春日人生相談所

放課後、屋上前の踊り場へ真っ先に向かうことが当たり前になっていた。
今朝買ったお菓子を詰めたレジ袋を片手に、階段を上がる。
上がった先には春日先輩の姿はない。けれど、その代わり見知った生徒が座っていた。

「こんにちは」

縁の太い眼鏡をかけ、センター分けの前髪を揺らしてこちらを向いたのは生徒会長だ。
学校で噂になっている相談所だ。生徒会長が知らないはずがない。
相談所の手伝いとして先に話を聞くべきかと悩んでいると、すぐ隣で「さっさと座れ」と声がした。
まったく気づかなかった。いつの間にか来ていたらしい。
春日先輩が座ったあと、俺も大人しく先輩の隣に腰を下ろした。

その様子を見ていた生徒会長が、にかっと白い歯を覗かせる。

「春日くん、相談所の方は順調ですか」
「おかげさまで」

そのやり取りに、追い出しに来たわけじゃないのだと胸を撫で下ろす。
二人の空気はどこか柔らかくて、春日先輩にもこういう相手がいるんだな、なんて思いながら世間話に耳を傾ける。
いつもなら本題を急かす先輩なのに、生徒会長は特別らしい。

俺の視線に気づいた生徒会長が、眼鏡をクイッと上げて小さく頭を下げる。

「すみません。無駄話が過ぎました」

そう言って頭を上げた彼の表情は、いつも舞台上で見ている真剣なものだった。

「最近、校内で怪談が増えているようで。先生方が大変困っているんですよ」

やれやれと肩を竦めてみせるが、表情は変わらない。

「いつも通り、人に害があるかどうか確認しておく」

春日先輩の言葉に、彼は小さく頷く。

「先生方としては祓ってほしいとのことですが、できなくても俺がうまく言っておきますよ。ただし…」

足の上で両手を組み、にっこりと笑って続けた。

「生徒に危害を及ぼす場合は、俺も先生方と同じ意見です」
「わかってる」

短い春日先輩の返事に、生徒会長は満足げな表情を見せる。
それから鞄から小さなメモ帳を取り出し、ぺらぺらと捲りながら、増えたという怪談の説明を始めた。

「今は使われていない教室なのに、授業中になると中に先生と生徒の姿が見えるそうなんです。
巡回中の先生も不審に思って、授業をしている先生に声をかけようと扉を開けた途端、さっきまで見えていた先生も生徒も、綺麗さっぱりいなくなっていた…とのことで」

メモ帳をぱたんと閉じ、こちらを向いた会長が首を傾げる。

「そんなことが何度も起きましてね。不気味でしょう?
それに、空き教室を利用している生徒もいます。何か起こってからでは遅い」

会長は立ち上がり、制服の埃を払うように腰のあたりを軽く叩いた。
一度頭を下げると、すぐに顔を上げた。

「さっそく明日、お願いします。授業中でないと遭遇しないらしいので、一限目に見に行ってください。先生方にはこのあと話を通しておきますので」

そして背を向けて去っていった。
「詳しい場所は明日、俺が案内しますね」と言い残して。

会長が去り、しんと静まった相談所に俺たち二人が残される。
今回初めて、相談する側ではなく解決する側に回ることになったわけだけど、どう動くのが正解なんだろうと考える。

「授業を休んで、勉強についていけるか?」

けれど、春日先輩が気にしたのはそこだった。

「え、まあ…」

勉強という言葉に目を逸らす。
正直、自信はない。
最近は幽霊の妨害で、まともに集中できない日が続いているのだ。
「運良く明日遭遇できればいいが、できない場合は遭遇するまで授業を休むことになる。
学生の本分は勉強だからな。だから、休んだ分は僕が教える」

