四月も半ば。新入生の部活動見学がいよいよ今日からはじまる。
僕たち吹奏楽部もまた、体験用の楽器の準備に駆けずり回っていた。去年の先輩たちが残していった楽器を改めてメンテナンスして、音が出るか確かめて(というかここで音が出なかったら修理だ)、新入生に渡しても大丈夫な状態にする。
とはいえ去年のオーボエの先輩たちはみんなしっかりしていた。僕たちが用意した予備のオーボエの調子はどれもいい。
二、三年生のメンバー三人で自前の予備のリードを用意しながら、新入生が来るまでの時間のんびりと話す。パートリーダーの木下先輩はリードの確認をしつつ、ひらりとスカートを翻してこちらへ歩いてきた。
「秦野、今年男子何人入ると思う?」
「一人でも多く入ってほしいです」
ぷー、とオーボエから大きな音を鳴らして意気込みを表明する。同級生の知多さんは胸元のリボンをいじりながら「あんた一人だけだもんね」と同情するように僕の肩を叩いた。
「パーカスの男子コンビが卒業しちゃって、残った男子は秦野だけ。かわいそう」
「言うな、そんなこと」
また不満を表すためにぴーと音を鳴らす。ついでにドレミファソラシドと鳴らしてやれば、女子二人はげらげらと笑った。
うちの吹奏楽部はそんなに人数が多くない。運動部が盛んなのと、文芸部が県の中では強豪らしく(文芸部の強豪ってなんだろう)人数が集まらない。地域の大会にやっと出られるくらいだ。あとは野球部の応援。
ピアノをやっていて楽譜が読める人でも「管楽器は興味ない」とか、趣味でギターをやっている人は「それなら友達とバンドやるから」とか、いろいろ理由をつけて断られる。どうして。僕の人望がないせいか?
悲しみを乗せて「クラリネットをこわしちゃった」のメロディを吹くと「それクラの持ち曲じゃん」と二人が笑う。僕はさらに哀愁を込めてサビを吹き鳴らした。
「すみませーん」
は、と我に返ってリードから唇を離す。そこに立っていたのは案内役の女子と、背の高い男子だ。強い目力にすっと通った鼻筋のイケメン。薄い唇を見るに、だいたいの管楽器でやっていける口元だ。
がっしりした身体つきをしているけれど、中学時代は何かのスポーツでもやっていたんだろうか。
「はいはい。ようこそオーボエパートへ! 私はパートリーダーの木下美月っていうよ、よろしくね!」
真っ先に飛び出していったのは木下先輩だ。るんるんとした足取りで新入生の男子に近寄り、さあさあと中へと誘う。
新入生の子は先輩をちらりと見た後、僕へ顔を向けてぺこりとお辞儀をした。慌てて僕もお辞儀を返すと、隣の知多さんがぼそりと「よかったね」と呟いた。
「男子チャンスだよ、秦野」
「その言い方なんかやだ……」
僕たちが小声で言い合うのを、新入生の男子はじっと見つめていた。僕はリードを口から離して「どうも」とぺこりとお辞儀をした。
「秦野光李です」
「知多みどりでーす」
「俺、一ノ瀬和樹です。よろしくお願いします」
一ノ瀬くん。なんだかかっこいい名前だ。自分の予備のリードを一ノ瀬くんに渡す。一ノ瀬くんは遠慮がちに受け取った。まずは緊張をほぐしてあげよう、とできるだけ優しい声を出す。
「これまでやったことのある楽器はある?」
「楽器の経験はないです。あと俺、オーボエ第一志望なんで、真っ先にこっち来ました」
「ほんと!? 嬉しいな」
思わずテンションが上がって大きな声が出る。僕は少し前のめりになって、自分の楽器からリードを外した。
「えっと、まずはこのリードを咥えてくれるかな」
「咥える……? リード……?」
「えっと、リコーダーで言うところの口をつけるところ。これ、二枚の細い木の板が合わさってできてるんだけど、オーボエはこの板を震わせて音を出すんだ」
ぺらぺらしゃべりながらリードを咥える。一ノ瀬くんも大人しくリードを咥えた。
僕は口からリードを外して「そのまま聞いてね」と言いながら楽器へ戻す。
「乾いてるとうまく震えないから、まずこのリードを咥えて、こう、うまい感じに湿らせるんだ」
「む……」
一ノ瀬くんは僕をまっすぐ見つめてくれる。真剣に聞いてくれて嬉しい。
僕はオーボエを構えてリードを咥えて、音を鳴らした。シのフラットだ。
「ね、こうやって音が鳴るんだ」
「ふん」
見かねた木下先輩が「一ノ瀬くん、しゃべってもいいよ」と助け船を出す。一ノ瀬くんはリードから口を離した。
知多さんがリードだけ咥えてぶー、と震わせる。一ノ瀬くんも真似して息を吹き込んだ。ぶー、と音が鳴る。
僕たちは一斉に「おお」と声を漏らした。パートリーダーの木下先輩が手を叩く。
「才能あるね! それじゃあ吹いてみよっか」
知多さんが予備のオーボエを取り上げる。僕はいそいそと一ノ瀬くんを椅子に座らせて、オーボエを持たせた。ネックストラップも首にかけるように言って、構え方を教える。
背中の方から抱き込む形になると、ふんわりいい香りがした。イケメンって感じだ。
「背筋伸ばして……右手、左手はこう。腕はこっち。分かった?」
「は、はい」
「左手の人差し指でここを押してみて」
緊張気味でかわいい。僕がそっと離れると、一ノ瀬くんはおずおずと息を吹き込んだ。
見事なシのフラットが響き渡る。僕たちはぱちぱちと手を叩いて「すごいね!」と一ノ瀬くんを取り囲んだ。
「最初から音出せるなんてすごいよ!」
僕の声にかぶせて知多さんも褒める。
「めっちゃ才能ある! 私なんか体験で五分くらい粘ったもん」
木下先輩はうんうんと頷いていた。一ノ瀬くんははにかんで、「そうですか?」と頭をかいた。
「俺、中学時代はサッカー部だったんですけど、入れますか……? 楽譜は一応読めます」
「もちろん!」
自分でも口角の吊り上がりを感じる。先輩が「むしろ勇気あるね」と一ノ瀬くんを褒めた。
「新しい世界へようこそ! 何かきっかけでもあったの?」
「きっかけですか」
ちらり、と視線が僕の方を向いた。一ノ瀬くんはすぐに僕から目を離して「先輩たちの演奏がかっこよかったからです」とはきはきした口調で言う。
「入学式の演奏とか、新入生歓迎会のとか、すごくかっこよかったです」
またちらりと僕を見た気がする。気のせいだろうか。
首を傾げている間に、「一ノ瀬くん……!」と木下先輩が一ノ瀬くんへ詰め寄っていた。
「もうもう、うちに入ってオーボエに来て! そこの秦野も歓迎するって言ってるよ!」
「先輩、それまだ言ってないので言います。一ノ瀬くん、歓迎するよ!」
ついでに手を振る。一ノ瀬くんはてれてれと手を振り返してくれた。後輩って、かわいい。
知多さんは歓迎の「クラリネットをこわしちゃった」を吹き鳴らしている。
こうして僕たちは一ノ瀬くんを送り出し、「これは決まったな」と顔を見合わせた。
「オーボエパートは安泰だ」
知多さんの言葉に、僕と先輩は力強く頷く。先輩は僕の肩を力強く叩いた。
「頼むよ、次期パートリーダー」
「はい……!」
僕はこぶしを握り、決意を新たにした。
今年のオーボエパートは今いる三人に加えて、一ノ瀬くん。初心者だとしても初手から音を鳴らせる逸材だ。きっと上達も早いだろう。
うちはそんなに強豪校というわけでもないし、ゆるい感じの部活だ。一ノ瀬くんとも男子同士、仲良くなれたらいいな……!
