春日人生相談所

放課後、流れるように屋上前の踊り場に向かう。
そこには、スマートフォンを見て、面倒くさそうな表情を浮かべる春日先輩がいた。
この表情を引き出せる人物には心当たりがある。

(しゅう)さんですか」
「そいつの名前を出すな、イライラする」

すごい八つ当たりだと心の中でつぶやいて、先輩の向かいに座った。

「もしかして、前に貸しって言ってた件ですか?」

そう聞いても返事はない。つまり、正解ってことだ。
多分、先輩と秋さんは持ちつ持たれつの関係なんだと思う。
そして今回、春日先輩の番が来たというわけだ。

「どんな内容か聞いてもいいですか?」

先輩は首を縦には振らなかった。厄介な内容みたいだ。
このまま待っても、春日先輩は口を割らないだろう。
その時、先輩の手にあるスマートフォンが震えた。

着信画面には秋という名前が表示されていて、先輩は容赦なく赤いボタンを押す。
しかし、その数秒後にまた震え出して、同じ画面が表示されていた。
小さく舌打ちしてから応答ボタンを押して、耳元にスマートフォンを持っていく。
先輩が渋るような仕草をした後に、俺に画面を見せるように床に置いて、スピーカーのボタンを押した。

「お二人さん久しぶり!」

その瞬間、秋さんの陽気な声が、踊り場に響く。
すぐさま春日先輩が、音量調節のマイナスボタンを何度も押す。
けれど、すでに一番小さい音量だった。
その行動があちらにもわかったらしく「めっちゃカチャカチャ聞こえる」と秋さんは笑う。

「小夜の力が必要になるかもしれないんだってぇ。しかも、見る専門の仕事仲間が逃げちゃってぇ」
「知らん」
「小夜が冷た〜い!庶務の君もそう思うよね~!」

庶務という呼び方に首を傾げる。
そういえばこの人の前では、生徒会庶務と嘘をついていた上に、名前も名乗ってなかったんだ。
名乗るべきなんだろうけど、春日先輩から噛みつかれるのは嫌だし。
なんて、考えていた時、「本当は見えるんでしょ」と、突然真面目な声音で秋さんが言った。

「わかるよ。視線の動きとかでね」
「気持ち悪いやつ」
「俺に厳しいねぇ、小夜は本当に」

春日先輩の直球の悪口に秋さんの笑い声がスマートフォン越しに響く。

「二人の力を借りたい。じゃ、小夜の家で待ってるから!」

一方的に秋さんは要望を言ってブッと通話が切れた。
春日先輩は盛大にため息を吐いたあと、舌打ちもする。
とてつもなく不機嫌だ。俺が見えることもバレてしまったし、八つ当たりされてもおかしくない。
先輩はまた大きなため息をつき、立ち上がって俺に手を差し出す。

「家族に連絡を入れておけ、秋が泊まらせようとしてくる」

俺は頷いて先輩の手を掴んで立ち上がった。
先輩は変わらずめんどくさそうな表情を浮かべていたけれど、俺は先輩の家というものにワクワクしていた。

「ワクワクするな」

先輩の言葉に無表情を意識する。それでもすぐに口元が緩んでしまう。

「いくぞ」

諦めた様子で先輩が顎で階段をさす。
頷いた俺は先輩と並んで階段を降りた。

春日先輩の家を思い浮かべながら。



先輩の家は、俺の家とは反対方向にあった。
そして、目の前に広がる景色に、開いた口が塞がらない。

家を囲うように立つ塀、厳格そうな門、その奥に覗く手入れの行き届いた庭木。
玄関まで続く石畳は長く、母屋の他にも離れらしき建物が見えた。
ただ広いだけじゃない。
代々受け継がれてきた家にしかない重みが、門の外に立っているだけでも伝わってきた。

「いつまで突っ立ってる。遠慮せず入れ」
「手土産とか持ってないんですけど…」
「呼ばれた側だ。気にするな」

緊張しながら先輩の後ろについて門をくぐる。
家を訪れる時のマナーを必死に思い出そうとしたけれど、何も浮かばなかった。
先輩が玄関の扉を開けて入ったあと、俺も「お邪魔します」と続く。

靴を脱いだ先輩は、何も言わずにしゃがみこんでその向きを揃えた。
あまりに当たり前みたいな手つきで、俺も慌てて自分の靴に手を伸ばす。
スリッパに履き替えた先輩が、「お前はこれを使え」と、上品なスリッパを指差した。
俺は何度も頷いて先輩に言われた通り、そのスリッパに足を通す。
すると、ドタドタと駆ける足音と一緒に秋さんが姿を現した。

「おかえり、二人とも!」
「お前の家じゃない」

秋さんの横を通り過ぎて、廊下を進む先輩の後をついていく。
その後ろに秋さんが続き、「そっち客室じゃないぞ〜」と先頭を歩く先輩に声をかけたが、返事をせずに歩き続けた。
そして、ある襖の前で止まると、静かにそれを開けて明かりを灯す。

部屋の中は驚くほど質素だった。机と本棚、それに布団が敷けるだけの空間しかない。飾り気のあるものは何ひとつなくて、並んだ本の背表紙だけが妙にきっちり揃っている。客を通す部屋じゃないとすぐにわかった。というより、これ以上なく春日先輩らしい部屋だった。

「客室だと緊張するだろ」

そう言った春日先輩は、なぜか俺の方を見なかった。

その一言に、返事が少し遅れた。
客室ではなく、春日先輩の部屋に通された。
それがただの気遣いだとわかっている。
それでも、春日先輩が俺をここに入れることを選んだのだと思うと、胸の奥が落ち着かなかった。
自分が先輩の生活の内側に、少しだけ入れてもらったような気がした。
だけど、不満を漏らしたのは秋さんだった。

「せっかく美味い和菓子買ってきたのに、机がないと食えんよ」

春日先輩はため息まじりに秋さんを見る。

「どこかから机と座布団を持ってこい」

秋さんは先輩の命令を素直に聞いて「はいよー」と春日先輩の部屋を去った。
静かになった室内で、落ち着かない視線だけがあちこちを彷徨う。
机、本棚、きっちり閉じられた押し入れ。
必要なものしか置いていないみたいな部屋だった。

「想像通りだったか」
「え?」
「ワクワクしてただろ」
「想像以上すぎて緊張に振り切りました」

俺の言葉に先輩は目を細めて笑う。
最近、たまにこういう顔を見せてくれる。
それが嬉しくて、つい見つめてしまった。
先輩はその視線に気づくと、ほんの少しだけ目を泳がせてから、ふいっと顔を逸らした。

「おまたせ〜」

秋さんが戻ってきた。後ろには、机と座布団を抱えた使用人らしき人たちまでいる。
さっきまでの柔らかい空気が一瞬で消えた。

「無駄なことをさせるな」

春日先輩が低い声で言うと、秋さんは悪びれもせず肩を竦める。

「俺が頼んだんじゃなくて、この人たちがやりたいって言ったんだよ」

そう言いながら、部屋の中へ顎をしゃくって合図する。
使用人たちは慣れた手つきで机と座布団を運び入れ、静かに整えると、一礼だけ残して部屋を出ていった。

「あ、菓子忘れてた。持ってこさせるわ」

秋さんはそれだけ言うと、またぱたぱたと部屋を出ていく。
ほどなくして、お茶と和菓子を乗せた盆を持った使用人らしき人を連れて戻ってきた。
使用人がお茶と和菓子を置いて静かに下がると、秋さんが真っ先に座布団へ腰を下ろした。その隣に春日先輩が当然のように座る。一人だけ立ったままの俺を見て、先輩が短く言った。

「座れ」

そう促されて、ようやく俺も二人の向かいに腰を下ろした。
机の上に置かれた和菓子は、見た目からして上等そうだった。
こんな家で出されるんだから、きっと高いやつなんだろう。
せめてちゃんと味わおうと意識して口に運ぶ。
けれど、まだ緊張が抜けきっていないせいか、普段食べるものとの違いはよくわからないまま飲み込んでしまった。少しだけ申し訳ない。
そんな俺をよそに、秋さんは早々に平らげ、お茶もずっと音を立てて飲み干す。

「んじゃ、本題」

まだ一口しか食べていない俺と先輩を見て、「二人は食いながら聞いてて」と言って、真面目な表情をして話し始めた。

「春日家に繋がってる親戚の中で、こういうのを仕事にしてる連中全員に依頼が来たらしい」

秋さんは空になった湯呑みを机に置くと、慣れた様子で廊下の方へ声をかけた。

「すみませーん、お茶おかわりもらっていい?」

この家にやけに馴染んだ態度だなと思っていると、秋さんは何でもないみたいに続きを話す。

「向こうさんも本気で解決したいらしい」
「よくあることなんですか?」

俺の質問に春日先輩は首を振る。
それを補足するみたいに、秋さんが肩を竦めた。

「いや、珍しい」
「だからみんな敬遠するのさ。よっぽどやばいもんが関わってるってな」
「お前も断ればいい」

先輩はそうきっぱりと言って、小さな和菓子の欠片を口に入れた。
そこで初めて気づく。春日先輩の前の皿には、和菓子が二つ置かれていた。
秋さんの指示か、使用人の気遣いかはわからない。でも、お菓子好きなのは家の中でも知られているらしい。

「俺にできないことなんてないからさ」

軽い調子でウインクする秋さんに、春日先輩は舌打ちで返す。

「それなら僕たちの力はいらないだろ。帰れ」
「うそうそ、いるいる。めちゃくちゃいる」

秋さんはけろりとした顔で続けた。

「幽霊見えないと困るし、厄介なのは小夜の得意分野じゃん」
「お茶をお持ちしました」

襖越しの声に、春日先輩が「入れ」とだけ答えると、静かに襖が開き、お茶を持った使用人が一礼して入ってきた。
使用人は空になった湯呑みを回収し、手をつけていないものも含めて一度机の上を整えると、新しい湯気の立つ茶を人数分置いていく。
それから襖の前まで下がると、「失礼しました」と一礼し、静かに襖を閉めた。

空き教室の一件のことを言っているんだろう。
秋さんは上目遣いで首を傾げ、わざとらしく両手を合わせる。
そんな猫撫で声にも、春日先輩は「知らん」の一言で済ませてしまった。

「頼むよ〜。見えないと何もできないしさぁ」
「なら、親戚の中で探せばいいだろ」
「ダメダメ。みんな相棒がいるんだって」
「家に関係のない冬真を巻き込むなって言ってるんだ」

そこで初めて、秋さんの目がまっすぐ俺に向いた。
口を挟める雰囲気じゃなく、ゆっくりお茶を飲んでいた俺は、獲物を逃さないようなその目に思わずたじろぐ。

「へぇ、冬真くんっていうんだ」

秋さんは口角を吊り上げて、にやりと笑った。

「冬真くん、お・ね・が・い」

乾いた音が響く。
春日先輩が湯呑みを机に置いた音だと気づくのに、少し時間がかかった。

怒っているのは、秋さんに対してだけじゃない気がした。
俺の名前を、そんなふうに軽く使われたことが許せなかったみたいに見えた。

「秋」

低い声に、部屋の空気が一気に冷える。

「帰れ」

春日先輩の重い声に、秋さんは降参したみたいに両手を上げた。

「はいはい、今日は部屋に戻ります」

そう言って秋さんは立ち上がった後、先輩に人差し指を向ける。

「でも明日また聞くからな」

それから襖に向かって歩き出したところで、秋さんはふと思い出したみたいに振り返った。

「ていうか、もう晩飯の時間じゃん。冬真くん、泊まってけば?」

反射的に春日先輩を見る。
先輩は少しだけ黙って、それから短く言った。

「その方が安全だ」

先輩の同意を得た秋さんが「伝えとくわ」と言って部屋を後にした。
途端に室内はしんと静まり返る。

「悪いな」

春日先輩がぽつりとそう言った。
その謝罪が、秋さんの言動に対してか、湯呑みを大きな音を立てて置いたことに対してかはわからない。
うまく言葉が出てこなくて、俺はただ小さく首を振った。

