「これ、昨日の分です」
相談料として作っておいたお菓子を先輩に差し出す。
「まいど」
先輩は受け取ると、すぐにラッピングを解いて口に放り込んだ。
最初はコンビニで買ったお菓子や、お父さんが会社でもらってきたものを渡していたのだが、最近は手作りにしている。
前に買いに行った時、買おうとしたお菓子に手を伸ばして、手首しかない幽霊を掴んでしまったことがトラウマになったからだ。
それ以来、買い物は極力避けて、お父さんに材料を買ってもらっている。
春日先輩には潔癖そうなイメージがあったけれど、コンビニで買ったお菓子より食いつきはいいから、あまり気にしていないんだろう。
これまで、お手伝い兼友達として春日先輩と過ごしてわかったことがある。
心霊の相談はほんの一握りで、恋バナだったり進路相談だったりの方が多い。
そして、先輩は断らずに律儀に相談に乗っている。
それなのに学校の噂はちっとも改善されないな、と思う。
今日も誰も来ないまま、相談所を閉めることになるのかもしれない。
そんなことを考えていた、その時だった。
「はーるひっ!」
明るい声が後ろから聞こえる。
聞き慣れた声に、振り返らなくても誰かわかった。
常連と言っていいほど、この相談所に顔を出す女子生徒だ。
「あっ!また来たなって思ったでしょ!お菓子持ってきたから許してよ~!」
軽やかな足音と一緒に、春日先輩の隣へぺたんと座る。
それから鞄の中から有名なチョコレートを取り出して、胡座をかいている先輩の足元へ置いた。
「ねねっ!舞美、お菓子作るのが趣味なんだ~!今度手作り持ってきてあげようか?」
「必要ない」
春日先輩は足元のチョコレートにも目を向けず、あっさり答える。
「も~そんなこと言わないでさ~!結構自信あるんだよ?」
榊原舞美先輩。
春日先輩いわく、俺が来る前から頻繁に相談に来ているらしい。
家族との関係がうまくいっていないみたいで、先輩に助言を求めたり、愚痴を言いに来たりしている。
俺から見ても、彼女が春日先輩に好意を持っているのはわかった。
俺が目の前にいるのに話は振ってこないくせに、何度もこっちを見てくる。
その視線が、品定めみたいで少し居心地が悪かった。
「相談することがないなら僕たちは帰るぞ」
「え~!相談することなくても、この子はいるじゃん」
「僕の手伝いだ」
彼女の問いに先輩は即答した。
その言葉に、胸の奥が少しだけざらつく。
間違ってはいない。けれど、春日先輩の中ではまだ、俺はそういう立ち位置なんだと思った。
「手伝いってなにそれ。春日、いつからそんなの作ったの~?」
榊原先輩は目をまんまるにしたあと、こらえきれないみたいに笑い出した。
ひとしきり笑ってから、春日先輩の顔色を窺うように「ごめんごめん」と軽く謝る。
それから、自分を指差してあざとく首を傾げた。
「じゃあ舞美もお手伝いしてあげようか?」
その言葉に、反射的に嫌だと思った。
先輩の隣に当然みたいな顔で入り込まれるのが、ひどく嫌だった。
その直後、空気がぴりっと張る。
姿は見えない。けれど、階段の陰や壁の向こうに隠れた幽霊たちが、一斉に息を潜めたのがわかった。
今見つかったら終わりだ、とでも言うみたいに、かすかな囁きだけが耳に届く。
「あ~春日先輩!」
床に置かれていた春日先輩の鞄を持ち上げ、自分の鞄と一緒に肩にかける。
ぎょっと驚いた榊原先輩のことは放っておいて、春日先輩の手を握った。
「そういえば、新発売のコンビニスイーツが気になってたんですよ!日頃のお礼に俺が払いますから!さ、行きましょ!」
そのまま手を引いて立たせ、有無を言わせずに階段を駆け下りる。
榊原先輩の「私も行く」という声が背中にかかった気がしたけれど、振り返らずに下駄箱へ向かった。
ゆっくり靴を履き替える春日先輩を急かして、学校を出る。
後ろを振り返っても彼女の姿はなく、ようやく息をついた。
「実は、前に買おうとしたら幽霊と手を握っちゃって…買えなかったんですよね」
以前よく寄っていたコンビニの方を指差して、そのまま歩き出す。
先輩が甘いもの好きでよかった。
突飛な俺の行動に不満があったとしても、甘いものの前では流してくれる気がした。
「…はは」
口元に手を添えて俯いた春日先輩を、そっと覗き込む。
俺と目が合った先輩は、にやりと笑った。
「買い物に誘うにしては、ずいぶん必死だったな」
いつもと変わらない口調に、ようやく肩の力が抜けた。
「だって、先輩ちょっとむかついてたじゃないですか。常連相手にああいう空気、出さない方がいいかなって」」
俺の言葉に、先輩は小さく首を振った。
むかついてた、という部分に対してなのか。
常連だから、という部分に対してなのか。
それはわからなかった。
「お手伝いしてあげるって言われたの、嫌だったんですか」
そう聞くと、春日先輩は少しだけ眉を寄せた。
それから、言葉を選ぶのが面倒だとでも言いたげに息を吐く。
「…誰でもいいわけじゃない」
ぶっきらぼうな言い方なのに、その一言だけは妙に胸に残った。
「コンビニ行きたかったのは本当ですよ」
俺の家の近くにあるコンビニの方を指差すと、先輩は迷いなくそちらへ歩き出した。
お菓子に釣られたのか、俺の言葉を信じてくれたのかは少し気になった。
けれど、どちらにしても、こうして隣を歩いてくれるなら十分だった。
「最近、手作りばっかりだろ」
不意に言われて、思わず先輩を見る。
「…だめでした?」
「だめとは言ってない」
先輩はそう言って、少しだけ視線を逸らした。
「でも毎回作るの、面倒だろ。こういう時に買えばいい」
コンビニに入ると、春日先輩はそのままスイーツコーナーへ向かった。
俺も隣に並ぶ。
新作の札がついた棚に目をやった瞬間、先輩がそこから一つ取って俺に差し出した。
「これ、お前気になってたんだろ」
「え、あ…まあ」
受け取った容器は、冷たかった。
さっきは手伝いだと言っていたくせに、こういうことは覚えている。
嬉しいと思うより先に、少しだけ恥ずかしくなった。
「でも先輩の家、逆方向じゃないですか。遅くなったら悪いし」
「そのための相談料だろ」
「いや、そんな毎回」
先輩は自分の分も棚から取って、何でもないことみたいに言った。
「どうせまた手を借りることもある」
それから、少しだけこちらを見る。
「だから、もっと僕を利用することに慣れろ」
断る理由まで取り上げられたみたいで、俺は小さく笑った。
けれど、少しだけ引っかかる。
利用するとか、手を借りるとか、そういう言い方じゃない関係がいい。
そんなことを思ってしまうのは、きっとわがままなんだろう。
会計を済ませて店を出る。
袋の中で、スイーツの容器がかすかに触れ合う音がした。
隣を歩く春日先輩は、さっきまでの苛立ちなんて最初からなかったみたいな顔をしている。
その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
何気なく取り出して画面を見た瞬間、足が止まる。
表示された名前は、榊原先輩だった。
「どうした」
春日先輩の声に返事をする前に、メッセージを開く。
『結局コンビニに行ったんだ。舞美のこと、撒くための口実だと思ってた笑』
追い打ちをかけるように、すぐまた通知が来た。
『その新作にしたんだ。春日、ああいうの好きそうだよね』
俺のスマホに届いているのに、その文章のどこにも俺はいなかった。
『そこ、舞美の場所だったのに』
その一文だけで、背中がぞわりと粟立った。
春日先輩が俺の手元を覗き込む。
俺は何も言えないまま、画面を見せた。
先輩の目が、ほんの少しだけ細くなる。
コンビニの明かりが、まだ背中を照らしていた。
なのに足元の影だけが、妙に冷たく濃く見えた。
◇
昼休み、榊原先輩が俺のクラスへやってきた。
相談所では見慣れた姿なのに、教室で見ると妙に落ち着かない。
どうしてここに来たんだろう。
昨日のメッセージのことが頭をよぎって、少しだけ体が強張る。
そんな俺に構わず、榊原先輩は当然みたいに空いていた前の席へ腰を下ろした。
「コンビニのスイーツ、美味しかったぁ?」
クラスメイトたちの視線が、一斉にこちらへ集まる。