と思っていた時期が、僕にもありました。
新入生が各パートへやってくる日、うちに新入生は一人も来なかった。
一ノ瀬くんはトランペットパートへ入ることになったそうだ。
「まあ確かにね、ペットは人数元々足りてなかったかんね……!」
先輩がリードを咥えながら悔しそうに言う。僕も切なく頷いて、リードを咥えた。相変わらずの舐め終えたアイスの棒と同じ味わいが、なんだか虚しい。
「新しく人が来るのは来年、か……」
そして今年の新入部員の男子はまた一ノ瀬くんだけ。トランペットパートは今頃すごい盛り上がりを見せているだろう。なんせ一ノ瀬くんはオーボエどころか他の木管楽器……のみならず金管楽器も一発で鳴らし、そのポテンシャルの高さをみんなに見せつけていた……。
「でもしょうがないですよね。とりあえずロングトーンやりましょうよ」
僕がさっと話題を切り替えると、先輩は「そうだね」とリードを楽器へつけた。知多さんはもうチューニングも済ませている。
僕たちもチューニングをして、いつも通りの基礎練をはじめた。それが終われば各自のパートを練習だ。
一番うまい木下先輩にアドバイスをもらいながら、自分でがんばる。
高校からオーボエを始めた知多さんは、僕に質問をしてくることもあった。
「ね、秦野。ここ指回んないんだけど、どうやって吹く?」
「んー、それは一旦ゆっくり吹いた方がいいかも」
お手本でゆっくり吹く。知多さんも僕に続いてゆっくり吹く。
知多さんはリードを口から離して「ありがとう」とぱっと表情を明るくした。
「なんかできる気がしてきた」
「よかったよかった」
最後にオーボエパート全員で曲を合わせて、今日の練習終わりの時間が来た。
楽器を片づけて音楽室へ集合する。顧問の後藤先生はちょっと気の弱そうな男の先生だけど、大学時代はオペラでバリトンの歌手をやっていたらしい。
「はい、それではみなさんあいさつしましょう。ありがとうございました」
一斉に「ありがとうございました」とあいさつをして、僕は自分の荷物を取る。
帰ってゲームでもしよう。音楽室から出ようとすると「秦野先輩!」と呼び止められた。振り返ると、立っていたのは一ノ瀬くんだ。
「あれ、一ノ瀬くんだ」
「はい。お疲れ様です」
体育会系らしいはきはきとしたお辞儀がまぶしい。僕は目を細めて「トランペットになったんだね」と一ノ瀬くんに笑いかけた。
「はい、そっちの方が向いてるし、人も足りていなかったそうなんで……」
音楽室を一緒に出ながら話す。一ノ瀬くんは本当に残念そうだったけど、「でも」と少しだけ声を弾ませた。
「ファンファーレはトランペットとか金管楽器が鳴らすって教わったんです。それはかっこいいなって思いました」
「うん、そうだね。特にトランペットはよくファンファーレを鳴らすし、かっこいいよね」
金管楽器はとにかく大きい音が鳴る。木管楽器が五本鳴っていてもトランペット一本にかき消されてしまうくらい音がでかい。
だからこそ花形だ。吹奏楽の一番人気はメロディ担当が多くて見た目がかっこいいアルトサックスという説が有力だけど、正直僕はオーボエじゃなかったらトランペットをやりたかった。かっこいいから……。
中学時代に「唇の形がトランペット向きじゃない」と言われて諦めてからは、オーボエ一筋だけど。自分の少し厚い唇を触ると、一ノ瀬くんが遠慮がちに声をかけてきた。
「トランペット、かっこいいって思います……?」
「うん? うん。僕、日曜日は市民オーケストラに行ってるけど、そっちだとサックスよりトランペットが活躍してるしね」
とはいえ今の僕が好きなのはオーボエだ。それに嘘はない。
うんうんと一人頷いていると、一ノ瀬くんは「そっか」と呟いた。
「それ、俺も入れますか?」
「うーん、初心者だからどうだろう……。でも、それだけ楽器が楽しいならよかった!」
思わず顔がだらしなくゆるむ。一ノ瀬くんは「あは、はは」と少しぎこちなく笑ってつづけた。
「かっこいいのか。そうか……」
ぶつぶつ呟く一ノ瀬くんと下駄箱まで歩く。二年生と一年生の昇降口は同じだ。同じタイミングで外靴に履き替えながら、「ありがとう」と改めて一ノ瀬くんへ伝えた。一ノ瀬くんはきょとんとした顔をしているので、くわしく説明する。
「うちの吹部、このままだと男子が僕だけだったからさ。去年卒業した先輩で男子がいなくなっちゃったから、一ノ瀬くんが入ってくれて、すごく嬉しい」
「そうですか?」
途端に一ノ瀬くんの表情がぱっと明るくなる。後輩って、かわいい。
そうだよ、と頷いてみせた。
「男子同士、仲良くやろうね」
「はい!」
はきはきとした返事が耳に心地いい。一ノ瀬くん、身体は大きいけど人懐っこくてかわいい。こう言ってはなんだけど、大型犬みたいだ。
一ノ瀬くんは僕を見下ろしてぼそりと呟く。
「俺が吹部に入るって決めたの、実は先輩がきっかけだったんです」
「え、僕?」
驚いて見上げると、「はい」と一ノ瀬くんは照れくさそうにはにかんだ。
「先輩が新勧で吹いたソロがかっこよくて」
「ああ、あれ?」
すぐにピンと来た。新入生歓迎会では二年生の次期パートリーダーがソロを担当することになっていて、僕もソロを吹いた。
「よかった……! ほら吹奏楽のソロって立ち上がって吹くから、めちゃくちゃ緊張しちゃって」
勢いづいて身を乗り出すと、一ノ瀬くんはぎくりと身体をこわばらせた。ちょっと距離が近すぎたみたいだ。
そそくさと距離を取ると、なぜか一ノ瀬くんはさっきよりも近づいてきた。
「めちゃくちゃかっこよかったです。あれってなんて楽器なんだろうって、周りに聞きました。それでオーボエって知って……」
「なるほど、そうだったんだ」
そういう理由があったのか。ほー、と頷く。一ノ瀬くんはうつむいて、もじもじと指先を絡めた。
「だから、……秦野先輩と話せて、すごく嬉しいっていうか」
「ほんと? なんなら頼っていいんだよ」
これでも次のオーボエパートリーダーだ。一ノ瀬くんは別パートの後輩とはいえ、頼りになる姿を見せておいてもいいだろう。
強気に背筋を伸ばすと、「はい」と一ノ瀬くんは微笑んだ。
でもなんでだろう。尊敬する先輩というより、かわいい子猫や子犬を見る目で見られている気がする。僕の身長が低くて、一ノ瀬くんの身長が高いせいだろうか。
もっと背をにゅっと伸ばして歩き出す。一ノ瀬くんは「せんぱい」とどこか甘ったるい声で僕を呼んだ。
「もっと先輩と仲良くなりたいな……」
「なれるよ!」
元気づけるように広い背中を叩けば、まつげの長い瞼が少し降りて、目つきが怪しく見えた。どきりとしたのも一瞬で、すぐに一ノ瀬くんは「はい」とはきはき頷く。
「そうだ。ライン交換してもいいですか?」
「ライン? いいよ」
僕は気軽に頷いて、スマホを差し出した。コードで友達登録をすると、一ノ瀬くんがスタンプを送ってくる。それにスタンプで返せば、一ノ瀬くんは「やった」と小さく笑った。
五月、六月、七月。あっという間に夏の大会がやってきた。
木下先輩の引退試合だ。僕たちはせっせと練習に励んでベストを尽くしたけれど、入賞は叶わず。だけどいい演奏ができたと、木下先輩は言っていた。
「後は頼んだよ、秦野」
「はい!」
涙混じりの引退と役員交代を終えれば、オーボエパートは僕と知多さんだけになった。
同時に、僕と一ノ瀬くんの仲も深まっていた。最近はずっとラインでやり取りしているし、休みの日には一緒にカラオケに行くくらいだ。同級生たちからは「男子の後輩ができてよかったね」と生暖かい目で見守られている。
