春日人生相談所

帰りのホームルームが終わり、今日教えてもらう予定の教科書を鞄に詰める。

「冬真、これ。先輩に渡しといて」

直人が、俺の机にラッピングされた包みを置いた。

「母親の新作」

それだけ言って、直人はさっさと教室を後にする。
包みを手に持って、俺も席を立った。

向かうのは、屋上前の踊り場ではなく、空き教室だ。
生徒会長が、放課後は相談所として使っていいと言ってくれたのである。
廊下を歩いていると、噂話が耳に入った。

「春日先輩、最近印象変わったよね」
「今度、相談してみようかな」

少し前なら聞き流していたはずなのに、今はその言葉に足がほんの少しだけ遅くなる。

二階へ降りる階段の途中、窓の外に榊原先輩の姿が見えた。
ベンチに座る彼女の隣には、この前とは違う男子生徒がいる。

相変わらずだな、と思う。
けれど、あの時のことを思い出すと、今でも少しだけ背中が冷えた。
追い出すように小さく首を振って、階段を下りきる。

二階に着き、空き教室へ続く廊下を歩いていると、スマートフォンが震えた。
秋さんとのトークに、一件の通知が表示されている。

『小夜と喧嘩した、仲とり持ってくれない?』

適当にスタンプだけ返して、また歩き出した。

空き教室の扉には、『春日人生相談所』と書かれた紙が貼られている。
ノックすると「どうぞ」と返ってきた。

扉を開けると、先輩が本を読んでいた。
窓際の壁に近い席で、いつものように背筋を伸ばしている。

「小夜先輩」

呼んだ瞬間、先輩の視線が本から上がる。

「…なんだ」

以前なら口にしなかった呼び方だ。
それを気にしたのか、先輩は少しだけ眉を寄せた。

「秋さんと喧嘩したんですか」

先輩は本の端を指で押さえたまま、短く答える。

「そう思っているのはあいつだけだ」

これ以上触れるなという空気を感じて、素直に話題を変えることにした。
俺は鞄を下ろして、いつものように先輩の隣の席へ腰を下ろす。

「そういえば、噂されてましたよ。最近印象変わったって」
「普通だ」

あっさり切り捨てる声に笑ってしまいそうになる。

「あ、忘れてた。これ、直人からです」

包みを渡すと、先輩の表情が少しだけ和らいだ。
閉じた本を机に置くと、ラッピングを丁寧に外し、ひと口食べる。
その横顔を見ていたら、案の定睨まれた。

「見るな」
「無理な相談ですね」

先輩は小さく舌打ちして、残りを箱に戻した。
ラッピングを軽く整えてから、さっきまで読んでいた本をもう一度開く。

俺も鞄から教科書を取り出して、昨日教えてもらったページを開いた。
けれど、文字を追う前に、ふと気になっていたことが口をついた。

「次、三年生ですよね」

なんとなく気になって、そう口にする。

「進路、もう決まってるんですか?」
「ああ」

本当に、それだけだった。
そっけないのに不思議と冷たくは感じなくて、ああ、春日先輩らしいなと思う。

けれど、その返事を聞いた瞬間、胸の奥に小さな不安が落ちた。

三年生になっても、きっと先輩はここに来る。
受験で忙しくなっても、俺が困れば、面倒くさそうな顔をしながら迎えに来てくれる気がする。

でも、卒業したら。

その先を考えようとして、うまく言葉にならなかった。

春日先輩は、俺の不安なんて知らないまま、本に視線を戻している。
細い指がページの端を押さえて、伏せられた睫毛が少しだけ影を落としていた。
いつも通りの、そっけない横顔だった。

それを見ていたら、胸の奥にあった不安が、別の形に変わっていくのがわかった。

「…好きです」

気づいた時には、そう口にしていた。

春日先輩の指が、ページの上で止まる。

言ってから、頭の中が真っ白になった。
俺は何を言っているんだろう。
進路の話をしていたはずなのに。
卒業したら、なんて勝手に不安になって、そのまま、今言うつもりなんてなかったことを口にしてしまった気がした。

「い、今言ったこと、忘れてくださ…」

そこで言葉が止まった。

春日先輩が、信じられないものを見るみたいに俺を見ていたからだ。
本を持ったまま、まばたきもせずに固まっている。
いつもならすぐに皮肉のひとつでも返してくるのに、今は何も言わない。