その視線まで含めて楽しんでいるみたいな声だった。
「無視ぃ?」
前の席の友達がいないのをいいことに、当たり前みたいにその椅子を使っている。
「舞美も行きたかったのになぁ」
上半身をひねって頬杖をつき、不満そうに唇を尖らせる。
今までの出来事の積み重ねもあって、彼女と二人で話すのはかなり気が重かった。
「相談すること、なさそうだったので」
距離を置きたくて、少し冷たい言い方になった。
「いいじゃん別に。他に人いなかったしぃ」
俺の言葉には興味がないみたいに、榊原先輩は自分の髪をくるくると指に巻きつけた。
「なんで、君なんだろうね」
昨日、春日先輩が俺を手伝いだと言ったことを指しているのだろう。
その疑問に答える気はなかった。
「それを知ってどうするんですか」
「どうやって春日を射止めたのかなぁと思って」
射止めた、なんて変な言い方だ。
むしろ逆だ。
最初は俺が助けてもらう側だったし、手伝いだって俺が自分から言い出したことだ。
それなのに、今ではその立ち位置に勝手に引っかかっている。
春日先輩の言葉を借りるなら、俺は利用しているだけ。
そしてそれは、たぶん先輩も同じだ。
それなのに、一緒にコンビニへ行くような関係になっている。
最初に会った頃の俺が知ったら、どんな顔をするだろう。
そう思うと、少しだけ笑ってしまった。
「なに笑ってんの」
明るかった声が急に低くなって、さっきまでの笑顔が消える。
けれど、その声音よりも、笑っていたと指摘されたことの方に驚いていた。
「ま、いいやぁ」
榊原先輩はにこっと笑って立ち上がり、そのまま教室を出ていった。
懐からスマートフォンを取り出し、春日先輩のトーク画面を開く。
今のやりとりを伝えるべきか少し悩んだ末、ポケットに戻した。
今日も放課後は一緒に過ごす。
その時に話せばいいと思った。
昼休みの残り時間を確認すると、もうあまり余裕はない。
俺は慌てて鞄から弁当を取り出し、なんとかかき込む。
ちょうど食べ終わるのと同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
◇
帰りのホームルームが終わり、クラスメイトたちと挨拶を交わしたあと、いつもの場所へ向かう。
屋上前の踊り場へ続く階段を上っていると、誰かが鼻をすする音が聞こえた。
何かいるのだろうかと足を止める。
「朝倉」
けれど、踊り場の方から春日先輩が顔を出して呼んでくれたおかげで、また足を動かすことができた。
上り切ってすぐ、先客がいたことに気づく。
こちらを振り向いた榊原先輩の目には、涙が浮かんでいた。
「榊原先輩…」
ハンカチを渡すべきか迷って、春日先輩を見る。
先輩は腕を組んだまま、動く気配がない。
ああ、この人はこういう時でも自分からは差し出さないのだと、変なところで納得した。
客観的に見れば、俺たちが泣かせているみたいにも見えそうだった。
相談所に来た相手を放っておくわけにもいかない。
そう自分に言い聞かせて、ハンカチを差し出す。
けれど、榊原先輩は受け取らなかった。
行き場のなくなったハンカチを懐に戻し、春日先輩の隣へ座る。
「どうして泣いてるんですか」
先輩の耳元へ口を寄せて声を潜めると、「それを今から聞く」と言いたげに、額を軽く押し返された。
「相談があるなら、さっさとしろ」
こういう時でも容赦がないのが、春日先輩だった。
しかし、榊原先輩は変わらず泣き続ける。
春日先輩は小さく舌打ちをして、今度は自分の方からハンカチを差し出した。
榊原先輩はそれを受け取ったものの、すぐには使わなかった。
ただ両手で包むみたいに握って、俯いたまま黙っている。
泣いている姿まで、春日先輩に見せるためのものみたいだった。
その様子が、余計に嫌だった。
「最近、視線を感じるの」
榊原先輩は、春日先輩のハンカチを握ったまま小さく鼻をすすった。
「心当たりは」
「昨日、友達と心霊スポットに行ってから…」
俺は榊原先輩の周りに目を凝らす。
けれど今のところ、はっきりした悪意のようなものは見えない。
視線を戻すと、榊原先輩と目が合った。
今度は、彼女の方から先に目を逸らす。
「行って、帰ってきただけか?」
「配信しながら探索して帰ったぁ」
彼女はハンカチを持っていない方の手でスマートフォンを取り出し、何か操作したあとこちらに画面を差し出した。
そこには、榊原先輩とその友達が騒ぎながらトンネルの中を進んでいく動画が映っていた。
動画は十五分ほどで終わる。
「超怖かったんだから~!呻き声みたいなのも聞こえて!」
動画の中に幽霊の姿があったのは確かだ。
そのうちの何人かが、彼女についてきてしまったのかもしれない。
「いつ視線を感じる?」
「家にいる時」
答えるまでに、ほんの少し間があった。
榊原先輩は春日先輩の反応を窺うように見てから、ハンカチを握ったまま視線を落とす。
「学校は?」
その質問に、榊原先輩は首を振った。
春日先輩は鞄を持って立ち上がり、行くぞと俺に声をかける。
どこに、と尋ねるより早く、先輩は榊原先輩へ視線を向けた。
「今からお前の家を見に行く」
返事を待たずに階段を下りていく先輩に、榊原先輩は慌てて立ち上がる。
「部屋、綺麗にしてないんだけど」
「言ってる場合じゃないだろ」
意見を無視して三階まで下りた春日先輩は、屋上前の踊り場を振り返った。
「さっさと家に案内しろ」
その冷たい言い方に、榊原先輩は頬を膨らませる。
不満そうな声で「はぁ~い」と返して、階段を下り始めた。
春日先輩がまた歩き出そうとした時、追いついた榊原先輩が当然みたいにその腕へしがみつく。
「おい」
聞いたことのない低い声で咎めるが、彼女は離れようとしない。
「案内、必要なんでしょ?」
そう言って、そのままぐいぐいと春日先輩を引っ張ろうとする。
当然みたいに春日先輩の腕に触れるその仕草が、どうしても目についた。
春日先輩はそれ以上、無理に振りほどこうとはしなかった。
階段の途中だったから、下手に揉める気はないのかもしれない。
ただ、ひどく不機嫌そうな顔のまま、彼女に合わせるでもなく一定の歩幅で階段を下りていく。
その横顔を見るだけで、かなり機嫌が悪いのがわかった。
下駄箱の前まで来たところで、春日先輩が足を止める。
「もういい。離せ」
低く言い捨てると、ようやく彼女の指がその腕からほどけた。
榊原先輩は満足そうな顔で、自分の下駄箱へ向かう。
一方で春日先輩は不機嫌なまま、自分の靴を取り出すと、いつもより荒っぽく地面へ置いた。
俺も急いで靴を履き替える。
玄関で再び合流した時には、春日先輩は彼女から一定の距離を取るように立っていた。
「先に歩け」
春日先輩は俺の方をちらりと見てから、榊原先輩にそう言って外を指差した。
「ちゃんと着いてきてくれるかわかんないじゃ~ん」
「朝倉がお前の隣を歩く」
榊原先輩の目当てが春日先輩なのは、嫌でもわかっていた。
できるだけ近づかせない方がいい。
だから、異論はなかった。
「春日がいいなぁ~」
上目遣いで春日先輩を見上げるが、「さっさと行け」と目を細められる。
落胆したような声を漏らしたあと、彼女は俺を見てにっこり笑った。
「それじゃあ行こっか」
そう言って歩き出す。
春日先輩が隣にいた時はあれだけ話しかけていたのに、俺には一言も話しかけてこない。
スマートフォンを触りながら歩く横顔は、俺が隣にいることなんて気にしていないみたいだった。
それでも春日先輩の様子を伺うと、ほんの少し離れて歩いていた。
それだけで少しほっとした。
「朝倉くんさぁ」
「はいっ!」
急に声をかけられるとは思っていなくて、上擦った声が出た。
榊原先輩はスマートフォンを操作したまま、こちらを見ようともしない。
「変なの見えるの?」
ぞわりと背中が粟立つ。
「…変なのって?」
「幽霊とか」
どうして、という疑問で頭がいっぱいになる。
だから否定の言葉がすぐには出てこなかった。
「見えるんだぁ」
そこでようやくスマートフォンから顔を上げて、俺を見る。
「舞美が見せた動画で、何もなかったところを見てたし、視線を感じるって言ったら舞美の周り見てたでしょ?」