野球部の応援に駆り出されるのも終わる夏休みの終わりごろ、僕は一ノ瀬くんと一緒に出掛ける約束をしていた。
待ち合わせ場所の時計台の下へ向かうと、いつも通り一ノ瀬くんが先に待っていてくれていた。
一度だけ一ノ瀬くんより先に着こうと三十分前に行ったことがあるけど、僕が先に着いているのを見た一ノ瀬くんが「先輩を待たせるなんて」と落ち込んでしまった。だから、あえて集合時間の五分前に着くようにしている。
「一ノ瀬くん!」
声をかけると、一ノ瀬くんはぱっと明るい笑顔でこっちを見た。駆け寄ってくる姿はやっぱり大型犬っぽいかわいさがある。
「先輩、おはようございます」
「うん。おはよう」
今日は僕のリードを買いに行く日だ。一ノ瀬くんはわざわざ僕に着いてきてくれている。
二人並んで歩き出す。その距離の近さに、ちょっとだけどきりとした。
一ノ瀬くんは、春から夏の終わりだけでぐんと大人びた。トランペットはかなり上手くなったらしいし、部活では合奏にも顔を出している。背も伸びた。でもそれだけじゃなくて、雰囲気がこう、大人っぽくなってきていた。
「先輩、暑くないですか? よければこれ」
そう言って携帯扇風機の風を向けてくれる。たしかに気持ちよくて「ありがとう」とお礼を言うけれど、僕は情けないぼそぼそ声だ。
僕の方が先輩なのに、こっちの方が子どもっぽくてどうしよう。
あとどきどきしちゃってどうしよう。
すっかり通いなれた駅から楽器店への道のりを、少し速足で歩く。楽器店の中に入ると、熟成された木と紙のにおいにほっと息をついた。
迷いなく木管楽器コーナーに歩いていって、いつも買っているメーカーのリードを選ぶ。予備も含めて……と見繕っていると、一ノ瀬くんが遠くを見ていることに気づいた。
視線の先にあるのは、金色に光る新品のトランペットだ。
「気になる?」
「あ、いや、その。学校のと全然違うなって」
「ボロボロだもんね、うちの楽器」
長年使われてきただけあって塗装ははげているし、下手するとサビやへこみもある。
「もし僕と同じ市民オケ入るなら、マイ楽器はあった方がいいけど、無理しないでいいからね」
そういえば春先にそんな話をした。思い出して話を振ると、一ノ瀬くんは腕組みをする。
「バイトしようかな……」
真剣に悩みはじめた。水を差すのも何なので、僕はリードのお会計に向かった。
一ノ瀬くんははっと顔をあげて、すぐに僕の後についてくる。鳥のひなみたいだ。
レジでお金を払っていると、一ノ瀬くんが僕の肩のあたりに顎を置いた。どきりとする。
「先輩は自分の楽器持ってるんですか?」
「う、うん。高校入学祝いに買ってもらった」
割と安物のオーボエだけど何万円もするし、僕の宝物だ。
一ノ瀬くんは身体を離す。振り向くと、眩しそうに目を細めていた。
「そんなにオーボエが好きなんですね」
「うん」
なんだか誇らしいような、照れくさいような。照れ隠しに頭を掻く僕を一ノ瀬くんはずっと見つめる。
その目つきが熱っぽいようで、こっちまで身体が熱くなりそうだ。
「そ、外出よっか……」
暑さだけじゃない理由でくらくらしそうだ。僕たちは楽器店から出て、いつも行っている駅ナカのカフェに入った。
いつも通り、僕はアイスカフェオレで一ノ瀬くんはアイスコーヒーだ。ミルクも砂糖も入れないで、ブラックを飲めるのはすごいと思う。
一ノ瀬くんの骨ばった指の長い手。トランペットのピストンを押さえる右手がグラスを掴んでいる。
それになんでか緊張して、僕は意味もなくストローでカフェオレをかき混ぜた。
ふと気配を感じて顔をあげると、一ノ瀬くんは僕の手をじっと見つめていた。
「どうかした?」
ぱっと手を広げてみせると、いえ、その、と一ノ瀬くんの歯切れが珍しく悪くなる。
「この手がオーボエのキー押してるんだって思って」
「うん……」
そっと手を差し出す。なぜか一ノ瀬くんが掌を合わせてきた。
僕より関節一個分くらい大きい。おお……と声が漏れる。
「手、大きいね」
「はい」
指もすらりとして見えるけど、僕より太い。見とれているとそっと手は離された。
一ノ瀬くんの掌の熱が、僕の掌にもじんと残っている。熱が消えるのがもったいなくて、自分の掌をこすり合わせた。
じんわりとぬくもりを噛みしめているうちに、一ノ瀬くんはコーヒーを一息に飲み終える。
待たせるのもいけない。僕も早く飲み切ろうと思うのに、なんでか口が進まない。
このまま終わるのは、なんだかもったいない気がする。一ノ瀬くんをちらりと見た。ばっちり視線が合って、慌てて目をそらす。
「ちゅ、中学はサッカー部なんだったっけ」
「は、はい」
ぎこちないけれど、また会話が始まった。ほっとしていると、一ノ瀬くんは照れたように笑う。
「サッカーも楽しかったんですけど、高校では新しいことをやりたかったんです」
「でも、なんでうちに来たの? しかも第一希望オーボエって、結構珍しい気がする」
ストローでカフェオレを吸い上げる間、一ノ瀬くんは考え込んでいた。額に手を当てて顔を少しそらして「マジで」と呟いている。
「脈、なさすぎる」
「ん? 何の話?」
「いや、なんでもないです」
一ノ瀬くんは慌てて姿勢を直して、僕をまっすぐ見た。その姿勢のよさには相変わらず体育会系を感じる。きっとサッカーを通じて培われた筋肉とスタミナは、今の一ノ瀬くんの演奏を支えているんだろう。
「先輩のソロ聴いて、……あの、笑わないでくださいね」
「うん」
笑ったりなんかしない。僕はそう腹に決めて一ノ瀬くんを見つめた。
一ノ瀬くんは視線を泳がせた後、少し身体を乗り出して言う。
「一目ぼれしたんです」
聴いたのに、一目ぼれとは。
一目ぼれってなんだ。米の品種じゃないことは確かだ。
理解が追い付かない僕の手に熱い何かが触れる。一ノ瀬くんの手だ。
ゆっくり手の甲に掌が降りてきて、重なる。僕の左手に、一ノ瀬くんの右手が重なる。
この手がトランペットのピストンを押している。視線をあげる。薄い唇が横一文字に引き結ばれている。
その顔が赤くて、僕は驚いた。うるんだ目つきでこっちをにらんで「一目ぼれですよ」と脅すみたいな言い方をする。
「先輩のソロがかっこよかったんです。その時はオーボエの名前も知らなかったけど、かっこよかった」
「う、うん……」
手の間に熱がこもっていく。一ノ瀬君のせいじゃない。僕の体温が上がっているせいだ。
「かっこいいのに、緊張してお辞儀するときの先輩が」
一旦言葉が途切れる。一ノ瀬くんはぺろりと舌なめずりをして、はにかんだ。
「かわいくて」
雷が落ちたかと思った。
僕が、かわいい。
「えっと、それは……一ノ瀬くんが、じゃなく……?」
「俺のことかわいい後輩だと思ってくれてたんですね。ありがとうございます」
まだだ。まだ決定的な一言は打ち出されていない。
けどほとんど答え合わせみたいなのは済んでいる。
僕がぼんやりしている間に、かろんとグラスから音が鳴った。氷の溶ける音だ。
はっと我に返ると、「ここじゃなんですね」と一ノ瀬くんが言った。勝ち誇ったような顔をしている。
「カラオケ、行きませんか?」
「……行く」
僕には恋愛経験がない。吹奏楽部には女子がたくさんいるけれど、だからこそ部活内で恋愛なんか発展しない。みんな友達で、同じ部活の仲間だから。
でも男子だったら? たしかに他の女子部員たちよりちょっと特別に思うし、そういうことも……あるのか?