春日先輩は面倒見がいいのかもしれない、なんて思っていると、その考えが顔に出ていたのか、先輩の表情がだんだん不機嫌さを帯びていく。

「にやにやするな」

顔に出ていたらしい。咄嗟に無表情に切り替えて首を振る。
しかし、先輩の機嫌は直らない。

「僕はお前を手伝いとして使っているだけだ。補習を受けるお前を待っていたら、飢えて死ぬなんてごめんだからな」

言い方はひどいのに、なぜか本当に突き放された気はしなかった。
休んだ分を教えるという言葉だけは、ちゃんと残っていた。

不機嫌な表情のまま先輩は立ち上がり、階段を降りていく。
先輩の後を追って階段を降り、このまま黙っているのも気まずくて、別の話題を振ることにした。

「生徒会長とはいつからの知り合いなんですか?」
「相談所を開いてすぐだ。許可を取らずにするなと説教されてな」

説教という言葉に首を傾げる。
春日先輩が説教を素直に聞いたり、反省したりするイメージがどうしても湧かない。

「それで、許可もらったんですか?」

帰路につきながら尋ねると、先輩は前を向いたまま答えた。

「取引をした」

短い返事に、それだけじゃわからなくて首を傾げる。

「学校の怪談に困ったら、なんとかするって」

そこでようやく納得して、もう一度口を開く。

「じゃあ何度も?」
「今までは俺を怖がって、勝手に離れていった」

その言い方に、思わず苦笑いが漏れる。

「今回もそうだといいがな」

話しているうちに、ちょうどいつもの解散場所に着いた。
今日も近くまで送ってくれたことに礼を言って、俺は家まで走った。
家の前でもう一度振り返ったが、先輩の姿はもうなかった。



いつもと違う時間に、俺と春日先輩は屋上前の踊り場に集合した。
朝なので、先輩の表情はいつもより動かないし、声も低い。
昨日の分のお菓子と言ってチョコレートを渡したのだが、反応も薄かった。
チョコレートを口に含み、噛んでいるうちに目が覚めてきたのだろう。
会長が姿を現した頃には、もういつもの春日先輩に戻っていた。

「おはようございます。俺のために集まってくださりありがとうございます」

朝のホームルームが始まる時間を知らせるチャイムが鳴り終わると、会長がにっこりと笑って挨拶を済ませた。
挨拶を返した後、さっそく空き教室へと三人並んで向かう。
今回のことが起こる前は部活利用のために開放していたらしいが、今は使えないようにしていると生徒会長が話した。

空き教室に着いたタイミングで、一限目を知らせるチャイムが響き渡った。
さっきまで話し続けていた生徒会長が、ぴたりと口を閉ざす。
聞き慣れたチャイムが鳴り終わるのを待ちながら、人影が現れると言われる教室をじっと見つめた。

けれど、鳴り終わっても姿は現れない。
ただ、こちらを監視するような視線を感じた。
まるで値踏みしているみたいで、その視線は俺に注がれている。
一方で、春日先輩へ向けられる視線だけは明らかに違った。

「どうだ?」
「こっちを見ています。このまま待っても姿は出さないと思います」

春日先輩は少し考えるような素振りを見せたあと、教室の扉に手をかけた。
その瞬間、ドンッと扉が叩かれる。
入ってくるなと言っているみたいだ。

「嫌われているようだ」

先輩は扉に伸ばしていた手を引っ込め、少し距離を取る。
俺もつられて扉へ手を伸ばしかけたけれど、先輩に遮られた。

「一度戻る」

それだけ言って、先輩は元来た道を歩き出す。
俺も会長も素直にその後をついていき、屋上前の踊り場に戻った。
そこで三人、自然と円を作るように座る。

「こっちを見ていると言ったな。言語化できるか?」
「俺のことを気にしている感じでした。けど、春日先輩には近づいてほしくないみたいでした」

俺の答えを聞いて、生徒会長が自分を指さす。
自分には何もなかったのか、と気になったらしい。

「会長については何も…」

正直に教えると、会長は大袈裟にがっくりと肩を落とした。

「今の段階では判断が難しいな。空き教室の施錠はしたままで、様子を見るしかない」

先輩はポケットに入れていた空き教室の鍵を生徒会長に差し出す。
会長は「確かに受け取りました」と鍵を受け取り、相談所をあとにした。
生徒会長の背中を見送った先輩が、こちらに顔を向ける。

「お前もあそこには近寄るな」

言い終えるのと同時に、一限目の終わりを知らせるチャイムが鳴り響いた。
頷く俺を確認すると、春日先輩は階段を降りていく。
後を追うように俺も教室へ駆けながら、先輩の言葉を思い返した。

―近寄るな

そう言ったのは、俺に向けられた視線のせいだと思う。
幽霊から向けられるものには、いつも悪意があった。けれど、今回はそうじゃない。
まるで俺個人に興味を持っているみたいな、そんな感じだ。

教室には誰の姿もなかった。
空き教室のことが頭にあって一瞬ひやりとしたが、壁に貼られた時間割を見て移動教室だったと思い出し、胸を撫で下ろす。

机の中にある教材を取り出していると、顔に影が差し込んだ。
影の正体は、見覚えのある女子生徒だった。

「一時間目、何してたの?」

俺がいなかったことに気づいたんだろう。
まだクラスメイトの顔を覚えきれていないことを心の中で謝りながら、「野暮用で」と答える。
女子生徒は「そうなんだ」と頷いたあとも言葉を続けた。