「…俺は」

まだ言葉はまとまっていない。
それでも、伝えたくて口を開いた。

「友達だから、って言えば簡単なんですけど」

机に置いた拳にぎゅっと力を入れて、先輩から目を逸らさないようじっと見つめた。

「でも、それだけじゃなくて。春日先輩が一人で嫌なものを抱えてるのを見るのが、嫌なんです」

俺の言葉に、先輩は目を開いた。
何か言いかけたみたいに唇がわずかに動いて、けれどすぐにふいっと顔を逸らす。
髪の隙間から覗く耳が、少しだけ赤く染まって見えた。

「お前の気持ちはありがたい」

低い声が、静かな部屋に落ちる。

「でも、一度巻き込まれれば、普通の暮らしに戻れない」

そこでようやく、春日先輩がずっと何を怖がっていたのか、少しだけわかった気がした。

「今更じゃないですか」

自分でも驚くくらい、声は穏やかだった。

「嫌だったら、今ここにいません」

口にした途端、胸の奥にあった緊張がほどける。
気づけば、自然と口元が緩んでいた。

「それに、危なかったら先輩が守ってくれるし。俺も先輩に逃げろって叫びます」

胸を張って自信たっぷりにそう言うと、先輩はふっと優しく笑う。

「確かにそうだな」

けれど、すぐに先輩はいつもの表情に戻った。

「それとこれとは別だ」

そうきっぱりと言い切られたところで、襖の向こうから控えめな声がした。

「お夕食の準備が整いました」

春日先輩は少し黙ってから、「ここに運べ」と返す。机の上に並べられた食事は二人分だけだった。
秋さんの分がないことに、そこでようやく気づく。

「秋さんは?」
「気にするな、外で勝手に食ってる」

そう言って、春日先輩は手を合わせて「いただきます」と続ける。
それを見た俺も、慌てて手を合わせて同じ言葉を繰り返した。
机に並べられた料理は、見た目こそ派手じゃないのに、ひと口食べた瞬間に驚いた。
さっきの和菓子は緊張のせいで、上品な味だということしかわからなかったのに、今は違う。
口に入れた瞬間に味が広がるというか、言葉で言い表せないくらいの衝撃だった。

「美味しい」

思わずこぼれた言葉に、春日先輩が一度箸を止める。

「よかったな」

ぶっきらぼうな一言なのに、変に照れくさくて、まともに先輩の顔が見れなかった。

「気に入ったのなら、たまに食っていけばいい」

その言葉に驚いて、顔の熱さが一気に引く。
どういうつもりなのか知りたくて視線を向けたが、先輩はちょうど味噌汁を飲んでいて、表情は湯気の向こうに隠れていた。
けれど、湯呑みを持つ指先だけが、少し落ち着かなさそうに動いていた。

それ以上は何も聞けないまま、俺たちは黙々と夕食を食べ進めた。
不思議と気まずさはなく、静かな時間だけがゆっくり流れていく。
やがて食事を終え、二人で手を合わせた。

「荷物を持ってついてこい」

そう言って立ち上がった先輩は、襖を開けて廊下に出る。
言われた通り、荷物を肩に通して近づけば、先輩はようやく歩き出した。
少し歩いた先で、先輩はまた別の襖を開ける。そこには、こたつと座椅子だけが置かれていた。

「風呂の後はここを使え。寝巻きとかは気にするな」

俺が荷物を置いたことを確認すると、先輩はまた「風呂はこっちだ」と歩き出す。
外から見ても大きな家だとは思っていたけれど、同じような襖が並ぶ廊下を歩いていると、改めてその広さを思い知らされた。
迷子になるかもしれない、なんて不安がよぎる。

お風呂の暖簾がかかった場所で、先輩が俺の手を不意に取った。
懐からペンを取り出して、手のひらにさらさらと何かを書いていく。
それは、風呂場から客室までの道と、先輩の部屋を示す簡単な地図だった。

「安心しろ、油性だ」
「なかなか落ちないやつじゃないですか」

俺の返事に、先輩は悪戯が成功した子どもみたいににやりと笑った。
それから「ごゆっくり」と言い残して、背中を向けた。
俺は手のひらに残った地図をじっと見つめて、こそばゆい気持ちを抱えたまま暖簾をくぐった。

その先に広がっていたのは、想像していたよりもずっと広い脱衣所だった。
端には洗面所が二つ並び、ドライヤーも同じ数置いてある。浴室の扉は閉まっているのに、木の香りがかすかに漏れていた。
いつもはしないのに、脱いだ制服を丁寧に畳んで、棚にある籠に入れる。浴室に続く扉を開けると、湯気が顔を覆った。

落ち着かない気持ちのまま体と髪を素早く洗い、湯船にも少しだけ浸かる。
せっかくの立派なお風呂なのに、長くくつろぐ余裕がなくて、結局すぐにあがってしまった。
脱衣所に戻って用意されていた着替えに手を伸ばし、そこで固まる。
下着まできっちり揃えられていたからだ。
ありがたいはずなのに、そこまで世話を焼かれているみたいで妙に恥ずかしい。

制服を持って、再び暖簾をくぐる。
先輩が書いた地図を見て、客室まで無事に帰ることができ、ホッとした。
少し先にある先輩の部屋を横目で見ると、スリッパが二つ並んでいる。
秋さんが帰ってきたんだろうか。
客室が用意された今、先輩の部屋に入る理由はなくて、俺はそのまま客室の襖を開けた。

置いてあった机と座椅子の代わりに、布団が綺麗に並べられていた。
まるで旅館みたいだと思って、少しだけテンションが上がった。

そのまま布団に飛び込みたくなる気持ちをどうにか抑えて、今日の復習でもするかと、布団のそばに鞄を置き直す。
そして、鞄の中から教科書とノートを取り出した。

布団の上でうつ伏せに寝転び、広げた教科書とノートを読みながら頭の中に詰め込んでいく。
読んでもわからなかった部分は、先輩に教えてもらおう。
そんなことを考えながら進めているうちに、だんだん眠くなってきた。

スマートフォンで時刻を確認すると、そろそろ寝る時間だ。教科書とノートを鞄に戻していると、通知音が鳴る。手に取ると、春日先輩からのメッセージが表示されていた。

『歯磨きはここ』

そのメッセージを開くと、手のひらに書かれたのと同じ地図の写真が添付されていた。
違うのは、お手洗いと洗面所の位置が書き足されていることだけだ。
ちょうど寝る準備をしようとしていたところだ。タイミングが良すぎて、どこかからこちらを見ていたんじゃないかと疑いたくなる。

でも正直助かった。
春日先輩に聞くために部屋を訪ねるのも勇気がいるし、彷徨って使用人の人に気を遣われたくなかった。

春日先輩の地図通りに進んで寝る準備を済ませ、客室へ戻る。
電気を消して布団に潜り込み、毛布を体に引き寄せて目を閉じると、睡魔がゆっくりと押し寄せてきた。
その足音は、俺のいる部屋の前でぴたりと止まった。

あ、いる。

ごろりと寝返りを打って、薄く目を開く。
視界の端に入ったのは、骨に少しだけ肉がついた足だった。
枕元のすぐそばに、それが立っている。顔は見えないのに、じっと見下ろされていることだけがわかった。

ぶわりと鳥肌が立つ。
助けを求めたくても、今よりひどい状況になるかもしれないと思うと声が出せない。
ずんと体が重くなったような気がした。

襖が開く音がする。

「そいつは家の者じゃない」

聞き慣れた声が、客室に落ちた。
ぱちりと明かりがついて、慌てて体を起こす。
そこには寝巻き姿の春日先輩が立っていた。

「古い家だ。過去の恨みが残ることもある」

先輩はそう言って部屋に入ると、さっき足があった場所に腰を下ろした。

「お前が寝るまでここにいてやる」

先輩は眠そうに目を細めていた。
それでも、部屋を出ていく気配はなかった。

「…怖かったなら、呼べ」

ぼそりと落ちた声は、怒っているというより、少し拗ねているみたいだった。

まだ胸の鼓動は速かったけれど、春日先輩を見つめているうちに少しずつ落ち着いてくる。
もう一度布団に横になって天井を見上げた。さっきまであれに見下ろされていたのかと思うとぞっとして、すぐに寝返りを打つ。
先輩は黙ったままそこにいた。その沈黙が逆にありがたくて、だから今なら聞ける気がした。

「春日先輩の親戚で、見える人はどれくらいいますか」
「…昔は見える奴の方が多かったらしい」

少し間を置いてから、春日先輩が答える。俺は口を挟まず、その続きを待った。

「だが、今はほとんどいない。奪い合いだ」

奪い合い、という言葉にぞくりとする。

「正式な依頼を受ければ、書面にお前の名前が残る。そうしたら、目をつけられる」

唾をひとつ飲み込み、毛布を掴む手に力が入る。

「…だから、手遅れになるって言ったんですね
「ああ。そうなれば、お前はこの先ずっと、見える人間として扱われる」

春日先輩に相談した、あの日のことを思い出す。
見えないようにできないかと、そう頼んだことを。先輩はあの時から、ずっとどこかで気にしていたんだろうか。

「先輩が一緒なら、いいですよ」

気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
言ってから、自分でも少し驚く。
危ない場所に行きたいわけじゃない。
ただ、春日先輩と一緒なら、それでもいいと思ってしまった。

春日先輩は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
それから困ったように、少しだけ優しい顔で笑う。
伸びてきた手が、額の前で一度止まった。
撫でるつもりだったのか、叩くつもりだったのかはわからない。
次の瞬間、額に小さな痛みが走った。

「馬鹿言ってないで寝ろ」

その言葉と同時に、額に小さな痛みが走った。どうやらデコピンされたらしい。

「今ので目が覚めました」

そう言うと、今度はさっきより少し強めにもう一度弾かれる。
文句を言う気力もなく、そのまま天井を見上げた。
眠気が戻るのを待っているうちに、ふと風呂から戻った時に並んでいたスリッパのことを思い出す。
けれど、その違和感を掘り返すよりも先に、再び押し寄せてきた眠気に意識が沈んでいった。そのあと、目を開けることはできなかった。



目を開けると、いつもと違う天井が広がっていた。
そこで、春日先輩の家に泊まったことを思い出す。
寝る環境が変わると寝付けないとか、疲れが取れないとかよく聞くけれど、不思議なくらい頭はすっきりしていた。
これが金の力か、なんてふざけたことを考えられるくらいには元気だ。

「冬真、開けるぞ」

襖の向こうから先輩の声が聞こえ、返事をする間もなく襖が開いた。
そこに立っていたのは、制服に身を包んだ春日先輩だった。
朝が苦手な先輩が迎えに来るなんて思っていなくて、少し驚く。

よく見ると、先輩の目の下には薄く隈が残っていた。
昨夜の自分の言葉を思い出して、少しだけ気まずくなる。
俺の自意識過剰かもしれない。

「朝弱いのに、珍しいですね」
「誰かさんのせいでな」

そう言った先輩は、俺と目が合う前に顔を逸らした。
ぶっきらぼうな言い方だったけれど、昨日みたいに本気で怒っているわけじゃないのはわかった。

「すみません、すぐ支度します」

すぐに謝ると、先輩は何も言わずに襖を閉めた。布団を畳んで急いで制服に着替える。襖の向こうから、「朝食も俺の部屋だ」とだけ聞こえた。先に自室へ戻ったらしい。着替えを終えると、俺もすぐに先輩の後を追った。

「入ります」

一言声をかけてから、先輩の部屋の襖を開ける。春日先輩の他に秋さんの姿もあって、昨夜、お風呂から戻った時に見た二つ並んだスリッパを思い出した。

「もしかして、一緒に一晩過ごしましたか?」

不意にこぼれた疑問に、秋さんが一瞬きょとんとしたあと、吹き出した。どうやらツボに入ったらしく、肩を揺らしてしばらく笑い続ける。

「ちゃんと客室に戻って寝たよ」
「物を置いて帰るせいで、客室として使えなくなってるけどな」

春日先輩が味噌汁に口をつけたまま、呆れたように補足した。
すでに並べられていた朝食に先輩が手をつけ始めるのを見て、食事の場で話すことじゃなかったと今さら反省する。慌てて二人に謝って席に着くと、秋さんは「面白かったからいいよ」と笑って許してくれた。