いやない。男子も女子も、みんな部活の大切な仲間だ。
つまり僕は、一ノ瀬くんという個人にくらくらしていることになる。
とんでもないことになってしまった。カラオケに着いて一ノ瀬くんが受付をして、学生証を出している間にもさっきのことを考えていた。
「先輩、学生証」
「はい」
上の空の僕の耳元で「緊張してるんですか?」と一ノ瀬くんが囁く。思わず飛び上がると、一ノ瀬くんは腹を抱えて笑った。
「ぼっ、僕は先輩だぞ!」
「分かってますって」
分かっているのかいないのか、一ノ瀬くんは上機嫌で伝票とコップを受け取ってカラオケルームに入る。
ばたん、と重たい扉が閉じた。僕は暑くてたまらないけど、これが冷房でなんとかなるやつではないことを察していた。
先にソファに座ると、一ノ瀬くんが隣へ詰めてくる。
「先輩、ちょろいってよく言われません?」
「言われないよ」
反論すると、なぜか一ノ瀬くんは満足げな顔をした。
「ちょろいのは俺だけの前にしてくださいね」
「は、は~!?」
なんなんだ。かっこいいからって急に調子に乗るな。
むっつりと黙り込むと、一ノ瀬くんは僕の顔を覗き込んできた。
「好きです。先輩のことが」
あまりにもあっさり言われて、逆に腰が抜けてしまった。僕は思わず机に突っ伏して手を挙げる。
「ちょっと待って」
「はい。待ちます」
「うん……」
一ノ瀬くんが、僕のことを、好き。どうやら一目ぼれらしい。
でも一目ぼれって後で幻滅したりはないのか? いや、ない。だったらこの数か月で幻滅されているはずだと思う。
つまり導き出される答えは……。
ふと吹奏楽の音がした。ちらりと顔をあげると、一ノ瀬くんがスマホで合奏動画を流していた。秋の文化祭のコンサートで演奏する曲だ。
画面を見つめる表情はすごく真剣。そのきつく閉じた薄い唇から目を離せなくなる。
「……えらいね」
思わず声がこぼれた。
「何がですか?」
一ノ瀬くんが画面から顔をあげてこちらを見る。僕は身体を起こして、一ノ瀬くんと向き合った。
「要はその、僕に会いたくて、吹奏楽部に入ったってこと」
「はい」
「楽器、楽しい?」
「はい。思ったより、ずっと」
「仮にだよ」
緊張でねばつくよだれを飲み下して、僕はできるだけ平坦な声を出した。
「僕がここで一ノ瀬くんをふっても、吹奏楽、続けてくれる?」
「……はい」
一ノ瀬くんは苦々しい顔で頷く。
その言葉で、僕はどっと緊張が解けた。ずるずると背もたれへ身体をあずけて、「よかった~」と呟く。一ノ瀬くんは、僕をずっと見つめていた。
よいしょと体勢を直して、改めて身体ごと一ノ瀬くんに向き直る。一ノ瀬くんは世界が終わるみたいな暗い表情だけど、僕はきっと、はにかんでいることだろう。
「そういう一ノ瀬くんだから、好きって言われてもいやな気持ちにならなかった」
僕の言葉に、一ノ瀬くんの表情がぱっと目を見開く。
ここで言葉を間違えてはいけない。慎重に考えてしゃべると、いつもよりも発言がゆっくり、長くなる。
「一ノ瀬くんの告白はうれしい。こう、お世辞とかじゃなくて、本当にうれしい」
「はい……」
噛みしめるみたいに一ノ瀬くんが頷く。きゅん、と胸のあたりが苦しくなった。
「だから、その……軽々しく、付き合うとも付き合わないとも言いにくくて」
「はい」
食い気味の返事に、僕は改めて生唾を飲み込んだ。
「お、お付き合いを前提? に、これからも、先輩と後輩でいたいんだけど……どう?」
僕に出せる限り、いちばん納得できる答えがこれだった。一ノ瀬くんには負担をかけるけど、僕もいきなりは思いきれない。
ちょっと不誠実だったかも。そう思いながらうつむき加減に一ノ瀬くんを見上げると、一ノ瀬くんはぼんやりと僕を見つめていた。
「ん? おーい。大丈夫?」
ひらひらと手を振ると、一ノ瀬くんの手がゆっくり伸びてくる。指先が僕の手首に触れた。特に抵抗する理由もないので触られるままになっていると、手首を掴まれる。
「……それって付き合うってことですよね」
「うーん。ゆくゆくは?」
あくまで疑問形の僕をよそに、一ノ瀬くんは震えはじめた。
「あの……ありがとうございます」
「何が?」
「真剣に考えてくれて。そういうところも好きです」
「うん……照れるね」
率直に「好き」と言われると、困るというよりは照れる。どうすればいいのか分からなくて眉間を揉む。
一ノ瀬くんは「先輩、好きです」と低い声で囁いてきた。
「これからいっぱい『好き』って言うんで、よろしくお願いします」
「ほどほどに……」
こう何回も言われたら、心臓がもちそうにない。胸元を押さえる僕の手を取って、一ノ瀬くんは指を絡めた。恋人つなぎだ。
「ほどほどに好きって言います」
ああ、僕の負けだ。何の勝負かは自分でも分からないけど、一ノ瀬くんに負けたと思った。
「おてやわらかに……」
お願いする自分の声が甘ったるくてびっくりする。一ノ瀬くんは心底幸せそうに笑っている。
たぶん一生、僕は一ノ瀬くんには敵わない。
僕たち吹奏楽部もまた、体験用の楽器の準備に駆けずり回っていた。去年の先輩たちが残していった楽器を改めてメンテナンスして、音が出るか確かめて(というかここで音が出なかったら修理だ)、新入生に渡しても大丈夫な状態にする。
とはいえ去年のオーボエの先輩たちはみんなしっかりしていた。僕たちが用意した予備のオーボエの調子はどれもいい。
二、三年生のメンバー三人で自前の予備のリードを用意しながら、新入生が来るまでの時間のんびりと話す。パートリーダーの木下先輩はリードの確認をしつつ、ひらりとスカートを翻してこちらへ歩いてきた。
「秦野、今年男子何人入ると思う?」
「一人でも多く入ってほしいです」
ぷー、とオーボエから大きな音を鳴らして意気込みを表明する。同級生の知多さんは胸元のリボンをいじりながら「あんた一人だけだもんね」と同情するように僕の肩を叩いた。
「パーカスの男子コンビが卒業しちゃって、残った男子は秦野だけ。かわいそう」
「言うな、そんなこと」
また不満を表すためにぴーと音を鳴らす。ついでにドレミファソラシドと鳴らしてやれば、女子二人はげらげらと笑った。
うちの吹奏楽部はそんなに人数が多くない。運動部が盛んなのと、文芸部が県の中では強豪らしく(文芸部の強豪ってなんだろう)人数が集まらない。地域の大会にやっと出られるくらいだ。あとは野球部の応援。
ピアノをやっていて楽譜が読める人でも「管楽器は興味ない」とか、趣味でギターをやっている人は「それなら友達とバンドやるから」とか、いろいろ理由をつけて断られる。どうして。僕の人望がないせいか?