その顔があまりにも春日先輩らしくなくて、緊張していたはずなのに、少しだけ笑ってしまった。

「笑うな」

言っていることはいつもの春日先輩らしい。
けれど、その声は照れ隠しみたいに少し震えていた。

それを聞いた途端、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
かわいいと思った。
それ以上に、愛おしいと思った。

ああ。
俺は、本当にこの人が好きなんだ。

言葉が先に出て、気持ちがあとから追いついた。
だから、今度はちゃんと先輩の目を見つめた。

「俺、春日先輩が好きです」

春日先輩の目が、ほんの少しだけ揺れた。
張り詰めていたものがほどけるみたいに、唇がわずかに開く。
けれどそれは一瞬で、すぐにいつもの無表情に押し込められた。

「…気のせいだろ」

低い声だった。
突き放すというより、自分に言い聞かせているみたいに聞こえた。

「吊り橋効果みたいなものだ。普通なら関わらなくていいことに巻き込まれて、勘違いしてるだけだ」

そう言う春日先輩は、俺を見ようとしなかった。

少しだけ、むっとした。

「じゃあ、信じられるまで言います」

春日先輩の視線が、ようやく俺に戻る。

「何を」
「先輩の好きなところです」

春日先輩は、何も答えないまま本へ視線を落とした。
だから俺は、椅子から立ち上がった。

隣にいた俺が急に動いたせいで、春日先輩の視線が一瞬だけこちらへ向く。
そのまま一歩近づいて、机の上に置かれた本へ、そっと手を伸ばした。

ページを押さえていた先輩の指に触れないように、ゆっくり表紙を閉じる。

春日先輩が、驚いたように俺を見る。

「聞いてください」

そう言って、右手を先輩の机についた。
左手は、先輩の向こう側にある窓枠へ置く。

先輩に触れてはいない。
それでも、後ろは壁で、横にも俺の腕がある。
逃げようと思えば逃げられるはずなのに、春日先輩は椅子を引かなかった。

「…近い」
「逃げると思ったので」
「逃げない」
「じゃあ、目を逸らさないでください」

春日先輩は嫌そうに眉を寄せた。
でも、俺の腕を押しのけることはしなかった。

「顔が綺麗なところも好きです」

「そこは言わなくていい」

「でも、それだけじゃないです」

今度は、ちゃんと先輩の目を見た。

「面倒くさそうな顔をするのに、結局いつも手を伸ばしてくれるところ」
「…やめろ」

「普段は何でもできそうな顔をしてるのに、朝は弱いところ」
「冬真」

「お菓子を食べる時だけ、少しだけ機嫌がよさそうになるところ」
「やめろと言ってる」

声は低いのに、耳が赤い。
けれど、先輩はまだ俺の言葉を受け取ろうとしていないように見えた。

少しだけ、悔しくなる。

「まだ、気のせいだと思ってますか」

春日先輩は答えなかった。

だから俺は、机の上にあった先輩の手を取った。
咎めるように名前を呼ばれたけれど、振りほどかれはしなかった。

その手を、自分の胸元へ引き寄せる。
制服越しに触れた先輩の指が、ぴくりと震えた。

心臓はうるさいくらい鳴っていた。
先輩の指先にも、きっと伝わっている。

「先輩のことが好きだから、こんなに緊張してるんです」

自分で言って、恥ずかしさに喉が詰まる。
それでも、手は離さなかった。

春日先輩は、俺の胸元に触れたまま固まっていた。
さっきまで逃げ道を探していた目が、今は俺の手元だけを見ている。

「…馬鹿じゃないのか」

ようやく落ちた声は、ひどく小さかった。

「はい」
「認めるな」

そう言いながら、先輩の指が少しだけ丸まる。
逃げるためじゃなく、確かめるみたいに。

「…好きです、先輩」

だから、もう一度言った。
今なら、届く気がしたから。

春日先輩はしばらく黙っていた。
それから、掠れた声で言う。

「…わかったから、離せ」

その言葉に、慌てて手を離す。
急に自分が何をしていたのか意識してしまって、顔が熱くなった。

「すみません」
「今さらだ」

そう言いながら、春日先輩は目を逸らした。
これで終わりだと思った。