「どうしてそんな考えになっちゃったの?」
「お風呂から戻った時に、先輩の部屋にスリッパが二つあったので」
「ああ、あの時は依頼について詳しい話をちょっとね」

秋さんは焼き魚をほぐしながら軽く答える。
それから、思い出したように顔を上げた。

「それで、俺のこと手伝ってくれる気になった?」

その問いに、思わず春日先輩へ視線を向ける。先輩は何も言わずに朝食を噛んでいた。しばらくして飲み込むと、箸を置く。

「手伝ってやってもいい」

予想外だったのか、秋さんの目が丸くなる。

「小夜さーん、どういう心境の変化?」
「ただし、条件がある」

春日先輩の低い声に、秋さんも少しだけ表情を引き締めた。

「逃げた奴の名前を借りる」
「へぇ」
「そいつの身分証を用意しろ。冬真の見た目もそいつに寄せて、名乗らせる」

秋さんは数秒だけ考えるように黙り、それから肩を竦めた。

「いいよ、どうにかしよう」
「冬真、どうしたい」

問われて、今度は春日先輩をまっすぐ見る。

「俺は春日先輩の助手ですよ。答えは決まってます」

そうして、相談所は初めて外の依頼を引き受けることにした。幸い、冬休みはもうすぐだった。数日学校を空けても、不自然にはならない。

「それにしてもさ、小夜、過保護すぎやしない?」

秋さんが面白がるように笑う。

「随分、冬真くんのこと大事にしてるじゃん」

春日先輩は嫌そうに眉を寄せた。

「誰でもいいわけじゃないだけだ」

その言葉に、顔が熱くなる。
秋さんがへえ、と意味ありげに目を細めたのが見えて、たまらず視線を落とした。

「誰でもいいわけじゃない、ね」

秋さんが妙に楽しそうに繰り返す。
春日先輩は箸を持つ手を止めて、露骨に顔をしかめた。

「そういう意味じゃない」
「俺、何も言ってないけど?」

秋さんはにやにやしたまま湯呑みに手を伸ばす。
俺は何も聞こえなかったふりをして、味噌汁に視線を落とした。
けれど、耳に残った言葉はなかなか消えてくれない。

「たまに冬真くんに手伝ってもらおうと思ったけど、やめとくわ。さすがに小夜を敵に回したくないし」

そう言って秋さんは手を合わせて、「ごちそうさま」と軽い調子で言う。

「じゃ、早速準備に取りかかるわ」

立ち上がった秋さんが、ひらひらと手を振って、春日先輩の部屋を出ていった。
秋さんが去った後も、「誰でもいいわけじゃない」という言葉だけが妙に頭に残っていた。何を言えばいいかわからず、ただ食事を進めていると、春日先輩がぽつりと言う。

「…あいつの言うことは気にするな」

とりあえず頷いて、頭から追い払おうとしたが、なかなか難しい。

「…気が楽なんだ、お前といると」

人の目を見てはっきりと言う春日先輩が、今は目を逸らしたままだった。
たどたどしい声だった。
それでも、冗談でも気まぐれでもないことだけはわかった。
その姿が少しだけ可愛く見えてしまって、胸の奥がむず痒くなる。

何か言わなきゃと思ったのに、先に動いたのは春日先輩の方だった。
言った本人の方が、その言葉に耐えられなくなったみたいに、先輩は勢いよく立ち上がる。

「先に学校へ行く」

そう言って、食器を片づける暇もないみたいに立ち上がる。

「え」
「お前はゆっくり来い」

襖が閉まる音に、ようやく我に返った。俺も慌てて鞄を掴み、追いかけるように部屋を飛び出す。
どうにか門の手前で追いつくと、春日先輩は露骨に嫌そうな顔をした。

「追ってくるな」
「置いていかれるかと思いました」

そう返すと、先輩は何か言い返しかけて、結局口を閉じる。そのまま歩き出したので、今度は隣を歩いた。
先輩の足取りは、いつもより少しだけ速い。逃げるみたいだと思ったけれど、それを口にしたら本当に置いていかれそうで、黙ってついていく。
途中ですれ違う生徒たちが、目に見えてざわついた。ひそひそと何かを言い合う声は小さいのに、それでも十分伝わってくる。

放課後は相談所で時間を潰してから帰ることが多い。だから、春日先輩と並んで歩くところを見られる機会はほとんどない。けれど朝は違う。同じ時間に登校する生徒が多い分、視線が集まりやすい。
その中を春日先輩と並んで歩きながら、こんなふうに隣にいることが、そのうち当たり前になればいいのにと思った。



冬休み二日目、いつも春日先輩と別れる場所に、一台の車が止まっていた。俺が近づくと、車の窓が下がって秋さんが顔を覗かせた。

「よぉ、冬真くん」
「こんにちは」

返事をしたのと同時に、後部座席の扉が自動で開く。その先には、春日先輩が座っていた。

「こんにちは、先輩」

俺の挨拶に、先輩は簡単に「ああ」と返す。
車に乗り込むと、春日先輩がいきなり俺の頭に何かを被せた。
視界まで覆われて、慌てて手に取る。
それは、前髪が目にかかるほど長く、襟足もやや伸びた黒髪のウィッグだった。

「なんですか、これ」
「逃げたやつの変装だ。名前は三上(みかみ)浩一(こういち)、覚えておけ」
「三上、恒一」

覚えるために復唱すると、今度は紙袋を渡される。表に印刷されたブランド名は、CMで見たことがあるものだった。中を覗くと、きっちり畳まれた黒いスーツが入っている。

「服はそれを着ろ」

言われた通りに着替えてから、足元を見て気づいた。スーツなのに、靴はスニーカーのままだ。

「靴は気にするな。動きやすさを重視している」

そう言う春日先輩自身も、制服姿にスニーカーを合わせていた。

「わかりました」

小さく頷いてから、ウィッグを被ってみる。
けれど鏡がないせいで、うまく被れているのかよくわからない。
その時、春日先輩がふっと小さく笑った。
すぐに俺の頭へ手を伸ばし、乱れていた髪を直すみたいにウィッグを整えていく。

「…動くな」

低い声で言われて、思わず背筋が伸びる。
先輩はそれを見て、困ったように小さく笑った。

先輩の指は思ったより慎重だった。
ただ変装を整えているだけのはずなのに、前髪を払う手つきが妙に丁寧で、息をするタイミングがわからなくなる。
指先が額や耳のあたりに触れるたび、妙に落ち着かない。

「…よし」

短くそう言って、今度は懐から取り出した眼鏡を俺にかけた。

「これで完成だ」

最後に手鏡を渡される。受け取って今の自分を確認したけれど、正直どう反応するのが正しいのかわからなかった。ただ、少なくとも成功しているらしい、ということだけはわかる。
鏡の奥でしか会えない母親が、笑っているような気がした。
唯一本人を知っている秋さんが、バックミラー越しにこちらを見て「おぉ」と感嘆の声を漏らした。

「そっくりそっくり」

それだけ言うと、また前を向く。

「じゃあ、出発するぞ」

その声と同時に、車が静かに走り出した。
運転しながら、秋さんが今回の依頼について話し始めた。

「今回は村長さんからの依頼で、簡単に言えば神隠しをどうにかしてくれって話だった」
「神隠し」
「そ。さっきまで話してたやつが、忽然と消える。探しても見つからないんだってさ」

信号が黄色に変わり、車がきゅっと音を立てて止まる。赤信号の向こうをぼんやり眺めながら、俺は聞き返した。

「数日後に帰ってくることも、あるんですよね」
「そうみたいだな」

秋さんはハンドルに指をかけたまま、少しだけ肩を竦める。

「けど、その村じゃ帰ってこないらしい」

青に変わるのを待って、車がまた静かに走り出した。

「その神隠しが、この一ヶ月で急に増えた。このままだと村の存続がどうこうって話になっててさ。んで、縁のある春日家に依頼が来たってわけ」

そこで一度言葉を切って、秋さんはバックミラー越しに俺たちを見た。

「ま、最初は断ろうかと思ったんだけど」

わざとらしく間を置く。

「金がよかった」

隣で、春日先輩が深いため息をついた。

「もちろん独り占めしないって。ちゃんと払いますよ、小夜と冬真くんにも」

秋さんが軽い調子でそう続けても、春日先輩は窓の外を見たまま何も返さない。
それだけで、機嫌を損ねたのがはっきりわかった。

「金で決めたのか」

春日先輩が低く言う。

「金で決めたっていうか、金も理由の一つ?」

秋さんは笑って誤魔化すみたいに言ってから、すぐに真面目な声へ戻った。

「でも、放っとくには件数が多すぎる。見えるやつが逃げるくらいには、厄介だ」

その言葉で車の空気が少しだけ引き締まる。春日先輩は腕を組んだまま、短く言った。

「冬真」
「はい」
「一人になるな。必ず僕か秋と一緒に行動しろ」

俺が頷くのを確認して、春日先輩は続けた。

「その場で知り合った人間についていくな、相手が生きてるとも限らない。幽霊が黒幕なら、化けるのは容易い。知ってるだろ」

直人の彼女の声音を真似た幽霊と、生徒会長の顔が、すぐに脳裏をよぎった。俺は小さく息を呑んでから、「はい」と答えた。

「返事だけじゃなくて、徹底しろ」

春日先輩の声は低かった。それが心配から来ているものだと、今の俺にはわかる。秋さんはそんな俺たちのやり取りを聞きながら、片手でハンドルを切る。

「大丈夫大丈夫。今回の冬真くんには、俺らがついてるから」

その軽さを、春日先輩はやっぱり無視した。車だけが、一定の速度で冬の道を進んでいく。先輩を盗み見ようとそっと視線を向けた瞬間、ちょうどこちらを見ていたらしい先輩と目が合った。

「着くのはまだ先だ。今のうち休んでおけ」
緊張であまり眠れていなかったことに、気づいていたんだろうか。その一言で、引いていたはずの睡魔が急に押し寄せてくる。
車の心地よい揺れと相まって、瞼がゆっくり重くなった。

「おやすみ」

耳元のすぐ近くで春日先輩の声が聞こえた気がする。
けれど考える間もなく、意識はそのまま沈んでいった。



目が覚めると、見慣れない景色より先に、肩にかかる重みを感じた。
視線を落とすと、春日先輩が目を閉じたまま俺にもたれかかっている。
しかも俺の方も、無意識のうちに先輩の肩へ寄りかかっていたらしい。
お互い支え合うみたいな格好で眠っていたことに気づいて、心臓が一気に跳ねた。

動けば起こしてしまう。
そう思うと身じろぎできなかった。
けれど本当は、起こしたくないだけじゃなかった。
もう少しだけ、このままでいたいと思ってしまった。

「お、冬真くん起きた?」

不意に聞こえた秋さんの声に、今度は別の意味で飛び上がりそうになる。その勢いで春日先輩まで起こしてしまったんじゃないかと慌てて顔を向けたけれど、先輩は変わらず静かな寝息を立てていた。

「ごめんね、驚かせて」

声を潜めた秋さんに、俺も小さく返す。

「こっちこそ、運転してもらってるのにすみません」
「いいのいいの。手伝ってもらってるんだから、こんなの楽勝〜」

胸が落ち着かないのは、秋さんの声をかけられた余韻が残っているせいだろうか。それとも、あの春日先輩がこうして俺に体を預けたまま眠っているからだろうか。

「ほんとにさ」

秋さんがバックミラー越しにこっちを見る。

「小夜がこんなに人に懐くなんて、秋さんびっくりだよ」
「秋さんと先輩ほどじゃないと思いますけど」

そう返すと、秋さんは小さく笑った。

「ただの腐れ縁だよ」

少しだけ間を置いてから、秋さんは続ける。

「うちの家、変わってるでしょ?だからまあ、よく思ってない同士でつるんでる、みたいなとこあるんだよね」

変わっている部分は正直まだよくわからない。けれど、昔から続く家という印象だけは確かにあった。

「俺はまだ“春日家の親戚”ってだけだからマシだけどさ」

秋さんは軽い口調のまま、少しだけ目を細める。

「当主様の後継は大変だろうね」

そう言ったあとで、はっとしたように笑った。

「おっと、口が軽いって怒られるな。今のは忘れて」

後継ぎという言葉を頭の中で反芻しながら、俺を支えにして眠る先輩をちらりと見る。先輩から兄弟がいるなんて話は聞いたことがない。ということは、将来この人が家を継ぐんだろうか。
先輩が家を継ぐ姿はうまく想像できないけれど、そうなれば今みたいな関係ではいられなくなる気がして、少し寂しかった。