悲しみを乗せて「クラリネットをこわしちゃった」のメロディを吹くと「それクラの持ち曲じゃん」と二人が笑う。僕はさらに哀愁を込めてサビを吹き鳴らした。
「すみませーん」
は、と我に返ってリードから唇を離す。そこに立っていたのは案内役の女子と、背の高い男子だ。強い目力にすっと通った鼻筋のイケメン。薄い唇を見るに、だいたいの管楽器でやっていける口元だ。
がっしりした身体つきをしているけれど、中学時代は何かのスポーツでもやっていたんだろうか。
「はいはい。ようこそオーボエパートへ! 私はパートリーダーの木下美月っていうよ、よろしくね!」
真っ先に飛び出していったのは木下先輩だ。るんるんとした足取りで新入生の男子に近寄り、さあさあと中へと誘う。
新入生の子は先輩をちらりと見た後、僕へ顔を向けてぺこりとお辞儀をした。慌てて僕もお辞儀を返すと、隣の知多さんがぼそりと「よかったね」と呟いた。
「男子チャンスだよ、秦野」
「その言い方なんかやだ……」
僕たちが小声で言い合うのを、新入生の男子はじっと見つめていた。僕はリードを口から離して「どうも」とぺこりとお辞儀をした。
「秦野光李です」
「知多みどりでーす」
「俺、一ノ瀬和樹です。よろしくお願いします」
一ノ瀬くん。なんだかかっこいい名前だ。自分の予備のリードを一ノ瀬くんに渡す。一ノ瀬くんは遠慮がちに受け取った。まずは緊張をほぐしてあげよう、とできるだけ優しい声を出す。
「これまでやったことのある楽器はある?」
「楽器の経験はないです。あと俺、オーボエ第一志望なんで、真っ先にこっち来ました」
「ほんと!? 嬉しいな」
思わずテンションが上がって大きな声が出る。僕は少し前のめりになって、自分の楽器からリードを外した。
「えっと、まずはこのリードを咥えてくれるかな」
「咥える……? リード……?」
「えっと、リコーダーで言うところの口をつけるところ。これ、二枚の細い木の板が合わさってできてるんだけど、オーボエはこの板を震わせて音を出すんだ」
ぺらぺらしゃべりながらリードを咥える。一ノ瀬くんも大人しくリードを咥えた。
僕は口からリードを外して「そのまま聞いてね」と言いながら楽器へ戻す。
「乾いてるとうまく震えないから、まずこのリードを咥えて、こう、うまい感じに湿らせるんだ」
「む……」
一ノ瀬くんは僕をまっすぐ見つめてくれる。真剣に聞いてくれて嬉しい。
僕はオーボエを構えてリードを咥えて、音を鳴らした。シのフラットだ。
「ね、こうやって音が鳴るんだ」
「ふん」
見かねた木下先輩が「一ノ瀬くん、しゃべってもいいよ」と助け船を出す。一ノ瀬くんはリードから口を離した。
知多さんがリードだけ咥えてぶー、と震わせる。一ノ瀬くんも真似して息を吹き込んだ。ぶー、と音が鳴る。
僕たちは一斉に「おお」と声を漏らした。パートリーダーの木下先輩が手を叩く。
「才能あるね! それじゃあ吹いてみよっか」
知多さんが予備のオーボエを取り上げる。僕はいそいそと一ノ瀬くんを椅子に座らせて、オーボエを持たせた。ネックストラップも首にかけるように言って、構え方を教える。
背中の方から抱き込む形になると、ふんわりいい香りがした。イケメンって感じだ。
「背筋伸ばして……右手、左手はこう。腕はこっち。分かった?」
「は、はい」
「左手の人差し指でここを押してみて」
緊張気味でかわいい。僕がそっと離れると、一ノ瀬くんはおずおずと息を吹き込んだ。
見事なシのフラットが響き渡る。僕たちはぱちぱちと手を叩いて「すごいね!」と一ノ瀬くんを取り囲んだ。
「最初から音出せるなんてすごいよ!」
僕の声にかぶせて知多さんも褒める。
「めっちゃ才能ある! 私なんか体験で五分くらい粘ったもん」
木下先輩はうんうんと頷いていた。一ノ瀬くんははにかんで、「そうですか?」と頭をかいた。
「俺、中学時代はサッカー部だったんですけど、入れますか……? 楽譜は一応読めます」
「もちろん!」
自分でも口角の吊り上がりを感じる。先輩が「むしろ勇気あるね」と一ノ瀬くんを褒めた。
「新しい世界へようこそ! 何かきっかけでもあったの?」
「きっかけですか」
ちらり、と視線が僕の方を向いた。一ノ瀬くんはすぐに僕から目を離して「先輩たちの演奏がかっこよかったからです」とはきはきした口調で言う。
「入学式の演奏とか、新入生歓迎会のとか、すごくかっこよかったです」
またちらりと僕を見た気がする。気のせいだろうか。
首を傾げている間に、「一ノ瀬くん……!」と木下先輩が一ノ瀬くんへ詰め寄っていた。
「もうもう、うちに入ってオーボエに来て! そこの秦野も歓迎するって言ってるよ!」
「先輩、それまだ言ってないので言います。一ノ瀬くん、歓迎するよ!」
ついでに手を振る。一ノ瀬くんはてれてれと手を振り返してくれた。後輩って、かわいい。
知多さんは歓迎の「クラリネットをこわしちゃった」を吹き鳴らしている。
こうして僕たちは一ノ瀬くんを送り出し、「これは決まったな」と顔を見合わせた。
「オーボエパートは安泰だ」
知多さんの言葉に、僕と先輩は力強く頷く。先輩は僕の肩を力強く叩いた。
「頼むよ、次期パートリーダー」
「はい……!」
僕はこぶしを握り、決意を新たにした。
今年のオーボエパートは今いる三人に加えて、一ノ瀬くん。初心者だとしても初手から音を鳴らせる逸材だ。きっと上達も早いだろう。
うちはそんなに強豪校というわけでもないし、ゆるい感じの部活だ。一ノ瀬くんとも男子同士、仲良くなれたらいいな……!