聞いてもいない理由を並べて、榊原先輩はどこか誇らしげに笑った。
「わかりやすすぎ」
そう笑って足を止めると、まるで内緒話でもするみたいに声を潜めた。
「安心しなよ。誰にも言わないからぁ」
その言葉に安心するどころか、喉の奥がひりついた。
「舞美の家、ここだよぉ」
榊原先輩は軽い足取りのまま、マンションの前で立ち止まった。
玄関へ入っていく彼女の背中を追おうとした時、後ろから袖を引かれる。
「顔色が悪い」
春日先輩の黒い目が、じっと俺を見ていた。
そんなところまで見てくれていたのだとわかって、少しだけほっとする。
先ほどのやりとりを話すべきだろうか。
少しだけ迷った。
けれど、それより早くあの人から解放されたい気持ちの方が強かった。
「大丈夫です。行きましょう」
それに、春日先輩がいる。
そう思えば大丈夫な気がして、少しだけ強がった。
◇
自分の部屋を片付けるから勝手に見ていていい。
榊原先輩の言葉通り、春日先輩と部屋を見て回る。
けれど、幽霊の姿は見えなかった。
いたとしても、春日先輩を怖がって隠れているのなら、今すぐ襲ってくるような相手ではなさそうだった。
「どうだ」
「…見える範囲には何も。少なくとも、春日先輩が手を出すようなのはいません」
「そうか」
それだけのやり取りなのに、かえって落ち着かなかった。
何もいないことが安心につながらないのが、余計に気味が悪かった。
一通り見終わったあと、榊原先輩の部屋をノックする。
扉越しにもう少しだけ、という声が聞こえたが、春日先輩は構わず扉を開けた。
榊原先輩の非難する声を無視して、ずかずかと部屋へ入る。
俺もその後に続いて見渡すが、やっぱり姿は見えない。
前を見ていなかったせいで、春日先輩の背中にぶつかった。
「あ…すみません」
けれど、先輩は返事もしない。。
机の上に置かれていた紙を手に取り、じっと見つめていた。
「それが気になるの?最近、舞美がハマってるおまじないなんだぁ」
榊原先輩はそう言うと、実演しようとでもするみたいに春日先輩の手から紙を取って、机の上へ戻した。
それから置いてあった十円玉を中央に乗せ、人差し指を添える。
「こうやって―」
口を開きかけた、その時だった。
「やめろ」
低い声に、空気が張りつく。
榊原先輩はきょとんと瞬いた。
「…何で?」
「おまじないじゃない」
春日先輩は机の上の紙を睨んだまま言う。
「降霊術だ。ふざけて触っていいものじゃない」
「そんな怖いものだったの?!ならやめるっ!」
榊原先輩は慌てたように、紙を春日先輩へ押しつけるように渡した。
先輩はそのまま受け取り、自分の鞄へ押し込む。
結局、視線の原因は、心霊スポットか降霊術のどちらかで憑いてきた幽霊だろう、という話になった。
悪意は感じないから、今すぐ脅威になるものではない。
その説明を受けると、榊原先輩は「自業自得ってことねぇ」と意外なくらい素直に納得した。
その切り替えの早さが、少しだけ引っかかった。
「家まで来てくれてありがとぉ」
榊原先輩に見送られながら、部屋をあとにする。
「何もなくてよかったですね」
マンションを出て、来た道を戻りながら言う。
隣を歩く春日先輩は、前を向いたまま短く返した。
「今のところはな」
「これからひどくなること、あるんですか?」
そう尋ねると、先輩は少しだけ目を細めた。
「反省を装うのは誰にでもできる」
その言い方に、榊原先輩の切り替えの早さを思い出す。
自業自得だと笑っていた顔が、頭の中に残っていた。
しばらく無言で歩いて、解散場所である俺の家の少し手前まで来たところで、春日先輩が足を止める。
「ひどくなったら、俺とお前の出番だ」
これ以上関わりたくはないがな、と一言添えて、先輩は俺に手を振った。
家の前で振り返ると、先輩はまだこちらを見ていた。
前なら、振り返った頃にはもう姿が見えなかったのに。
それが少し嬉しくて、玄関に入る前に大きく手を振り返す。
春日先輩は一瞬だけ驚いたようにしてから、小さく手を振って帰っていった。
◇
昼休み、また榊原先輩が俺のクラスへやってきた。
そして昨日と同じように、当然みたいな顔で前の席へ腰を下ろす。
「昨日の話の続き」
春日先輩がいないこの場での続きといえば、俺の目のことだろう。
「いつから見えるようになったの?」
その質問に答えたところで、ろくなことにならない気がした。
俺は榊原先輩から視線を外す。
「答えるつもりはありません」
「冷たいなぁ」
榊原先輩は少しも傷ついた様子もなく、楽しそうに目を細めた。
「想像でしかないけど、辛かったんだろうねぇ」
さっきまで馬鹿にしたみたいに笑っていたくせに、急に寄り添うような言葉を口にする。
そのちぐはぐさに、背筋が冷えた。
「見えてるのに否定されるの、辛かったでしょ」
「見える自分がおかしいんじゃないかって思ったでしょ」
否定はできなかった。
けれど、先輩に何がわかるんだとも思った。
「見えなくなる方法、教えてあげようか」
その言葉に、俯いていた顔を反射的に上げてしまった。
ようやく反応した俺を見て、榊原先輩は嬉しそうに笑う。
「さすがにここでは話せないから、場所移そっか」
俺の返事を待たずに立ち上がり、そのまま教室を出ていく。
ちょうどそのタイミングで、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。
春日先輩は、そんな方法はないと言っていた。
だから、嘘に決まっている。
それでも、“見えなくなる”という言葉だけが頭に残った。
見えなくなれば、普通になれる。
春日先輩が必要としているものを、自分から捨てることになるかもしれない。
そうわかっていても、一度浮かんだ考えを振り払えなかった。
教室へ戻るクラスメイトたちを横目に、俺は立ち上がった。
一度だけ自分の席を見る。
それでも足は、廊下へ向かっていた。
チャイムが鳴り終わる頃には、人影もまばらになっていた。
榊原先輩は一度だけ振り返り、何も言わずに歩き出す。
俺は少し迷ってから、その後を追った。
階段を上る背中を追っているうちに、最初の嫌な感じが少しずつ薄れていった。
相談所のある踊り場までなら、何度も歩いた道だったからだ。
見慣れた景色が続いているせいで、この先へ進むのが危ないことだと、うまく考えられなかった。
当たり前だけど、相談所に春日先輩の姿はない。
その事実に、少しだけほっとしてしまった。
見られていたら、きっと足を止められていた。
ガチャリ、と鍵を回す音が響く。
立ち入り禁止の張り紙が貼られた扉が開いた。
榊原先輩は、人差し指に引っ掛けた鍵をくるくると回していた。
「大丈夫、すぐ終わるから」
そう言って、先に屋上へ足を踏み入れる。
俺も一歩だけ遅れて、その後に続いた。
背後で扉が閉まる音がする。
その音を聞いた瞬間、逃げ道をひとつ塞がれたような気がした。
振り返った榊原先輩は、相変わらず笑顔を浮かべていた。
さっきまでと何も変わらない笑顔だった。
「見えなくする方法、教えてあげる」
その言葉と一緒に、自分の目元を指でなぞる。
「簡単だよ。その目、なくしちゃえばいいの」
ぞっとして、言葉を失った。
榊原先輩はそんな俺を見て、不思議そうに首を傾げる。
「こっくりさんで聞いたんだぁ」
一歩、榊原先輩が近づく。
それに合わせて、俺は後ずさった。
「見えるものは、持ってる人からもらえばいいんだって」
また一歩、榊原先輩が近づく。
後ろには、相談所へ戻る扉があった。
反射的に振り返って、扉に手を伸ばした。
その瞬間、背後で何かが弾けるような小さな音がした。
肩口に鋭い痛みが走る。
息が詰まり、指先から一気に力が抜けた。
何が起きたのかわからないまま視界が傾き、床が近づいてくる。
「あ、ごめんね」
頭の上から、呑気な声が降ってきた。
「でも、暴れられると困るから」
頬に冷たい床の感触が触れる。
霞む視界の端で、榊原先輩がしゃがみ込むのが見えた。
「大丈夫、すぐ終わるよ」
そう囁いて、俺の顔へそっと手を伸ばしてくる。
その手がだんだん目元へ近づき、視界を覆おうとした。
声を出そうとしても、喉がうまく動かなかった。