「そろそろ着く。小夜を起こしてあげて」

秋さんの言葉に頷いて、春日先輩の肩をそっと揺らす。
春日先輩は「ん」と小さく声を漏らして、ゆっくり目を開けた。
寝ぼけた様子で何度か瞬きを繰り返す。

そのまま俺にもたれた姿勢で、春日先輩は一瞬だけ動きを止めた。
俺の肩に触れている自分の額と、俺の顔を順番に見た。

「…悪い」

小さくそう言って、春日先輩はようやく身を起こす。
離れた肩のあたりが、少しだけ寒く感じた。

目を覚ますところを見るのは、これで二度目だ。
あの時はまだ、お互いのことをよく知らなかった。
けれど今は、寝ぼけた顔を見て可愛いなんて思ってしまう。
そう思った自分に、少しだけ困った。

先輩の顔立ちが整っているから、そう見えるだけかもしれない。
そんな言い訳をしているうちに、自然と背筋が伸びていた。
その様子をバックミラー越しに見ていたらしい秋さんが笑う。

「三上恒一は猫背気味だから、そんなにしゃきっとしなくていいよ」

慌てて元の姿勢に戻したところで、春日先輩が俺を見た。

「三上恒一」

慣れない呼び名に一瞬遅れて「はい」と返すと、春日先輩は小さく口元を緩めた。

「お互い気をつけないとな」

その優しい笑みに、俺は何度も頷いた。そうしているうちに、車は大きな屋敷の前で静かに止まる。

「お二人さん、降りてくださーい」

秋さんの言葉に、慌ててシートベルトを外して車を降りる。その横で、春日先輩はいつも通り落ち着いた動作で車を降りた。続いて秋さんも外に出て、車に鍵をかける。
周囲を見回すと、似たような車がずらりと並んでいた。

「並ぶと壮観だな〜」

なんて秋さんはいつも通りの調子だったが、春日先輩は眉間に皺を寄せている。

「お待ちしておりました」

俺たちの前に現れたメイドが一礼した。

日野(ひの)(しゅう)さま、春日小夜さま、三上恒一さまでいらっしゃいますね。皆さまお待ちでございます」

一人ずつ顔を確認するように名前を並べると、そのまま背を向けて歩き出す。
秋さんが先頭で後を追い、春日先輩が続く。俺も遅れないようにその後ろについた。

洋館だからなのか、靴を脱ぐ習慣はないらしい。そのまま家の中へ通される。
奥へ奥へと進み、メイドが「どうぞ」と扉を開けた。
秋さんが「どうも」と軽く言って部屋へ入り、その後に春日先輩と俺が続く。

そこは広間だった。長いテーブルを囲うように大勢の人が座っている。
そして、一番前に座っていた人が「小夜様だ」と声を上げたことで、静かだった空間が一気にざわめいた。

「どうして小夜様が?」「まだ未成年のはずだろ?」「また秋か」「まだ懲りずに小夜様に取り入っているのか」

そんな声が、俺たちが席につくまで絶え間なく飛び交っていた。

春日先輩が、ほんの少しだけ俺の前に出た。
俺を隠すほどではない。
けれど、その背中が視界に入っただけで、少し息がしやすくなった。

その背中越しに、向けられる視線を見る。
好奇心とも、敬意とも、値踏みともつかない目だった。

ああ、と胸のどこかがすっと冷めた。
春日先輩が嫌がっていたのは、きっとこれだ。

その数分後、いかにも屋敷の主人といった風貌の男が、数人の使用人を連れて入ってきた。空席だった椅子が引かれ、その場所へ男が腰を下ろす。こほんと咳払いをひとつして、まずは集まってくれたことへの礼を述べた。

「改めて、依頼の詳細をお話ししましょう」

主人はそう言って、手元の紙に目を落とす。

「この村では、およそ百年前から神隠しが起きております。最初に消えたのは、年老いた女でした。その次は、成人した若い女。記録に残っているだけでも、その後に何人もの女が姿を消しています」

主人は一度言葉を切り、ゆっくり息を吐いた。

「ただ、百年という長い時間の中で、起きるのは何年かに一度でした。このような田舎です。村を嫌って都会へ出たのだろう、あるいは駆け落ちでもしたのだろうと、そう考えられてきたのです。実際、深く探そうとする者は多くありませんでした」

長机のあちこちで、小さく頷く者がいる。その空気からして、たぶんこの人たちにとっては昔からそういう理解だったのだろう。

「けれど、この一ヶ月で状況が変わりました。今までは女ばかりだったものが、最近は男女問わず消えているのです。しかも立て続けに、何人も」

ざわ、と部屋の空気が揺れた。
主人はそのざわめきが収まるのを待ってから、さらに続ける。

「これまでのように、黙って見過ごせる数ではありません。このままでは村そのものが立ち行かなくなる。そう考え、縁のある春日家へ助力を願った次第です」

秋さんは珍しく口を挟まなかった。というより、挟める空気じゃない。主人が話すたび、周囲の人間がその一言一句に耳を澄ましていて、少しでも異を唱えればすぐに騒ぎになりそうだった。

「好きに調べていただいて構いません」

主人はそこで一度言葉を切り、机の上で指を組み直した。

「ただ、部屋は一人ずつのご用意が叶わず、グループでの宿泊となってしまいました。申し訳ございませんが、ご了承いただきたく存じます」

それから視線をゆっくりと室内へ巡らせる。

「村の者には、調査のために皆さまが滞在していることを伝えております。質問があれば協力するように申しつけてあります」

最後に控えていたメイドたちへ目を向けて、主人は小さく頷いた。

「どうぞ、よろしくお願いいたします」

そう言って主人は深く頭を下げた。そのあと、傍らに控えていたメイドたちへ何事か指示を出す。メイドたちは一礼すると、それぞれ席についていた人達のもとへ向かい、順番に部屋へ案内し始めた。

メイドに案内されて出ていく人たちは、みな春日先輩へちらりと視線を向けてから部屋を後にした。挨拶をしたいのか、取り入りたいのかはわからない。
ただ、どれも気持ちのいい視線ではなかった。

最後に案内されたのは俺たちだった。
「お待たせしました」と一礼するメイドに促され、立ち上がる。
「こちらです」と歩き出した後を、春日先輩と一緒に追った。
主人は広間を出ていく俺たちにも、他の面々と同じように頭を下げた。
広間を出てすぐの階段の前で、メイドが一度こちらを振り返る。

「皆さまのお部屋は二階でございます。段差にお気をつけくださいませ」

そう言ってまた前を向き、静かな足取りで階段を上がっていった。
先輩の家も十分すごかったけれど、この屋敷も負けていない。
そんなことを思いながら後をついていく。

案内された部屋は、階段のすぐ近くだった。
入ってすぐの場所にはソファとローテーブルが置かれていて、その奥が寝室になっている。
ベッドが三つきれいに並んでいた。

それだけでも十分広いのに、トイレと浴室、それから洗面台まで別に用意されている。どれも驚くほどゆったりしていた。

落ち着かない。
真っ先にそんな気持ちが浮かんだ。早く終わらせて帰るべきだ。
じゃないと、これが当たり前のものとして自分に染みついてしまう気がした。
そんな俺とは対照的に、春日先輩と秋さんはソファでゆったりくつろいでいる。

「いやあ、家の奴ら、相変わらずだったなぁ」

さっきまでの嫌な空気を振り払うみたいに、秋さんがいつもと変わらない調子で言った。
その言葉に、春日先輩は何も返さない。けれど返事をしないこと自体が、十分な答えみたいだった。

「冬真くんもびっくりしたでしょ」
「そうですね、秋さんが嫌われ者で」
「大学ではキャーキャー言われてるんですけどねぇ、これでも」

軽口の応酬に、春日先輩の表情が少しだけ和らぐ。
そして、ぱん、と乾いた音が部屋に響いた。秋さんが両手を打ち合わせた音らしい。

「こんな依頼、さっさと終わらせて帰ろうか」

秋さんの言葉に、先輩は小さく頷き、俺も「はい」と答える。
その返事に満足したように秋さんも頷いて、「洋館って落ち着かないしね」と付け加えた。



秋さんが紙を片手に「おまたせ〜」と部屋へ戻ってきた。
「まずは情報整理」と春日先輩が言ったので、代わりに資料を取りに行ってくれていたのだ。けれど、秋さんは紙を見せるより先に、げんなりした顔で言った。

「小夜は出ない方がいい」

首を傾げる俺に、秋さんはわざと低い声を作って、さっきのやり取りを再現し始めた。

『小夜様に、私を紹介してくれんか。小さい頃のお前にいろいろ教えてやったのは誰だと思っている?』
「小夜は今疲れてるんで、また元気な時に!」

いつもの軽い調子の秋さんが割って入る。

『お前がそんな態度だから疲れるんだ』
「それはあるかもしれませんね〜。うるさいってよく言われるんで」
『ほら見たことか!そもそも小夜様の隣にいるべきなのは、お前のような男ではなく、私の娘のような—』

そこで秋さんは再現をやめて、心底うんざりした顔をした。

「くだらない」

春日先輩が短く吐き捨てる。
それから、なぜか一瞬だけ俺を見た。
目が合う前に、すぐ逸らされる。

秋さんはそんな先輩を見て、わざとらしく肩を竦めた。

「まあ、要するに、鬱陶しいなって話」

そのまま春日先輩の方へ身を乗り出す。

「小夜は俺といて楽しいから、こうして一緒にいてくれるもんな!」

泣きつくみたいに腕を伸ばした秋さんを、春日先輩はほんの少し体をずらすだけで避けた。

「冬真くん、小夜が冷たい!」

見慣れてきたやり取りだ。どう反応するのが正解かわからなくて、俺は苦笑いを返すことしかできなかった。
変装用にかけている眼鏡を外して、先輩に差し出す。

「つけてみます?」

少しだけ迷う素振りを見せたあと、先輩は眼鏡を受け取ってそのままかけた。瓶底眼鏡のせいで、いつもより目がずっと小さく見える。
それなのに、不思議と地味にはならなかった。品のある立ち居振る舞いのせいだろうか。自然と目が行ってしまう。

「まあ、物は試しってことで」

秋さんがそう言って、結局三人で調査に出ることになった。
ただ、さっき広間で春日先輩の制服姿を見られてしまっている。
そのまま外を歩けば余計な目を引くと判断したのか、先輩は持ってきていた私服に着替えた。
秋さん自身もサングラスとマスクをつけて、どう見ても怪しい格好に変わる。

資料を読み込むのは後回しにして、まずは男女関係なく神隠しに遭った人たちの共通点を探すことにした。
屋敷の外へ出て、村へと続く道を三人で歩く。

村は、一日あればどうにか一周できそうな広さだった。
あちこちで、村人たちが薪運びや納屋の片づけ、道具の手入れに追われている。
村長からは協力するよう話が通っていると言っていた。
けれど、相手の時間を奪うことに変わりはない。
だから俺たちは、村の作業を手伝いながら話を聞くことにした。

「時間はかかるけどさ」

薪の束を抱え直しながら、秋さんが言う。

「こういうのは、信頼関係作ってから聞いた方が、結局いろいろ引き出せるんだよね」

そんな風に、半日かけて何人もの話を聞いた。
その結果、共通するものがひとつ見えてくる。
子どもの頃、何もない場所を指さしていたこと。
大人になるにつれてそれはなくなったらしい。
けれど、何もないはずの場所を見て、急に驚いたり怯えたりすることがあったという。

「見えてた」

ぽつりと呟く。当事者だからわかった。きっと、その人たちには幽霊が見えていたのだ。
だから狙われた。
榊原先輩のことが頭をよぎる。
あの人は、俺の目を奪おうとしていた。今回も同じなんじゃないか。
そう思いかけて、すぐに引っかかった。
この一ヶ月より前に神隠しに遭ったのは、記録上ではすべて女性だ。
目を狙っているのは、たぶん間違っていない。
でも、それより前には別の条件があったはずだ。