「先生がびっくりしてたよ」
「悪いことしちゃったな」

今まで休んだことはなかったからな、と思いながら苦笑すると、彼女は首を振った。

「君の隣にいた人に」

すぐに春日先輩の姿が思い浮かぶ。
先輩と一緒にいるところを見たのは、生徒会長と、教室の扉の窓からこちらを見ていた生徒たちくらいのはずだ。
けれど、空き教室に向かう時、この教室の前は通っていない。

そう気づいた瞬間、背筋がぞくりと震えた。

「化け物だって先生が言っててね。先生が言うなら、そうなんだろうなって」

女子生徒は口元に手を添えて、くすくすと笑った。
この場を早く離れたい俺は、どう彼女を避けて通ろうかと視線を泳がせる。

「でも、君は特別なんだって。だから私たちの新しい友達になって」

そんな俺に構わず、まるで救いの手を差し出すようにこちらへ手を伸ばしてくる。
その仕草には、断られるはずがないと思っているような強さがあった。

「冬真!」

前方の教室の扉から名前を呼ばれる。
視線を向けると、直人が顔を覗かせていた。

「そろそろ二限目、始まるぞ」

直人には、一限目は相談所の用事でいないとメッセージアプリで伝えていたからだろう。
二限目の教室にまだ来ていない俺を心配して、こうして迎えに来てくれたようだ。

「ありがとう」

礼を言って、さっき女子生徒がいた場所へ視線を戻す。
けれど、もう彼女の姿はなかった。

やっぱり彼女は幽霊だった。
あの、空き教室の。



放課後、空き教室の幽霊が接触してきたことを春日先輩に報告した。

「早めに対処すべきだな。お前に被害が及ぶのも時間の問題だ」

会話ができる相手でも、春日先輩は変わらず冷静だった。
人に害をなすとわかれば、食べることをためらわない。

「…ただの女子生徒でした」

食べてほしくない。
そう直接言う勇気がなくて、遠回しな言い方をしてしまった。
それでも俺の意図は伝わったのだろう。春日先輩は小さくため息を漏らした。

「なるべく一人になるな。空き教室には近づくな」

それだけ言うと、先輩は立ち上がって肩に鞄をかけた。
その様子で、もう帰るのだとわかった。
何も言わない先輩と並んで階段を降りる。

「おや、もう帰るんですか」

三階にたどり着いた時、生徒会長から声をかけられた。
今から相談所に顔を出すつもりだったんだろうか。

「空き教室に無理に入ったところで悪化することがあるからな」

スマートフォンを取り出して何かを打ち込む。
懐にしまった直後、生徒会長のスマートフォンから通知音が鳴った。

「時間がある時に調べておいてくれ」

生徒会長の返事を待たずに、先輩はまた歩き出す。
さっきの報告で気になることでもあったのだろう。
生徒会長は返事もせず、さっき鳴ったスマートフォンに目を落としていた。

「お手伝いくん、春日くんに伝えてくれませんか」

スマートフォンから顔を上げた会長が、眼鏡をクイッと持ち上げて言葉を続ける。

「明日には報告できます、と。気をつけて帰ってくださいね」

ひらひらと手を振って、生徒会室へと踵を返した。
その背中に会釈をして、先輩に追いつこうと階段を駆け降りる。
春日先輩は玄関前で俺のことを待ってくれていた。
靴に履き替えて先輩の方を見ると、もう背を向けて歩き出していた。
慌てて後を追う。先輩は歩幅が狭いから、すぐに追いついて肩を並べることができた。

「会長が明日には報告できますって言ってましたよ」
「そうか」

先輩は前を向いたまま、短く返した。
隣を歩きながら、その横顔を盗み見る。

「何かわかりましたか」
「授業中だけ、先生と生徒の人影が現れる。それと、お前には興味を示していた」

少し間を置いてから、先輩が続けた。

「お前の前に現れた生徒は、新しい友達と言っていたな。
これまで新しい友達とやらを増やしていたとしたら…」

その言葉の意味を考えながら、先輩の歩幅に合わせる。

「幽霊がクラスを作ってるってことですか?」
「…可能性の話だ」

そこで、さっきの女子生徒の言葉を思い出した。

「あの子、先生のことも話してました。その先生が友達を選んでるのかも…」
「そして、次はお前を友達に選んだ」

思わず足元に視線が落ちる。

「そいつは、生きているお前をどうやって友達にするんだろうな」


別れの挨拶もそこそこに、先輩は背を向けて帰っていった。
その背中を見送ってから家に入る。異変が起きたのは、その直後だった。

ピンポーン、とインターホンが鳴る。
カメラを確認するより早く扉を開けると、ヌッと手が隙間から入り込んできた。
反射的に扉を閉めようと力を込めるが、びくともしない。
夕方の光を浴びて真っ黒になった影が、その隙間からこちらを覗く。
影になって見えないはずなのに、目だけははっきりとこちらを見ているのがわかった。