その時、バンッ、と扉を開ける音が響いた。
「何をしている」
掠れた視界のままでも、その声が春日先輩のものだとわかった。
「何って、舞美が朝倉くんの代わりになろうと思って」
その先は、うまく見えなかった。
榊原先輩の手がふっと目元から離れ、鋭い靴音が床を打つ。
何かがぶつかるような鈍い音がして、榊原先輩の気配が遠ざかった。
張りつめていた空気が、一気に変わる。
「冬真から離れろ」
春日先輩の声が、さっきよりずっと近い。
次の瞬間、腕を強く引かれた。
「大丈夫か?」
上から降ってきた声で、ようやく自分が抱き起こされているのだと気づく。
迷惑をかけたことを謝りたかったのに、うまく声が出なかった。
「無事ならいい」
その一言に、涙が出そうになる。
怒ればいいのに、どうしてこの人は怒らないんだろう。
「どうして邪魔するの?」
低く沈んだ声に、背筋がひやりと冷えた。
けれど次の瞬間には、甘く言い聞かせるような声に戻っていた。
「朝倉くん、普通になりたいんでしょ?」
「舞美、叶えてあげようとしただけだよ?」
やさしい言葉のはずなのに、少しも救われる気がしない。
「叶える?」
榊原先輩の声音とは対照的に、春日先輩の声はひどく低くて冷たかった。
「とてもそうには見えないな」
榊原先輩の姿が視界から消え、黒い布地が目の前を覆った。
後頭部へ添えられた手の感触と、すぐ近くにある春日先輩の声だけがはっきりしていた。
この人とは関わっていけない。
俺に向ける行動と口にする言葉が、少しも噛み合っていない。
そのちぐはぐさが、たまらなく気味悪かった。
頭の中では、逃げろという警告が鳴り続けていた。
春日先輩がそばにいても、それは少しも収まらない。
今すぐ逃げるべきだとわかっているのに、視界も手足の痺れも、回復する気配がなかった。
「春日は見える人が必要なんでしょ?でも朝倉くんは怖いから嫌なんだってぇ」
榊原先輩はくすくすと笑いながら、子どもに言い聞かせるみたいな調子で続けた。
「心配しないで、舞美は平気だよ」
そこで一度、声が途切れた。
代わりに布の擦れる音だけが、かすかに耳に触れる。
見えなくても、彼女がまっすぐ俺を指しているのだとわかった。
「だから、それ、早く渡して」
さっきまでの甘さが、そこには少しも残っていなかった。
先ほどよりも、春日先輩の腕に力がこもる。
「なんで渡してくれないの」
その声には、初めて戸惑いが混じっていた。
「舞美、変なこと言ってないよね?怖がってちゃ何もできないじゃん。ぶるぶる震えるだけの人間に何の価値があるの?」
彼女の言葉に、息が詰まった。
たしかにその通りだと思った。
俺は見ることしかできない。
ただ怯えて、耳をふさいで、春日先輩の食事が終わるのを待つだけだ。
俺がもっと強ければ、先輩はもっと上手く立ち回れたのかもしれない。
ようやく少し動くようになった手を、春日先輩の胸に添える。
ここは俺がいていい場所じゃない気がした。
そう思って離れようとしたのに、先輩はそれを拒むみたいに、俺を抱える腕に力を込めた。
「怖がって当然だ」
迷いなく、春日先輩はそう言い切った。
その声に引き戻されるみたいに、滲んでいた視界が少しずつ輪郭を取り戻していく。
ぼやけていた春日先輩の顔が、ようやくはっきり見えた。
逸らさずに、まっすぐ俺を見ている。
「それでも見てる。僕にはそれで十分だ」
その言葉だけで、ずっと引っかかっていたものが少しだけ軽くなった気がした。
春日先輩に支えられながら、どうにか足裏を床につける。
痺れはまだ残っていたけれど、立てないほどではない。
そのまま榊原先輩へ視線を向けた。
彼女の顔は、さっきまで貼りついていた笑顔が嘘みたいに歪んでいた。
けれど次の瞬間には、何事もなかったみたいにまた笑みを浮かべる。
「仕方ないなぁ」
手を合わせて、妙に明るい声を出す。
「朝倉くんはそのままでいいよ。春日にとって大事なものだってわかったから」
その言い方に、肌が粟立った。
「舞美、わかったよ。だって今までの相談の中で一番反応がよかったもん」
榊原先輩は何かに納得したみたいに、ぱっと顔を明るくした。
「怖いのが好きなんでしょ?だから舞美がたくさん連れてきてあげる」
こーんなに、と大きさを示すように、榊原先輩は両腕をいっぱいに広げた。
「こっくりさんが教えてくれたんだ。そうすれば、舞美だけを見てくれるって」
「僕にお前は必要ない」
榊原先輩はしばらく黙っていた。
さっきまで浮かべていた笑顔が、少しずつ意味をなくしていく。
「そっか」
ぽつりと、そう答えた。
その目には、ここにいる誰も映っていなかった。
「じゃあ、もういいや」
そう言って踵を返す。
呼び止める間もなく、榊原先輩はそのまま屋上を出ていった。
まるで最初から、ここに俺たちなんていなかったみたいに。
榊原先輩が去ったあと、春日先輩の顔を見上げた。
安心した途端、力が抜けて、その場にへたり込む。
春日先輩もさすがに疲れたのか、何も言わずに俺の隣へ腰を下ろした。
膝を抱えるように座り直して、腕に額を埋める。
しばらくしてから顔を上げると、春日先輩は片膝を立てて座ったまま、何も言わずに息を整えていた。
「…聞きたいことが色々あるんですけど」
「なんだ」
短い返事だったけれど、聞くなという響きはなかった。
「なんでここにいるってわかったんですか」
「お前の友達から連絡があった」
春日先輩は懐からスマートフォンを取り出して、画面をこちらへ向けた。
そこには、直人とのメッセージが表示されていた。
どうやら榊原先輩の後を追う俺を見かけて、なかなか戻らないことを心配してくれていたみたいだ。
「あとでお前から連絡しておけ」
春日先輩の言葉に素直に頷いてから、次に気になっていたことを口にする。
「あの人、こっくりさんが教えてくれたって言ってましたけど」
「そんな都合のいいものじゃない」
はっきりした答えではなかったけれど、それで十分だった。
少なくとも、榊原先輩が言うほど単純な話ではないのだとわかる。
五限目の終わりを告げるチャイムが鳴り始めた。
そこでようやく、授業の存在を思い出す。
「春日先輩と関わってから、ちょっと不良になった気分です」
その言葉に、春日先輩が何度か瞬きを繰り返す。
それから、ふっと口元を緩めた。
「先生に怒られるかもな」
「幽霊の方が怖いです」
そう返してから、ふと思い出す。
「そういえば、さっき冬真って呼びましたよね」
「…気のせいだ」
「呼びましたよ」
春日先輩は答えず、気まずそうに視線を外した。
いつものように言い返してこないのが、何よりの答えみたいだった。
もしかすると、口に出していなかっただけで、先輩の中ではずっとそう呼ばれていたのかもしれない。
そう思うと、さっきまでこだわっていた距離の名前に、少しだけこだわらなくてよくなった。
それなのに、誤魔化すように顔を逸らす先輩のことは、なぜか目で追ってしまう。
その横顔が少しだけかわいく見えて、自分でも驚いた。
友達とか手伝いとか、どの言葉が正しいのかはまだわからない。
でも、近くにいたいと思っていたのは確かだった。
その気持ちに、たぶんずっと名前をつけようとしていた。
春日先輩が先に立ち上がり、俺へ手を差し出した。
その手を取って、どうにか立ち上がる。
離すタイミングがわからなくて、そのまま指先に力を込めた。
「…まだ怖いので、手を握っていてくれませんか」
言ってから、自分でも驚くくらい恥ずかしくなった。
けれど春日先輩は、からかうこともせずに俺の手を握り直す。
「好きにしろ」
短い返事だった。
それだけなのに、不思議と落ち着いた。
屋上には、さっきまでの騒ぎが嘘みたいな静けさだけが残っていた。
閉まりかけた扉の向こうから、校内のざわめきがかすかに聞こえる。
俺たちは何も言わないまま、並んで屋上を出た。
◇
次の日、榊原先輩の隣には、学校でも目立つ男子生徒が歩いていた。
彼の隣で笑う榊原先輩は、昨日のことなんて最初からなかったみたいな顔をしていた。
その横顔を見た瞬間、ぞっとする。
あの人が欲しかったのは、春日先輩じゃなくて、特別な誰かの隣にいる自分だったのかもしれない。
