして気にくわない。
「なんだかなぁ!」
鬱憤を吹き飛ばすように、俺は湯船にざぶんと飛び込んだ。
心地のいい風に背を押されるようにして、足取りは軽かった。
「千景くん、おはよう」
校門をくぐったところで、同級生に後ろから声をかけられた。
「おはよう」
笑顔を浮かべ挨拶を返すと、その声に呼応するように先を歩いていた生徒たちも一斉に振り返った。
「千景先輩、おはようございます。また勉強教えてください」
「おはよう、いつでも教えるよ」
「おう、千景。この前は助っ人ありがとな。また試合あるときよろしく」
「気が向いたらね」
「おはよー、千景。昨日の借りたノートあとで返しにいくわ」
「おっけー、よろしく」
男女、学年問わず次々に飛んでくる言葉に最大限の爽やかさで対応しながら、校舎を目指す。校門からまっすぐに伸びる道の両脇には桜が咲いていて、風にのって運ばれてきた花びらがひらひらと舞っている。
都内にあるこの高校に通い始めてからもう2年目の春を迎えた。
成績良好、品行方正、交遊円満。
なにもかもが順調だ。
けれど、そんな俺の順風満帆な学園生活は今脅かされようとしている。
この日、“あれ”がやって来たのは午後の授業が始まってすぐのことだった。
俺は教室の中央後方の席で真剣に板書をとりながら、ふと廊下側が気になった。晴天から差し込む光のおかげで明るい窓際とは対照的に、廊下がやけに薄暗い。
そして、その異変を感じ取ったのは、教室内でおそらく自分だけだった。
来た――、と直感的に悟った。
気のせいだと自分に言い聞かせても、体が勝手に身構える。ペンを走らせていた手が止まり、教室の音が遠ざかっていく。
不意に、廊下側の窓に人影が映った。曇りガラスになっているので、ぼんやりとしか見えないが、俺はそれがどんな姿か知っている。
近くに座っている生徒が影に気づいている様子はまるでなかった。やっぱり他の人には見えていないのだ。
じっと耐えて平然を装いながら、視界の隅で影を追う。影はゆっくりと進み、俺たちのクラスの前を通り過ぎていったようだ。
ほっと胸を撫で下ろしつつも、苦い気持ちがこみ上げる。
本当に、どうしてこんなことになってしまったのだろう。いや、心当たりがあるにはあるのだけど。
おそらく、この前の休みに宿泊した旅館での出来事のせいだ。けれど、原因がわかったところでどうしようもない。対処する方法も知らないし、知ったところでどうにかできるものなのかも怪しい。
それに、今までこんなことは一度もなかったのに。
「……しば…………羽柴!」
すぐ傍から大きな声がして、やっと自分が呼ばれていることに気づいた。
そういえば、出席番号的に今日は指される日だったはずだ。返事がないから、先生が黒板の前を離れて俺の席まで来たのだろう。
「ペンを握ったまま居眠りか?」
「す、すみません――」
ハッとして勢いよく顔を上げた途端、俺は息をのんだ。
目の前に立つ先生の肩越しに、女の霊がこちらをじっと睨んでいた。
ひゅっと吸い込んだ空気が喉元で音を立てる。
「――うわあああっ」
押さえ込もうとした叫びは、溢れ出したように口から出た。悲鳴とはいかないまでも、教室で出すには大きすぎるレベルの声量だった。
「ど、どうしたんだ。羽柴……」
冗談交じりに声をかけた先生も、突然大声を上げた俺を見て心配の色を浮かべる。
教室中の視線が俺に集まっていた。
「いえ、なんでもありません」
「でも、顔色が悪いぞ。幽霊でも見たような顔してる」
まさに今見えているんだ、幽霊が。思わずそう言いたくなるのを、ぐっと堪える。笑顔を張り付けて、いつもの調子で答えた。
「すみません。昨日見たホラー映画のこと思い出してて」
すると、教室の空気がふっと緩み、あちこちから笑い声が起きた。先生も叱るでもなく、仕方ないなというように苦笑している。