扉から離れるべきだとわかっていても、手を離すことができなかった。
幽霊を家に入れたくない。
春日先輩に連絡したくても、同じ結果に行き着いてしまう。

「た…す…け…て」

その声が聞こえた途端、扉にかかっていた力がふっと消えた。
バタン、と大きな音を立てて扉が閉じる。
誰も入れないように急いで鍵をかける。
そのまま玄関の上がり(かまち)を越えたところまで下がって、力が抜けたようにへたり込んだ。

このまま寝てしまいたかったけれど、仕事から帰ってくる父親に心配をかけたくない。
少し落ち着いたところで立ち上がる。
リビングを通り抜け、自室へ向かおうとした時、インターホンの録画ボタンのランプが点滅していることに気づいた。

あれが何だったのか気になって、録画を再生する。
そこに映っていたのは、地元の中学校の制服を着た少年だった。
後輩のつながりや、家の近くの中学生の顔を思い浮かべる。
けれど、すぐに考えを振り払うように首を振った。
いくら考えたって、答えは同じだ。

正体は、幽霊だ。


「どうして連絡してこなかった」

朝、昨日家であったことを話すと、胸をドンッと叩かれる。

「ちょっとパニックで、頭から抜けてて」

言い訳じみた理由を口にすると、小さな舌打ちで返された。

「僕の家に泊まることになるぞ、いいのか」

今までにない言い方に、思わず笑ってしまう。
確かに、相談所で話すことが中心だし、一緒に帰っても世間話を交わすより無言の時間の方が長い。
それが一晩ともなれば、お互い気まずい時間を過ごすことになりそうだった。

「笑い事じゃないんだぞ」

さっきよりも低い怒声に素直に謝ると、春日先輩は大袈裟にため息を吐いた。
その直後、先輩のスマートフォンから通知音が鳴る。
春日先輩は慣れた手つきで、その内容を確認した。

「今日の朝会は無しだ」

スマートフォンをポケットにしまうと、いつもならすぐ教室へ向かう先輩が、じっとこちらを見た。

「さっきは叩いて悪かった」
「一人になるなと言っておいて、家まで送らなかったのは僕だ」

先輩は悪くない、と言おうとしたところで、予鈴のチャイムが鳴る。
頭に浮かんだのは遅刻の二文字だった。

「お前の教室まで送ろう」

そう言ってくれたけれど、俺のせいで先輩を遅刻させるのは嫌だったし、廊下を駆ける生徒たちの姿を見て大丈夫だろうと判断して断った。
それでも先輩は送ろうとしてくれたので、振り切るように教室へ向かう。

すれ違う生徒の姿に、ほら大丈夫だった、と心の中で呟きながら廊下を歩いていると声をかけられた。
その声は最近聞き慣れていたから、すぐに誰かわかる。

「会長、どうしたんですか?」
「昨日のことを謝りたくて」

昨日、俺と会長の間に何かあっただろうか。
首を傾げる俺に、生徒会長は笑顔を浮かべたままだ。

「驚かせるなとは言ったんですが、久しぶりの転校生で気分が上がってしまったようです」

会長の喋り方に似ている。
でも、同じはずなのに、どこか違った。
笑っているのに目だけが少しも笑っていない。

「どうですか。俺のクラス、気に入ってくれましたか?」
「あなた、誰ですか」

その瞬間、生徒会長の笑顔がぴたりと止まった。
口元だけは笑っているのに、貼りついたみたいに動かない。

「驚かせたくなかったんです。だから、わかりやすい顔を借りました」

ぞくりと背筋が粟立つ。
その顔で言われるからこそ、余計に気味が悪かった。

「君の未来の先生です」

本鈴のチャイムが鳴ると、彼は「授業を始めないと」と言って、俺に背を向けて歩き出した。
あの背中を追えば正体がわかる気がした。
けれど、空き教室には近づくなという春日先輩の言葉を思い出し、後を追うのはやめた。