と思っていた時期が、僕にもありました。
新入生が各パートへやってくる日、うちに新入生は一人も来なかった。
一ノ瀬くんはトランペットパートへ入ることになったそうだ。
「まあ確かにね、ペットは人数元々足りてなかったかんね……!」
先輩がリードを咥えながら悔しそうに言う。僕も切なく頷いて、リードを咥えた。相変わらずの舐め終えたアイスの棒と同じ味わいが、なんだか虚しい。
「新しく人が来るのは来年、か……」
そして今年の新入部員の男子はまた一ノ瀬くんだけ。トランペットパートは今頃すごい盛り上がりを見せているだろう。なんせ一ノ瀬くんはオーボエどころか他の木管楽器……のみならず金管楽器も一発で鳴らし、そのポテンシャルの高さをみんなに見せつけていた……。
「でもしょうがないですよね。とりあえずロングトーンやりましょうよ」
僕がさっと話題を切り替えると、先輩は「そうだね」とリードを楽器へつけた。知多さんはもうチューニングも済ませている。
僕たちもチューニングをして、いつも通りの基礎練をはじめた。それが終われば各自のパートを練習だ。
一番うまい木下先輩にアドバイスをもらいながら、自分でがんばる。
高校からオーボエを始めた知多さんは、僕に質問をしてくることもあった。
「ね、秦野。ここ指回んないんだけど、どうやって吹く?」
「んー、それは一旦ゆっくり吹いた方がいいかも」
お手本でゆっくり吹く。知多さんも僕に続いてゆっくり吹く。
知多さんはリードを口から離して「ありがとう」とぱっと表情を明るくした。
「なんかできる気がしてきた」
「よかったよかった」
最後にオーボエパート全員で曲を合わせて、今日の練習終わりの時間が来た。
楽器を片づけて音楽室へ集合する。顧問の後藤先生はちょっと気の弱そうな男の先生だけど、大学時代はオペラでバリトンの歌手をやっていたらしい。
「はい、それではみなさんあいさつしましょう。ありがとうございました」
一斉に「ありがとうございました」とあいさつをして、僕は自分の荷物を取る。
帰ってゲームでもしよう。音楽室から出ようとすると「秦野先輩!」と呼び止められた。振り返ると、立っていたのは一ノ瀬くんだ。
「あれ、一ノ瀬くんだ」
「はい。お疲れ様です」
体育会系らしいはきはきとしたお辞儀がまぶしい。僕は目を細めて「トランペットになったんだね」と一ノ瀬くんに笑いかけた。
「はい、そっちの方が向いてるし、人も足りていなかったそうなんで……」
音楽室を一緒に出ながら話す。一ノ瀬くんは本当に残念そうだったけど、「でも」と少しだけ声を弾ませた。
「ファンファーレはトランペットとか金管楽器が鳴らすって教わったんです。それはかっこいいなって思いました」
「うん、そうだね。特にトランペットはよくファンファーレを鳴らすし、かっこいいよね」
金管楽器はとにかく大きい音が鳴る。木管楽器が五本鳴っていてもトランペット一本にかき消されてしまうくらい音がでかい。
だからこそ花形だ。吹奏楽の一番人気はメロディ担当が多くて見た目がかっこいいアルトサックスという説が有力だけど、正直僕はオーボエじゃなかったらトランペットをやりたかった。かっこいいから……。
中学時代に「唇の形がトランペット向きじゃない」と言われて諦めてからは、オーボエ一筋だけど。自分の少し厚い唇を触ると、一ノ瀬くんが遠慮がちに声をかけてきた。
「トランペット、かっこいいって思います……?」
「うん? うん。僕、日曜日は市民オーケストラに行ってるけど、そっちだとサックスよりトランペットが活躍してるしね」
とはいえ今の僕が好きなのはオーボエだ。それに嘘はない。
うんうんと一人頷いていると、一ノ瀬くんは「そっか」と呟いた。
「それ、俺も入れますか?」
「うーん、初心者だからどうだろう……。でも、それだけ楽器が楽しいならよかった!」
思わず顔がだらしなくゆるむ。一ノ瀬くんは「あは、はは」と少しぎこちなく笑ってつづけた。
「かっこいいのか。そうか……」
ぶつぶつ呟く一ノ瀬くんと下駄箱まで歩く。二年生と一年生の昇降口は同じだ。同じタイミングで外靴に履き替えながら、「ありがとう」と改めて一ノ瀬くんへ伝えた。一ノ瀬くんはきょとんとした顔をしているので、くわしく説明する。
「うちの吹部、このままだと男子が僕だけだったからさ。去年卒業した先輩で男子がいなくなっちゃったから、一ノ瀬くんが入ってくれて、すごく嬉しい」
「そうですか?」
途端に一ノ瀬くんの表情がぱっと明るくなる。後輩って、かわいい。
そうだよ、と頷いてみせた。
「男子同士、仲良くやろうね」
「はい!」
はきはきとした返事が耳に心地いい。一ノ瀬くん、身体は大きいけど人懐っこくてかわいい。こう言ってはなんだけど、大型犬みたいだ。
一ノ瀬くんは僕を見下ろしてぼそりと呟く。
「俺が吹部に入るって決めたの、実は先輩がきっかけだったんです」
「え、僕?」
驚いて見上げると、「はい」と一ノ瀬くんは照れくさそうにはにかんだ。
「先輩が新勧で吹いたソロがかっこよくて」
「ああ、あれ?」
すぐにピンと来た。新入生歓迎会では二年生の次期パートリーダーがソロを担当することになっていて、僕もソロを吹いた。
「よかった……! ほら吹奏楽のソロって立ち上がって吹くから、めちゃくちゃ緊張しちゃって」
勢いづいて身を乗り出すと、一ノ瀬くんはぎくりと身体をこわばらせた。ちょっと距離が近すぎたみたいだ。
そそくさと距離を取ると、なぜか一ノ瀬くんはさっきよりも近づいてきた。
「めちゃくちゃかっこよかったです。あれってなんて楽器なんだろうって、周りに聞きました。それでオーボエって知って……」
「なるほど、そうだったんだ」
そういう理由があったのか。ほー、と頷く。一ノ瀬くんはうつむいて、もじもじと指先を絡めた。
「だから、……秦野先輩と話せて、すごく嬉しいっていうか」
「ほんと? なんなら頼っていいんだよ」
これでも次のオーボエパートリーダーだ。一ノ瀬くんは別パートの後輩とはいえ、頼りになる姿を見せておいてもいいだろう。
強気に背筋を伸ばすと、「はい」と一ノ瀬くんは微笑んだ。
でもなんでだろう。尊敬する先輩というより、かわいい子猫や子犬を見る目で見られている気がする。僕の身長が低くて、一ノ瀬くんの身長が高いせいだろうか。
もっと背をにゅっと伸ばして歩き出す。一ノ瀬くんは「せんぱい」とどこか甘ったるい声で僕を呼んだ。
「もっと先輩と仲良くなりたいな……」
「なれるよ!」
元気づけるように広い背中を叩けば、まつげの長い瞼が少し降りて、目つきが怪しく見えた。どきりとしたのも一瞬で、すぐに一ノ瀬くんは「はい」とはきはき頷く。
「そうだ。ライン交換してもいいですか?」
「ライン? いいよ」
僕は気軽に頷いて、スマホを差し出した。コードで友達登録をすると、一ノ瀬くんがスタンプを送ってくる。それにスタンプで返せば、一ノ瀬くんは「やった」と小さく笑った。
五月、六月、七月。あっという間に夏の大会がやってきた。
木下先輩の引退試合だ。僕たちはせっせと練習に励んでベストを尽くしたけれど、入賞は叶わず。だけどいい演奏ができたと、木下先輩は言っていた。
「後は頼んだよ、秦野」
「はい!」
涙混じりの引退と役員交代を終えれば、オーボエパートは僕と知多さんだけになった。
同時に、僕と一ノ瀬くんの仲も深まっていた。最近はずっとラインでやり取りしているし、休みの日には一緒にカラオケに行くくらいだ。同級生たちからは「男子の後輩ができてよかったね」と生暖かい目で見守られている。