「授業中にそんなこと考えるなんて、ずいぶん吞気だな。それなら、問3も余裕だろう?」
「はい」
俺は腰を上げると、すらすらと解答を述べた。
「正解」
先生は満足したように笑いかけて、教壇へと戻っていく。
いつの間にか女の霊は消えていて、教室のみんなの視線も正面に向き直る。授業は何事もなかったように再開され、俺は席に座りながら安堵の息を吐いた。
その中で、こちらへ注がれ続けている視線があった。
斜め前の席、奥村拓己だ。
頬杖をついたまま、顔だけで振り返るような姿勢でこちらをじっと見つめている。その表情は、心配しているようにも、怪訝そうにも、呆れているようにも見えた。
そんな顔するなよ、そう心の中で言うと、拓巳はふいっと視線を逸らして前を向いた。
その夜、自室で数学の問題を解いていた俺は、答え合わせが終わったところでシャーペンを置いた。
「よし、全問正解」
達成感から体を思いっきり伸ばしていると、コツンと何かが床に当たる音が聞こえた。
見れば、小さくて丸い物体がフローリングの上を転がっていき、扉の近くで横に倒れて止まった。
腰を上げて見に行くと、ボタンだった。
どうやら椅子にかけてあったカーディガンのボタンが取れて落ちたみたいだ。けれど、糸がほつれている様子もなかったのに、どうして急に取れたのだろう。
ボタンを拾い上げながら違和感が胸を襲う。それと同時に、肌がぞわりと粟立つ感覚がした。
また、“あれ”が来る。そんな予感がした。
女の霊が音もなく俺に忍び寄ってきているのだ。
ひとりきりの部屋で息をのみ、どこからやって来るのかと耳を澄ませる。さっきまで気にならなかった静けさが妙に気に障る。時計の針が進むカチカチという音がとても大きなものに感じられた。
そのとき、コンコンと扉をノックする音が響いた。
「ひいっ!」
扉のすぐ近くに立っていたこともあり、普段なら驚かないノックの音に敏感に反応してしまう。
跳ね上がった心臓を落ち着かせてから、俺は扉を開けた。
部屋の外に立っていたのは、拓巳だ。
馴染のある顔を見たことでふっと肩の力が抜け、自然と表情が和らいだ。一方の拓巳は、さっきの小さな悲鳴が聞こえていたのか、訝しそうな顔をしていた。
「なんか変な声が聞こえたけど」
「拓己がいきなりノックするからだろ」
「ノックはいきなりするものだろ」
軽口を叩きつつ、拓己は俺の手元に目を向ける。
「そのボタン、どうしたの?」
「ああ、なんか取れちゃったみたいで」
「貸して。俺が縫っておく」
「いいよ。これくらい自分でやる」
「だめ、俺がやる。俺がやったほうがきれいにできるから」
暗に俺の裁縫が下手と言われているようで不満だったが、たしかに拓己のほうがこういうのは上手い。俺は大人しく椅子にかけてあったカーディンガンを取ってきて、ボタンと一緒に渡した。
拓己はそれらを預かると、部屋を訪ねてきた用件を切り出した。
「風呂、空いたよ」
「ああ、風呂か……」
「なんでそんな嫌そうなの」
歯切れの悪い返事をしたせいで、拓己に探るような眼差しを向けられる。
いつもならすんなり風呂に向かうのだけど、脳裏にどうしても女の霊が過り、気が削がれてしまったのだ。
「最近、なんか様子おかしくない? 今日だって、学校で急に叫び出したし」
「あれは、だからホラー映画の見過ぎで」
「見ないじゃん、千景。そういうの昔から苦手だろ」
教室で何やら目で訴えていると思ったが、どうやらこれが言いたかったらしい。
俺は返す言葉を失って、小さく息を吐いた。
「そうだよな。拓己にこの嘘は通用しないよな」
俺と千景は、同じ屋根の下、長いこと一緒に暮らしている。
でも、兄弟ではない。
両親の再婚によって家族になった義理の兄弟というわけでもない。