一限目の授業が終わり、春日先輩にさっき起こったことを連絡すると、既読がすぐにつく。
しかし、なかなか返信は来ない。
遅いなと思いながら、少しでも休もうと机に頭を突っ伏した。
立て続けに色々ありすぎて、疲れていたのかもしれない。

そんな中、生徒たちのざわめきがいっそう大きくなった。
けれど、すぐに教室はしんと静まり返り、足音だけが響く。
その足音は近くまで来て、止まった。

「疲れているな」
「寝不足なだけですよ」
「…そうか」

それだけのやり取りだった。
二限目が始まるチャイムが鳴ると、静かになっていた教室がまた騒がしくなる。
その様子で、春日先輩が教室を去ったのだとわかった。

メッセージで済むことなのに、どうしてわざわざ直接会いに来たんだろう。
変わり者の春日先輩の噂は、二学期になった今ではほとんどの人が知っている。
物珍しいものを見るような目を向けられることも、騒がれることも、先輩自身嫌いなはずなのに。

そんなことまで考えられないくらい、俺のことを心配してくれているのだろうか、なんて。
いつも冷静な先輩が、そんなことあるわけがない。

そうして考えているうちに、俺の思考は沈んだり浮かんだりを繰り返して、先生が授業を始める声を遠くに聞きながら、意識を手放した。



体が揺さぶられる感覚に目を開けると、昼休みの時間になっていた。
二限目から今の時間までぐっすり眠っていたことに驚く。
机の上には、おにぎりがいくつか置かれていた。
起こしてくれた直人が買ってきてくれたのかと思って礼を言うと、直人は首を振る。

「春日先輩から」
「春日先輩から?!」

あの春日先輩からの差し入れなんて信じられなくて、素直に受け取るのを躊躇ってしまう。
だって先輩は、冷たくて、無愛想で、他人に興味がない人だ。

―先輩は何も悪くないのに。

一人になるなと言われたのに、大丈夫だと先輩を振り切ったのは俺だ。
だから、こんなことまでしなくていいのに。

メッセージアプリで春日先輩に感謝の言葉を送ってから、おにぎりの包みを丁寧に外し、口元へ運ぶ。
外で買ったおにぎりなんてどこも同じ味のはずなのに、母親が作ったおむすびの次に美味しく感じた。

食べ終わって改めてメッセージアプリを確認すると、春日先輩からの既読はついていない。
まめに確認する姿を知っているから少し不思議に思ったが、昼休みが終わる頃には返ってくるだろうと、スマートフォンを鞄にしまう。
けれど、五限目の本鈴直前になっても既読はつかないままだった。
スマートフォンの電源が切れているんだろうと深く気にせず授業を受けていると、校内放送を知らせる音が流れる。

『一年三組の朝倉冬真くん、至急保健室まで来てください。繰り返します――』

空き教室の幽霊の仕業かと思って一瞬体を強張らせた。

「冬真、呼ばれてるぞ」

前の席の和也が振り返って、小声でそう促す。
はっとして顔を上げると、教室中の視線が俺に集まっていた。
先生にももう一度名前を呼ばれて、そこでようやく違うとわかる。
席を立ち、足早に保健室へ向かいながら考えるが、思い当たる節はない。
一階の保健室まで誰にも声をかけられずに済んだことに安堵し、「失礼します」と声をかけて扉を開ける。

一番先に目に入ったのは生徒会長だった。
会長に化けていた先生のことを思い出して身構えるが、みんなが聞いていた校内放送を流したのが会長なら、ここにいてもおかしくない。

「お手伝いくん、突然呼んでしまい申し訳ありません」

その次に目に入ったのは、ベッドに横たわる春日先輩だ。
俺が急いでそばに駆け寄ると、軽い脳震盪だと会長が説明したあと、続けて言葉を並べた。

「その様子だと、知らされてなかったんですね。春日くん、一人で空き教室に入ったんです」
「どうして…?」

先輩は幽霊を見ることができない。
だから、見える俺が教えることで、居場所がわかると言っていた。
俺の質問に、彼は肩を竦めて首を振る。

「さすがに俺でもわかりません。春日くんは自分の気持ちを言葉にしない人なので」
「先輩が会長にお願いしてたことって」

その問いを待っていたみたいに、会長は持っていたクリアファイルをこちらに差し出した。
受け取って中を開くと、教育実習生を紹介した校内新聞が挟まっていた。
ページを進めると、小さな記事がいくつも差し込まれている。
その記事には、校内新聞に載っていた人物と同姓同名の人が亡くなったことが書かれている。
次のページ以降も同じように氏名と写真、小さな記事が続いていて、あるページで手が止まった。