相談料として作っておいたお菓子を先輩に差し出す。
「まいど」
先輩は受け取ると、すぐにラッピングを解いて口に放り込んだ。
最初はコンビニで買ったお菓子や、お父さんが会社でもらってきたものを渡していたのだが、最近は手作りにしている。
前に買いに行った時、買おうとしたお菓子に手を伸ばして、手首しかない幽霊を掴んでしまったことがトラウマになったからだ。
それ以来、買い物は極力避けて、お父さんに材料を買ってもらっている。
春日先輩には潔癖そうなイメージがあったけれど、コンビニで買ったお菓子より食いつきはいいから、あまり気にしていないんだろう。
これまで、お手伝い兼友達として春日先輩と過ごしてわかったことがある。
心霊の相談はほんの一握りで、恋バナだったり進路相談だったりの方が多い。
そして、先輩は断らずに律儀に相談に乗っている。
それなのに学校の噂はちっとも改善されないな、と思う。
今日も誰も来ないまま、相談所を閉めることになるのかもしれない。
そんなことを考えていた、その時だった。
「はーるひっ!」
明るい声が後ろから聞こえる。
聞き慣れた声に、振り返らなくても誰かわかった。
常連と言っていいほど、この相談所に顔を出す女子生徒だ。
「あっ!また来たなって思ったでしょ!お菓子持ってきたから許してよ~!」
軽やかな足音と一緒に、春日先輩の隣へぺたんと座る。
それから鞄の中から有名なチョコレートを取り出して、胡座をかいている先輩の足元へ置いた。
「ねねっ!舞美、お菓子作るのが趣味なんだ~!今度手作り持ってきてあげようか?」
「必要ない」
春日先輩は足元のチョコレートにも目を向けず、あっさり答える。
「も~そんなこと言わないでさ~!結構自信あるんだよ?」
榊原舞美先輩。
春日先輩いわく、俺が来る前から頻繁に相談に来ているらしい。
家族との関係がうまくいっていないみたいで、先輩に助言を求めたり、愚痴を言いに来たりしている。
俺から見ても、彼女が春日先輩に好意を持っているのはわかった。
俺が目の前にいるのに話は振ってこないくせに、何度もこっちを見てくる。
その視線が、品定めみたいで少し居心地が悪かった。
「相談することがないなら僕たちは帰るぞ」
「え~!相談することなくても、この子はいるじゃん」
「僕の手伝いだ」
彼女の問いに先輩は即答した。
その言葉に、胸の奥が少しだけざらつく。
間違ってはいない。けれど、春日先輩の中ではまだ、俺はそういう立ち位置なんだと思った。
「手伝いってなにそれ。春日、いつからそんなの作ったの~?」
榊原先輩は目をまんまるにしたあと、こらえきれないみたいに笑い出した。
ひとしきり笑ってから、春日先輩の顔色を窺うように「ごめんごめん」と軽く謝る。
それから、自分を指差してあざとく首を傾げた。
「じゃあ舞美もお手伝いしてあげようか?」
その言葉に、反射的に嫌だと思った。
先輩の隣に当然みたいな顔で入り込まれるのが、ひどく嫌だった。
その直後、空気がぴりっと張る。
姿は見えない。けれど、階段の陰や壁の向こうに隠れた幽霊たちが、一斉に息を潜めたのがわかった。
今見つかったら終わりだ、とでも言うみたいに、かすかな囁きだけが耳に届く。
「あ~春日先輩!」
床に置かれていた春日先輩の鞄を持ち上げ、自分の鞄と一緒に肩にかける。
ぎょっと驚いた榊原先輩のことは放っておいて、春日先輩の手を握った。
「そういえば、新発売のコンビニスイーツが気になってたんですよ!日頃のお礼に俺が払いますから!さ、行きましょ!」
そのまま手を引いて立たせ、有無を言わせずに階段を駆け下りる。
榊原先輩の「私も行く」という声が背中にかかった気がしたけれど、振り返らずに下駄箱へ向かった。
ゆっくり靴を履き替える春日先輩を急かして、学校を出る。
後ろを振り返っても彼女の姿はなく、ようやく息をついた。
「実は、前に買おうとしたら幽霊と手を握っちゃって…買えなかったんですよね」
以前よく寄っていたコンビニの方を指差して、そのまま歩き出す。
先輩が甘いもの好きでよかった。
突飛な俺の行動に不満があったとしても、甘いものの前では流してくれる気がした。
「…はは」
口元に手を添えて俯いた春日先輩を、そっと覗き込む。
俺と目が合った先輩は、にやりと笑った。
「買い物に誘うにしては、ずいぶん必死だったな」
いつもと変わらない口調に、ようやく肩の力が抜けた。
「だって、先輩ちょっとむかついてたじゃないですか。常連相手にああいう空気、出さない方がいいかなって」」
俺の言葉に、先輩は小さく首を振った。
むかついてた、という部分に対してなのか。
常連だから、という部分に対してなのか。
それはわからなかった。
「お手伝いしてあげるって言われたの、嫌だったんですか」
そう聞くと、春日先輩は少しだけ眉を寄せた。
それから、言葉を選ぶのが面倒だとでも言いたげに息を吐く。
「…誰でもいいわけじゃない」
ぶっきらぼうな言い方なのに、その一言だけは妙に胸に残った。
「コンビニ行きたかったのは本当ですよ」
俺の家の近くにあるコンビニの方を指差すと、先輩は迷いなくそちらへ歩き出した。
お菓子に釣られたのか、俺の言葉を信じてくれたのかは少し気になった。
けれど、どちらにしても、こうして隣を歩いてくれるなら十分だった。
「最近、手作りばっかりだろ」
不意に言われて、思わず先輩を見る。
「…だめでした?」
「だめとは言ってない」
先輩はそう言って、少しだけ視線を逸らした。
「でも毎回作るの、面倒だろ。こういう時に買えばいい」
コンビニに入ると、春日先輩はそのままスイーツコーナーへ向かった。
俺も隣に並ぶ。
新作の札がついた棚に目をやった瞬間、先輩がそこから一つ取って俺に差し出した。
「これ、お前気になってたんだろ」
「え、あ…まあ」
受け取った容器は、冷たかった。
さっきは手伝いだと言っていたくせに、こういうことは覚えている。
嬉しいと思うより先に、少しだけ恥ずかしくなった。
「でも先輩の家、逆方向じゃないですか。遅くなったら悪いし」
「そのための相談料だろ」
「いや、そんな毎回」
先輩は自分の分も棚から取って、何でもないことみたいに言った。
「どうせまた手を借りることもある」
それから、少しだけこちらを見る。
「だから、もっと僕を利用することに慣れろ」
断る理由まで取り上げられたみたいで、俺は小さく笑った。
けれど、少しだけ引っかかる。
利用するとか、手を借りるとか、そういう言い方じゃない関係がいい。
そんなことを思ってしまうのは、きっとわがままなんだろう。
会計を済ませて店を出る。
袋の中で、スイーツの容器がかすかに触れ合う音がした。
隣を歩く春日先輩は、さっきまでの苛立ちなんて最初からなかったみたいな顔をしている。
その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
何気なく取り出して画面を見た瞬間、足が止まる。
表示された名前は、榊原先輩だった。
「どうした」
春日先輩の声に返事をする前に、メッセージを開く。
『結局コンビニに行ったんだ。舞美のこと、撒くための口実だと思ってた笑』
追い打ちをかけるように、すぐまた通知が来た。
『その新作にしたんだ。春日、ああいうの好きそうだよね』
俺のスマホに届いているのに、その文章のどこにも俺はいなかった。
『そこ、舞美の場所だったのに』
その一文だけで、背中がぞわりと粟立った。
春日先輩が俺の手元を覗き込む。
俺は何も言えないまま、画面を見せた。
先輩の目が、ほんの少しだけ細くなる。
コンビニの明かりが、まだ背中を照らしていた。
なのに足元の影だけが、妙に冷たく濃く見えた。
◇
昼休み、榊原先輩が俺のクラスへやってきた。
相談所では見慣れた姿なのに、教室で見ると妙に落ち着かない。
どうしてここに来たんだろう。
昨日のメッセージのことが頭をよぎって、少しだけ体が強張る。
そんな俺に構わず、榊原先輩は当然みたいに空いていた前の席へ腰を下ろした。
「コンビニのスイーツ、美味しかったぁ?」
クラスメイトたちの視線が、一斉にこちらへ集まる。