けれど、違った。

先輩が椅子から少し身を乗り出す。
何をするのかと思う間もなく、額が俺の胸元に触れた。

息が止まる。

「…さっきより、うるさくなった」

胸元に落ちた声は、いつもより近くて、くぐもって聞こえた。

「誰のせいですか」

どうにかそう返すと、春日先輩は答えなかった。
ただ、耳を寄せたまま、しばらく動かない。

心臓は、さらにうるさくなる。

「…本当に」

小さな声だった。

「本当に、僕のことを好きなんだな」

その言い方は、嬉しそうというより、信じられないものをようやく確かめられたみたいだった。

「はい」

今度は、迷わず答えた。

「好きです」

春日先輩は、そこでようやく俺の胸元から離れた。

近すぎた距離が少しだけ戻る。
それなのに、さっきよりずっと近くにいるような気がした。

先輩が、俺の目をまっすぐ見ていたからだ。

春日先輩は、すぐには目を逸らさなかった。
いつものように誤魔化すことも、本へ視線を落とすこともしない。

その目を見て、ああ、今度はちゃんと届いているのだと思った。

「お前は、本当に物好きだな。物好きで変わり者だ」
「自覚はあります」
「褒めてない」

「…けれど、そんなお前を僕は」

そこで一度、言葉が途切れた。
春日先輩はひどく嫌そうな顔をして、それでも目を逸らさなかった。

「気に入っている」

その言葉が、ゆっくり胸の奥に落ちてくる。
好きだと言われたわけじゃない。
それでも、春日先輩が今言える精一杯なのだとわかった。

それだけで十分だと思った。
十分だと思ったのに、もう一つだけ欲しくなった。

「じゃあ、付き合ってください」

言った瞬間、春日先輩の目が少しだけ揺れた。

「…流れで言うな」
「流れじゃないです。ちゃんと考えてます」
「今考えた顔をしている」
「今、ちゃんと考えました」

先輩は呆れたように息を吐いた。
けれど、目は逸らさなかった。

「…勝手にしろ」

それが、春日先輩なりの返事だとわかった。

その言い方があまりにも春日先輩らしくて、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。
こんな時まで素直じゃないのに、それでもちゃんと受け取ってくれた。
そう思ったら、どうしようもなくかわいく見えてしまった。

「先輩」

呼ぶと、春日先輩が警戒するみたいに眉を寄せる。

「今度はなんだ」

その声も、少し赤い耳も、目を逸らさないままでいるところも。
全部が、たまらなかった。

気づいた時には、少しだけ身を乗り出していた。

春日先輩は驚いたように目を見開いた。
けれど、俺を押し返すことはしなかった。

唇が触れたのは、ほんの一瞬だった。
離れた瞬間、ようやく自分が何をしたのか理解した。

「…すみません」

反射的に謝ると、春日先輩は口元を押さえたまま、信じられないものを見るように俺を睨んでいた。
でも、耳まで真っ赤だった。

「お前は、本当に」
「嫌でしたか」

聞くと、先輩はすぐには答えなかった。
ただ、机の上に置かれていた指が、ゆっくり俺の袖を掴む。

「…次からは、先に聞け」

それが答えなのだとわかって、今度は俺の方が顔を熱くした。

しばらくして、控えめなノックの音が聞こえた。

俺たちは同時に肩を跳ねさせた。
春日先輩は何事もなかったみたいに本を開き、俺は慌てて教科書を引き寄せる。

机の端に置いた教科書は、開いた時のページのままだった。
今日の勉強は、たぶん後回しになる。

「どうぞ!」

少しだけ声が上ずった。
隣から、春日先輩の冷たい視線が飛んでくる。

俺の声に、扉が開いて二人の顔が覗く。さっき噂をしていた生徒たちだ。
二人を中へ促し、机を挟んだ向かいの椅子へ座ってもらう。

「春日人生相談所へようこそ。
こちらが春日先輩。俺は手伝いの朝倉冬真です。よろしくお願いします」

そうして今日も、相談所は開かれる。

春日先輩は相変わらず無愛想で、俺は相変わらずその隣にいる。
けれど、その隣にいたいと思う気持ちには、もうちゃんと名前がついていた。