そこに載っていたのは、最初に声をかけてきた女子生徒だった。
そこでようやく、どうして見覚えがあったのかを思い出す。
直人が人形からこぼれ落ちた写真を、必死に拾い集めていた時に見た顔だった。

「直人の彼女だったんだ」

胸の奥がひやりと冷えた。

他にも、昨日家に姿を見せた男子中学生の写真もあった。
けれど、その子については女子生徒みたいな心当たりがない。

「春日くんはこう推測したようです。教育実習生の心残りによって、近郊で亡くなった生徒の幽霊を集めてクラスを作っている、と」
「…その教育実習生だけをどうにかすればいいと思っていた」

春日先輩の掠れた声が聞こえて、目を覚ましたのだとわかった。
先輩は右腕を支えに起き上がり、会長に頭を下げる。

「頭を上げてください」

会長はそう言ってから、困ったように笑った。

「依頼したのはこちらですから、調べ物も、保健室まで運び込むのもお手のものですよ」

会長はそう言って、得意げに胸を張った。
それを聞いても、何が起きたのかはわからないままだった。
ベッドに座る春日先輩へ目を向けてから、俺は口を開く。

「…何があったんですか」
「教育実習生を庇う生徒や、実習生自身が生徒を盾にするせいで失敗した」
「急に壁に向かって吹っ飛ぶんですから驚きましたよ。幽霊は恐ろしいですね」

ずれた眼鏡を直すように触る手は、少し震えているように見える。
誰だって非現実なことに遭遇してしまえば、怖いと思うのが普通だ。
けれど、当の本人である先輩は、よくあることだと会長に伝える。

「どうして俺を呼ばなかったんですか」

その場に俺がいれば、幽霊の動きを伝えられたのに。
そう反射的に思ってしまって、責めるような言葉が出てしまった

「危険だと判断したからだ」
「でも俺がいないと…!」
「ある程度の情報があれば、ぼやけるが居場所はわかる」

―なら、俺がいる意味ってなんですか。

その問いを口にする勇気はなくて、唇を噛む。
それ以上は聞かれないと思ったのか、先輩は視線を逸らしてポケットからスマートフォンを取り出した。
そこでようやく、昼休みに送ったメッセージに目を通したのだろう。

「返信できず、悪かった」

俺から目を逸らしたまま、そう言った。
返信しなかったことは悪いと思っているのに、何も言わずに解決しようとすることは別らしい。
春日先輩の中では、俺はまだ隣に立てる人間じゃなくて、守られる側に置かれているんだと思った。

「会長、外の人間を呼んでも構わないか」
「急いで先生に取り次ぎます」
「俺のいとこにあたる人物で、除霊ができる」

スマートフォンの画面を生徒会長に見せ、確認した会長は「また連絡します」と保健室を後にした。
会長が去った後も、先輩はスマートフォンを操作していた。たぶん、そのいとこに連絡を取っているんだろう。

「来てくれますかね」
「昨日、泊まったからまだいるはずだ」

その言葉の通り、すぐに返事が来たらしい。
先輩はスマートフォンの画面を俺の目の前に差し出した。
そこには「行くわ」と、シンプルな文章が表示されている。

「あいつが来たら、知らないふりをしろ」
「知らないふり?」
「生徒会の人間として一緒にいるとでも言え」

あまりに雑な説明に、思わず眉をひそめる。

「…理由ちゃんと言ってくれないとわからないです」
「あいつも見えない人間だから、見える人間を欲しがるんだ」

ガラリと扉を開ける音で振り向くと、生徒会長が帰ってきたところだった。

「いとこに連絡がとれた。放課後にやる。あと、朝倉を生徒会の人間として扱ってくれ」
「いずれもわかりました。いとこの方は俺が迎えに行きます。ホームルーム終了後、生徒に帰宅を促すよう先生たちに伝えます。それから、お手伝いくんは生徒会庶務として接します」

そう言い残して、会長は保健室を出て行った。

「庶務ってどんなことするんでしょうか?」
「僕が知ってるわけないだろ。会長の隣で腕を組んで並んでおけ」

雑だなと思ったけれど反論はできなくて、大人しくスマートフォンでブラウザを開く。
『生徒会 庶務』と検索して、その結果を一通り読んで頭に叩き込んだ。
そうしているうちに、五限目の終了を知らせるチャイムが鳴る。
春日先輩はベッドから降りて身だしなみを整えると、見守る俺に「教室まで送ってやる」とだけ言って先に歩き出した。
いつも通りぶっきらぼうなのに、それが今は少しありがたかった。
スマートフォンの電源ボタンを押して、俺もその後を追う。