その視線まで含めて楽しんでいるみたいな声だった。
「無視ぃ?」
前の席の友達がいないのをいいことに、当たり前みたいにその椅子を使っている。
「舞美も行きたかったのになぁ」
上半身をひねって頬杖をつき、不満そうに唇を尖らせる。
今までの出来事の積み重ねもあって、彼女と二人で話すのはかなり気が重かった。
「相談すること、なさそうだったので」
距離を置きたくて、少し冷たい言い方になった。
「いいじゃん別に。他に人いなかったしぃ」
俺の言葉には興味がないみたいに、榊原先輩は自分の髪をくるくると指に巻きつけた。
「なんで、君なんだろうね」
昨日、春日先輩が俺を手伝いだと言ったことを指しているのだろう。
その疑問に答える気はなかった。
「それを知ってどうするんですか」
「どうやって春日を射止めたのかなぁと思って」
射止めた、なんて変な言い方だ。
むしろ逆だ。
最初は俺が助けてもらう側だったし、手伝いだって俺が自分から言い出したことだ。
それなのに、今ではその立ち位置に勝手に引っかかっている。
春日先輩の言葉を借りるなら、俺は利用しているだけ。
そしてそれは、たぶん先輩も同じだ。
それなのに、一緒にコンビニへ行くような関係になっている。
最初に会った頃の俺が知ったら、どんな顔をするだろう。
そう思うと、少しだけ笑ってしまった。
「なに笑ってんの」
明るかった声が急に低くなって、さっきまでの笑顔が消える。
けれど、その声音よりも、笑っていたと指摘されたことの方に驚いていた。
「ま、いいやぁ」
榊原先輩はにこっと笑って立ち上がり、そのまま教室を出ていった。
懐からスマートフォンを取り出し、春日先輩のトーク画面を開く。
今のやりとりを伝えるべきか少し悩んだ末、ポケットに戻した。
今日も放課後は一緒に過ごす。
その時に話せばいいと思った。
昼休みの残り時間を確認すると、もうあまり余裕はない。
俺は慌てて鞄から弁当を取り出し、なんとかかき込む。
ちょうど食べ終わるのと同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
◇
帰りのホームルームが終わり、クラスメイトたちと挨拶を交わしたあと、いつもの場所へ向かう。
屋上前の踊り場へ続く階段を上っていると、誰かが鼻をすする音が聞こえた。
何かいるのだろうかと足を止める。
「朝倉」
けれど、踊り場の方から春日先輩が顔を出して呼んでくれたおかげで、また足を動かすことができた。
上り切ってすぐ、先客がいたことに気づく。
こちらを振り向いた榊原先輩の目には、涙が浮かんでいた。
「榊原先輩…」
ハンカチを渡すべきか迷って、春日先輩を見る。
先輩は腕を組んだまま、動く気配がない。
ああ、この人はこういう時でも自分からは差し出さないのだと、変なところで納得した。
客観的に見れば、俺たちが泣かせているみたいにも見えそうだった。
相談所に来た相手を放っておくわけにもいかない。
そう自分に言い聞かせて、ハンカチを差し出す。
けれど、榊原先輩は受け取らなかった。
行き場のなくなったハンカチを懐に戻し、春日先輩の隣へ座る。
「どうして泣いてるんですか」
先輩の耳元へ口を寄せて声を潜めると、「それを今から聞く」と言いたげに、額を軽く押し返された。
「相談があるなら、さっさとしろ」
こういう時でも容赦がないのが、春日先輩だった。
しかし、榊原先輩は変わらず泣き続ける。
春日先輩は小さく舌打ちをして、今度は自分の方からハンカチを差し出した。
榊原先輩はそれを受け取ったものの、すぐには使わなかった。
ただ両手で包むみたいに握って、俯いたまま黙っている。
泣いている姿まで、春日先輩に見せるためのものみたいだった。
その様子が、余計に嫌だった。
「最近、視線を感じるの」
榊原先輩は、春日先輩のハンカチを握ったまま小さく鼻をすすった。
「心当たりは」
「昨日、友達と心霊スポットに行ってから…」
俺は榊原先輩の周りに目を凝らす。
けれど今のところ、はっきりした悪意のようなものは見えない。
視線を戻すと、榊原先輩と目が合った。
今度は、彼女の方から先に目を逸らす。
「行って、帰ってきただけか?」
「配信しながら探索して帰ったぁ」
彼女はハンカチを持っていない方の手でスマートフォンを取り出し、何か操作したあとこちらに画面を差し出した。
そこには、榊原先輩とその友達が騒ぎながらトンネルの中を進んでいく動画が映っていた。
動画は十五分ほどで終わる。
「超怖かったんだから~!呻き声みたいなのも聞こえて!」
動画の中に幽霊の姿があったのは確かだ。
そのうちの何人かが、彼女についてきてしまったのかもしれない。
「いつ視線を感じる?」
「家にいる時」
答えるまでに、ほんの少し間があった。
榊原先輩は春日先輩の反応を窺うように見てから、ハンカチを握ったまま視線を落とす。
「学校は?」
その質問に、榊原先輩は首を振った。
春日先輩は鞄を持って立ち上がり、行くぞと俺に声をかける。
どこに、と尋ねるより早く、先輩は榊原先輩へ視線を向けた。
「今からお前の家を見に行く」
返事を待たずに階段を下りていく先輩に、榊原先輩は慌てて立ち上がる。
「部屋、綺麗にしてないんだけど」
「言ってる場合じゃないだろ」
意見を無視して三階まで下りた春日先輩は、屋上前の踊り場を振り返った。
「さっさと家に案内しろ」
その冷たい言い方に、榊原先輩は頬を膨らませる。
不満そうな声で「はぁ~い」と返して、階段を下り始めた。
春日先輩がまた歩き出そうとした時、追いついた榊原先輩が当然みたいにその腕へしがみつく。
「おい」
聞いたことのない低い声で咎めるが、彼女は離れようとしない。
「案内、必要なんでしょ?」
そう言って、そのままぐいぐいと春日先輩を引っ張ろうとする。
当然みたいに春日先輩の腕に触れるその仕草が、どうしても目についた。
春日先輩はそれ以上、無理に振りほどこうとはしなかった。
階段の途中だったから、下手に揉める気はないのかもしれない。
ただ、ひどく不機嫌そうな顔のまま、彼女に合わせるでもなく一定の歩幅で階段を下りていく。
その横顔を見るだけで、かなり機嫌が悪いのがわかった。
下駄箱の前まで来たところで、春日先輩が足を止める。
「もういい。離せ」
低く言い捨てると、ようやく彼女の指がその腕からほどけた。
榊原先輩は満足そうな顔で、自分の下駄箱へ向かう。
一方で春日先輩は不機嫌なまま、自分の靴を取り出すと、いつもより荒っぽく地面へ置いた。
俺も急いで靴を履き替える。
玄関で再び合流した時には、春日先輩は彼女から一定の距離を取るように立っていた。
「先に歩け」
春日先輩は俺の方をちらりと見てから、榊原先輩にそう言って外を指差した。
「ちゃんと着いてきてくれるかわかんないじゃ~ん」
「朝倉がお前の隣を歩く」
榊原先輩の目当てが春日先輩なのは、嫌でもわかっていた。
できるだけ近づかせない方がいい。
だから、異論はなかった。
「春日がいいなぁ~」
上目遣いで春日先輩を見上げるが、「さっさと行け」と目を細められる。
落胆したような声を漏らしたあと、彼女は俺を見てにっこり笑った。
「それじゃあ行こっか」
そう言って歩き出す。
春日先輩が隣にいた時はあれだけ話しかけていたのに、俺には一言も話しかけてこない。
スマートフォンを触りながら歩く横顔は、俺が隣にいることなんて気にしていないみたいだった。
それでも春日先輩の様子を伺うと、ほんの少し離れて歩いていた。
それだけで少しほっとした。
「朝倉くんさぁ」
「はいっ!」
急に声をかけられるとは思っていなくて、上擦った声が出た。
榊原先輩はスマートフォンを操作したまま、こちらを見ようともしない。
「変なの見えるの?」
ぞわりと背中が粟立つ。
「…変なのって?」
「幽霊とか」
どうして、という疑問で頭がいっぱいになる。
だから否定の言葉がすぐには出てこなかった。
「見えるんだぁ」
そこでようやくスマートフォンから顔を上げて、俺を見る。
「舞美が見せた動画で、何もなかったところを見てたし、視線を感じるって言ったら舞美の周り見てたでしょ?」