野球部の応援に駆り出されるのも終わる夏休みの終わりごろ、僕は一ノ瀬くんと一緒に出掛ける約束をしていた。
待ち合わせ場所の時計台の下へ向かうと、いつも通り一ノ瀬くんが先に待っていてくれていた。
一度だけ一ノ瀬くんより先に着こうと三十分前に行ったことがあるけど、僕が先に着いているのを見た一ノ瀬くんが「先輩を待たせるなんて」と落ち込んでしまった。だから、あえて集合時間の五分前に着くようにしている。
「一ノ瀬くん!」
声をかけると、一ノ瀬くんはぱっと明るい笑顔でこっちを見た。駆け寄ってくる姿はやっぱり大型犬っぽいかわいさがある。
「先輩、おはようございます」
「うん。おはよう」
今日は僕のリードを買いに行く日だ。一ノ瀬くんはわざわざ僕に着いてきてくれている。
二人並んで歩き出す。その距離の近さに、ちょっとだけどきりとした。
一ノ瀬くんは、春から夏の終わりだけでぐんと大人びた。トランペットはかなり上手くなったらしいし、部活では合奏にも顔を出している。背も伸びた。でもそれだけじゃなくて、雰囲気がこう、大人っぽくなってきていた。
「先輩、暑くないですか? よければこれ」
そう言って携帯扇風機の風を向けてくれる。たしかに気持ちよくて「ありがとう」とお礼を言うけれど、僕は情けないぼそぼそ声だ。
僕の方が先輩なのに、こっちの方が子どもっぽくてどうしよう。
あとどきどきしちゃってどうしよう。
すっかり通いなれた駅から楽器店への道のりを、少し速足で歩く。楽器店の中に入ると、熟成された木と紙のにおいにほっと息をついた。
迷いなく木管楽器コーナーに歩いていって、いつも買っているメーカーのリードを選ぶ。予備も含めて……と見繕っていると、一ノ瀬くんが遠くを見ていることに気づいた。
視線の先にあるのは、金色に光る新品のトランペットだ。
「気になる?」
「あ、いや、その。学校のと全然違うなって」
「ボロボロだもんね、うちの楽器」
長年使われてきただけあって塗装ははげているし、下手するとサビやへこみもある。
「もし僕と同じ市民オケ入るなら、マイ楽器はあった方がいいけど、無理しないでいいからね」
そういえば春先にそんな話をした。思い出して話を振ると、一ノ瀬くんは腕組みをする。
「バイトしようかな……」
真剣に悩みはじめた。水を差すのも何なので、僕はリードのお会計に向かった。
一ノ瀬くんははっと顔をあげて、すぐに僕の後についてくる。鳥のひなみたいだ。
レジでお金を払っていると、一ノ瀬くんが僕の肩のあたりに顎を置いた。どきりとする。
「先輩は自分の楽器持ってるんですか?」
「う、うん。高校入学祝いに買ってもらった」
割と安物のオーボエだけど何万円もするし、僕の宝物だ。
一ノ瀬くんは身体を離す。振り向くと、眩しそうに目を細めていた。
「そんなにオーボエが好きなんですね」
「うん」
なんだか誇らしいような、照れくさいような。照れ隠しに頭を掻く僕を一ノ瀬くんはずっと見つめる。
その目つきが熱っぽいようで、こっちまで身体が熱くなりそうだ。
「そ、外出よっか……」
暑さだけじゃない理由でくらくらしそうだ。僕たちは楽器店から出て、いつも行っている駅ナカのカフェに入った。
いつも通り、僕はアイスカフェオレで一ノ瀬くんはアイスコーヒーだ。ミルクも砂糖も入れないで、ブラックを飲めるのはすごいと思う。
一ノ瀬くんの骨ばった指の長い手。トランペットのピストンを押さえる右手がグラスを掴んでいる。
それになんでか緊張して、僕は意味もなくストローでカフェオレをかき混ぜた。
ふと気配を感じて顔をあげると、一ノ瀬くんは僕の手をじっと見つめていた。
「どうかした?」
ぱっと手を広げてみせると、いえ、その、と一ノ瀬くんの歯切れが珍しく悪くなる。
「この手がオーボエのキー押してるんだって思って」
「うん……」
そっと手を差し出す。なぜか一ノ瀬くんが掌を合わせてきた。
僕より関節一個分くらい大きい。おお……と声が漏れる。
「手、大きいね」
「はい」
指もすらりとして見えるけど、僕より太い。見とれているとそっと手は離された。
一ノ瀬くんの掌の熱が、僕の掌にもじんと残っている。熱が消えるのがもったいなくて、自分の掌をこすり合わせた。
じんわりとぬくもりを噛みしめているうちに、一ノ瀬くんはコーヒーを一息に飲み終える。
待たせるのもいけない。僕も早く飲み切ろうと思うのに、なんでか口が進まない。
このまま終わるのは、なんだかもったいない気がする。一ノ瀬くんをちらりと見た。ばっちり視線が合って、慌てて目をそらす。
「ちゅ、中学はサッカー部なんだったっけ」
「は、はい」
ぎこちないけれど、また会話が始まった。ほっとしていると、一ノ瀬くんは照れたように笑う。
「サッカーも楽しかったんですけど、高校では新しいことをやりたかったんです」
「でも、なんでうちに来たの? しかも第一希望オーボエって、結構珍しい気がする」
ストローでカフェオレを吸い上げる間、一ノ瀬くんは考え込んでいた。額に手を当てて顔を少しそらして「マジで」と呟いている。
「脈、なさすぎる」
「ん? 何の話?」
「いや、なんでもないです」
一ノ瀬くんは慌てて姿勢を直して、僕をまっすぐ見た。その姿勢のよさには相変わらず体育会系を感じる。きっとサッカーを通じて培われた筋肉とスタミナは、今の一ノ瀬くんの演奏を支えているんだろう。
「先輩のソロ聴いて、……あの、笑わないでくださいね」
「うん」
笑ったりなんかしない。僕はそう腹に決めて一ノ瀬くんを見つめた。
一ノ瀬くんは視線を泳がせた後、少し身体を乗り出して言う。
「一目ぼれしたんです」
聴いたのに、一目ぼれとは。
一目ぼれってなんだ。米の品種じゃないことは確かだ。
理解が追い付かない僕の手に熱い何かが触れる。一ノ瀬くんの手だ。
ゆっくり手の甲に掌が降りてきて、重なる。僕の左手に、一ノ瀬くんの右手が重なる。
この手がトランペットのピストンを押している。視線をあげる。薄い唇が横一文字に引き結ばれている。
その顔が赤くて、僕は驚いた。うるんだ目つきでこっちをにらんで「一目ぼれですよ」と脅すみたいな言い方をする。
「先輩のソロがかっこよかったんです。その時はオーボエの名前も知らなかったけど、かっこよかった」
「う、うん……」
手の間に熱がこもっていく。一ノ瀬君のせいじゃない。僕の体温が上がっているせいだ。
「かっこいいのに、緊張してお辞儀するときの先輩が」
一旦言葉が途切れる。一ノ瀬くんはぺろりと舌なめずりをして、はにかんだ。
「かわいくて」
雷が落ちたかと思った。
僕が、かわいい。
「えっと、それは……一ノ瀬くんが、じゃなく……?」
「俺のことかわいい後輩だと思ってくれてたんですね。ありがとうございます」
まだだ。まだ決定的な一言は打ち出されていない。
けどほとんど答え合わせみたいなのは済んでいる。
僕がぼんやりしている間に、かろんとグラスから音が鳴った。氷の溶ける音だ。
はっと我に返ると、「ここじゃなんですね」と一ノ瀬くんが言った。勝ち誇ったような顔をしている。
「カラオケ、行きませんか?」
「……行く」
僕には恋愛経験がない。吹奏楽部には女子がたくさんいるけれど、だからこそ部活内で恋愛なんか発展しない。みんな友達で、同じ部活の仲間だから。
でも男子だったら? たしかに他の女子部員たちよりちょっと特別に思うし、そういうことも……あるのか?