俺に生まれた羽柴家は、羽柴ホールディングスというグループ企業を代々経営しており、今は俺の父親が代表取締役についている。
羽柴ホールディングス代表の椅子は創業当初から世襲的に親から子に受け継がれ、その羽柴家を一番近くで支える側近の立場もまたとある家が継続的に担ってきた。
それが奥村家であり、拓己はその家の息子である。
けれど、俺たちがまだ小さい頃に、拓己の両親は事故で亡くなってしまった。身寄りのない拓己を羽柴家が引き取ることになり、その日から俺と拓己はずっと一緒に暮らしているというわけだ。
いずれ俺も父の後を継ぎ、会社を背負う立場になる。そのとき、今は代理で補っている側近の役目を継ぐのは拓己だ。
少しだけ特殊で、少しだけ複雑な関係のもと、俺と拓己は幼少期から長い時間を共有してきた。
だから、拓己はクラスメイトの誰よりも俺のことを知っている。
「何かあった?」
質問の体裁を取っているけれど、拓己はほぼ確信を持って聞いているようだった。
拓己には打ち明けてしまおうかとも思ったが、さすがに今回の件は話せそうにない。
女の霊が見えるなんて話したら、拓己はどんな反応をするだろう。深いため息をついて、眼鏡のレンズの向こうから冷めた目を向けられるかもしれない。
結局、俺は誤魔化すことにした。
「別に何もないよ。風呂はなんか乗り気じゃないだけ」
「千景の好きなバスボムあるよ。中に海の生き物のマスコット入ってるやつ」
バスボムはかなり魅力的だけれど、今夜はどうしても入る気がしない。なにせ、さっき女の霊の気配を感じたばかりだ。髪を洗ったあとに鏡を見て、女の霊が映っていようものなら、泡を吹いて倒れかねない。
「バスボムでつれると思うなよ」
「バスボムでもだめか」
絶対に食い付いてくる自信があったのか、拓己は少しショックを受けたようだ。
「本当にただ気が進まないだけだから。ホラー映画じゃないけど、たまたま動画サイトで怖いやつが流れてきて、見ちゃったんだよ。だから、なんかひとりで入るの怖くて」
拓己を納得させるため、本音と嘘を半分ずつ混ぜて説明する。
「なるほどな。じゃあ……一緒に入ってあげようか?」
拓己は少し考え込んだあとで、大真面目な顔で言う。
「はぁ? 入らねえよ!」
「なんで? 前は普通に入ってたのに。サメの映画観たあとに、千景が怖くてお風呂入れないって泣き出すから、一緒に入ってあげたの俺だけど」
「いつの話してるんだよ! 子どもの頃の話だろ! ああ、もう。入るよ、入る!」
赤面ものの話を持ち出され、気がつくと俺は風呂に入ると宣言していた。
「入ればいいんだろ。風呂くらい入るって。俺、風呂大好きだし!」
「そう? じゃあ、ごゆっくり」
拓己は満足げに微笑んで扉を閉めると、自分の部屋へと戻っていった。
「……まったく」
大々的に宣言してしまった手前、風呂に入らないわけにいかない。クローゼットから下着や寝間着を手にお風呂場へ向かう。服を脱ぎ、バスボムを湯船に放り込んだところで、ふと思う。
なんだか拓己に仕向けられた感じがする。
おそらく拓己は、俺がどうしたら風呂に入る気になるかを考え、バスボムというご褒美を目の前にぶら下げてみせた。それでも効果がないとわかると、今度は羞恥心を煽って風呂に行くと俺の口から言わせた。
普通の人ならこんな手間のかかることはしないだろうが、拓己は最近よくこういうことをする。まるで、どうすればうまく俺を動かせるのか研究しているみたいだ。
そのことを俺が話すと、父さんは嬉しそうに笑っていた。父さんが言うには、側近としての立ち回りを勉強しているのだろうということだった。
父さんは感心していたが、俺はなんだか手のひらの上で転がされているような感じがして気にくわない。
「なんだかなぁ!」
鬱憤を吹き飛ばすように、俺は湯船にざぶんと飛び込んだ。