聞いてもいない理由を並べて、榊原先輩はどこか誇らしげに笑った。
「わかりやすすぎ」
そう笑って足を止めると、まるで内緒話でもするみたいに声を潜めた。
「安心しなよ。誰にも言わないからぁ」
その言葉に安心するどころか、喉の奥がひりついた。
「舞美の家、ここだよぉ」
榊原先輩は軽い足取りのまま、マンションの前で立ち止まった。
玄関へ入っていく彼女の背中を追おうとした時、後ろから袖を引かれる。
「顔色が悪い」
春日先輩の黒い目が、じっと俺を見ていた。
そんなところまで見てくれていたのだとわかって、少しだけほっとする。
先ほどのやりとりを話すべきだろうか。
少しだけ迷った。
けれど、それより早くあの人から解放されたい気持ちの方が強かった。
「大丈夫です。行きましょう」
それに、春日先輩がいる。
そう思えば大丈夫な気がして、少しだけ強がった。
◇
自分の部屋を片付けるから勝手に見ていていい。
榊原先輩の言葉通り、春日先輩と部屋を見て回る。
けれど、幽霊の姿は見えなかった。
いたとしても、春日先輩を怖がって隠れているのなら、今すぐ襲ってくるような相手ではなさそうだった。
「どうだ」
「…見える範囲には何も。少なくとも、春日先輩が手を出すようなのはいません」
「そうか」
それだけのやり取りなのに、かえって落ち着かなかった。
何もいないことが安心につながらないのが、余計に気味が悪かった。
一通り見終わったあと、榊原先輩の部屋をノックする。
扉越しにもう少しだけ、という声が聞こえたが、春日先輩は構わず扉を開けた。
榊原先輩の非難する声を無視して、ずかずかと部屋へ入る。
俺もその後に続いて見渡すが、やっぱり姿は見えない。
前を見ていなかったせいで、春日先輩の背中にぶつかった。
「あ…すみません」
けれど、先輩は返事もしない。。
机の上に置かれていた紙を手に取り、じっと見つめていた。
「それが気になるの?最近、舞美がハマってるおまじないなんだぁ」
榊原先輩はそう言うと、実演しようとでもするみたいに春日先輩の手から紙を取って、机の上へ戻した。
それから置いてあった十円玉を中央に乗せ、人差し指を添える。
「こうやって―」
口を開きかけた、その時だった。
「やめろ」
低い声に、空気が張りつく。
榊原先輩はきょとんと瞬いた。
「…何で?」
「おまじないじゃない」
春日先輩は机の上の紙を睨んだまま言う。
「降霊術だ。ふざけて触っていいものじゃない」
「そんな怖いものだったの?!ならやめるっ!」
榊原先輩は慌てたように、紙を春日先輩へ押しつけるように渡した。
先輩はそのまま受け取り、自分の鞄へ押し込む。
結局、視線の原因は、心霊スポットか降霊術のどちらかで憑いてきた幽霊だろう、という話になった。
悪意は感じないから、今すぐ脅威になるものではない。
その説明を受けると、榊原先輩は「自業自得ってことねぇ」と意外なくらい素直に納得した。
その切り替えの早さが、少しだけ引っかかった。
「家まで来てくれてありがとぉ」
榊原先輩に見送られながら、部屋をあとにする。
「何もなくてよかったですね」
マンションを出て、来た道を戻りながら言う。
隣を歩く春日先輩は、前を向いたまま短く返した。
「今のところはな」
「これからひどくなること、あるんですか?」
そう尋ねると、先輩は少しだけ目を細めた。
「反省を装うのは誰にでもできる」
その言い方に、榊原先輩の切り替えの早さを思い出す。
自業自得だと笑っていた顔が、頭の中に残っていた。
しばらく無言で歩いて、解散場所である俺の家の少し手前まで来たところで、春日先輩が足を止める。
「ひどくなったら、俺とお前の出番だ」
これ以上関わりたくはないがな、と一言添えて、先輩は俺に手を振った。
家の前で振り返ると、先輩はまだこちらを見ていた。
前なら、振り返った頃にはもう姿が見えなかったのに。
それが少し嬉しくて、玄関に入る前に大きく手を振り返す。
春日先輩は一瞬だけ驚いたようにしてから、小さく手を振って帰っていった。
◇
昼休み、また榊原先輩が俺のクラスへやってきた。
そして昨日と同じように、当然みたいな顔で前の席へ腰を下ろす。
「昨日の話の続き」
春日先輩がいないこの場での続きといえば、俺の目のことだろう。
「いつから見えるようになったの?」
その質問に答えたところで、ろくなことにならない気がした。
俺は榊原先輩から視線を外す。
「答えるつもりはありません」
「冷たいなぁ」
榊原先輩は少しも傷ついた様子もなく、楽しそうに目を細めた。
「想像でしかないけど、辛かったんだろうねぇ」
さっきまで馬鹿にしたみたいに笑っていたくせに、急に寄り添うような言葉を口にする。
そのちぐはぐさに、背筋が冷えた。
「見えてるのに否定されるの、辛かったでしょ」
「見える自分がおかしいんじゃないかって思ったでしょ」
否定はできなかった。
けれど、先輩に何がわかるんだとも思った。
「見えなくなる方法、教えてあげようか」
その言葉に、俯いていた顔を反射的に上げてしまった。
ようやく反応した俺を見て、榊原先輩は嬉しそうに笑う。
「さすがにここでは話せないから、場所移そっか」
俺の返事を待たずに立ち上がり、そのまま教室を出ていく。
ちょうどそのタイミングで、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。
春日先輩は、そんな方法はないと言っていた。
だから、嘘に決まっている。
それでも、“見えなくなる”という言葉だけが頭に残った。
見えなくなれば、普通になれる。
春日先輩が必要としているものを、自分から捨てることになるかもしれない。
そうわかっていても、一度浮かんだ考えを振り払えなかった。
教室へ戻るクラスメイトたちを横目に、俺は立ち上がった。
一度だけ自分の席を見る。
それでも足は、廊下へ向かっていた。
チャイムが鳴り終わる頃には、人影もまばらになっていた。
榊原先輩は一度だけ振り返り、何も言わずに歩き出す。
俺は少し迷ってから、その後を追った。
階段を上る背中を追っているうちに、最初の嫌な感じが少しずつ薄れていった。
相談所のある踊り場までなら、何度も歩いた道だったからだ。
見慣れた景色が続いているせいで、この先へ進むのが危ないことだと、うまく考えられなかった。
当たり前だけど、相談所に春日先輩の姿はない。
その事実に、少しだけほっとしてしまった。
見られていたら、きっと足を止められていた。
ガチャリ、と鍵を回す音が響く。
立ち入り禁止の張り紙が貼られた扉が開いた。
榊原先輩は、人差し指に引っ掛けた鍵をくるくると回していた。
「大丈夫、すぐ終わるから」
そう言って、先に屋上へ足を踏み入れる。
俺も一歩だけ遅れて、その後に続いた。
背後で扉が閉まる音がする。
その音を聞いた瞬間、逃げ道をひとつ塞がれたような気がした。
振り返った榊原先輩は、相変わらず笑顔を浮かべていた。
さっきまでと何も変わらない笑顔だった。
「見えなくする方法、教えてあげる」
その言葉と一緒に、自分の目元を指でなぞる。
「簡単だよ。その目、なくしちゃえばいいの」
ぞっとして、言葉を失った。
榊原先輩はそんな俺を見て、不思議そうに首を傾げる。
「こっくりさんで聞いたんだぁ」
一歩、榊原先輩が近づく。
それに合わせて、俺は後ずさった。
「見えるものは、持ってる人からもらえばいいんだって」
また一歩、榊原先輩が近づく。
後ろには、相談所へ戻る扉があった。
反射的に振り返って、扉に手を伸ばした。
その瞬間、背後で何かが弾けるような小さな音がした。
肩口に鋭い痛みが走る。
息が詰まり、指先から一気に力が抜けた。
何が起きたのかわからないまま視界が傾き、床が近づいてくる。
「あ、ごめんね」
頭の上から、呑気な声が降ってきた。
「でも、暴れられると困るから」
頬に冷たい床の感触が触れる。
霞む視界の端で、榊原先輩がしゃがみ込むのが見えた。
「大丈夫、すぐ終わるよ」
そう囁いて、俺の顔へそっと手を伸ばしてくる。
その手がだんだん目元へ近づき、視界を覆おうとした。
声を出そうとしても、喉がうまく動かなかった。