男性と女性のわかりやすい違いは、身体の作りにある。
最初に消えたのは歳を重ねた女性。
けれどそれ以降の長いあいだ、神隠しに遭っているのは成人した若い女性ばかりだった。
目以外にも、女性であることに意味があった。
そう考えた方が自然だった。

「そろそろ日が落ちる」

春日先輩の言葉でハッと現実に引き戻される。


「もし見えてる奴を狙ってるなら、一番危ないのは依頼で来てる奴らだ」

そう言って、春日先輩は秋さんと目を合わせた。

「秋、一人にしないことを徹底するよう、来ている奴らに伝えろ」

秋さんは「了解」と言って、先に屋敷へ帰っていった。
俺は足がすくんで動けなかった。
なすすべないまま、目を奪われる恐怖を味わったからこそ、また襲われるかもしれないと思うだけで怖い。
不意に手を取られると、いつのまにか出していたペンで、春日先輩が掌に何かを書きつけた。
それは広間から案内された部屋までの道のりと、屋敷の玄関が描かれた簡単な地図だった。

「これで迷子にならない」

神隠しに遭った時、こんなものが役に立つとは思えない。
それでも、何も持たされないよりずっとよかった。
先輩なりの備えなのだと思うと、少しだけ気持ちが楽になる。

「帰るぞ」

そのまま手を引かれて、先輩と一緒に歩き出す。
もう足は動くはずなのに、先輩の手を離せなかった。
寒い冬の中で触れるその手はひんやりと冷たい。
嫌でもおかしくないのに、今はそれが心地よかった。

屋敷に着くと、玄関には何人かが集まっていた。
じろりと向けられる視線に、春日先輩を探しているのだとすぐにわかる。
けれど、広間では秋さんと春日先輩の印象の方が強く、俺の顔まではろくに覚えられていなかったらしい。
おまけに、先輩も眼鏡のせいでいつもと雰囲気が違う。
そのせいか、誰からも声はかけられなかった。

思わず春日先輩と顔を見合わせる。
俺は吹き出しそうになるのを必死で堪え、先輩はほんの少しだけ口元を緩めた。
そのまま何でもない顔を装って、与えられた部屋へ向かう。

秋さんは先に部屋へ着いていて、「おかえり」と手をひらひら振った。
笑いを堪えきれていない俺の顔を見て、秋さんもつられたようににやりとする。

「なあに、お二人さん。面白いことでもあった?」

知りたがる秋さんに玄関での出来事を話すと、秋さんは腹を抱えて笑い出した。
ひとしきり笑ったあと、やれやれと肩を竦める。

「あいつら、小夜を“綺麗な人”として見てるからさ。あの眼鏡かけた姿と結びつかなかったんじゃない?」
「明日には僕のことなんて忘れて、真面目に働いてるだろう」
「そうだといいんだけどねえ」

その時、こんこんと控えめなノックが聞こえた。
扉の向こうから、夕食はどうするかと尋ねる声がする。
広間に集まって食べることも、部屋で食べることもできるらしい。

「部屋で」

春日先輩が即答した。

それから少し時間を置いて、部屋に料理が運ばれた。
洋館だからだろうか、テーブルに並べられたのは洋食だった。
フォークやナイフが何本も並んでいて、どれを使えばいいのかわからず固まっていると、先輩が小声で順番を教えてくれる。
おかげで、どうにか無事に食べ進めることができた。

「そういや、ちゃんと言っといたぞ。
見える人を狙ってるかもしれないから、一人にしないようにって」

秋さんがそう報告した時、その顔はどこか憔悴して見えた。

「お前の言うことは聞かない。好きに動く、だってさ」

うんざりした声で言ってから、秋さんは大きく息を吐く。

「こんなんだから、見えるやつが嫌気さすんだって」
「お前も逃げられたしな」

春日先輩の一言に、秋さんは「うっ」と小さく呻いた。

「弱音も吐かずに“大丈夫です”って言うから信じちゃったんだよ」

ぶつぶつと弁明しながら、両手の人差し指をくっつける。

「冬真くんは逃げたくならない?」

不意に話を振られて、少しだけ考える。

「俺の場合、逃げた方が余計にひどいことになるっていうか。
幽霊が先輩を怖がってくれるから、前よりは楽なんですよね」

納得したように秋さんが頷く。それを見てから、俺は続けた。

「それと、俺が逃げる時は先輩も一緒です」

秋さんが目を丸くしたあと、すぐに顔を綻ばせる。

「なにそれ、こんないい子どこから拾ってきたの!」
「拾ってない」

春日先輩が即座に返す。
けれど、その声はいつもより少しだけ柔らかかった。

それから三人で、神隠しに遭った女性たちの資料に改めて目を通した。年齢、家族構成、村での立場。並べてみても、はっきりとした共通点は見つからない。
手がかりを掴めないまま、一日目は終わった。



ずる…ずる…
何かを引きずるような音で目が覚めた。
疲れが残っていて体を起こす気にはなれなかったけれど、その音が少しずつ近づいてきていることだけはわかる。
それは、寝ている先輩の顔を覗き込むように動いた。

「違う…」

かすれた声が、すぐ近くで聞こえた。こうして順番に顔を見ているのだとしたら、次は俺だ。そう気づいた瞬間、ぎゅっと目を閉じる。
予想した通り、引きずる音がすぐそばで止まった。何かが、俺の顔を覗き込むみたいに近づいてくる。

「見えている?気のせいか?」

息を止めたまま、眠っているふりを続けた。
やがて気配が離れ、今度は背中側へ回るようにずる…ずる…と音が移っていく。
今度は秋さんを見ているらしい。

「これも違う…」

それから、引きずる音は少しずつ遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった。
すぐに二人を起こして、今起こったことを話そうと思った。
けれど、また戻ってくる可能性だってある。
そう思うと怖くて、じっと朝が来るのを待った。



名前を呼ぶ声で目を覚ます。
どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。
いつもより長く寝てしまっていたようだった。

起こしてくれた先輩をじっと見つめる。
それだけで何かあったと察したのか、先輩は何も言わずにベッドへ腰を下ろした。
その動きにつられるように、俺も身体を起こして隣に座る。

「昨日、何かが部屋に来たんです。俺たちの顔を順番に覗き込んで、“違う”って言って出ていきました」
「他の部屋にも来ているかもしれないな、秋」

歯磨きをしていた秋さんが、くぐもった声で返事をして洗面所から顔を出した。

「それが終わったら、メイドに誰かいなくなってないか確認してもらってくれ」

秋さんは親指を立てて応えると、いったん洗面所へ引っ込む。
それからすぐに戻ってきて、「行ってきまーす」と部屋を出ていった。

「大丈夫か?」
「顔を覗き込まれた時、一瞬匂ったんです。何か、腐ったような匂いが」

思い出しただけで吐き気が込み上げてくる。
それでも、先輩の前で情けない姿を見せたくなくて、どうにか飲み込んだ。

すると、背中に伸びてきた先輩の手が、そっと撫でる。
何度か繰り返されるうちに、さっきまでの吐き気も少しずつ治まっていった。

扉が開く音が聞こえ、秋さんが戻ってきたことを知らせる。
彼の手には、ペットボトルの水があった。差し出されたそれを礼を言って受け取り、喉に流し込む。

「どうだった」
「一人いなくなってた。見える奴だ」

秋さんから聞いた話はこうだ。
同室だった人の話では、その男は夜中に急に叫び出したらしい。
その声で目を覚ました時には、ふらつくように扉へ向かっていて、そのまま部屋を出ていったという。
外の空気でも吸いに行ったのだろうと、寝直すことにした。
そして朝になっても戻ってこなかった。

「危険だ」

春日先輩が短く言う。

「冬真を巻き込んでいい依頼じゃない」

秋さんは何も言わなかった。
先輩の言う通りだと、わかっているのかもしれない。

「…もし、村だけの問題に収まらなかったら」
「何が言いたい」
「村の外の人間にも手を出すかもしれない。そうなった時、どこにいるかなんて関係ないじゃん」

秋さんの言葉に、先輩は舌打ちで返した。
反論したいのに、まだその判断ができるだけの情報が足りない。
そんな音に聞こえた。

「いいよ、逃げても」

秋さんが、わざとらしく肩を竦めながら春日先輩に言う。

「小夜が逃げたら、冬真くんも一緒についてきてくれるんだろ?」

春日先輩は何も答えない。

「でもさ、それで本当にいいの?小夜、腹減ってるだろ」

軽い調子だった秋さんの声が、少しだけ低くなる。

「どうせまた、悪い幽霊しか食わないとか言って我慢してるんでしょ。
いつも“そのうち見つかる”って言うけど、見つからないことの方が多いじゃん」

それでも春日先輩は黙ったままだ。
秋さんはそこで一度だけ俺を見て、それからわざと明るく笑った。

「…あんな小夜見たら、冬真くんもさすがにドン引きすると思うけどな〜」
「黙れ」

低い声だった。
けれど怒鳴るでもなく、否定するでもない。
春日先輩は立ち上がると、そのまま部屋を出ていった。
追いかけようとした俺を、秋さんが止める。

「どうして」
「変装、忘れてるよ」

そんなものはどうでもいいから、今すぐ先輩のそばに行きたかった。
けれど、この変装が先のために必要なのだとわかっているからこそ、無理やり振り切ることもできない。

「ごめんね。空気悪くしちゃって」

秋さんの謝罪に、俺は小さく首を振った。
許すとか許さないとか、そういう話じゃない。
先輩の知らないことがまだあるのだと、思い知らされたのが悔しかった。

「先輩、一人にして大丈夫ですかね」
「大丈夫だと思うよ。今の小夜、すげぇ不機嫌だから、みんな近寄らないし」

そうさせた張本人が何を言ってるんだか、と心の中で呟く。
俺の言いたいことがわかったのか、秋さんは肩を竦めた。

テーブルに置かれていたサンドイッチを食べ終え、変装を整える。
一時間待っても先輩は戻ってこなかったので、秋さんと二人で調査を再開した。

屋敷を出てしばらく歩いても、春日先輩の低い声が耳に残っていた。

「秋さん」

呼ぶと、秋さんはいつもの軽い調子で「なに?」と返す。

「さっきの話、先輩にとってそんなに嫌なことだったんですか」

聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。
けれど、秋さんはすぐには茶化さなかった。

「嫌っていうか、まあ、地雷だよね」

秋さんは少しだけ遠くを見るように目を細めた。

「小夜ってさ、昔はもっとよく喋る子だったんだよ。
今みたいに何でも面倒くさそうにするんじゃなくて、ちゃんと笑うし、怒るし、子どもらしいところもあった」

今の春日先輩からは、すぐには想像できなかった。
でも、菓子を食べた時に少しだけ表情が緩む顔や、寝ぼけた時の無防備な顔を思い出すと、まったく想像できないわけでもなかった。

「でも、あの家の大人たちは小夜を便利に使おうとした。
悪いものかどうかなんて関係なく、自分たちに都合の悪いものまで、小夜に食べさせようとしたんだよ」

食べさせる。
その言葉が、やけに冷たく聞こえた。

「春日先輩は、嫌だって言ったんですか」

「言ったよ。小夜はそういうところ、昔から頑固だから」

秋さんは苦笑する。

「でも、普通の食事をしなきゃ腹が減るのと同じで、小夜も食べなければ苦しくなる。
そうなると大人たちは、ほら、やっぱり食べた方がいいって顔をするんだ」

秋さんの声は、いつもより少しだけ低かった。

「このままだと苦しいだろう。食べた方が楽になるだろう。君のためだよ、って」

君のため。
その言葉が、胸の奥に嫌な形で残った。

「善意みたいな顔をして、結局は自分たちの都合を押しつけてたんだよ」

何も言えなかった。

「小夜がどうして悪霊しか食べないって決めたのか、俺も全部は知らないよ」

秋さんはそう言って、少しだけ目を伏せた。

「でも、あいつにとって食べるっていうのは、ただ腹を満たすことじゃないんだと思う」

悪霊しか食べない。
その理由を、俺はまだ知らない。
たぶん秋さんだって、全部は知らない。

けれど、春日先輩にとって食べるということが、ただ腹を満たすだけの行為ではないことだけはわかった。
嫌なことをしなければ生きていけない。
その事実だけで、胸の奥が重くなった。