いやない。男子も女子も、みんな部活の大切な仲間だ。
つまり僕は、一ノ瀬くんという個人にくらくらしていることになる。
とんでもないことになってしまった。カラオケに着いて一ノ瀬くんが受付をして、学生証を出している間にもさっきのことを考えていた。
「先輩、学生証」
「はい」
上の空の僕の耳元で「緊張してるんですか?」と一ノ瀬くんが囁く。思わず飛び上がると、一ノ瀬くんは腹を抱えて笑った。
「ぼっ、僕は先輩だぞ!」
「分かってますって」
分かっているのかいないのか、一ノ瀬くんは上機嫌で伝票とコップを受け取ってカラオケルームに入る。
ばたん、と重たい扉が閉じた。僕は暑くてたまらないけど、これが冷房でなんとかなるやつではないことを察していた。
先にソファに座ると、一ノ瀬くんが隣へ詰めてくる。
「先輩、ちょろいってよく言われません?」
「言われないよ」
反論すると、なぜか一ノ瀬くんは満足げな顔をした。
「ちょろいのは俺だけの前にしてくださいね」
「は、は~!?」
なんなんだ。かっこいいからって急に調子に乗るな。
むっつりと黙り込むと、一ノ瀬くんは僕の顔を覗き込んできた。
「好きです。先輩のことが」
あまりにもあっさり言われて、逆に腰が抜けてしまった。僕は思わず机に突っ伏して手を挙げる。
「ちょっと待って」
「はい。待ちます」
「うん……」
一ノ瀬くんが、僕のことを、好き。どうやら一目ぼれらしい。
でも一目ぼれって後で幻滅したりはないのか? いや、ない。だったらこの数か月で幻滅されているはずだと思う。
つまり導き出される答えは……。
ふと吹奏楽の音がした。ちらりと顔をあげると、一ノ瀬くんがスマホで合奏動画を流していた。秋の文化祭のコンサートで演奏する曲だ。
画面を見つめる表情はすごく真剣。そのきつく閉じた薄い唇から目を離せなくなる。
「……えらいね」
思わず声がこぼれた。
「何がですか?」
一ノ瀬くんが画面から顔をあげてこちらを見る。僕は身体を起こして、一ノ瀬くんと向き合った。
「要はその、僕に会いたくて、吹奏楽部に入ったってこと」
「はい」
「楽器、楽しい?」
「はい。思ったより、ずっと」
「仮にだよ」
緊張でねばつくよだれを飲み下して、僕はできるだけ平坦な声を出した。
「僕がここで一ノ瀬くんをふっても、吹奏楽、続けてくれる?」
「……はい」
一ノ瀬くんは苦々しい顔で頷く。
その言葉で、僕はどっと緊張が解けた。ずるずると背もたれへ身体をあずけて、「よかった~」と呟く。一ノ瀬くんは、僕をずっと見つめていた。
よいしょと体勢を直して、改めて身体ごと一ノ瀬くんに向き直る。一ノ瀬くんは世界が終わるみたいな暗い表情だけど、僕はきっと、はにかんでいることだろう。
「そういう一ノ瀬くんだから、好きって言われてもいやな気持ちにならなかった」
僕の言葉に、一ノ瀬くんの表情がぱっと目を見開く。
ここで言葉を間違えてはいけない。慎重に考えてしゃべると、いつもよりも発言がゆっくり、長くなる。
「一ノ瀬くんの告白はうれしい。こう、お世辞とかじゃなくて、本当にうれしい」
「はい……」
噛みしめるみたいに一ノ瀬くんが頷く。きゅん、と胸のあたりが苦しくなった。
「だから、その……軽々しく、付き合うとも付き合わないとも言いにくくて」
「はい」
食い気味の返事に、僕は改めて生唾を飲み込んだ。
「お、お付き合いを前提? に、これからも、先輩と後輩でいたいんだけど……どう?」
僕に出せる限り、いちばん納得できる答えがこれだった。一ノ瀬くんには負担をかけるけど、僕もいきなりは思いきれない。
ちょっと不誠実だったかも。そう思いながらうつむき加減に一ノ瀬くんを見上げると、一ノ瀬くんはぼんやりと僕を見つめていた。
「ん? おーい。大丈夫?」
ひらひらと手を振ると、一ノ瀬くんの手がゆっくり伸びてくる。指先が僕の手首に触れた。特に抵抗する理由もないので触られるままになっていると、手首を掴まれる。
「……それって付き合うってことですよね」
「うーん。ゆくゆくは?」
あくまで疑問形の僕をよそに、一ノ瀬くんは震えはじめた。
「あの……ありがとうございます」
「何が?」
「真剣に考えてくれて。そういうところも好きです」
「うん……照れるね」
率直に「好き」と言われると、困るというよりは照れる。どうすればいいのか分からなくて眉間を揉む。
一ノ瀬くんは「先輩、好きです」と低い声で囁いてきた。
「これからいっぱい『好き』って言うんで、よろしくお願いします」
「ほどほどに……」
こう何回も言われたら、心臓がもちそうにない。胸元を押さえる僕の手を取って、一ノ瀬くんは指を絡めた。恋人つなぎだ。
「ほどほどに好きって言います」
ああ、僕の負けだ。何の勝負かは自分でも分からないけど、一ノ瀬くんに負けたと思った。
「おてやわらかに……」
お願いする自分の声が甘ったるくてびっくりする。一ノ瀬くんは心底幸せそうに笑っている。
たぶん一生、僕は一ノ瀬くんには敵わない。