「休まなくて大丈夫なんですか」
「もう十分休んだ」

教室の前に着くと、先輩がこちらを振り向いた。

「お前は休んだ方がいい」

そう言い残して、先輩はすぐに踵を返す。
その背中に何か返したい気もしたけれど、うまく言葉にならなかった。
俺も見送らず、自分の席へ向かった。



「今日は校内の確認作業があるから放課後の活動は中止だ。各自すぐに下校するように」

担任の知らせに、クラスメイトたちが素直に返事をする。
何人かは不満そうな表情を浮かべていたが、放課後の寄り道の話をし始める頃にはもう切り替えていた。
ホームルーム終了の合図を皮切りに、生徒たちが教室の扉からぞろぞろと出ていく。

「朝倉も、早く帰れよ」
「すぐに出ます」

担任の言葉に返事をして教室を後にする。
周囲に誰もいないことを確認して、屋上前の踊り場へ向かった。
踊り場にはすでに会長と春日先輩の姿があり、見覚えのない人がそこでくつろいでいた。

「揃ったので始めましょうか」

会長の言葉に先輩が頷き、階段を降りようとした時、「ちょっと待った」と、くつろいでいた人物が立ち上がる。

「今来たやつの紹介してくんないの?」

無造作な茶髪を軽くかき上げ、その人は俺に目を向けると右手を差し出した。
差し出された手を見て、一瞬だけ迷う。

「春日小夜のいとこ、(しゅう)だ。よろしくな」

遅れるのも不自然で、慌ててその手を取った。

「生徒会庶務です。今回の依頼で会長の手伝いをしてます」

春日先輩と会長に与えられた嘘の役割をそのまま名乗って、握手を交わす。
庶務という立場なら、今後深く関わることもないだろう。そう思って、名前は名乗らなかった。
相手も特に気にした様子はなく、「お疲れさん」と言って、一度だけ交わした手を振って離した。

「満足したか、いくぞ」

見届けていた春日先輩がさっさと階段を降りていく。
「はいよ~」と気のない返事をして、秋さんがその後を追った。
生徒会長に続き、俺もあとに続く。

空き教室までの道中、秋さんは大きな声で春日先輩に話しかけ続けていた。
けれど、先輩の反応はいつもより薄くて、それが妙に引っかかった。
そういえば、春日先輩はあまりプライベートな話をしない。
いとこがいることも今回初めて知ったし、除霊ができるということは、春日先輩の家って、そういうことを生業にしている家系だったりするんだろうか。

空き教室前の廊下に着くと、空気がざわりと気味の悪いものに変わった。

「…また来た…また来た」

教室から、憐れむような声が漏れる。

「…来るなバケモノ!」

次の瞬間、怒声と一緒に激しい音が響き、窓がガタガタと揺れた。
窓には血に濡れた手が張り付いている。
けれど、俺を除いた三人は手形にも声にも気づいていないようだった。窓を叩く音にだけ反応している。

「怒ってら」

秋さんの軽い声だけが、場違いなくらいよく響いた。
それでも春日先輩は反応を返さない。

「お前は実習生の周りの生徒を散らすだけでいい」

役割だけを淡々と告げる春日先輩に、秋さんは自信ありげに笑った。

「俺は先生も一緒に除霊してやってもいいんだぜ」

秋さんが半ば冗談みたいに言う。
春日先輩は一瞥だけ返した。

「…生徒を盾にする奴に、慈悲なんて必要ないだろ」

そう言って空き教室の扉へ歩き出す。その後に秋さんも続いた。
扉に手を添えると、前と同じように扉が大きな音で叩かれる。
二人は怯むことなく、扉の窓から教室の中をじっと見つめていた。

「いつでもOK」

秋さんの声は妙に軽かった。
それを合図にするみたいに、先輩はガラリと扉を開ける。
開けた瞬間、冷たい空気が廊下に流れ込んだ。
二人の周りを幽霊の影が囲む。
それでも二人は足を止めることなく、教壇へと足を進めた。
そこには周りの幽霊よりも大きい影がある。
ゆらりと揺れる影の合間に、その人物の顔が映った。
校内新聞に載っていた教育実習生の顔だ。
けれど、右の頬からこめかみにかけて、ぐしゃりと潰れたみたいに形が崩れていた。
あの時、怖がらせたくないから会長の顔を借りたと言っていた意味が、そこでようやくわかった。