その時、バンッ、と扉を開ける音が響いた。
「何をしている」
掠れた視界のままでも、その声が春日先輩のものだとわかった。
「何って、舞美が朝倉くんの代わりになろうと思って」
その先は、うまく見えなかった。
榊原先輩の手がふっと目元から離れ、鋭い靴音が床を打つ。
何かがぶつかるような鈍い音がして、榊原先輩の気配が遠ざかった。
張りつめていた空気が、一気に変わる。
「冬真から離れろ」
春日先輩の声が、さっきよりずっと近い。
次の瞬間、腕を強く引かれた。
「大丈夫か?」
上から降ってきた声で、ようやく自分が抱き起こされているのだと気づく。
迷惑をかけたことを謝りたかったのに、うまく声が出なかった。
「無事ならいい」
その一言に、涙が出そうになる。
怒ればいいのに、どうしてこの人は怒らないんだろう。
「どうして邪魔するの?」
低く沈んだ声に、背筋がひやりと冷えた。
けれど次の瞬間には、甘く言い聞かせるような声に戻っていた。
「朝倉くん、普通になりたいんでしょ?」
「舞美、叶えてあげようとしただけだよ?」
やさしい言葉のはずなのに、少しも救われる気がしない。
「叶える?」
榊原先輩の声音とは対照的に、春日先輩の声はひどく低くて冷たかった。
「とてもそうには見えないな」
榊原先輩の姿が視界から消え、黒い布地が目の前を覆った。
後頭部へ添えられた手の感触と、すぐ近くにある春日先輩の声だけがはっきりしていた。
この人とは関わっていけない。
俺に向ける行動と口にする言葉が、少しも噛み合っていない。
そのちぐはぐさが、たまらなく気味悪かった。
頭の中では、逃げろという警告が鳴り続けていた。
春日先輩がそばにいても、それは少しも収まらない。
今すぐ逃げるべきだとわかっているのに、視界も手足の痺れも、回復する気配がなかった。
「春日は見える人が必要なんでしょ?でも朝倉くんは怖いから嫌なんだってぇ」
榊原先輩はくすくすと笑いながら、子どもに言い聞かせるみたいな調子で続けた。
「心配しないで、舞美は平気だよ」
そこで一度、声が途切れた。
代わりに布の擦れる音だけが、かすかに耳に触れる。
見えなくても、彼女がまっすぐ俺を指しているのだとわかった。
「だから、それ、早く渡して」
さっきまでの甘さが、そこには少しも残っていなかった。
先ほどよりも、春日先輩の腕に力がこもる。
「なんで渡してくれないの」
その声には、初めて戸惑いが混じっていた。
「舞美、変なこと言ってないよね?怖がってちゃ何もできないじゃん。ぶるぶる震えるだけの人間に何の価値があるの?」
彼女の言葉に、息が詰まった。
たしかにその通りだと思った。
俺は見ることしかできない。
ただ怯えて、耳をふさいで、春日先輩の食事が終わるのを待つだけだ。
俺がもっと強ければ、先輩はもっと上手く立ち回れたのかもしれない。
ようやく少し動くようになった手を、春日先輩の胸に添える。
ここは俺がいていい場所じゃない気がした。
そう思って離れようとしたのに、先輩はそれを拒むみたいに、俺を抱える腕に力を込めた。
「怖がって当然だ」
迷いなく、春日先輩はそう言い切った。
その声に引き戻されるみたいに、滲んでいた視界が少しずつ輪郭を取り戻していく。
ぼやけていた春日先輩の顔が、ようやくはっきり見えた。
逸らさずに、まっすぐ俺を見ている。
「それでも見てる。僕にはそれで十分だ」
その言葉だけで、ずっと引っかかっていたものが少しだけ軽くなった気がした。
春日先輩に支えられながら、どうにか足裏を床につける。
痺れはまだ残っていたけれど、立てないほどではない。
そのまま榊原先輩へ視線を向けた。
彼女の顔は、さっきまで貼りついていた笑顔が嘘みたいに歪んでいた。
けれど次の瞬間には、何事もなかったみたいにまた笑みを浮かべる。
「仕方ないなぁ」
手を合わせて、妙に明るい声を出す。
「朝倉くんはそのままでいいよ。春日にとって大事なものだってわかったから」
その言い方に、肌が粟立った。
「舞美、わかったよ。だって今までの相談の中で一番反応がよかったもん」
榊原先輩は何かに納得したみたいに、ぱっと顔を明るくした。
「怖いのが好きなんでしょ?だから舞美がたくさん連れてきてあげる」
こーんなに、と大きさを示すように、榊原先輩は両腕をいっぱいに広げた。
「こっくりさんが教えてくれたんだ。そうすれば、舞美だけを見てくれるって」
「僕にお前は必要ない」
榊原先輩はしばらく黙っていた。
さっきまで浮かべていた笑顔が、少しずつ意味をなくしていく。
「そっか」
ぽつりと、そう答えた。
その目には、ここにいる誰も映っていなかった。
「じゃあ、もういいや」
そう言って踵を返す。
呼び止める間もなく、榊原先輩はそのまま屋上を出ていった。
まるで最初から、ここに俺たちなんていなかったみたいに。
榊原先輩が去ったあと、春日先輩の顔を見上げた。
安心した途端、力が抜けて、その場にへたり込む。
春日先輩もさすがに疲れたのか、何も言わずに俺の隣へ腰を下ろした。
膝を抱えるように座り直して、腕に額を埋める。
しばらくしてから顔を上げると、春日先輩は片膝を立てて座ったまま、何も言わずに息を整えていた。
「…聞きたいことが色々あるんですけど」
「なんだ」
短い返事だったけれど、聞くなという響きはなかった。
「なんでここにいるってわかったんですか」
「お前の友達から連絡があった」
春日先輩は懐からスマートフォンを取り出して、画面をこちらへ向けた。
そこには、直人とのメッセージが表示されていた。
どうやら榊原先輩の後を追う俺を見かけて、なかなか戻らないことを心配してくれていたみたいだ。
「あとでお前から連絡しておけ」
春日先輩の言葉に素直に頷いてから、次に気になっていたことを口にする。
「あの人、こっくりさんが教えてくれたって言ってましたけど」
「そんな都合のいいものじゃない」
はっきりした答えではなかったけれど、それで十分だった。
少なくとも、榊原先輩が言うほど単純な話ではないのだとわかる。
五限目の終わりを告げるチャイムが鳴り始めた。
そこでようやく、授業の存在を思い出す。
「春日先輩と関わってから、ちょっと不良になった気分です」
その言葉に、春日先輩が何度か瞬きを繰り返す。
それから、ふっと口元を緩めた。
「先生に怒られるかもな」
「幽霊の方が怖いです」
そう返してから、ふと思い出す。
「そういえば、さっき冬真って呼びましたよね」
「…気のせいだ」
「呼びましたよ」
春日先輩は答えず、気まずそうに視線を外した。
いつものように言い返してこないのが、何よりの答えみたいだった。
もしかすると、口に出していなかっただけで、先輩の中ではずっとそう呼ばれていたのかもしれない。
そう思うと、さっきまでこだわっていた距離の名前に、少しだけこだわらなくてよくなった。
それなのに、誤魔化すように顔を逸らす先輩のことは、なぜか目で追ってしまう。
その横顔が少しだけかわいく見えて、自分でも驚いた。
友達とか手伝いとか、どの言葉が正しいのかはまだわからない。
でも、近くにいたいと思っていたのは確かだった。
その気持ちに、たぶんずっと名前をつけようとしていた。
春日先輩が先に立ち上がり、俺へ手を差し出した。
その手を取って、どうにか立ち上がる。
離すタイミングがわからなくて、そのまま指先に力を込めた。
「…まだ怖いので、手を握っていてくれませんか」
言ってから、自分でも驚くくらい恥ずかしくなった。
けれど春日先輩は、からかうこともせずに俺の手を握り直す。
「好きにしろ」
短い返事だった。
それだけなのに、不思議と落ち着いた。
屋上には、さっきまでの騒ぎが嘘みたいな静けさだけが残っていた。
閉まりかけた扉の向こうから、校内のざわめきがかすかに聞こえる。
俺たちは何も言わないまま、並んで屋上を出た。
◇
次の日、榊原先輩の隣には、学校でも目立つ男子生徒が歩いていた。
彼の隣で笑う榊原先輩は、昨日のことなんて最初からなかったみたいな顔をしていた。
その横顔を見た瞬間、ぞっとする。
あの人が欲しかったのは、春日先輩じゃなくて、特別な誰かの隣にいる自分だったのかもしれない。