「小夜にもさ、信用してた相手がいたことはあるんだよ」

秋さんは続ける。
けれど、その声は明るくなかった。

「でも、幽霊を食べるところを見て、それまでと同じ顔では見られなくなる人の方が多かった。頼っておいて、助けられておいて、いざ見たら怖くなるんだよ。人間って勝手だよね」

その言葉が、嫌な形で胸に刺さった。

俺も、最初はそうだった。
春日先輩が幽霊を食べるところを見て、化け物だと思った。
本当に恐れるべきなのは幽霊じゃなくて、春日先輩の方なのかもしれないと。

そんなふうに思った自分を、今さらなかったことにはできない。

だからこそ、もう同じ目で見たくなかった。
春日先輩が少しでも、自分をそう扱われて当然だと思っているなら、違うと言いたかった。

「だから、小夜は一人で生きるって決めたんだと思う」

秋さんは、軽く笑った。
けれど、いつもの調子には戻りきっていなかった。

「誰にも期待しない。誰もそばに置かない。自分で決めたものだけ食べて、自分で決めた線だけ守って、それで生きていくって」

それは強さのようで、ひどく寂しいことに聞こえた。

「だから俺、ちょっと安心してるんだよね」

秋さんが、そこで俺を見る。

「君がそばにいてくれて」

急にそう言われて、返事に詰まった。

「俺は、別に」

何か言おうとしたのに、うまく続かなかった。
そばにいたいと思っていた。
力になりたいと思っていた。
けれど、今はそれだけじゃ足りない気がした。

春日先輩が、もう一人で生きるしかないと思わなくて済めばいい。
そんなことを、勝手に思ってしまった。

秋さんは俺の顔を見て、少しだけ笑う。

「ま、こんなこと話したって知れたら、また口が悪いって怒られちゃうな」

そう言って、いつもの軽い調子を取り戻すみたいに肩を竦めた。

けれど、俺はすぐには笑えなかった。
さっき聞いた話が、胸の奥に重く残っている。

それでも、今は調査を進めるしかない。
春日先輩が戻ってきた時、何もわからないままではいたくなかった。

村の人たちに、消えた女性たちの共通点に心当たりがないか聞いて回ったが、誰も首を振るばかりだった。
これ以上は情報が出ないと判断して、一度屋敷へ戻ることにする。

村の人たちに、消えた女性たちの共通点に心当たりがないか聞いて回ったが、誰も首を振るばかりだった。
これ以上は情報が出ないと判断して、一度屋敷へ戻ることにする。

並んで歩きながら、昨夜のことを秋さんに共有していると、後ろから「えっ」と驚いたような声がした。
同時に、何かを落とす音も響く。
振り返ると、そこにいたのは、さっき心当たりはないと言っていた女性の一人だった。

「あなたも見たんですか?アレを」

その言い方で、昨夜見たあの幽霊のことだとわかる。

「私、小さい頃から幽霊が見えるんです。だから、いつも見えないふりをしてきました」

女性は震える声で続けた。

「昨日の夜、トイレに行こうとしていた時でした。廊下でアレを見たんです。すぐに、人じゃないってわかりました。目が合う前に、見えていないふりをして通り過ぎたら…“違う”って言って、出ていったんです」

話を聞き終えた秋さんは、懐から白紙の札を取り出して、何かを書き込んで女性へ差し出した。

「話してくれてありがとう。何かあったら、これが君を守ってくれる。肌身離さず持っててね」

女性は素直にそれを受け取り、秋さんと俺の両方に頭を下げる。
落としていた薪を拾って渡すと、もう一度小さく頭を下げてから、自分の家へ戻っていった。

「三上くんが狙われなかった理由、わかったね」
「はい。でも、俺たちに見ないふりってできるんでしょうか」

秋さんが首を傾げる。

「どうして?」
「だって、見ることが仕事だから」

その言葉に、秋さんは納得したように息を吐いた。

「相性最悪ってわけだ」

それから、軽く伸びをする。

「神隠しの理由、突き止めないとね」

そして、また屋敷への道を歩き出した。
部屋に戻ると、ソファに座って資料へ目を通す春日先輩の姿があった。帰ってきてくれたことに、まず胸を撫で下ろす。けれど、どう声をかければいいのかわからない。

一応、秋さんと先輩が揉めた形になっているはずだし、追いかけなかった俺は秋さんの味方をしたと思われていてもおかしくない。
そうして迷っているうちに、秋さんが春日先輩の隣へ腰を下ろした。それから、身体ごと先輩へ向けて頭を下げる。

「ごめん、小夜。大人気なかった」
「本当にな」

謝られても、春日先輩は資料から目を離さない。

「確かに、この依頼は危険だよ」

秋さんは珍しく真面目な声で続けた。

「でも、このまま放っておけるとも思えない」
「なら、他のやつと協力するんだな。それができないなら、僕が声をかけてやる。僕が頼めば、嫌でも動くやつは多い」

秋さんは苦い顔で笑った。

「正直、この件は祓い屋だけじゃ厳しいと思ってる。小夜、君の力がないとたぶん解決できない」

そこで一度言葉を切ってから、俺の方をちらりと見る。

「…それに、冬真くんがいた方が、君は無茶しない」

俺の名前が出た瞬間、先輩の肩がぴくりと揺れた。
先輩は一度だけ俺に視線を寄越して、それから秋さんへ向き直る。

「監視カメラ」

脈絡のない言葉に、秋さんと俺はそろって首を傾げた。

「この屋敷の中にも外にも監視カメラが設置されていた。それを見せてもらっていたんだ。わかったのは、外には出ていないということだけだ」
「まだこの屋敷の中にいる?」
「そうだ」

春日先輩は短く答えて、手にしていた資料をテーブルへ置いた。それから腕を組んで、言葉を続ける。

「ただ、どこで姿を消したかまではわからなかった」
「死角を利用されたってことですか?」

俺の質問に、春日先輩は首を振った。
それから、テーブルに置いた資料を指先で示す。

「監視カメラのない部屋に入った。しかもその部屋は行き止まりだ。窓もないから、外に出ることもできない」

先輩が指し示した資料を、秋さんが手に取って目を通したあと、俺に回してくる。
そこには、廊下の監視カメラに映った“部屋の前に立つ人間”の写真と、入ったとされる部屋の見取り図が載っていた。
部屋にあるのは、暖炉とクローゼットだけ。先輩の言う通り、他の部屋へ続く扉も、外へ出られる窓もなかった。

「だが」

短い一言に、資料から顔を上げる。秋さんも、同じように先輩へ視線を向けていた。

「それは、あくまで写真の上での話だ。自分の目で確かめようとしたら、家の連中に邪魔された」

その時のことを思い出したのか、春日先輩は露骨に嫌そうな顔をして舌打ちした。

「秋さん、不機嫌だから大丈夫だろうって言ってたのに」
「よく考えたらさ、あの程度の変装で小夜に気づかないやつが、機嫌の悪さに気づけるわけないよね」

秋さんが肩を竦めながら言い訳する。
その理屈に「確かに」と頷くと、春日先輩は呆れたようにため息をついてソファから立ち上がった。

「行くぞ」

そうして、春日先輩を先頭にその部屋へ向かった。



問題の部屋は、屋敷の三階にあった。
この屋敷には階段が三つある。両端にひとつずつと、その真ん中にもうひとつ。
件の部屋は、中央の階段と端の階段のちょうど中ほどに位置していた。

部屋に鍵はかかっておらず、簡単に入ることができた。
窓がないせいで中は真っ暗だったが、秋さんがスマートフォンのライトで照らす。
そのおかげで壁のスイッチが見つかり、明かりをつけると部屋の中が一気に照らし出された。
掃除は行き届いているらしく、埃っぽさは感じない。

「思ったより狭いな」

間取りだけではわからなかったが、ベッドが置けるほどの広さはない。
書斎にするならちょうどいい、そんな大きさだった。
秋さんは腰を落として暖炉を覗き込み、脇に立てかけてあった火かき棒で中を探る。
春日先輩は天井を見上げたまま、屋根裏へ続く入り口でもないか探しているようだった。

俺はクローゼットを見ることにする。
扉を開けるが、使われていないらしく中は空っぽだった。
けれど、その奥からかすかにひんやりした空気が流れてくる。
上半身を突っ込んで壁や天井を軽く叩いてみるが、変わったところはない。
なら床かと思い、しゃがみ込んで叩いてみる。


すると、クローゼットの床一面が、他より軽い、空洞を抱えたような音を返した。
床板の継ぎ目に指をかけると、持ち上がった。その下にはどこに繋がっているのかわからない真っ黒な穴が口を開けていた。ベランダにある避難口を思い出す。あれは下の階へ降りられるようになっているから、隙間から多少は光が漏れていてもおかしくない。けれど、これは違った。底も先も見えない。ただ黒い穴だけがそこにある。

「先輩、秋さん」

自分だけでは判断がつかなくて、二人の名前を呼ぶ。
呼んだ声が、自分でも驚くほど震えていた。すぐに異変を察したのか、二人がこちらへ駆け寄ってきた。
秋さんがスマートフォンの明かりで穴の中を照らす。
ハシゴがついていることはわかったが、どこへ続いているのかは相変わらず見えなかった。

「屋敷の人を呼んでくる」

そう言って秋さんは立ち上がり、部屋を出ていく。
さっきまで穴の底を照らしていた光が消えた途端、薄気味悪さがまたじわりと広がった。

「廊下で待とう」

その提案に乗って今すぐここを出たかったのに、足に力が入らない。
ただ怖い。
それだけの恐怖が、身体を内側から固まらせていた。
動けない俺を、先輩の腕が包み込む。
触れた体温と、規則的に刻まれる鼓動が少しずつ呼吸を落ち着かせてくれた。

「動けそうか?」

小さく頷くと、先輩は俺を支えるように立ち上がらせ、そのまま廊下まで連れて行ってくれた。
明るい廊下に出られただけで、気分は少し楽になった。
それでも、このあと俺たちはあの穴を降りるのだと思うと、喉の奥がひやりとする。

「逃げたくなったか」

先輩の意地悪な聞き方に、俺は自然と口元が緩んだ。

「わかってるくせに」

そう答えると、先輩は「そうだな」とだけ答えた。自分の頬を軽く叩く。
怖がるのはいい。けれど、動けないのは駄目だ。
そう反省していたところで、廊下の向こうから足音が近づいてきた。

「連れてきたぞ〜」

秋さんの後ろには、広間で詳細を語ってくれた屋敷の主人と、数人のメイドが続いていた


「この部屋ですか」

そう言って主人は扉の前に立ち、ドアノブへ手をかける。
秋さんが頷くと、主人は少しだけためらってから扉を開け、先に足を踏み入れた。

俺たちもメイドに促されて、部屋へ進む。
その時にはもう、主人はクローゼットの前に立ち、開いた床下をじっと見つめていた。


「こんなものがあるなんて…」

呆然とした声だった。後から入ってきたメイドたちも、驚いたように口元を押さえている。

「心当たりは?」

春日先輩の問いに、主人はゆっくり首を振った。

「この部屋は使い勝手が悪く、長らく使っておりませんでしたので…」
「この部屋の下は?」

その問いに、主人の代わりに一人のメイドが手を挙げた。

「この下にも部屋はございます。ですが、一階も二階も、その位置のお部屋だけ少し狭いとは聞いておりました。壁が厚いのだろうと、皆そう思っておりましたが…」

たしかに、この穴の幅なら下の階では“厚い壁”で済まされてもおかしくない。
実際、不便だとは思われても、隠し通路を疑う者はいなかったのだろう。

「まだ日が落ちるまでは時間がある。降りても問題ないな?」

春日先輩の確認に、主人は頷いた。
依頼でこちらが動いている立場なのに、主人はどこか申し訳なさそうな顔をしている。

「このまま降りるのは危険だな。ケミカルライト、置いてます?」

秋さんがメイドたちへ尋ねると、一人が「すぐに確認いたします」と言って部屋を出ていった。

「では、私が最初に降りましょうか」

そう申し出たのは主人だった。
依頼主としての責任感からだろうか。
思いがけない名乗り出に、秋さんはすぐ首を振る。

「あなたに何かあったら、春日家に叱られるんで」

いつもの軽い調子でそう返すと、主人は戸惑ったように目を瞬かせた。
けれど最後には、「わかりました」と小さく頷いた。

ケミカルライトや照明付きのヘルメット、それから太いロープまで載せた籠を抱えて、メイドが戻ってきた。
それぞれヘルメットを被り、ケミカルライトは秋さんが一本受け取る。
ぽきりと折って穴へ投げ込むと、すぐにかつんと何かに当たる音が響いた。