実習生を庇う生徒も、盾にされた生徒も、秋さんが何かを唱えるたび、形を保てず霧のように散っていった。
それを何度も繰り返して、ついに春日先輩の手が実習生の影を掴む。
そうなれば、もう逃げられないのだろう。

先輩が大きな口を開けたのを見た瞬間、まともに見ていられなくて教室から目を逸らした。
咀嚼音の合間に、実習生の弱々しい声が聞こえる。

―先生になりたかった
―だから、死んだ生徒を集めてクラスを作った
―俺を置いて先にいなくなるのが許せなかった
―だから、従わせた
―だから、増やした

言い訳を並べる声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
そっと視線を戻すと、空き教室に縛られていた生徒たちは、それぞれ別の方向へほどけるように消えていく。

見覚えのある影が二つ、こちらへ近づいてくるのがわかった。
地元の制服を着た男子中学生と、直人の彼女だった。
二人は「ありがとう」と言って、ふっと消える。
頬を撫でた空気だけが、さっきまでより少しだけ暖かく感じた。

「終わった終わった~」

調子のいい声で伸びをしながら、秋さんが空き教室から出てくる。
そのあとに続いた先輩は、珍しく肩の力が抜けて見えた。
いつもなら余裕そうな顔をしているだけに、その姿が気になってしまう。
そのせいで、生徒会庶務という嘘の役割も忘れて、思わず駆け寄ってしまう。

「春日先輩、大丈夫ですか!」

先輩はそんな俺を見て、呆れたように眉をひそめた。
それでも咎める代わりに、小さく息を吐く。

「…甘いもの」

俺は今日渡す予定だったお菓子を鞄から取り出して差し出した。
先輩は受け取ると、すぐに袋を開けて口に放り込む。
目をまんまるにしてこちらを見ていた秋さんが、「へぇ」とにやりと笑って先輩の肩に手を回した。
その距離の近さに、秋さんと先輩を見比べてしまう。

「小夜!友達できてよかったなあ!」

友達、という言葉に少しだけ胸が引っかかった。
いつもなら手伝いだと訂正するところなのに、春日先輩は何も言わなかった。

「お前、明日依頼入ってるだろ。さっさと出ていけ」

先輩は口に入っていたお菓子を飲み込んでから鬱陶しそうに言った。

「おぉ怖い怖い」

秋さんはまるで堪えていない様子で肩をすくめ、首にかけてあった入校証を外して会長に渡した。
そして別れの挨拶を言いながら手を振って歩き出す。
けれど、「あ!」と何かを思い出したように振り返った。

「小夜!貸しひとつってやつだ!今度返してもらうからな!」

そう言い残すと、また歩き出した。
生徒会長は玄関まで送ると言って、秋さんの後を追う。
先輩はまたため息をついて、廊下に置いてあった鞄を肩にかけた。

「帰るぞ、朝倉」
「はい」

こうして、空き教室の幽霊の依頼は解決した。
けれど、何もできなかった悔しさだけは、胸の奥に残ったままだった。
秋さんのように、先輩の力になれたらと思う。
そう思うほど、自分には何もないのだと思い知らされた。



休み明けの放課後、生徒会長から貰ったお菓子を頬張りながら、先輩がノートを差し出してきた。
受け取って中を見てみると、それは俺が休んでいた授業の内容をわかりやすくまとめたノートだった。

「明日の放課後までに目を通しておけ。わからないことがあれば聞け」
「ありがとうございます」
「言い忘れていたが、赤点を取らないことも相談所を続ける条件だ」

何もおかしいことじゃない。
部活みたいに条件があって、その手伝いをしているなら、ルールに従うのは普通だ。

それなのに、胸の奥がざわついた。
このまま手伝いのままでいたら、きっとまた大事なことを何も知らされない。
秋さんみたいに先輩の隣に立てるわけでもない。
せめて、もう少し近いところにいたかった。

ノートの端を指で弄びながら、少しだけ迷う。
けれど、黙っている方がもっと嫌だった。

「先輩、俺と友達になりませんか」

その言葉に春日先輩は目を大きく見開いた。
それから、何かを誤魔化すみたいに手を口元に添えて視線を逸らす。
返事を待つ数秒がやけに長く感じた。

「お前、物好きだな」

先輩らしい一言に思わず笑ってしまう。
「そうかもしれません」と答えると、先輩は不満気な表情を浮かべて顔を逸らした。
友達なんて言葉が正しいのかは、まだわからない。
それでも、何も知らされないまま外に置かれているよりはましな気がした。