「床が見える」

そう言って、秋さんは躊躇なく梯子を降りていく。
年季が入っているのか、体重がかかるたびに、ぎい、と重たい音が鳴った。

しばらくして、下の方から反響した声が届く。
言葉は崩れていたが、「まだ下」という部分だけは聞き取れた。
その先は上からでは見えない。足場ごとに穴がずれているらしく、秋さんの姿もすぐに見えなくなった。同じことがもう一度続いて、ようやくずっと下の方から秋さんの声が響いた。

「ここが最下層みたいだ!二人とも降りてきていいぞ!」

その声を合図に、先輩が先に動き出した。

「三上、僕が先に降りる。今見えている足場に着いたら声をかける。そしたら降りてこい」

そう言って、先輩は物怖じする様子もなく梯子を降りていく。
ほどなくして、下から「いいぞ」と声が聞こえた。

深呼吸をひとつしてから、俺も梯子に足をかける。
一歩一歩、軋む音を確かめるみたいに慎重に降りていく。
それを何度か繰り返し、ようやく秋さんがいる最下層まで辿り着いた。

そこは、コンクリートで固められた細い通路だった。
ヘルメットの明かりで照らすと、道はすぐ先でいくつも枝分かれしている。
まるで蟻の巣みたいだった。
ただ、その中で一本だけ、まっすぐ奥へ伸びた通路がある。その先には、屋敷の部屋とよく似た意匠の扉が見えた。

「…いかにもって感じだな」

秋さんが小さく呟く。
近くの分岐を照らしてみたものの、その先にもさらに道が続いているらしかった。
下手に入り込めば、戻れなくなるかもしれない。

「ひとまず、あの扉からだな」

春日先輩の言葉に、俺たちは頷いた。
扉を開けた先は、ヘルメットの明かりだけでは全体が掴めないほど広く感じた。
秋さんが壁を探って、「あった」と小さく呟く。
次の瞬間、ぱちりと照明が灯った。

そこは、屋敷の部屋とよく似た内装だった。
ベッドこそないが、ソファとテーブルが置かれている。
そして壁には、同じ女性の写真だけが隙間なく貼られていた。
どれも古びた写真ばかりで、端が黄ばんだものや、折れ跡のついたものも多い。
その中で一枚だけ、ソファからまっすぐ目に入る位置に額付きで飾られていた。
きちんと着飾った女性が写っている。お見合いの時に撮られたものなのかもしれない。

「これ、ストーカーってやつ?」

秋さんは壁の写真を、一枚ずつ確かめるように見て回る。春
日先輩も同じように目を走らせていたが、そのうちの一枚だけを剥がして、何も言わずにポケットへ押し込んだ。

俺は、壁一面に同じ顔が並んでいる光景がどうにも怖くて、まともに見ることができなかった。
ただ、あの一枚だけが妙に目に残る。
その視線を逸らした先で、テーブルの上に色褪せた手帳が置かれているのに気づいた。

薄く積もった埃を払う。
表紙には題名らしいものは何もない。
一枚めくると、中には日記のような文章が綴られていた。

ぱらぱらと捲っていくうちに、一枚の写真が挟まれたページに行き当たる。
そこに写っていたのは、壁一面に貼られていたのと同じ女性だった。
そのページには、お見合いで出会った女性への恋慕が、熱に浮かされたみたいな筆致で綴られている。

君の笑顔は、花が咲いたように綺麗で、私は恋に落ちてしまった。
君が欲しいもの、叶えたいものがあれば、私ができる限り尽くそう。

それ以降の頁にも、似たような言葉が並んでいた。
今日はどこへ行ったとか、今度は彼女をどこへ連れて行こうかとか。
一見すれば、ただ恋に浮かれた男の日記にしか見えない。
しかし、次のページをめくった瞬間、ぶわりと悪寒が走った。

許さない

そう、一言だけ書かれていた。
さらに次のページには、書き殴ったような文字がびっしりと並んでいる。

駆け落ちしていった
残された手紙に、愛を見つけたと
理想の相手に巡り会ったと
ごめんなさいとあった
君は私の理想だったのに

そこで一度、息を止める。けれど、その次のページには、何事もなかったみたいにまた綺麗な文字の日記が続いていた。
妻ができたこと。
息子や娘が生まれたこと。
これでよかったのだと、自分に言い聞かせるような言葉が並んでいる。
けれど、頁を進めるうちに、その文字もまた乱れ始めた。

君を忘れることが辛い
歳を重ねるごとに顔も声も薄れていく
君を忘れたくない

だから
覚えているうちに
君を残すことにした

そこまで読んだところで、ひとりでこの先を読むのが急に怖くなった。ぞわりと背筋が粟立って、思わず顔を上げる。

「先輩、秋さん」

呼ぶと、二人がすぐにこちらへ来た。

「これ、見てください」

テーブルを囲うように三人で手帳を覗き込む。
春日先輩は何も言わず、秋さんも口を挟まなかった。ただ、俺が捲るページを二人とも黙って追っている。
震える手で、さらに先を捲った。

君がそばにいたなら、今ごろは妻と同じくらいの歳だったろう
妻を殺し、顔をいじった
おかしい
覚えている君は、もっと綺麗だった。

村で一番綺麗な女を殺した。
顔はいいが、身体がよくない。
首から下は全部捨てた。

汚れていない白い手をした女を殺した。
これはぴったりだった。
あのとき手を取った君の手は、きっとこんなふうに綺麗だった。

そんな記述が、この先も延々と続いていた。
めくるたびに、綺麗だ、違う、まだ足りない、という言葉が繰り返される。
そして、最後に近い頁で、文字はもう判別しにくいほど荒れていた。

ようやくだ
もう少しで君に会える

普通の目じゃ意味がない
あの時のように
私を見てはくれない

だから
私を見つける目がいる
私を見つめる目がいる

これも違う
あれも違う
君の目はこんなに濁っていなかった

違う
違う違う
違う違う違う違う

あのときのように
わたしをみつめて
わらってくれ

それが最後のページだった。
しばらくの間、俺たちは誰も口を開けなかった。
あまりにも重く、あまりにも歪んだ執着に、言葉を探すことすらできない。
重苦しい空気を最初に破ったのは、秋さんだった。

「戻ろう」

低い声だった。
もうこれ以上ここで考えるより、いったん上へ戻って整理した方がいい。
そういう響きがあった。
春日先輩は黙ったまま、俺の手の中にあった手帳を取り上げる。
証拠として持っていくつもりなのか、そのまま自分の懐へしまった。
それから、俺を見た。

「大丈夫か」

本当は全然大丈夫じゃなかった。
けれど、ここで立ち止まる方が怖かった。
早くこの部屋から離れたくて、無理やり頷く。

「…大丈夫です」

先輩はそれをすぐには信じなかったみたいだった。
それでも、今はここを出る方を優先したのか、小さく息を吐いて扉の方へ向き直る。
秋さんが先に扉をくぐり、続いて春日先輩が部屋を出る。
俺もその後を追って地下道へ戻った。

行きに見た枝分かれした通路が、今はさっきよりもずっと不気味に見える。
明日は、この蟻の巣みたいな道の先がどこへ繋がっているのか、一つずつ確かめることになるんだろうか。

そう思った、その時だった。

「見たな」

耳元で、掠れた声がした。
後ろにいると伝えようと開いた口を、冷たい手が塞ぐ。
そうして背後から顔を覗き込まれ、そいつは囁いた。

「見つけた、綺麗な目だ」

先輩の背中に手を伸ばす。
けれど、掴む前に視界が黒く潰れた。



かたん、と何かが落ちる音に、(はるひ さよ)は振り返った。
そこにいるはずだった冬真の姿はなく、床にはヘルメットだけが転がっている。

「…冬真?」

名前を呼んだ声だけが地下道に反響する。
返事はなかった。

「冬真!」

今度は先ほどより強く呼ぶ。
それでも、結果は変わらなかった。

「秋!冬真が攫われた!」

即座に状況を共有する。
けれど、伝えたところでどうにもならない。
僕も秋も、幽霊そのものが見えなければ足取りを追うことはできない。

急いで地上に戻り、家の奴らに地下道全てを調べさせるか。
だが、そんなことをしている間に冬真が死ぬかもしれない。

そう思った瞬間、「死ぬ」という言葉が頭から離れなくなった。
冬真と過ごした日々が、脳裏を駆ける。

とても冷静ではいられない。
当たり前になっていた日常を失うかもしれない恐怖で、頭の中がぐちゃぐちゃに掻き回される。
その上、この地下道に淀む匂いが、腹の底にある飢えまで呼び起こしてきた。

「…匂いがする」

思わず、そう零れる。
この地下道には、喉を焼くような匂いが満ちていた。
死んだものの気配が濃すぎる。
それが鼻先を掠めるたび、腹の奥がじわじわと熱を持つ。

「小夜」

秋の声が低くなる。

「今それに引っ張られたらだめだ」

そんなこと、僕が一番わかってる。

「…ああ」

まだ返事ができたことに安心したのか、秋は目に見えて表情を緩める。
冬真を探さなければならない。
失いたくない。
その思いだけを繰り返して、どうにか踏みとどまろうとする。
けれど、その気持ちの上から飢えがじわじわと覆い被さってくる。
気づけば、口の端から涎が垂れていた。

—食べたい。今すぐに。

その衝動が、他の全部を塗りつぶしていった。



どれくらい気を失っていたんだろう。
目が覚めて、真っ先に鼻についたのは臭いだった。
今まで嗅いだことのない臭いが、部屋に満ちている。
甘ったるく腐った臭いと、血のような生臭さが混ざっていて、鼻の奥にべっとりと張りついた。

視線を上げた先、ベッドの上には女の裸体が横たわっていた。
つぎはぎだらけの体。
縫い合わせた跡が肌のあちこちを走っていて、あるはずの目は空洞になっている。

一方で俺は、椅子に座らされたまま動けないように縛られていた。
縄は容赦なく食い込んでいて、少し身じろぎするだけでも痛い。
震えを堪えながら、見える範囲を必死に見渡す。

その時、床に転がる死体の一つに見覚えのある服が目に入った。
監視カメラの写真で見た顔と同じだった。

朝、姿を消したと聞かされた、春日家が雇った人間の一人だ。
そして、その死体には目がなかった。
空洞になった眼窩だけが、こちらを見返すかのように口を開けている。

朝、姿を消したと聞いたばかりの人間が、ここで死んでいる。
その事実に、背筋が冷えた。
誰にも見つけられないまま死ぬことだってあるのだと、嫌でも理解してしまって、息がうまく吸えなくなる。

どうにかしか逃げられないかと、もう一度見える範囲を見渡す。
けれど、視界に映るのは床に転がる死体と、乾いて黒くなった血ばかりだった。
だめだ。
そう思った途端、余計に頭の中が真っ白になる。
手足をばたつかせても、硬く結ばれた縄はびくともしない。

その時、手のひらにかすれて残った地図が目に入った。
こんなものでどうにかなるとは到底思えない。
それでも、先輩が書いてくれたものだと思うだけで、少しだけ気持ちが持ち直した。

「助けて…春日先輩」

ぽつりとこぼした声のあと、ずる…と何かを引きずる音が聞こえた。
それは、夜に部屋へ現れて俺たちの顔を覗き込んできた幽霊だった。
腰の折れた老人が、片足を引き摺りながらゆっくりとこちらへ近づいてくる。

「…ようやく」

先に老人はベッドの女のそばへ近づく。
折れた腰のまま、空洞の目を覗き込み、満足げに頷いた。

「もう少しだ。もう少しで、会える」

それから、ゆっくり俺の方に近づいた。
ぎい、と軋む音を立てて、頭上の古い照明が下りてくる。
歯医者で見たことのあるような、顔だけを照らすための灯りだ。
ぱちりと点いた光が、容赦なく俺の目を射抜く。
眩しさで涙が滲む。
逃げようにも、首すらうまく動かせなかった。

「綺麗な目だ」

ぞっとするほど静かな声だった。
老人はにたりと笑い、今度は首を傾げる。

「私の声が届く耳もあった方がいい」

老人が懐から鋏を取り出す。
刃が擦れる、しゃり、と乾いた音がした。
次の瞬間、耳のすぐ横に冷たい金属が触れる。

ひっと息を呑んだ。
叫びたくても、喉がうまく開かない。
もうだめだと思って、きつく目を閉じる。

直後、何かが叩きつけられるような激しい音がした。
それに続いて、ぐちゃ、ぐちゃ、と湿った音が響く。
幽霊を食べる音。
先輩が助けに来てくれたのだと、すぐにわかった。
けれど、こんなふうに乱暴に、次から次へと食い散らかすような音は聞いたことがなくて、逆に怖かった。

恐る恐る目を開ける。
そこにいたのは、老人を床へ押し倒し、手も使わずに喰らいつく春日先輩だった。
獣みたいに低く唸りながら、肉を引きちぎっては呑み込んでいる。
俺を助けに来てくれたはずなのに、その姿はどう見ても人間じゃなかった。

やがて食事を終えた春日先輩が、ゆらりと立ち上がる。
そのまま、こちらへ近づいてきた。

逃げたかった。
けれど、縄で縛られたままではどうすることもできない。

春日先輩の手が、俺ではなく、その後ろへ伸びていく。
俺を見ているのではない。
俺の背後にいる、何かを見ていた。

背中のすぐ後ろで、空気がわずかに震えた気がした。
振り返ることはできない。
それでも、そこに何かがいるとわかった。

それなのに、その気配は不思議と冷たくなかった。
怖いはずなのに、どこか懐かしい。

春日先輩の視線の先を追うことはできなかった。
ただ、その目が俺を見ていないことだけはわかった。
先輩が次に食べようとしているのは、俺じゃない。
ずっと俺の後ろにいたものだ。

その瞬間、息が止まった。

「…やっぱり」

かすれた声が勝手に漏れる。

「お母さんが、いたんだ」

俺の願望だと思っていた。
鏡でしか会えないお母さん。振り返っても姿は見えない。
でもずっと、そばにいてくれた。

「お母さんが守ってくれてたんだ…」

その事実が胸に落ちた瞬間、不思議と恐怖が少しだけ薄れた。

「先輩」

呼びかけた瞬間、春日先輩の動きがぴたりと止まった。

「俺を助けに来てくれたんですよね」

春日先輩の喉が、ひくりと動いた。

「違う、俺は…」

そこで言葉が途切れる。
春日先輩は逃げるみたいに二、三歩後ずさると、口元を手で覆った。
視線も合わせようとしない。呼吸だけが浅く、乱れていた。
こんなふうに取り乱す春日先輩を、俺は初めて見た。

「小夜!」

遅れて駆け込んできた秋さんが、部屋の惨状を見て顔を強張らせる。
けれど次の瞬間には表情を引き締め、すぐに俺のもとへ駆け寄った。

「歩ける?」

縄を外してくれた秋さんの言葉に頷く。
「ありがとうございます」と、どうにかそれだけ返した。
秋さんは何か言いたげに口を開きかけて、けれど結局閉じた。
視線だけが、俺と春日先輩の間を迷うように揺れている。

「…無事でよかった」

多分、謝るべきか迷っていたんだと思う。
俺はもう一度礼を言ってから、春日先輩の方へ向き直った。
けれど、先輩は俺を見なかった。

「先に戻って、警察を呼ぶよう伝える」

そう言い残して、春日先輩はそのまま部屋を出ていく。
呼び止める隙もないほど、早足だった。



地下へ繋がる部屋に戻ると、主人とメイドたちが顔面蒼白で立ち尽くしていた。
主人の手には、先輩があの部屋から持ち帰った写真が握られていた。
春日先輩はすでに、地下で見たことを伝えていたらしい。
主人はメイドに警察を呼ぶよう指示し、命じられたメイドは一礼して足早に部屋を後にする。

「…もう、神隠しは起こらないと考えてよろしいのですか」
「ああ。もう起こらない」

春日先輩の言葉に、主人は複雑な表情を浮かべた。
解決した安堵と、それ以上の惨劇がこの村で起きていた事実と、そのどちらも受け止めきれないのだろう。

「ひとまず、警察が来るまではお休みください」

その言葉に従って、俺たちはいったん部屋へ戻った。
簡単にシャワーだけを浴びて、ほとんど会話もないまま、それぞれベッドに入る。

眠りに落ちてからどれくらい経ったのか。
起こされたのは、警察が到着したと告げるメイドのノックの音だった。
警察の聴取は、それぞれ別々に行われた。

聴取では当然のように「三上恒一さん」と呼ばれた。
そのたびに心臓がひやりとしたけれど、主人も使用人たちもその名前で通していたからか、警察も特に疑わなかった。
幽霊の仕業だと言ったところで信じてもらえないだろう。
そう思いながらも、見たことは包み隠さず話した。

案の定、警察は「幽霊」という言葉に苦笑いを浮かべるばかりだった。
結局、地下で見つかった死体や手帳の内容から、生きていた頃に行われた連続殺人として話は進んでいくらしい。

聴取がひと通り終わった頃には、外はもうすっかり明るくなっていた。
その日は屋敷を離れないよう念を押され、俺たちは夕方前になってようやく解放された。

ようやく春日先輩と話ができる。

そう思って姿を探し、見つけては声をかける。
けれど、そのたびに先輩は何かしら理由をつけて、その場を離れてしまう。
話す隙すらもらえないまま、そんなことが何度も続いた。

結局帰る日の朝になっても話せないままでいる。
秋さんが「先に車出してくるわ」と言って、荷物を持って部屋を出て行った。
扉が閉まって、ようやく二人きりになる。

今度こそ話せる。
そう思って口を開こうとした、その前に春日先輩が鞄を持って立ち上がった。

「…僕は家の車で帰る」

一瞬、言葉の意味がわからなかった。

「…は?」

春日先輩は俺の反応から目を逸らしたまま、そのまま俺のベッドの前を通り過ぎようとする。
反射的に、手を掴んだ。
逃がしたくなくて強く引いたせいで、気づけば春日先輩をベッドへ押し倒すみたいな形になっていた。

「どうして逃げるんですか」

俺の質問に、先輩は何も言わずただ顔を逸らす。
そんなに俺と目を合わせたくないのかと、顎を掴んで無理矢理こちらを向かせた。

「ちゃんと俺を見てください」

先輩の指先が、シーツの上で小さく強張る。
それから、観念したみたいにゆっくり視線を上げた。

「どういう顔をすればいいかわからなかった」

ぽつりと先輩が話し始める。

「覚えていないんだ。あいつ以外、何を食べたのか」

先輩の声は低いのに、どこか掠れていた。

「それだけじゃない。あいつを食べ終わって満たされていたんだ。…それなのに、まだ食べようとしていた」

先輩の口元が震える。

「…あんな醜い姿、お前に見せたくなかった」

震えた手で先輩は自分の顔を覆った。それを俺は止めない。

「幻滅しただろう」

指の隙間から漏れる声は、ひどく震えていた。

「先輩だと慕っていた相手が、見境のない化け物だったなんて」

一度、先輩の喉が詰まる。それでも無理やり言葉を押し出すみたいに、続けた。

「だから、僕ともう関わるな」

その言葉に、胸の奥がずくりと痛んだ。

「……いつかまた、お前の大切な人を奪おうとするかもしれない」
「離れません」

顔を隠したままの先輩の手に、そっと自分の指を絡める。
びくりと先輩の指先が震えた。

「確かに、怖かったです」

一度は、俺もそう思った。
本当に恐れるべきなのは幽霊じゃなくて、春日先輩の方なのかもしれないと。

「でも、今はそれだけじゃないって知ってます」

絡めた指が離れないように、少しだけ力を込める。

「怖いものから俺を守ってくれたことも、俺が怖がることを否定しなかったことも、先輩が一人で嫌なものを抱えようとしていたことも、知ってます」

喉の奥が熱くなる。
それでも、指だけは離さなかった。

「だから、また化け物みたいになっても、俺が止めます」

そこで一度、視線を落とした。
言うつもりのなかった言葉が喉まで上がってきて、少しだけ唇が迷う。

「…先輩のこと、可愛いって思ってしまうくらいには、放っておけないんで」

春日先輩が目を瞬かせる。
その反応を見た途端、今更になって恥ずかしさが込み上げてきて、思わず視線を逸らす。

「…物好きなやつ」

呆れたような声だった。
けれど、絡めていた指に、そっと力が返ってくる。
逃げるでも、ほどくでもなく、先輩の指が俺の指にゆっくり絡んだ。

その感触に驚いて、逸らした視線を思わず戻した。
先輩は、涙で濡れた目のまま、かすかに笑っていた。
ほっとしたような、泣き出しそうな、今にも崩れてしまいそうな顔だった。
それでも、絡め返された指だけは、離れなかった。

その顔を見て、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
こんな顔をする人を、ひとりにしたくないと思った。
怖いものから守るとか、依頼を手伝うとか、そういうことだけじゃない。

先輩が自分を化け物だと思うたびに、違うと言える距離にいたい。
今は、そう思った。

絡めた指に、そっと力を込める。

「おーい、いつまで待たせるつもりだ」

がちゃりと扉が開く音とともに、秋さんの声が聞こえた。
こちらから扉が開くのが見えるということは、向こうからも当然この状況が見えているわけで。

「…あー、どうぞごゆっくり」

秋さんは気まずそうな顔で、そっと扉を閉める。
俺は慌てて先輩の上から退き、すぐに後を追いかけた。

勘違いだと必死に否定したものの、最初のうちはまるで信じてもらえなかった。
けれど春日先輩が説明すると、秋さんはあっさり納得した。

たぶん、俺の説明を信じたというより、春日先輩の機嫌をこれ以上損ねない方を選んだのだと思う。
その判断の早さが、余計に恥ずかしかった。

そのまま俺たちは、秋さんの運転する車に乗り込んで村を後にした。

「二人とも、手伝ってくれてありがとう」

車を出してしばらくしてから、秋さんがバックミラー越しに俺たちを見た。

「おっかねえよな、人間の執着ってやつは」

ハンドルを握ったまま、秋さんは独り言みたいに続ける。

「防空壕を使って、あんな道まで作ってたんだから」
「あのアリの巣みたいな道、どこにつながってたんですか?」
「村の人たちの家だってさ、あの道を使って攫ってたってわけだ」

俺は変装用のカツラと、眼鏡が入った鞄に詰め込み、息を吐いた。

「日記に書いてあること、本当なんでしょうか」
「さあね、それは警察が調べてくれるでしょ」

少し間があってから、春日先輩が窓の外を見たまま口を開く。

「恋とか、執着とか、そんなことはどうでもいい
あれは最初から最後まで、自分のために人を傷つけた。それだけだ」

それを聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
あの地下で起こっていたことの全部を、綺麗な言葉でまとめなくていいのだと思えた。

そのあと秋さんが、お礼とお疲れ様を兼ねて料亭に連れて行ってやると言ってくれた。
けれど俺はすぐに首を振る。
屋敷で出された料理も十分豪勢だったし、今はもっと普通のものを口にしたかった。

ファミレスでいいと答えると、秋さんは「そんなとこでいいの?」と言いたげな顔をした。
けれど先輩が「行ったことがない」と言うものだから、そっちの方が驚きだった。
先輩の反応を見たいと言って、秋さんはちょうど道沿いにあったファミレスに車を停める。
そうして三人で店に入った。

メニューの値段を見て不思議そうにする春日先輩を、俺たちは揃って笑った。
結局、先輩が頼んだのはデザートばかりだったけれど、たくさん食べられて満足そうだった。
こうして、初めての学校外の依頼は幕を閉じた。